第161話 森林浴に浸って「箕面だんだんクラブ」で活動しませんか![2012年02月05日(日)]
大阪府の北西部に位置する箕面市は、全市の約60%が明治の森箕面国定公園を含む山間地域。緑豊かな北摂山系の南側に住宅地が広がっている。
活動地はこの緑豊かな森林の中の「箕面市環境クリーンセンター」で、市が所有する「箕面市体験学習の森」である。甲子園球場グランド面積の17倍強の25.3万u、標高340mから標高570mまで230mの高低差がある。この広さと高低差のお陰で四季折々の移ろいを楽しむことができる。
定例活動日
定例活動は毎月第1、第2の土曜日および日曜日と第4土曜日。10時からミーティング、16時ころまでには解散する。
竹炭やき作業を行ったときは、翌日の日曜日に窯の空気を遮断するための窯止め作業もある。
市の広報紙「もみじだより」の「市民の広場・オアシス」に第4土曜日、市民参加を呼びかけている。
「箕面市体験学習の森」の四季
春は、ヤブツバキ、キブシ、ヤマザクラ、タニウツギ、エゴノキなど、気温の変化とともに、次々と木の花の彩りが変っていく。
この山でのサクラの移ろいを見てみると、箕面の市街地のソメイヨシノが満開になってから1週間ほど遅れて、クリーンセンターへの進入路のソメイヨシノが満開になる。山に入ると、ソメイヨシノにやや遅れてヤマザクラが満開になっていく。
写真1 満開になった花見山のヤマザクラ
ヤマザクラに1週間ほど遅れて5月の連休近くには、ウワズミサクラも白色の小花をつける。頂上近くにはエドヒガンの大木も咲いてくる。
そのころになると、シャガの花が満開になり、タニウツギやエゴノキの花も咲き出す。活動拠点の豚汁広場の側を流れる勝尾寺川支流では、ウグイスもさえずり、初夏には渡り鳥のホトトギスなども聴ける。
梅雨明けには、キツネノカミソリに続いて9月にはヒガンバナが咲き、蝉しぐれや渓流を吹き抜ける風が心地よい。
蜩(ヒグラシ)の鳴き声が聞こえなくなる頃には、ススキの穂先が変化していく。秋には、カエデの紅葉が美しい。
写真2 治山ダムほとりの紅葉
主な活動内容
箕面だんだんクラブは、1996年に市有林の保全活動を行うために、箕面市環境政策課が呼びかけた「もりもりクラブ」がその前身である。
その当時は、森が放置されて下草も生えず、つる植物がはびこったジャングルで、光を求めて伸びる木々は、ひょろ長いもやしのよう(「もやし林」とか「線香林」という)であった。
このジャングルのような森林を以下のような方針で具体的に活動を始めた。
1.植生の自然推移を中断し、明るい森を作るために、間伐、除伐をする
2.桜、椿等を育てるために陰を作る高木、中木を間伐する
3.昆虫、小鳥、小動物(リス、ウサギ等)の餌となる実のなる落葉樹の育成と植樹をする。(クヌギ、コナラ、アベマキ、クリ、エノキ、マユミ、ネズミモチ、ムラサキシキブ等)
4.ウグイス、冬鳥等のために谷川に沿っての藪は残す
5.スギ、ヒノキ等は適宜間伐、枝払い等をして豊かな林床を育てる
6.間伐、枝払い、除草した廃物、倒木等は整理。集積して土に戻るようにする
7.さまざまな樹を知るために主だったものに名札をつける
8.案内標識を付けた散策コースを作り、森林浴の便に供する
9.安易に外部から植物を持ち込まないようにする
植樹
毎年12月には、この地で採った木の実から育てた苗木を、箕面クワガタ探検隊、箕面エコクラブ、日本熊森協会、一般市民にも呼びかけて一緒に植えている。
写真3 大勢の参加で落葉樹の植樹の状況
幼木はシカの大好物なので、植樹にさいしては写真3の白い保護管(ヘキサチューブ)で保護している。
竹炭つくり
2004年3月から、箕面市社会福祉法人あかつき特別養護老人ホーム内の竹林および果樹園の間伐、草刈、保全、整理をボランティア活動の一環として無償で引き受けている。
