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第156話 妙見山山頂近くから南西方向を眺めてみれば?[2011年10月29日(Sat)]
数年前から春と秋の行楽シーズンに、妙見山登山を楽しんでいる。約2時間のハイキングで 登りだけで、帰りは妙見ケーブルで下山する。登った後は、クッキングセンターで焼肉や野菜などのバーベキューと少々のアルコールが、汗を流した後の気持ちの良い楽しみになっている。
秋は10月22日で行程を組んだが、あいにく雨の予報で28日になり、快晴に恵まれ、陽ざしも強く、能勢電鉄妙見口10時に集まったときには、Tシャツだけの軽装でも登りだすと汗が滴り出ていた。 いつもはケーブル沿いの新滝道コースだったが、今回は上杉尾根コースになった。川西市内在住の2人は、このコースを上り下り下ことがあるといっていたが、残り7人は初めてのコースだった。 上杉尾根(稜線展望)コース 妙見口駅から国道477号の信号を渡って直ぐに、上杉池の手前を右折れして直ぐに登山道に入っていく。今まで登ってきた新滝道コースでは階段が整備されているところもあったが、 このコースは地道が山上駐車場まで続き、同じ勾配が長いので一息つく場所が少なく、1時間ほどの登りは少々きつく感じた。写真1 同じ勾配が続く山道 ところどころに、妙見宮と彫った石塔がところどころに見られたが、妙見ケーブルが昭和35年4月に開業するまでは、この上杉尾根コースが参道だったのだろうか。
ウィキペディア「能勢電鉄」によると、「旧下部線を復活。黒川〜山上間623mで、戦前に妙見鋼索鉄道によって設置された妙見ケーブルを自社線として再開業させた」と書いていた。尾根筋で南西方向に見えた3つの光る点 頂上に近づくと、緩やかな勾配になってきて尾根筋に出た。ベンチも置いてあって見晴らしのよい絶景場所であった。
木々に覆われた真下には住宅地が見えた。ときわ台、新光風台といった昭和40年代から分譲された団地である。 その山のむこうにわずかに見えている住宅地は、清和台だと教えてくれた。 清和台のさらに奥の山々は中山連山だろうか。 その中山連山の向こうに薄っすらと見える山なみにポッコリとこぶのような丸い山は甲山だ。写真2 尾根から南西方向を望む 甲山のすぐ左に肉眼で三つの光が見えた。方向から行ってあれだけ高い物は、明石海峡大橋の塔柱だろうということになった。 この写真3では、その光るものが見えていたが、記事を書くために、縮小したらかき消されてしまった。持参した14倍ズームで光る物体を撮ってきた。妙見山と甲山方向の先は? 帰宅して妙見山、甲山、明石海峡大橋の3つをターゲットにいろんな地図を引っ張り出して直線で結んだのが図1である。
明石海峡大橋と予測していたのだが、その先には六甲アイランドに突き当たっていた。図1 妙見山と甲山を結んでみる 写真3は、ズームで写したものを、甲山と光る物体に照準を合わせてトリミングしてみた。 甲山の左端に3つの光と薄っすらだが、高層建物と分かる細長い影が写っている。図1の直線の先の六甲アイランドの高層建物だと判断できた。
肉眼では甲山のさらに奥に薄っすらと山なみが見えたが、写真では再現できなかった。写真3 甲山と三つの光 六甲連山は、西端の明石市、鉢伏(はちぶせ)山(246メートル)から、鉄拐(てっかい)山(236メートル)、高倉山(291メートル)、高取山(320メートル)、再度(ふたたび)山(470メートル)、摩耶(まや)山(702メートル)、主峰の東六甲山(931メートル)と東へ行くにしたがって高くなっているから、肉眼で見えた写真3甲山のさらに奥の六甲連山の、その先の明石海峡大橋の塔柱はこの山に遮られて妙見山の尾根筋からはからは見えないことも分かった。山頂では秋本番 尾根筋で一息入れたあと、山上駐車場までは、左側の斜面には杉の植林地が広がっていて、その林の中を車1台が通れる作業道が整備されていた。 右側は「台場クヌギ・250m先は行き止まり」などと書かれた標識があって雑木林が広がっていた。
能勢電鉄妙見口駅を10時20分から歩き出して標高660mの山頂には12時前に着いた。山頂付近には能勢妙見宮によって「星嶺」(せいれい)という、能勢妙見宮の紋章をかたどった信徒会館が建てられていて、風変わりな総ガラス張りの礼拝堂の周りは展望が良いので、久しぶりに上がってみた。
この礼拝堂から急な坂道を下ってクッキングセンターまで、近道を通っていった。途中で、見晴らしのよいところに出たら、銀色に輝いたススキが一面に咲いていた。 ススキは秋の七草に数えられていて、別名「尾花」と言うから「ススキは咲くというのだろか」と一瞬迷った。写真4 一面の広がって咲くススキ ネットには「花といっても花びらはなく、おしべとめしべだけなのです。ススキは風に吹かれて受粉する風媒花だったのです」と書いていた。(平成23年10月29日)
第155話 安治川沿いの史跡を訪ねて[2011年10月07日(Fri)]
第150話、第151のブログ「平洋丸の進水式」で安治川河口の日立造船桜島工場で大型船が進水した話題を取り上げたところ、この安治川沿いで育ち、箕面市在住のU市議からコメントをいただいた。 市民活動の場で付き合いがあり、Uさんの友人で大阪市西区九条の「川沿いを歩ける町づくりの会」のK代表に、九条の史跡を案内してもらう機会をつくってもらった。 江戸時代初期の新田開発から明治のはじめには外国人居留地として開かれた川口エリアをはじめ、旧府庁が置かれるなどした江之子島エリアなどの史跡を訪ねてきた。九条 川沿いあるきMAP 昔の面影を残す狭い九条の路地裏を抜けて9月30日午後3時にK代表と落ち合った。 当日は雨模様だったが、A3版の「あるきMAP」には、濡れても大丈夫なようにラミネート加工した説明図を準備してもらっていた。 図1 九条 川沿いあるきMAPの一部 この地図は安治川からJR環状線、尻無川、木津川を囲んだ地図で、全体は28の史跡が写真入りで解説付きだったが、本稿では安治川沿いの居留地跡周辺の地図に絞った。九条村の古地図から 図2は「貞享四年新撰増補大坂大絵図」から九条村を中心に切り取ったものである。 絵図の右側中央辺りは、碁盤の目の町並みが描かれている。当時の大坂は三郷といって大川で南北に二分されていて、北組(絵図●印)、南組(絵図▲印)それ以外は天満組だった。 図2 貞享四年(1687)新撰増補大坂大絵図の一部 本渡 章著「大阪古地図むかし案内」(創元社発行)によると、「大阪平野は大川・尻無用・木津川・中津川・神崎川などの河川がはこぶ土砂が堆積して、面積を広げていった。慶長年間(1569〜1615)の末ごろから、沼沢地や海辺の干拓による新田開発がすすみ、江戸時代にはさらに盛んになって、寛永(1624〜)以後の200余年間で水際線はおよそ4キロメートルものびた。大坂という大都市の形成には、新田の造成が大きく関わっている……
