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第139話 箕面市外院の観音堂[2011年01月30日(Sun)]


 寒中お見舞い申し上げます。昨年12月26日の「第138話 今年も箕面の山に植樹をした」を公開して以来、1ヶ月以上のご無沙汰です。今年もよろしくお願いします。

 平成23年の新しい年を迎えて、第1週目の土曜日は元旦だったので、第2週目から今年の活動が始まった。1月8日、9日には竹炭やきなどの作業を行い、第4週目は竹の間伐を外院3丁目の竹やぶで行った。

 昨年もこの場所で竹の間伐をしたそうだが、筆者はこの場所へ行くのは初めてだった。この奥の山裾での竹林の間伐は数年前に何回か実施していたので、この周辺はよく知っているつもりだったが、山麓線の民家から少し北へ上がった斜面に竹やぶに来たのは初めてだった。
 こんもりと木々に囲まれた建物の横を休憩場所にして、その一段下った竹林で作業を行った。  




写真1 観音堂の全景


 この森の入り口には箕面市が1982年4月1日に指定した「保護樹林」の標識が立っていた。指定面積が432uだから、40m×10m強の大きさの森で、この中にぽつんと1棟のお堂(仏堂)と灯篭があった(写真1)。
 近隣の人たちで大切に管理し、「村の鎮守の神様」といった雰囲気があった。

 仲間に尋ねたがわからなかったので、昼食で畑仕事から帰る人に聞くと「観音堂で、年に2回行事をしている」と話してくれた。


帝釈寺で聞く

 インターネットで「観音堂(かんのんどう)箕面市外院3-6、往古は『明王寺』境内に所在していたが、その後久しく廃絶されていた。昭和25年再建」と、検索した結果をもって山麓線から少し南へ下った帝釈寺で聞いてみた。

 折から2月2日の節分会の「火渡り修行」の準備で村の人たちが大勢集まっていたので、古老に尋ねてみた。
 「ここは粟生外院で昔は三島郡に属していた。帝釈寺のちょっと西の道からは豊嶋郡萱野郷外院地区なので、わずかな距離だが他の地区のことはよく知らない。その先に願生寺があるからそこで聞くと分かるはずだ」と応えてくれた。

 三島郡と豊嶋郡の境界らしき道を越えて「観音堂」近くで、出会った年配の人に聞くと「年よりはよくそんなことを言うんですよ。願生寺の屋根が見えているでしょう」と教えてくれた。
 今では同じ箕面市なので、古老の言うような境界意識は薄れてしまっていると思うが、三島郡と豊嶋郡ではわずか幅5メートルほどの道路上の境界だが、昔は行政区域が違うから知らないのは当然だったのかもしれない。


願生寺で聞く

 願生寺の門は閉まっていて横の格子戸から入って呼び鈴を押すと、住職が出てきたので「この辺りに明王寺があるのですか」と尋ねてみた。
 寺のすぐ横の墓地の写真2に示す「明王寺」と右端に書いた地蔵さんを教えてくれた。
 「明王寺の境内は昔『観音堂』の建物の辺りにあったのではないか」と言うことだった。




写真2 地蔵尊の右に「明王寺」の文字


 「詳しく知りたいなら箕面市郷土資料館に行けば分かるかもしれない」と付け加えてくれた。この地蔵さんの横には「青面金剛」の像が並んでいた。

 平成19年の秋に箕面市立郷土資料館で開催されていた「大阪府北部・兵庫県南部の庚申塔展」で、この青面金剛のことを郷土資料館の福田館長から講演を聞いたのがきっかけで、平成19年11月2日に「第54話 庚申講とは酒盛りの会?」で青面金剛の話題を取り上げたこともあり、その足で郷土資料館に出向いた。


郷土資料館で聞く

 ちょうど福田館長がおられ、観音堂のことを聞くと、立て板に水のごとく、次々と解説をしてもらった。「あけおうじ」とも「みょうおうじ」とも言われていたが、願生寺横の地蔵さんに書いている「明王寺」のことも話してくれた。
 文献に出てくる「明王寺」と、石碑の作られた年代からとはかけ離れているという指摘があった。
 「あまりよくわからないが、今建っている観音堂辺りの『明王寺』があっただろう」ということだった。