間伐した竹はドラム缶で作った手作りの炭窯でやき、同ホームおよびクラブ員のほかに、春、秋の「みどり生き生き、みのお生き生き」のイベント等で一般市民にも無償で配布、有効利用している。
写真4 炭窯への火入れ作業
その他、竹林所有者から依頼されてモウソウチクを間伐し、整理して竹炭にしている。
階段つくり
このほかに、箕面市山麓保全ファンドの助成金を受けて防腐剤を含浸した丸太を使用して階段を作り、散策コースとして継続的に行っている。
写真5 階段つくりの作業
会員は箕面市在住者がほとんどであるが、近隣の茨木市、高槻市、吹田市、大阪市内からも参加している。
最高齢は85歳の作業道づくりのベテランから、大工の棟梁だった人、機械器具類の整備にかかわっていた人など経験者も多いが、女性も7人も参加している。現在会員は41名。
森林浴や植物の観察を楽しみに参加している人もいる。
箕面市担当課と事前に協議をして、初夏には「餅つき大会」、盛夏には「暑気払い・ソーメン流し」、12月の植樹会の昼食には、名物の豚汁と焼きいも出している。
「箕面だんだんクラブ」のパンフレットの「ボランティアの声より」のなかに「四季折々に開く親睦会、珍しい体験談や特技もとびだして、仲間たちの思わぬ一面が」と書いている。
活動日の昼食時は、久しぶりに出会うみんなといろんな話題が出て楽しい食事になっている。
活動資金など
年会費は千円のほかに、500円のボランティア保険が必要である。不足分は「みのお山麓保全ファンド」の助成金でまかなっている。
森林浴
森林浴の効果は科学的なものより精神的なものが大きいが、 科学的な効能としては樹木が発散するフィトンチッドと呼ばれる物質の作用がある。特にマツ、ヒノキなどの針葉樹林ではフィトンチッドの発散量が多く、免疫力の向上などに寄与するという論文が発表されている。(ウィキペディアから引用)
森林の空気を思い切り吸い込めば、樹木の香りで心を落ち着かせ、リラックス効果をもたらし、枝葉のざわめきが1/f(エフぶんのいちゆらぎ)の揺らぎを持っているので気持ちが安らぐなどの効用があるともいう。
注)1/fゆらぎとは、パワー(スペクトル密度)が周波数fに反比例するゆらぎのこと。ピンクノイズとも呼ばれ、自然現象においてしばしば見ることができる。具体例として人の心拍の間隔や、ろうそくの炎の揺れ方、電車の揺れ、小川のせせらぐ音、目の動き方、木漏れ日、物性的には金属の抵抗、ネットワーク情報流、蛍の光り方などが例として挙げられる。(ウィキペディアから引用)
日常と離れた「体験学習の森」で、「森づくり」の活動をされてはいかがでしょう!
(連絡先 賀戸(かと)пi072−722−1745)
(平成24年2月5日)
第160話 アメリカ・セントルイスに架かるイーズ橋[2012年01月13日(金)]
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
昨年12月中旬に脊髄を痛めてしまったため、体重をできるだけ脊髄にかからないように横たえて安静に過ごすはめになってしまった。
箕面だんだんクラブの活動に当面参加できそうにないので、昨年10月16日の個人ブログで公開した「第50話 アメリカ民謡・シェナンドーとセントルイス」で書いたミシシッピ川に架かるイーズ橋について書くことにした。
セントルイス・ミシシッピ川に架かるイーズ橋
セントルイスはアメリカ合衆国ミズーリ州東部、ミシシッピ川とミズーリ川の合流点に位置する商工業都市で、この地を訪れたのは20年前の1991年9月だった。
セントルイスの三大名物は「1に『バッドワイザー』ブランドで知られる世界最大のビール会社アンホイザ・ブッシュ社の本社工場、2に西部の入口の象徴『ゲートウェイ・アーチ』、3番目は、『ユニオン・ステーションの再開発事業』」と現地の日本人ガイドが教えてくれた。
写真1 ゲートウェイ・アーチ
高さ192mのゲートウェイ・アーチには5人乗りカプセル型のエレベーター頂上へいける。