九条島は中津川・大川の河口に発達した砂洲である。もともと南浦とよばれていたが、寛永元年(1624)に幕吏の高西夕雲が幕府に願い出て、地元の池山新兵衛らとともに開発をはじめ、幕府お抱えの儒学者、林羅山が衢壌(くじょう)島と命名した。延宝年間(1673〜1681)この洪水のとき、一本の木笏(モクシャク)※1が漂着し、京都九条家のものと判明したので九条島と字を改めたという……」と、この町の来歴を書いている。
*1木笏……東帯装束の着用に際して威儀を整えるために手に持った板片。長さがほぼ1尺なので、シャクの名になった。大仏島と古川 安治川沿いを歩いていて「元古川が流れていた場所で橋があったのでその名残だ」とか「大仏島と呼んでいた所です」と説明を受けたが、上記「貞享四年大坂大絵図」には記載されていなくてよくわからなかった。
ネットの検索で「摂津名所図会」の「大仏島」に掲載されていた「文化3年(1803)」の絵図には古川が安治川に平行して流れていて、囲まれたところが大仏島だった。図3 文化3年(1803)の絵図 その大仏島の川口3辺りでは「富島」の名を冠した会社が目についた。
上記ネットの「大仏島」の説明に「富島(大阪市西区川口3)は、もと大仏島と呼ばれていた。江戸時代三傑僧の一人・公慶が、永禄10年(1567)に焼失した東大寺大仏殿の復興を志し、全国勧進行脚の途中、この地に松庵をむすび付近一帯の浄財寄付を募ったところ、膨大な喜捨※2が集まったので大仏島と呼ばれた。後に「富んだ島」ということから富島に変わったという。古川町とともに元禄16年(1703)大坂三郷のうち天満組に編入された。幕末には萩藩の蔵屋敷もあった」と解説してあった。
※2進んで寺社、僧や貧者に金品を寄付すること
昭和の中頃まで安治川には12ヶ所の渡しがあったそうで、「富島の渡しの跡」の碑が図1のHにある。安治川開削 安治川の開削で九条の新田開発は進んだが、図1、図2から新川(安治川)がなかったらと絵図を見てみると、九条島が川の流れをふさぐかたちで横たわっていて洪水の一因であり、大坂に出入りする船の運航にとっても障害になっていた。
「安治川と河村瑞賢紀功碑」には「もとの九条島(衛攘島)はデルタ地帯で、たび重なる淀川洪水のため、被害が絶え間なかった。そこで、貞享元年(1684)2月幕府は治水の専門家である河村瑞賢に命じ、九条島を掘り割り、淀川の水を一直線に大阪湾へ導くことにした。4年の歳月を費やして、貞享4年に開削されたのが安治川である。はじめ新川と呼ばれたが、元禄11年(1698 )この地が安らかに治まるように願いをこめて、安治川と改名された」と書いている。
ネットの検索では長さ約3km、幅90mで、貞享元(1684)年2月11日起工、4年余を費やし、貞享4年4月竣工を見た。
この辺りを歩いていると、「海の御堂筋」の幟(のぼり)旗が目についたが、「淀川の水を一直線に大阪湾へ導いた」と言う文言が、一直線に南北を貫く御堂筋になぞられたネーミングだろうかと思った。
安治川沿いの護岸から繋留した船へ行く階段を登って安治川から下流の大阪湾を望んでみた。写真 安治川左岸から大阪湾を望む 写真の遠くにJR環状線のトラスドランガー橋が小さく見える。 安治川の開削により、大阪湾から直接蔵屋敷に接岸できるようになった中之島や堂島には蔵屋敷が増えていった。 大坂蔵屋敷表(天保14年)によると、125の蔵屋敷のうち、中之島に42、堂島附下福島23の蔵屋敷があって、数多くの船が往来していたことがうかがえる。
治水目的で作られた安治川は、水運の発達で町は繁栄したが、治水では目立った効果は得られなかったようだ。
安治川開削から20年後の1704年2月に起工し、柏原から堺の間約14.5kmに新しい流路を開削する大和川付替工事が8ヶ月で完成した。これで、河内平野は、大和川からの洪水から解放された(大阪府「治水のあゆみ」から)。河村瑞賢 河村瑞賢が治水の専門家になるまでを、中央公論社「日本の歴史16」で調べてみた。
要約すると「瑞賢の父の代までは伊勢の国司北畠氏に仕え、北畠氏が信長に滅ぼされたのちは蒲生氏郷に仕えていたという。生まれつき利発な子で、片田舎にうもれさすのは惜しいと思ったか、父は二、三分の金を与えて江戸へくだらせた。6、7年間働いたが、日の目を見なかった。
大坂は天下の台所、ここへは諸方から人が集まって成功していると聞いて小田原まで行ったとき、一老人が、『江戸には天下の武士が集まっていて諸国の金銀がたえまもなく流れこんでいる。人の気性も大きく、金づかいもはでである。大坂は商業が盛んだといっても江戸とは比べられない。また上方の人は、はでな使い方をしないから、いっきょにもうけることはできない。江戸を去るのは愚かなことだ』と諭された。
江戸に戻って日雇頭として働き、人足の口入れ稼業を始め、材木屋までなった。才能のすぐれた人であったから、多数の者が入りこんで、手足を働かせ知恵をめぐらせているなかで、しだいに頭角をあらわしたのだろう」と書いている。
世界大百科事典(平凡社発行)によると、「江戸の明暦の大火に際し、木曾山林を買占め莫大な資産を作ったという。さらに土建業を営み、幕府や諸大名の工事を請け負った。
1670年(寛文10)幕府より奥州信夫郡の幕領米数万石を江戸に回漕するように命ぜられた。瑞賢は沿岸を現地踏査し、刷新的回漕策でこれを行い、さらに72年に、出羽国村山郡の幕領米の江戸回漕にも従事し、房総半島を迂回する東廻航路(東廻り海運)と日本海沿岸より下関、大坂経由の西廻り航路を確立した」という。安治川開削でにぎわった九条 図1のDは川口運上所跡・川口電信局跡で、「慶応3年(1867)この地に大阪税関の前身である川口運上所が設置され、外国事務や税関事務を取り扱っていた。明治3年川口運上所内に川口電話局が開設され頭まで電話線が架設された。 これは日本最初の電話線であり、大阪電信の発祥の地である」と説明書きの横に居留地付近の地図があった。 図4 川口居留地付近の地図 図4は明治時代の地図だろうが、地形そのものは大きく変っていないなかで、当時は大阪府庁や警察、大阪市江之子島庁舎など官庁街であったことがわかる。
このほか、プール女学院跡、現大阪女学院跡、現平安女学院跡、桃山学院跡、雑喉場魚市場跡など案内してもらった。
かつてにぎわっていた九条界隈は、高層マンションの建設など都心回帰で人口増加率が高いという。
9月に大阪市内街並み再発見でハイキング仲間と空堀通り付近を散策してきた。
今回は九条界隈に生まれて70年近く暮らしてこられたK代表に、同行してもらって史跡を解説までしていただいた。充実した「街並み再発見」の午後だった。(平成23年10月7日)
第154話 秋の気配[2011年09月28日(Wed)]
暑かった今年の夏も台風15号が9月21日未明から日本列島を北上した後、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、すっかり秋めいてきた。 9月24日、第四週目の土曜日は「箕面だんだんクラブ」の活動日で、清々しい快晴日だったこともあって、24人が参加した。山では未だ夏の名残が! 毎年年末には市民参加の植林を実施しているが、今年は12月11日の日曜日に予定している。今年の植林場所は、花見山の西側の斜面で、「小鳥の水場」の斜面を北へ登った辺りである。