 館長は以前、青面金剛の調査をされ、講演会でも詳しく話されていて、3年前に聴いた話題を思い出していた。

 帰り際に本棚から「箕面市文化財総合調査報告書T・旧萱野地区・旧豊川地区2001年3月」(箕面市文化財総合調査団発行・編集)を見せてもらった。


観音堂

 上記報告書の第2章 萱野地区の詳細 第9節 外院地区の中で、「寺院(観音堂)観音堂の管理地区の観音講がおこなっているが、天保3年(1832年)の記録には『観音明王寺』とあり、江戸末期には寺院があったようである。
 現在は3体の観音菩薩像が安置されている。地蔵のない外院地区では、この観音堂が村堂として地蔵に似た性格を持っているようである」と書いていた。




 
写真3 木々に囲まれた観音堂


 上記調査書の外院地区の中の「3.その他の民俗」で講のことを書いている。

 ネットで「講」を検索すると、「同一の信仰を持つ人々による結社である。ただし、無尽講など相互扶助団体の名称に転用されるなど、『講』という名称で呼ばれる対象は多岐に渡っている」(ウィキペディアから引用)。

 外院地区では、伊勢講、観音講、ヨウネン講、六斎念仏講、ジュウヤ講の5つの講が書かれていた。


観音講

 上記報告書は箕面市立図書館で閲覧できるが、この紙面を借りて観音講について引用してみた。
 「観音講1月、8月の17日に観音堂に村中で集まる。観音は安産の神様とされ、モツソウ(味なし握飯)をその年に出産予定の女性に授けた。賽銭も500円程度を女性の名前で供える。冬はイナリセンギョウと一括される意から、アカゴバン(小豆ごはん)を5合(現在は1升)炊いて握飯を作り、重箱にバランの葉を敷いて入れ、為那都比古神社の周辺、山中、寺内の稲荷さん・ゴンジュウロウサン(願生寺境内)など狐狸の出そうな所に置いた。

 27軒がヤド(当番)を持ち回りする。ヤドは1軒だが、垣内全体が朝から集まって供物の作成や掃除などの準備をする。

 観音堂の正面に飾る幕と提灯、控帳(会計帳)もヤドの家が管理していたが、現在は幕と提灯は自治会館で管理している。控帳は行事のあとに当番の男性が収支を計算したのち、箱に入れて翌年のヤドに渡す。
 供物はモツソウと直径約3cmの塩味のコモチ(子持ちの意か)を女性がこしらえ、お飾りを男性がこしらえた。コモチは各家に配られた。お飾りは高野豆腐・おくら・椎茸・南京・湯葉・ズイキ、冬は大根や人参など旬の野菜を串に刺して、観音像の前に供える。
平成12年(2000年)からは準備が大変なためパンになった」と説明していた。

 最後に書いている「パン」は、一瞬何かと思ったが、「アンパン」や「食パン」といった本来は西洋から入った食べ物が、餅やアカゴハンに取って代わったということは、伝統行事も時代とともに変化していくのだろう。

 パンの歴史をネットで検索してみると、「ポルトガルの宣教師によって西洋のパンが日本へ伝来したのは安土桃山時代だが、江戸時代に日本人が主食として食べたという記録はほとんど無い」(ウィキペディアから引用)。

 帝釈寺で節分会の準備をしていた村人たちは、年配の人が多かった。

 観音堂近くであった年配の男性に、観音堂や願生寺のことを尋ねたとき「私はよそから来たからあまり知らない」と話していたが、先祖代々住んできた人たちの仲間に、よそから来た人は参加しづらい面があるのだろうと思う。

 箕面市などでも区画整理で新しく出来た新興の街にはこうした講などは全くない。 
 
 近隣の神社の大祭で神輿を担ぐ若者が少なくなってきて、新興住宅地にも参加を呼びかけているとも聞いたが、新旧の人たちと伝統行事への参加は難しい面があると思った。


 最後に、竹林の間伐作を写真4、5に掲載したが、20人強が参加して休憩もなく、黙々と作業したお陰で、午前中だけで50本以上を間伐した。これらは3〜4月ほど乾燥して炭窯で竹炭にする。





(平成23年1月30日)


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