そののぞき窓から撮ったのが写真2である。
写真2 192mの頂上からみたイーズ橋
写真2は2つの橋が架かっているが、トラス橋の下流に焦げ茶色のアーチ橋がイーズ橋である。その上流のトラス橋は、マーティンルーサーキング橋である。
イーズ橋
この地を訪れるまでイーズ橋のことは全く知らなかったし、調査団の資料にも取り上げられていなかった。
こんな大きな橋が今から138年前の明治6年(1874年)に完成したと知ってアメリカの橋梁工学の歴史の深さを思い知らされた。
19世紀後半に入ると、含有炭素が少なく、延性として靭性に富んだ鋼が大量に生産されるようになり、巨大な橋の建設が可能になった。
この橋の名・Eads橋は、建設を担当したエンジニア、ジェームス・ブキャナン・イーズから付けられた。
彼はこの橋を設計するためヨーロッパに赴き、鋼を用いる可能性を研究すると共に基礎工法としてニューマチック・ケーソンを学んで来た。
写真3 鋼製チューブの3径間固定アーチ橋
川のほとりでセントルイス側から見たイーズ橋は、152.6m十158m+152.6mの支間をもつ固定アーチで18インチの鋼製チューブによりアーチが出来ている。
鋼製チューブと橋台との取り付け付近は写真4のようになっていた。
写真4 橋台付近の鋼製チューブ
イーズ橋は、20年前に訪ねたときは、上は荷重制限を設けられているものの供用していて、上は有料の道路橋として、下は鉄道組合が管理していて重くない貨物車をユニオン・ステ一ション間で運行していた。
橋台には、1874年の完成から100年経った1974年7月4日に記念行事があったようで、銘文が取り付けられた。
写真3では判別しにくいが、川の途中のイリノイ州側の塗装の色が変っていたので、尋ねると、塗装の塗り替えで古い塗膜をケレンしたときに重金属(スズ?)が川を汚染するために中断していると説明を聞いた。
橋梁工学におけるイーズ橋の意義
帰国後この橋を調べてみてみると、2つの注目すべき橋であることが分かった。
一つは、世界で初の鋼鉄の大量使用したこと、片持ち式架設工法(カンチレバーエレクション)を採用してアーチの閉合した時は極暑が続いたために、氷でリブを冷やして閉合させた(ウィキペディアから)という。
ウィキペディアのイーズ橋には、当時の架設の写真が掲載されているが、この工法は昭和39年(1964年)に、大阪のメイン道路・御堂筋を跨ぐ阪神高速道路に、片持ち式架設工法を採用した。
写真5 片持ち式架設工法(御堂筋を跨ぐ阪神高速道路)
この片持ち式架設工法でも、桁の伸縮が最も少ない冬の早朝に桁の併合を行った。
イ−ズ橋は、もう一つの注目点は、橋を支える基礎を大規模なニューマチック・ケーソン(潜函工法)を採用してミシシッピ川の川床を支持地盤まで掘り下げた最初の例の一つである。
ニューマチック・ケーソンを採用した日本語で潜函工法といわれているものだ。
風呂に入って洗面器を逆さにして押さえつけると、洗面器の中は水が入らない空間ができる。中の空気圧は高くなるが、水が入ってこない現象を利用したものだ。
軟弱地盤や地下水の多い河川などにコンクリート構造物を設置してこの構造物の空気圧をあげて水が入ってこない作業空間に作業員が入って掘削して構造物を支持地盤へ到達させる工法である。
イーズ橋では、ケーソン病(減圧症)が多発し、15人が死亡、2人に身体障害が残り77人が深刻な症状に悩まされた。
セントルイスを訪ねる前に、アメリカで最も古い吊橋であるニューヨークのブルックリン橋を歩いて渡ったが、この橋を設計したローブリング親子のうち、親は破傷風で、その建設を引き継いだ息子のワシントン・ローブリングは、ケーソン病で下半身を麻痺してしまった。このときもケーソン病で多数の死者を出したという。
ちなみに、上記阪神高速道路の堂島川を跨ぐ御堂筋の両側にもニューマチック・ケーソンを採用している。