この周辺で作業をするのは、半年振りくらいだろうか。久しぶりにきつい山道をあえぎながら登っていった。 秋の彼岸中日も過ぎたので、「『体験学習の森』の山なみの秋の気配はどうだろうか」と観察しながら歩いてみた。 活動拠点の「豚汁広場」を少し登った治山用砂防ダム周辺は、季節変化を感じる撮影ポイントとしている場所である。写真1 未だ夏の名残のダム湖周辺 この水辺には秋が深まるとともに白い花のノギクが咲きそろい、中洲にはススキの白い穂が一面にみえてくるが、写真1でみるように穂が出てきたばかりだし、周辺の木々も青々としていて、夏の名残をとどめていた。
以前にNさんから、秋になるとこのあたりに咲く白い菊に似た花は「ヨメナだろう」と教えてもらったことがある。
写真2は、「もりもり園地」を少し登った辺りに春先に咲く「シャガ」である。今年の冬は山にシカの食べ物が少なかったせいか、このあたりのシャガの葉っぱはほとんど食いちぎられていて、シカの口先が届かない急斜面にわずかに咲いているだけだった。 今は青々と茂っていて葉っぱがびっしりとつまっている。
花が咲く3月頃には、またシカが「食べ物がなくてひもじくてシャーガない(ある)ので、シャガの葉っぱで我慢するか」と食い荒らすことになるだろう。写真2 生い茂ったシャガの葉 ダンロボロギク 急な坂道をどんどん登っていくと、ウリハダカエデやヤマザクラの木陰のあたりは、あまり陽が差し込まないので、草も生えていなかったが、「小鳥の水場」辺りでは、間伐して3年前に植樹した場所なので明るく開けた場所になっている。
久しぶりに見たこの辺りは、場所によってシダが密集して生えていた。
タンポポの綿毛に似た背の高い雑草も目立っていた。今頃タンポポではあるまいと思ってNさんに聞くと「ダンロボロギク」だと教えてくれた。 写真3 白い綿毛が飛んでいるダンドボロギク
「日本の野草・秋(Gakkennフィールドベスト図鑑)」によると、「山林の伐採跡や荒れ地などに生える。愛知県の段戸山で最初に帰化が発見されたことからこの名がある。 戦後に急速に広がり,アメリカでは山火事の跡によく生え、fire weed(火の草)と呼ばれる。 ベニバナボロギクに似るが、本種は花が上向きに咲くのが相違点」と書いていた。3年前に植えたクヌギ 2008年12月に「小鳥の水場」付近に植樹したクヌギは、写真4で見るように、1.5メートルのヘキサチューブ(植生保護管)から顔を2倍近く出して成長していた。
写真4 3年前に植えたクヌギ この辺りは、植生保護管でチューブ内部の保湿効果により、異常気象等による乾燥から苗木を守り、風による強制蒸散を防ぐ上に、陽あたりの良い斜面になっているので、特に、成長が早いのだろう。箕面の市街地では アイランド民謡の「夏の名残のバラ」ではないが、山では未だ「夏名残のダンドボロギク」だった。 里(箕面の市街地)では写真5で見るように、側溝と垣根のわずかな空地にヒガンバナが満開になっていた。写真5 満開のヒガンバナ(2011年9月25日撮影) 今後の作業予定 10月4日の火曜日(予備日10月5日)には、箕面市社会福祉法人あかつき特別養護老人ホーム内の竹林および果樹園の間伐、草刈、保全、整理を予定している。
2004年3月から、「箕面だんだんクラブ」のボランティア活動の一環として無償で引き受けて今日に至っている(年に4日〜6日)。
12月11日の日曜日には、毎年市民参加で植樹を予定しているので、10月からの活動日には竹炭や木のほかに、植樹場所の作業道を作り、植樹する場所付近の整地が主な作業となる。(平成23年9月28日)
第153話 「第19回メキシコ文化の夕べ」に参加して[2011年09月25日(Sun)]
毎年9月には「箕面メキシコ友の会」の主催、箕面市国際交流協会共催で「メキシコ文化の夕べ」が開催されているが、今年は第19回で、9月22日に箕面市グリーンホールで開催された。 近所の教授から誘われたのがきっかけで今年は4回目の参加になった。日本とメキシコの交流 外務省のホームページで見てみると、「1609年9月、フィリピン諸島総督ロドリゴ・デ・ビベロを長とする一団の船は、ヌエバ・エスパーニャ(当時のスペイン領メキシコ)への帰国途中、千葉県御宿沖で遭難し、村人の献身的な救助により、乗組員317人が救出されました。ビベロ一行は地元城主や村人からの暖かい歓迎を受け、その後、徳川秀忠及び徳川家康に謁見しました。
翌年、徳川家康がビベロ帰国のため造らせた船はメキシコに向けて出航。ビベロと共に渡航した京の商人田中勝介他20数名の日本人は、メキシコを訪問した最初の日本人となりました 我が国の時の為政者とメキシコからの政府高官が対面し、初めての会談が行われた意義は大きく、2009年はそれから400年目にあたります」と紹介されている。 箕面市とメキシコとの交流 「箕面メキシコ友の会のプロフィール」によると、箕面市国際交流協会が1992年からメキシコ・クエルナバカ市にあるモレロス大学で日本語を学ぶ学生たちを、毎年箕面での日本語学習のため受け入れてきたことに始まるという。このプログラムを生活面で支えるホストファミリーから、「箕面メキシコ友の会」を作って発展してきた。 メキシコの国土は196万4375平方キロメートルというから、日本の国土面積37万8千平方キロメートルの5倍強もある。
国土の大部分は山地と広大な高原からなるが、クエルナバカ市は、首都メキシコ・シティーの南方のモレロス州の州都である。そのモレロス大学で日本語と日本文化の教鞭をとられていた深原先生が箕面市在住で、大阪外国語大学(現在は大阪大学・外国語学部)が箕面市にあるという好条件がきっかけで、今日に至っているという。今年は箕面―クエルナバカ国際友好都市提携8周年になる。Alejandro Lazzariniさんの独唱 開会の後、特別番組「ハリスコ州の蛮刀 踊り」に続いて、メキシコ・ハリスコ州出身のバリトン歌手Alejandro Lazzariniさんの協賛出演で独唱があったが、遅れて入場したために聞くことができなかった。
第3部市民交流ダンスパーティー“マリアチで踊ろう”で孫たち2人が大柄のメキシコ人とステップを教えてもらいながら、手を繋いで最後まで相手をしてもらったのが、Alejandro Lazzariniさんだと終演後に知人から聞いた。写真1 バリトン歌手と踊った孫たち プロフィールには「メキシコ・ハリスコ州在住の音楽家。1997年からメキシコ内外の各種音楽会で活躍している著名なバリトン歌手。2004年、在東京メキシコ大使館の招聘で来日し、日本各地で歌う。現在ハリスコ州コーラスチームディレクター」と紹介されていた。メキシカン・ マリンバ演奏 プログラムは三部構成で第二部は毎年「マリアチ・アガベ」のマリアチ演奏だが、第一部は毎年メキシコ文化を紹介するプログラムが組まれている。 一昨年はメキシカン・ダンスグループの「メキシコ民族舞踊」で、昨年は「メキシコ・ラサイエ大学音楽隊」の演奏だった。