この当時堂島川や土佐堀川の基礎工事には多数のニューマチック・ケーソンを採用したが、イーズ橋から90年後の1964年には、「高圧酸素装置に入り、高い気圧の環境にからだをもどし、気泡になっているガスを体液中に溶かし、それから、徐々に気圧を下げ、ふつうの気圧にもどす装置」が設けられていて、減圧症はなかった。
20年前に訪れたアメリカでは、調査団の目的として橋の建設と維持管理で数多くの橋梁を見学することが出来た。
いずれこれらの橋についてまとめたいと思っている。
(平成24年1月13日)
第159話 明日12月11日は「箕面市体験学習の森」で植樹をします[2011年12月10日(土)]
箕面だんだんクラブでは、箕面市の「体験学習の森」の森づくりに関して、箕面市と活動協定を締結して活動している。
活動の具体例として、明るい森を作るために、間伐、除伐をするとともに、昆虫、小鳥、小動物(リス、ウサギ等)の餌となる実のなる落葉樹の育成と植樹をすることも行っている。
平成19(2007)年から始めた植樹行事は、今年で第5回目となる。
今年は明日12月11日に日曜日に午前10時から行うことになった。
今日第2土曜日の10日はその準備作業をおこなった。
毎年「クワガタ探検隊」が親子で参加してくれていて、今年も80名以上の参加が見込まれている。このほかに、箕面エコクラブ、日本熊森協会、一般市民も数名参加してくれる予定である。
植樹に向けての準備―植生保護管
いま日本各地の森林ではシカの食害が問題になっている。天敵の日本狼が絶滅し、地球温暖化で冬季でも過ごしやすい環境になったために知床半島といった寒い土地でもシカの異状に繁殖している。さらに、害獣を駆除する猟師が少なくなって全国各地でシカの食害はひどい。ブログでも何回か取り上げたが、ここ体験学習の森でも深刻な話題だ。
だんだんクラブでは以前から桜の木などは間伐してきた竹を小さく割って木の周りを保護してきた。
5年前に始めた植樹では、せっかく市民参加で植えた木々がシカの食用にならないようにするとともに、植栽した幼齢木を100%活着させるために、当初から植生保護管(ヘキサチューブ)を利用している。
「ヘキサ」はギリシャ語で、6を意味し、6角形で肉厚0.5mmの薄型ポリプロピレンシートのチューブ(管)で覆っている。
写真1 植生保護管の組み立て
今年の植生保護管は写真1のように、6角形から円形に変っていた。ネットで検索すると、商品名「ハイトシェルターS」で、円筒形の採用で風を受け流す構造であり、組立て・取り付けが簡単になったという。
作業の班編成と道具
作業基地(豚汁広場)の掲示板には写真2のように、作業班の編成と「苗のうえかた」が張り出されていた。
6班の編成で掲示されているが、飛び入り等で7班分の準備をしている。
写真2 班編成と苗のうえかた
掘るためのツルハシやスコップ、鍬のほかに、小石の掘り起こしのためのバールなどの小道具もそろえた。
写真3 植樹で使う道具をそろえる
植樹場所の準備
平成8(1996)年箕面市環境政策課の呼びかけで「もりもりクラブ」から発足した「だんだんクラブ」も今年で15年を経過した。
この箕面市体験学習の森の活動範囲は約25万uもあり、作業基地の豚汁広場から徐々に頂上へ向けて作業を進めているが、今年の植樹場所への作業道をたどっていくと「ずいぶん上までやってきたな」という気がする。
関電道の標識を登り、手造りの丸木橋(写真4)を渡って昨年植えたところから少し登った辺りである。
写真4 「せせらぎ」が聞こえない丸木橋
植樹場所へ行くとき渡る丸木橋は、小さな橋だが、谷川が流れていて「せせらぎ」でも聞こえてきたらと、ふと想像していたら「いではく」作詩の「雪どけ せせらぎ 丸木橋」と、千昌夫が熱唱している「北国の春」がつい口をついて出てきた。
余計なことを考えながら歩いていたら、落葉でつるりと滑ってしまった。表面は乾燥している落葉だが、2日前に降った雨で下の落葉と層間剥離をしていて滑りやすくなっていた。