今年はメキシカン・マリンバの演奏だった。マリンバと言うと木琴の親玉で軟らかい音色を奏でてくれるくらいの理解しかなかった。
演奏は古徳景子と“Paax・Percussion”で、「メキシカン・マリンパとクラシックマリンバの双方の音色を、多彩に響かせ、描くのが特徴。PaaX(パックス)の意味は、マヤの言葉で『音楽家たち』。メキシカン・マリンバの聖地チアパスから、マリンバの響きを世界に発信している」と紹介していた。写真2 メキシカン・マリンバの演奏 フリー事典「ウィキペディア」の「マリンバ」には、「同じ木琴の一種であるシロフォンと同様の構造であるが、シロフォンよりも鍵盤が広く厚く造られており、深みのある音色を表現できる。 さらに、鍵盤の下部に各音階によって長さを変えた共鳴用の金属管が設けられており、その下端を閉じることにより、鍵盤の音に共鳴し増幅させる。それにより、さらに豊かな音色となる……マリンバの源はアフリカにあると言われ・・・・・・現在の形のマリンバが生まれたのは、19世紀後半、グアテマラ(メキシコの南隣りの国)であると言われている。またメキシコ等南米でもマリンバが古くから演奏されており、メキシカン・マリンバとして民族音楽のスタイルを形成している」と説明している。
パーカッションのリーダー古徳景子さん自身が作曲という「希望の地」の演奏を聞いていると、豊かな音色に凄い迫力を感じた。写真3 「希望の地」を演奏中 古徳景子さんのプロフィールには、「東京芸術大学卒業。ボストン音楽院ディプロマコースを経て、スウェーデン国立ピテオ音楽大学院演奏首席修了。現在、メキシコ・チアパス州立芸術科学大学(UNICACH)准教授」と紹介されている。「マリアチ・アガベ」の演奏 第三部で、市民参加で“マリアチで踊ろう”の演奏が「マリアチ・アガベ」であり、例年このメンバー6人で演奏するのだが、今年は病気だろうか1名(バイオリン奏者)欠けて5人だった。写真4 手拍子を入れてマリアチ・アガベの演奏 今回は会場が広かったこともあって、今年は観客席の最上段から演奏しながら下りてきて、拍手に迎えられながら舞台に上がっていった。
メキシコの代表的な唄「ラ・マラグェニア」や「シェリト・リンド」「ラ・バンバ」といった馴染みの曲に、美空ひばりの「川の流れのように」をマリアチスタイルで演奏したのは昨年と同じだったが、今年は長渕剛の「乾杯」が加わった。
美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」は、日頃は彼女のしんみりした哀調のある歌声で聞くことが多いだけに、陽気でにぎやかな演奏と、やや訛りが交じった日本語では、曲のイメージとは違った感じがした。
長渕剛の「乾杯」は、「地元の友人が結婚すると聞いた長渕が、友人への祝福のために書いた、人生の節目に置かれた人間に対する応援歌」といわれているだけに、トランペットやアコーディオン、ギターなどでにぎやかに演奏し、声高らかにうたいあげ、なかなかに聞かせてくれた。マリアチで踊ろう 第三部の市民参加の交流ダンスパーティーは、第二部でマリアチを演奏していた“マリアチ・アガベ”が、引き続きマリアチの演奏を始めると、この晴れ舞台のためにやってきたと風にたちまち舞台に上がって踊り始めた。
40人以上の市民参加の人たちに、演奏した人たちも加わってにぎやかで陽気に踊りを楽しむ舞台になっていった。写真5 マリアチを踊る人たち 帰り際に近所の人に出会ったとき、「ラテン音楽は陽気でにぎやかでいいですね」と話しかけられた。
確かに「メキシコ文化の夕べ」に参加した過去4回を振り返ってみてそういった感想が出てくる。
翌日我が家で娘婿二人と飲みながら出来上がった写真を見せ、ラテン音楽の話が出た。 確かに陽気でにぎやかな音楽というイメージが強いが、メキシコ音楽にもメキシコオリンピックの閉会式で演奏されたという「ラ・ゴロンドリーナ(つばめ)」は哀愁を帯びた曲調で、日本の「蛍の光」といわれている曲の方もあり、好きな曲だと紹介しておいた。
リクエストを言えるなら、来年は最後に「ラ・ゴロンドリーナ」で締めくくってほしいいと思った。(平成23年9月25日)
第152話 「戦没した船と海員の資料館」を訪ねて[2011年09月21日(Wed)]
前々回で「第150話平洋丸の進水式」、前回には「第151話 平洋丸の進水式(その2)」を公開したが、友人からのコメントを参考に戦時化の徴用船についてもう少し詳しく調べることにした。
戦時徴用船などを検索していると、「戦没した船と海員の資料館」が神戸元町の「全日本海員組合関西支部」内に展示されていることを知ったので、9月15日に見学してきた。 国道2号線沿いに面した海岸通3丁目の資料館を入ると、「日本海員組合記念碑(写真1)」と右の壁には船舵(rudder)が飾られていた。
写真1 日本海員組合記念碑 その記念碑には初代組合長楢崎猪太郎氏が大正十四年に私財を以って購入し、寄付されたことなどが書いてあった。 その経歴を見ると、「1865〜1932 明治・昭和時代前期の労働運動家。元治(げんじ)2年2月20日生まれ。明治20年三井物産船舶部にはいり、船長、監督。のち満鉄大連埠頭事務所長、海員協会専務理事を歴任。大正10年日本海員組合を結成し,初代組合長となる」と書いていた。海に墓標を 海員不戦の誓い 展示室で「日本は周りを海に囲まれた国です。その上資源の少ない国土ですので、食料品から石油燃料、鉄の原料など、様々な物資を外国から輸入して経済を維持しています。 1941年から1945年にかけて、日本がアメリカ・イギリス・中国・オランダなど、世界の多くの国と戦った第二次世界大戦は、こうした認識を忘れた無謀な戦争だったのです。 このため沢山の船が、戦争の犠牲になりました。戦争が終わった時、政府が発表した被害の総額は、官・民一般汽船3575隻、機帆船2070隻、漁船1595隻(計7240隻)などとなっています。
この資料館には、これらの船の在りし日の写真を展示しております」と資料館の主旨を書いた案内書をもらった。
第一展示室には戦没した徴用船の写真が壁面にびっしりと展示されていた。 持ち帰って読んだ「さいべりあ丸(日本海汽船)セブ島残留船員の帰還報告・新谷英一著」に気になる文があった。 「由来軍公用船々員は、何処までも軍属であった。船長であろうが何であろうが、軍はそんなことは問わないのである。戦局の進展につれ、多少の考慮は払われた様だが、それは飽まで必要に迫られたことで、根本概念においては少しも変ってはいなかった。軍人、軍馬、軍犬、鳩、軍属と当時は小さい声でしか云えなかったのだが、とに角最低位の中でも、直属の軍属は外様(否三等軍属)の船員に対し威張ったものである・・・・・・」
展示室の片隅に「或る機関長の雄叫び」 「商船乗りは日章旗のもとでは死すとも 軍艦旗のもとでは死なじ」が貼ってあった。
戦中派で直接戦争体験のない筆者にも、軍の勝手な都合で徴用船にされ、軍属という民間人に対して虐げられた扱いの船乗りの雄叫びに理解できた。
この館のスタッフの説明によると、軍艦以外の徴用船7240隻の88%が沈められ、海員は60,600人が犠牲になったが、死亡率は43%で、陸軍の23%、海軍の18%に比し、多くの徴用された船員が犠牲になっている。
第151話で、友人が教えてくれた「米軍が食料や弾薬の補給、即ちロジスティックスを最重要と考えたのに対し、日本軍は比較的軽視の傾向にありました」というコメントを裏付けたものといえる。護送船団 ロジスティクスとは、「元来、軍事用語であり、軍隊の装備品、糧食などの軍事品の調達、供給に関する軍事科学である兵站(へいたん)術、およびその具体的運営を意味している(小学館・日本大百科全書)」と書いている。
ウキペディア(フリー百科事典)の「護送船団」の「第二次世界大戦(太平洋)」によると、「太平洋戦線においては、日本軍による通商破壊活動は不活発であったが、他方、アメリカ軍による日本に対する通商破壊活動は戦争後期以降、極めて活発であったために、日本軍が護送船団を組織している。
戦争前半においては、アメリカ海軍の潜水艦は魚雷の不調もあり、通商破壊活動をあまり行わなかった。戦争中期以降、ガトー級潜水艦の大量就役や魚雷の改善が進むと、航空機も加わっての活発な通商破壊活動を行うようになった。対する日本軍は、戦争前期には商船・輸送船などの喪失が極めて少なかったことから、上陸作戦時を除き、護送船団はほとんど組織していなかった。
その後、商船などの被害が急増するにつれ、護衛船団の必要性を認識し、1943年(昭和18年)11月15日に海軍内に海上護衛総司令部(海上護衛総隊・海護総隊)を設置し、通商活動におけるものも含む船団護衛に乗り出している。 しかし、日本の船団護衛は、駆逐艦・海防艦をはじめとする護衛艦艇の絶対数の不足、レーダーやソナー、対潜前投兵器などの対潜装備の能力不足、そしてアメリカ軍の攻撃力の大きさのために失敗に終わっている」と説明している。
戦争末期になってやっとロジスティクスの重要性を認識するようになったようだ。第二図南丸 戦後の食糧難の時期、学校給食に鯨肉が出てきても、筆者には匂い等で食べにくかったことと共に、「図南丸(となんまる)」が捕鯨船として南氷洋で活躍していたことの記憶がある。
先の平洋丸や平安丸とともに、第二図南丸の進水式の記念絵葉書が出てきた。この船は日本水産の所属の捕鯨母船として活躍し、漁閑期には北米から海軍用石油の輸入に用いられた。写真2 第二図南丸進水記念絵葉書 写真3 第二図南丸進水記念絵葉書 新聞記事文庫 造船業(07-023)・大阪朝日新聞 夕刊 1937.5.4(昭和12)、データ作成神戸大学付属図書館によると、
「科学の全智嚢と最新技術を挙げて行われんとする世界無比を誇る最新鋭超弩級捕鯨母船日本水産『図南丸』第二世の古今未曾有の河中進水式はいよいよ来る十一日に行われるが、当日は臨時列車が運転されるというほどの物凄さで、何ぶんにも2万トン級の大船が狭い川の中への進水式というので一般からも極めて注目されている」と当時の様子を報道している。
第二図南丸(19262総トン)は、当時商船として日本最大であった。昭和16年11月に海軍に徴用され、第三図南丸と同様の任務に従事した。 第二図南丸は昭和19年8月22日、舟山列島付近の北緯29−53、東経125−17において、米潜水艦の雷撃で沈没した。 戦前の日本捕鯨の期待を担ってきた巨大捕鯨母船は、本来の捕鯨母船と言う役割ではなく、単なる油槽船としてその短い生涯を閉じた。
商船が戦時下、軍のために徴用された船員は軍の横暴で虐げられ、軍人より20%強も多くの犠牲者が出した。「海に墓標を 海員不戦の誓い」を噛み締めながら資料館をあとにした。(平成23年9月21日)
第151話 平洋丸の進水式・その2[2011年09月13日(Tue)]
前回の第150話で「平洋丸の進水式」の写真と絵葉書を公開したが、他のアルバム帖からもこの船の晴れやかな進水式の別の写真が見つかった。写真1 平洋丸の進水風景 写真1は造船台から安治川に滑り降りていく瞬間だろうか。
前回の写真では、進水式で飾られる満艦飾は写っていなかったが、写真1では大きな船体と共に、多くの参列者や船上には関係者の姿が小さく写っていた。写真2 飛行機より見た平洋丸の進水の光景 写真2では父のアルバムには、航空写真とは言わずに「飛行機より見た平洋丸の進水の光景」の説明書きをそのまま引用した。
父の自分史「牛歩四十年・造船工作の人々」によると、「入社した翌年の4年に、海軍省第6掃海艇、特務艦“かもめ”が進水し、大連汽船石炭運搬船“撫順丸”、“甘井子丸”も竣工した。 そして10月5日に、待望の日本郵船貨客船“平洋丸”が進水した。 この平洋丸は9,815総トン、全長140mで、河幅が船台方向にわずか217mという非常にむずかしい進水で、河川進水の国内記録を更新した。建造主任はTさん(のちの取締役因島造船所長)で、進水の前夜より着々準備を進め、10月5日の満潮時を期して進水し、無事安治川に浮んだとき、思わず万才の声がでた。
翌5年4月16日に、平洋丸よりさらに大きい11,616総トンの“平安丸”も目出度く進水した」と当時のことを記していた。写真3 平安丸進水記念絵葉書(1) 写真4 平安丸進水記念絵葉書(2)
昭和初期の電気溶接 19世紀末期に開発された炭素アーク溶接法や金属アーク溶接法の原理を生かし、欠点を改善する研究開発が20世紀になって活発に行われるようになった。
上記「牛歩四十年」によると、「昭和3年(1928年)当時の電気溶接工場の設備は、定置式50馬力直流モーター・ゼネレーター溶接機1組と、米国ゼアース(Zearth)製丸型油槽に仕組んだ溶接機を、自家製トロリーに乗せて移動できるようにしたものが4台あった。全工場の電気溶接は造船溶接工場が担当していたので、この移動溶接機を造船、造機・修繕の各工事現場に運び作業をした。 小道具の溶接棒ホルダーは、真鍮棒で作った火箸の根元に電線のコードを結んだもので抵抗が多く、溶接を続行するうちに熱で持てなくなり、バケツの水で冷しながら使用した。また遮光面は平板の絶縁紙に色ガラスを取付けたもので、側面から紫外線・赤外線等の有害光線が目に入り、工員は常に赤い眼をしていた」と書いている。
この自分史には、「入社当時の電気溶接工場とロイド受検協会受検のテストピース(写真3)」を載せていた。写真5 ロイド協会受検のテストピース 筆者は昭和40年代から60年にかけて橋梁検査で溶接試験のテストに何度も立ち会ったことがあるが、テストピースはこの写真の5分の1くらいの大きさになっていた。
戦後に一時期造船王国といわれた日本も、こうした初期の電気溶接からの改良や技術進歩によって現在の繁栄がもたらされたと思う。友人二人からのコメント 前回「第150話 平洋丸の進水式」を公開したところ、友人二人からコメントをもらった。
大学の同級生のYさんは、土木工学を学ぶ前に船乗りになるための学校に入ったというほどの船好きである。 当時の工場の作業環境などを感慨深げに語った後、仕事でガダルカナル島に2年間滞在した時、港に着く寸前に米軍の攻撃にあい沈没してしまった残骸が未だに残っているということだった。