今年は昨年植えた場所をさらに少し上がったところである。
写真5 準備の整った植樹場所
今年の苗木も、例年どおりだんだんクラブの初代代表を務められた小林さんが2年前から山で採取してきたドングリを発芽させたクヌギ、コナラ、ヤマグリの苗木50本を植えることにしている。
天気予報によると、厳しい冬型天気だが雨の心配はなさそうである。
10時半頃から約1時間の植樹の作業を終えれば、下山して豚汁広場で恒例の温かい豚汁とホカホカの焼き芋が冷え切った身体を暖めてくれることだろう。
そのための食材や鍋や窯なども取り出してきて、「準備おさおさ怠りなり」で担当者は臨んでいる。
冬空の下で体は縮こまって動きにくいが、怪我がなく、森林浴とともに清々しい一日を過ごしていただければと願っています。
(平成23年12月10日)
第158話 以楽公園(枚方市)の紅葉[2011年11月23日(水)]
今年の秋は暖かい日が続いてきれいな紅葉が期待できないと思っていたが、このところの急な冷え込みで近所の公園でもすっかり色づいてきた。
昨日は枚方市香里ヶ丘6丁目にある「以楽公園」へ出かけてきた。ハイキング仲間のKさんからふだんは開放されていないが、「平成23年11月10日木曜日から平成23年11月24日木曜日まで庭園内を散策できる」と企画してくれた。
以楽公園
京阪電車枚方公園駅に11時に、いつものハイキング仲間が8人集まった。企画してくれたKさんは昨年寝屋川に引越ししてきたばかりで、他のメンバーも枚方市内のことを知らなかった。
駅から急な坂道を登って「御茶屋御殿跡」に登ってしまった。この辺りで出会った人は「以楽公園」と聞いても全く知らなかった。この間約30分ロスしたが、12時にはやっとたどり着いた。
道路沿いから「以楽(写真1)」と書いてあったので、目的地は直ぐにわかった。
写真1 以楽公園
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の概要によると、「以楽公園(いらくこうえん)は、重森三玲の作庭による池泉回遊式の日本庭園である。 中央に自然の湧水による苑池を囲み、曲水、滝石組の築山、四方に春夏秋冬を表現した平安式の庭を配置している。
香里団地の開発に際して日本住宅公団が計画、香里ヶ丘環境美化協会の資金協力を得て1961(昭和36)年4月に完成した。 団地の中に有る庭園として、「みんなが一緒に十分楽しむ庭園」という願いを込めて「以楽苑」と命名される。 しかしその願いに反し立ち入りを拒むように周りを柵により囲まれ、長い間十分な手入れがされないまま荒れるに任されていた。
20世紀末になり、重森三玲の関係者により重森三玲の作という事が知らされた事により、改めて1998年に整備が行われた。2006年現在は不定期に開放されている」。
枚方市役所・土木部公園みどり課の「以楽公園秋の一時開放」は、平成23年11月10日木曜日から平成23年11月24日木曜日までの午前10時から午後4時まで」で、明日1日だけである。
以楽公園の紅葉
フリー百科事典によると、「重森三玲が作庭した庭は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴的であるとされ、代表作に、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある・・・・・・」。
池の周囲を回遊できる庭園で一時開放以外は、庭園内を散策することができないし、寺院などのように拝観料が要らない。
身近な場所なので、ぜひ園内を回遊されることをお勧めする。ブログに掲載できる限度の5枚の紅葉の写真を掲載してみた。
(平成23年11月23日)
第157話 湖東平野の雪野山に登る[2011年11月15日(火)]
11月9日、いつものハイキング仲間9人と湖東平野・独立丘陵の雪野山(標高308.8m)へ登ってきた。JR近江八幡駅から近江鉄道バスに乗車し、約20分川守で下車して竜王寺から登った。