当時の徴用船は、貨客船で速力や収容能力を重視していて船に使う鉄板は薄いものだった。徴用船として補強もしただろうが、船底までは補強できず攻撃を受ければひとたまりもなかったという。
ネットでガダルカナル島 徴用船で検索してみると「船団輸送で完敗した海軍 船団護衛をおろそかにした海軍 ヒ86船団の悲劇」に、「米リバティ型戦時標準船もその程度の速力戦時貨物船の主流であった〔1A 船(11.5Kt),2A船〔油・炭混焼〕(10.0Kt),3A船 (12.0Kt)など〕。だが日本標準船は二重底でなかったことである。
日本の戦時標準船は鉄の棺桶と船員に揶揄された。鉄材節約のため、船舶命数(使用期間)を通常の25年から半分以下の10年程度に見積もり、その分だけ鋼板(鉄板)を薄くした。二重船底でもなく、鉄板が薄いために簡単に沈没した」と書いていた。
また、一緒によく飲むAさんからは「ニッポンの徴用船が、米軍雷撃機や潜水艦から片っ端に沈められていったのに対し、日本の方は、『見敵必殺』と武士道の高い次元からか、米軍の戦艦や重巡の攻撃・必殺に主力を置いていたようです。これは、米軍が食料や弾薬の補給、即ちロジスティックスを最重要と考えたのに対し、日本軍は比較的軽視の傾向にありました。(典型的な失敗はインパール作戦です。トラック類が不足していたために、ビルマの奥地で牛馬を2万頭入手するのを前提とした狂気じみた作戦計画です。食料や、弾薬の補給は二の次の計画です。7万人の将兵がほとんど飢え死にしました)
http://www.kcnet.ne.jp/~kubota/ をご覧ください。これは、昭和19年10月の戦争後期に入るフイリッピンのレイテ湾激戦の時に、栗田艦隊が数千席の輸送船団や上陸用舟艇の中に米国の軍艦がいなかったために話にならんと言って引き帰しています。 折角の米軍を殲滅させるチャンス見逃しています。マッカーサーも命拾いをしたと伝えられています)『太平洋戦争(下) 児島襄 中公新書 258ページ』このような戦争観の差異がこのような大きな結果を生み出しています」のメールをもらった。
今年の6月に「後期高齢者」の範疇に入れられてしまった筆者だが、昭和初期の頃は未だこの世に生を受けていなかった。
父の古いアルバムを整理していくと、昭和9年9月21日午前5時頃、高知県室戸岬に上陸した室戸台風は、大阪と神戸の間に午前8時頃再上陸したという写真も出てきた。
これら惨状の写真を整理していずれ公開しようと思っている。(平成23年9月13日)
(平成23年9月14日絵葉書2枚追加)
第150話 平洋丸の進水式[2011年09月01日(Thu)]
父のアルバの中で学生時代から就職したころの写真を整理していたら、昭和4(1929)年10月5日に平洋丸の進水式の写真が3枚出てきた。今から82年前の日立造船桜島工場で写したものだ。進水式の記念写真 明治39(1906)年生まれの父は、昭和3(1928)年の22歳で日立造船に入社したので、約1年半に進水式の記念写真に顔を出していることになる(写真1)。写真1 平洋丸進水前の記念写真 父が書いた自分史「牛歩四十年」にもこの記念写真が貼っていて、写真の下に「平洋丸進水直前の造船工作課員」と説明を入れていた。写真に写っている34人が平洋丸の造船の工作に携わった人たちのようである。 その下に平洋丸進水の航空写真も貼ってあった。
記念写真は82年を経過していてセピア色に変色しているが、写真屋が三脚を立てて撮ったと思われる。写っている人たちに焦点がぴったりと合っていて顔かたちがしっかりと確認できる。最年少が父と同じ22歳としても、今年は104歳である。この人たちの了解を得るのは不可能なので半透明の紙で顔にスモークをかけて人物は特定できないようにした。
わざわざこの記念写真を入れたのは、山高帽やカンカン帽などを手に持つか、被っていて、当時の造船会社での作業の一端を知ることができると思ったからだ。今なら安全靴にヘルメットを持つか、被った姿で写っていることだろう。平洋丸の進水状況 この記念写真に比べて進水状況の写真2枚は父が撮影したもので、4.5cm×6.5cmと小さかったので、スキャナで拡大して「平洋丸」と確認できた。
進水式の儀式は、建造した船体が造船台から滑らせて初めて水に触れることになる。
何回か進水式を見学したが、確か船底に鋼鉄製のローラーが仕込まれていて、摩擦抵抗を少なくして滑りやすいようにしている。船体を支えていた木枠を順次外していき、下準備が整った段階で支綱が切られ、くす玉が割れ、近くの楽団が景気良い音楽を奏でながら、水面へと滑り降りていく。写真2 平洋丸の進水状況 写真1で大きな木材に支えられた船底は可なりの勾配になっているが、写真2では勾配がゆるくなっているのは、滑っている途中で写しているからだろう。
上記2枚の写真からは、どんな形の船か分からなかったが、写真3で船の概観を知ることができた。写真3 初めて水に触れた平洋丸 進水した船体は、原動機や各種の装備を取り付ける艤装(ぎそう)の工程を終えて完成し、船主に引き渡される。進水式記念絵葉書 上記のアルバムと別のアルバムも整理していたら、全く偶然にも戦前の平洋丸の進水式記念絵葉書が出てきた。 何度か進水式に出て記念の進水式絵葉書をもらっているが、戦前の絵葉書を見るのは初めてだった。 手持ちの進水式の絵葉書を見ると、全長、幅、計画満載吃水、総屯数、速力など船の主要目の次に、船の一般配置図があって、絵葉書と3点セットになっている。
戦前のものは、絵葉書だけ2枚セットになっていた。写真4 平洋丸の進水式記念絵葉書 写真4は建造中の写真を取り込んで富士山に波をあしらった絵葉書である。
もう1枚は、この船が完成した時の絵を正確に描いた絵に「日本郵船株式会社 南米航路船 平洋丸 進水記念」小さな文字で書いていた。 この絵葉書は、進水式が10月だから、季節を取り入れて満月にスズキや花をあしらった絵葉書になっている。写真5 平洋丸の進水式記念絵葉書 平洋丸の運命 まさかインターネットで「平洋丸」が検索できるとは思ってもいなかったが、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」で詳しく知ることができた。 その後、数奇な運命をたどる「南米航路船・平洋丸」をフリー事典からつまみ食いをしてみた。
船歴には昭和3年12月4日だから、父が入社して8ヶ月後に起工している。就役昭和5年(1930年)4月19日、喪失は昭和18年(1943年)1月17日で、13年で沈没した。
主要目は、総トン数9,816トン、全長146.94m、吃水9.14m、出力10,462馬力(最大)、航海速力16.0ノット、乗客一等船客42名、二等船客80名、三等船客500名である。
上記にも書いたが、進水式は大阪鐵工所櫻島工場で行われたが、平洋丸の長さ146.94mに対して川幅は247mであったこと、さらに、平洋丸は河川に進水する船の大きさとしては当時の国内新記録であったため、式には日本郵船の社長や大阪市長をはじめ1万人近い観覧客が招かれた。幸いにして式は無事挙行され、翌日の新聞には進水式の様子を写した航空写真が掲載された。 父が航空写真をどこで手に入れたか分からないが、自分史に載せたのは当時話題になった出来事だったからなのだろう。
昭和5年4月19日に就航してからは、香港や日本とチリの間を往復し続けたが、昭和14年8月に最後ペルー移民を輸送し、昭和16年6月22日の神戸発を最後に南米西岸航路が休航となった後は日本の港に繋船されたままとなっていた。
昭和16年10月15日、平洋丸は海軍に徴用され、特設輸送艦となった。 平洋丸の最初の任務は11月21日に舞鶴を出港し、サイパン、マーシャル諸島に部隊を揚陸し、その任務を完了した。日米開戦は日本に戻る途中であり、開戦後の平洋丸は横須賀を拠点にサイパン、トラックなどの内南洋を中心に輸送任務を行い、時にはラバウル島などの外南洋への輸送任務も行った。
昭和18年1月11日、乗組114名、トラック諸島の基地建設要員1753名、東京市の南方慰問団11名の計1878名と食糧や武器弾薬4000トンを乗せて、トラック島に向かって横須賀を出港した。この時の航海は護衛艦なしの単独航海であったため、平洋丸は平均15ノットの高速で航海し、見張員を増員して潜水艦の監視にあたらせた。そのため航海は順調で、1月16日にサイパン沖を通過し、1月17日にはトラックの北約400kmの地点にさしかかった。
1月17日午後2時5分、入港祝いの赤飯が作られている最中、左舷船首附近に米潜水艦が放った魚雷が命中した。1本目の魚雷命中からすぐ2本目と3本目の魚雷が機関室に命中し、機関室から火災が発生しただけでなく、平洋丸のエンジンは完全に停止した。
平洋丸からの脱出に成功した生存者たちは、海中にいる人と救命艇や筏に乗っている人とで助け合い、交代で救命艇や筏に乗って体力の消耗を防いだり、乾パンや飲み水を分け合った
遭難から4日目の1月20日朝、平洋丸からの救難信号を受けて周辺海域を捜索していた海軍の飛行機のうちの1機が救命艇を発見し、現場に到着して救助を開始した。この救助作業により、乗組員70名と便乗者951名の計1021名が救助された。
昭和5年から昭和14年までの9年間、南米航路船として乗客定員622名、ペルー国、コロンビア国へ移民船として活躍していたのに、第二次世界大戦のため特設輸送艦として徴用されたのは、貨物の積載能力が大型貨物船並みであるということと、船艙のスペースに余裕があったため居住スペースの拡大が可能であったためであるという。
移民で乗船された方、徴用船で辛くも救助された方1021名など、多くの方々のかかわりがあることを知った。船の耐用年数はどのくらいか知らないが、13年で潜水艦に沈没されるとはあらためて戦争のむなしさを痛感した。(平成23年9月1日)
第149話 バイカモの花[2011年08月30日(Tue)]
残暑お見舞い申し上げます。 今年の夏休みも残り1日になってしまった。毎日がサンデーで特段夏休みは関係なさそうだが、近くに住む孫たちが我が家にやってくるので彼らの生活に合わせたリズムになりがちだ。 今年の夏休みの印象に残ったことを思い出して書いてみた。 近からず、遠からずの日帰りで涼しい夏を過ごしたいと、8月6日に車で孫たち5人とJR醒ヶ井駅近くの地蔵川に咲くバイカモの花と養鱒場に出かけた。平成の名水百選:「居醒の清水」 昨年4月初旬にハイキング仲間と関が原宿から醒井宿までをウォーキングしたとき、「居醒の清水」を知った。
写真1 コンコンと湧き出る居醒の清水 写真1の「居醒め清水」と書いた案内板の辺りからコンコンと湧き出ている清水は、霊仙山(りょうぜんざん)に降り注いだ雨が長い年月をかけて地下を流れ、その麓の一つが居醒の清水となって湧き出ている。
昨年4月のハイキングでは冠雪の伊吹山(1377m)を右手に見ながら歩いたので、この清水も伊吹山地からだろうと思っていた。
あらためて日本地図(平凡社世界大百科事典「日本地図」)によると、鈴鹿山脈の最北に位置する霊仙山(1094m)が醒井に近いことが分かった図ー 醒ヶ井近辺の地図 醒井養鱒場も、この霊仙山の麓の湧き水を利用してニジマス、ビワマス、アマゴ、イワナの渓流魚が育てられている。地蔵川に育つバイカモ(梅花藻) 中山道69次の61番目の宿場町として栄えた醒井宿は、街道沿いに居醒の清水から湧き出た水が、地蔵川となって流れている。 その東側の山が迫った狭いところを名神高速道路が通り、西側には東海道本線が走っていて、その狭いわずかな平地を中山道が通っている。 古い時代の建物は建て替えられているが、道幅もほとんど変わらない街道筋は、宿場の風情を残していた。
昨年訪れたとき、地蔵川沿いはサクラが満開だった(写真3)。写真3 地蔵川沿いの街道(平成10年4月6日撮影) 「ハリヨ バイカモ 平成5年3月、醒井区」の案内板にバイカモのことが書いてあった。
「バイカモ(沈水植物 キンポウゲ科)は、水温15度前後を保つ澄んだ湧水を好み、川の水底に群生し、流れに沿って這うように育つ鮮やかな緑色をした多年生水草である。手のひら状の葉が特徴で長さ50cmの藻である。初夏から晩夏にかけて水面上に梅花状の白い花が咲く。バイカモに寄生する水生昆虫は、ハリヨの好物であり、バイカモが繁殖することにより急流をさえぎり、ハリヨの巣づくり・産卵に絶好の場所を提供している」と解説していた。
昨年4月に見たバイカモは、春未だ浅かったせいか、緑色の葉が川の流れに沿って沈んだ状態だった。 今改めて昨年の写真を見ても、川の流れが緑色でわずかに葉っぱだと判る程度だった。
今年8月にみたバイカモは澄んだ清水に川一面に緑色の葉っぱが写真4に見られように、流れに沿ってなびいていた。 写真4 這うように流れにそうバイカモ そのバイカモの花は、小さな白色で花弁は5個、倒卵形で基部は黄色である。 川べりからズームで花をアップして撮ろうとしても、なかなかうまくいかなかった。 中学1年生の孫が水に入っていたので、バイカモの葉を踏まないように近づいて撮ったのが写真5である。写真5 水面から顔を出したバイカモの花 バイカモの花を見に行ったこの日は、カンカン照りの蒸し暑い日だった。孫たちは地蔵川で水温が約15度の川の中に足をつけて遊んでいた。
昼食は醒井養鱒場でニジマスなどを食した。食後孫たちは園内の川に入って遊んでいたが、冷たくて長く入っていられないと言っていた。
この川ではとても水遊びができないので、彦根の琵琶湖松原水泳場へ寄り道する羽目になった。
8月も終わり近くになると、あれほど「シャーシャー」と鳴いていたクマゼミは聞こえなくなった。午後になって「ツクツクボウシ」の鳴き声が聞こえていた。(平成23年8月30日)
第148話 今年も蝉が鳴きだした[2011年07月15日(Fri)]
7月9日に近くの公園で犬の散歩をしていたら「公園を清掃する会」の方から、「もう梅雨があけたというのに、蝉の鳴き声が聞こえないのは天変地異の前触れでしょうか」と聞かれた。 地震の前触れと動物の異状行動はよく話題に出るが、蝉が鳴かないことと天変地異は聞いたことがない。 ジムの仲間やメールで聞くと「梅雨が早くに明けたからで、もうすぐ鳴くだろう」とそっけない返事が多かった。