1年前に作成した企画だったので、近江八幡駅のバス停は南口に変っていたし、発車時間も少し早くなっていた。
刈り取られた田んぼの先には目指す雪野山(写真1)の姿がくっきりと見えた。
写真1 目指す雪野山の全容
川守バス停から日野川を渡って10分ほどで竜王寺に着いた。
琵琶湖東岸から琵琶湖に注ぐ川
「新編中学校社会科地図(帝国書院編集部)」で滋賀県の地形を見ると、北西に野坂山地、北東に伊吹山地、東に鈴鹿山脈、南に信楽高原、西には比良山地に囲まれていて、その中に琵琶湖を取り込んだ近江盆地になっている。今回歩いた湖東から、湖南地方は広い平野になっている。
鈴鹿山脈は1000mから1200mの山脈であるが、琵琶湖側は緩やかな傾斜になっている。
日野川の流域面積は約207km2で、鈴鹿山系綿向山(標高1110m)に源を発して竜王町や、近江八幡市の1市5町を貫流して琵琶湖に注いでいる。
写真2 竜王寺近くを流れる日野川
湖東平野には、日野川の他に、野洲川、愛知(えち)川、犬上川などが琵琶湖の注いでいて扇状地や三角州が発達している。
雪野山山頂へ
写真1でわかるように、雪野山は湖東平野の中にあってぽつんと独立した低い山だから、登山道はあちこちにあった。竜王寺から天神社をすぎて、鹿や猪などが平野に侵入しないように設けられたフェンスを開閉して雑木林の山中に入っていた。
案内板で遺跡散策ルートI野寺城跡・竜王山遺跡ルートを示していたが、立ち寄らずに西よりのコースをとって頂上を目指した。
11時に歩き始めてから40分ほどで、あずまやの休憩所がある展望のよい場所に出た。登ってきた反対側は、湖東平野のずっと先に伊吹山などが見えた(写真3)。
写真3雪野山から伊吹山方向を見る
あずまやで一息入れてからもう一つの山へは少し下った後、登ると15分ほどで、標高308.8mの雪野山山頂に着いた。
途中に平成元年夏に発見された「雪野山古墳」があり、「雪野山には5〜7世紀の円墳、前方後円墳などが200基以上築かれており・・・・・・」と解説していた。
この山頂からは琵琶湖が望めたし、下山の途中で東海道新幹線が走行しているのも見えた。琵琶湖の湖面の標高が85.6mだから、登山口で標高100mとしても、約200mの上り下りだから1時半過ぎにはバス停近くにあっけなく着いた。
湖東平野には独立丘陵が何故多いの?
我々のハイキング仲間は歩くのが目的でもあるが、歩いた後の反省会が一段と楽しい。
近江八幡駅には10年ほど前にはあった多くのレストランが様変わりしていて、やむなく京都駅での反省会となった。
雪野山は独立丘陵だが、頂上からみる湖東平野の景色も独立した丘陵が目立ったので、一般的な火山などでできた山なみを見慣れているだけに、平野にぽつんとある山はどうして出来たのが仲間に聞いてみたが、疑問が解けなかった。
話題は元銀行マンだったNさんが、ギリシャやイタリアの財政不安問題を判りやすく解説してくれてにぎやかになり、京都駅近くでもう1軒のはしご酒になった。
昨年5月下旬にジム仲間の友人から「肌寒い日、『伊賀上野』の新緑の野山に古琵琶湖を訪れ400万年前の地層の変遷をたどり往時を偲びました。『伊賀上野』は俳聖松尾芭蕉の生地として有名ですが、もうひとつは地質学的記念の地としてクローズアップされ始めています。同封の『琵琶湖の変遷』の添付ファイル(http://agua.jpn.org/pre/pre3.html)を開いて頂きますと、琵琶湖はもともと『伊賀上野』に存在していました。
日本列島は太平洋プレートのお陰で地層が変動し、この一帯では南側が隆起し琵琶湖は北側へだんだんと移動を続け今日の滋賀県に現在定着しています」と、古琵琶湖公園、マンモスの足跡レプリカなどの写真を添えてメールをくれたことを思い出し、あらためて琵琶湖の変遷を調べて見た。
琵琶湖の変遷