そういえば、今年の梅雨明けは早かった。気象庁発表の「平成23年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)」によると、「近畿は梅雨入りが5月26日ころで、平年差は12日早く、昨年差は18日早かった。梅雨明けは7月8日ころで、平年差は13日早く昨年差は9日早かった」と発表している。
昨朝(7月14日)、玄関先の壁にへばりついている蝉の抜け殻を見つけたので、デジカメにおさめた(写真1)。写真1 セミの抜け殻(平成23年7月14日撮影) その日のジムで「万博で昨日クマゼミの鳴くのを聞いたよ」と声をかけてくれた。
今朝箕面市、吹田市、茨木市との境界近くの公園で、7時半頃クマゼミ初鳴きを聞くことができた(写真2)。写真2 クマゼミの初鳴きの雑木林 この文章を書いている12時近くには、鳴き声は聞こえてこなかった。
フリー百科事典「ウィキペディア」の「セミ」によると、」「鳴き声や鳴く時間帯は種類によって異なり、種類を判別する有効な手がかりとなる。たとえば日本産セミ類ではクマゼミは午前中、アブラゼミやツクツクボウシは午後、ヒグラシは朝夕、ニイニイゼミは早朝から夕暮れまで、などとなる。夏に多いとはいえ真昼の暑い時間帯に鳴くセミは少なく、比較的涼しい朝夕の方が多くの種類の鳴き声が聞かれる」と解説していた。
サクラ前線と同じように、セミの「初鳴き」を全国から集めて記録する図が作られているそうで、「生物季節前線図」と呼ばれているそうだ。 来年も気をつけて、セミの初鳴きに注視していきたい。(平成23年7月15日)
第147話 山中に鯉がいなくなって![2011年06月26日(Sun)]
梅雨の中休みなのか、梅雨前線が日本列島に停滞しているものの、朝鮮半島から関東地方辺りに居座っているようである。ここ近畿地方はこの4日真夏のような暑さで33℃ほどの最高気温が続いている。
6月第4週目の土曜日の活動日には25人が参加した。暑い最中の作業なので、水分の十分な補給などに注意しながら階段作りや間伐作業を行った。
昼食時に治水対策で作られた砂防堰堤(ダム)でできた小さなダム湖に4年前に不用意に放たれた4匹の鯉がいなくなっているとの話題が出た。 おそらく増水で下流に流されてしまったのだろう。モリアオガエルのオタマジャクシは鯉の餌食になると心配していたが、雑食性で貪欲な鯉からモリアオガエルは解放されたと思われる。
6月22日に観察したときには白く大きかったモリアオガエルの卵塊は、4日後の昨日は写真1に見られるように、溶けてオタマジャクシは水中に落下していてようだ。写真1 溶けてしぼんだモリアオガエルの卵塊(2011年6月25日撮影) 水面にはアメンボがすいすい滑っていたが、オタマジャクシはまだ見つけられなかった。鯉がいなくなり、ハヤが大きく育つ 岸から離れた深みでは、小魚が群れていてわずかな足音で群れて逃げていくのが分かった。 堰堤の天端からズームで小魚の群れを撮ってみると、写真2のように水面に近い魚は彩りもはっきりと分かるが特徴をとらえるほどには分からなかった。写真2 ハヤの群れが育っている(2011年6月24日撮影) 川魚に詳しいTさんに聞くと「ハヤの一種でオイカワだろう」という。「鯉の餌食になっていたハヤは細々と隅っこで生きながらえてきたが、天敵がいなくなり大きくなって10センチくらいの大きさのもいる」と言っていた。
昼食時にKさんに聞くと、「アブラハヤだろう」と言ってこの魚の特徴を話してくれた。オイカワ 午後の作業を切り上げて図書館から「川と湖の魚@」(川那部浩哉・水野信彦共著・保育社平成元年6月30日)を借りてきてそれぞれの魚をスキャナで取り込んでみた。 写真3 オイカワ(本から引用) 湖の沿岸部や池・沼、川の中・下流域に生息している。雑食ではあるが、付着藻類が主食で、石の表面にごく小さなハミアトを残す。カワムツと共存する川では、本種は平野部の方に、カワムツは山間部の方に、また,共存区間では本種は瀬や浅く開けた方に、カワムツは淵や植物のある方に、それぞれすみ分けている(「川と湖の魚@」から引用)。アブラハヤ 中部地方や近畿地方では、次のタカバヤと共存する場合がある。体側の暗色斑点は中央線付近に集中し、腹側にはとくに少ない。尾柄部は細く、その長さは高さのほぼ2倍以上である。共存河川では、タカバヤよりも下流の方に多い傾向がある。
河川の上・中流域の流れの緩いところや湖・池・沼に生息する。岩石や柳の下などに隠れ場所を持ち、群れを作って、陸生・水生の昆虫や付着藻類などを食べる。かなり貪食で、餌のついていない釣り針にも食いつく。冬には隠れ場所に潜み、余り活動しない。 3〜8月の日中に産卵する。1尾の雌に雄の集団が追尾し、雌が砂礫底に頭から突入すると、雄もそれに続き、砂礫中に卵を埋め込む。完熟した雌の吻はタガネ状に突出し、上記の突入を容易にしている。2年で体長6〜10cmに成長する。15cmを越えるものは少ない(「川と湖の魚@」から引用)。 写真4 アブラハヤ(本から引用) 上記本の中でハヤについて、「体形のスマートなコイ科の魚をハヤとかハエと呼ぶことが多い。地方によって、ウグイ・アブラハヤ・タカバヤ・カワムツ・オイカワなどのどれを指すかは異なる。語源は、ハユ(逸)の名詞形ハエの転じたもので、泳ぎの素早いことを意味するという」と解説している。
7月2日の活動日には、オイカワかアブラハヤか、それとも別のハヤなのか、すばしこいこの魚をズームアップしてデジカメにおさめたいと思っている。新たな天敵の出現か! 本の解説でアブラハヤだとすると、貪欲である。Kさんによると、オタマジャクシはハヤに食べられるだろうという。鯉がいなくなっても、新たな天敵が出現したということだ。
新たな天敵が出てきても、モリアオガエルだけが生息している森ではなく、元々こうした渓流に棲むハヤなどと共存した環境の中で生態系が維持されていくのだろう。 こんな山中に鯉はいなくなって新たな天敵・ハヤが出現したとしても、この森はバランスのよい森になっていくと思われる。渓流沿いは涼しい風が吹きぬけて 炭窯の前に取り付けている温度計は31度だった。日差しの強い場所に取り付けているから体感温度より上がっているのかもしれない。 13年ほど前に植えたクヌギやコナラなどの落葉樹は、写真5のように程よい日陰を作ってくれている。 その左手には勝尾寺川の支流の渓流が流れていて川沿いの風が吹きぬけて心地よい。写真5豚汁広場前の木陰 昼食時にはこんもりした木々のどこからかウグイスの鳴き声が聞こえてきた。 ウグイスの鳴き声に混じってときどき「ヒーヨ、ヒーヨ」とヒヨドリの鳴き声を聞こえてくる。「ヒヨドリは単独行動をする」とBさんが解説してくれた。
夏本番の暑い日だったが、心地よい渓流沿いの風と小鳥のさえずりで気持ちよく過ごすことができた。(平成23年6月25日)
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