平凡社・世界大百科事典「琵琶湖・地史」によると、琵琶湖はその前身の古琵琶湖の遺存湖ともいえ、それは近江・上野(伊賀)両盆地周辺の丘陵を構成するおもに湖成の古琵琶湖層群の将棋倒し構造から知られる。
古琵琶湖層群の各累層(※)は、湖から南東へ、立ち並べた将棋を押し倒した形に重なり、
最古の鮮新世(約500万年前)の累層が上野盆地に分布する。これは、鮮新世に上野盆地で誕生した古琵琶湖の湖盆(沈降の中心)が、北西方向へ移動していくにつれて、元の湖盆の堆積物も順に陸化し、丘陵化が進んだことを示す。
現在の南湖を含む湖南・湖東地域から約100万年前に、現在の北朝地域へ湖盆が移り、古琵琶湖の消滅=琵琶湖の誕生となる。
琵琶湖の沈降は、沖島(沖之島)西方での現湖底の1400mボーリングで得た800mに及ぶ砂泥質を主とした唯積物からも読みとれる。
琵琶湖の成因は、湖盆の移動という地殻運動に基づくが、その機構は十分解明されていない。ちなみに琵琶湖の成因を断層陥没湖と根拠づけた湖岸沿い断層は、主活動期が約20万〜30万年前で、琵琶湖の誕生後のものにすぎないと考えられる」と説明しいている。
※累層:地層を岩相によって区分するときの基本になる単位層。同一の環境またはある環境の一定の繰り返しのもとで堆積した一連の地層で、上下の層とはっきり区別できるもの。
福地孝宏著「中学科学完全実践教科書・観察でわかる地学(誠文堂新光社)」には、琵琶湖の移動と現在の琵琶湖を図面で示し、移動の証拠として「昔の水の流れた方向を示す古水流方向がある。水底で生まれた砂の堆積層によって確認できる」と説明している。
図1琵琶湖の変遷
同じページの見開きには、「水底で生まれる地層(図2)」で、「大地が削り取られてできた土砂が少しずつ堆積し、長い年月をかけて固い層に変ります、それが、地表に現れたものが地層です。地層は水の底で静かに作られますが、土砂の成分が変化しなければ、1枚の固い層ができたとしても、縞模様になることはありません。
縞を作るためには、地表から成分の違う土砂が流れてくる必要があります。つまり、火山の噴火、隕石の衝突、特定の生物の繁栄等、地表で大きな変化がなければならないのです」と累層の説明をしていた。
三上山はモナドノック
昨日ジムで声を掛けてきたKさんから「最近山へ登っていますか」と聞かれたので、「先週の9日に、308mの雪野山に登ってきた。それにしても湖東平野にはぽつんとできた独立丘陵が多いが、こんな山がどうしてできたのか調べている」と応えたところ、「そういえば、近江富士と呼ばれている三上山も独立した山ですね」と貴重なヒントを得た。
三上山をフリー事典「ウィキペディア」でみると、「平野部の残丘(浸食から取り残され、孤立した丘陵。monadnockモナドノック。)であるため標高の割には目立ち、琵琶湖をはさんだ湖西からでも望める。南西部を安洲川が流れる」と書いていた。
さらに、残丘で検索すると、断層運動や浸食によって、周囲から取り残され孤立した丘のこと。残丘の例として、日本では早池峰山(岩手県)、筑波山(茨城県)讃岐富士(香川県)などは大規模な堅牢残丘である」と飲んだときに出た讃岐富士のこともわかった。
古琵琶湖は500万年前後に南方の伊賀上野付近に誕生し、その後南方から地盤が隆起しだしたため、徐々に北へ移動し40万年前ころに現在の位置に達した。この間滋賀県にも大きな地震が起きているし、数百キロ離れた火山灰が飛んできていることも判明している。
私たち人間が存在する以前からの地殻変動、火山活動、地震、浸食などで長いスパンで今の琵琶湖の地形が作られてきたことがわかった。
三上山や雪野山のような独立丘陵は南方からの地盤の隆起と鈴鹿山脈からの浸食でできたのだろう。
(平成23年11月15日)
第156話 妙見山山頂近くから南西方向を眺めてみれば?[2011年10月29日(土)]
数年前から春と秋の行楽シーズンに、妙見山登山を楽しんでいる。約2時間のハイキングで 登りだけで、帰りは妙見ケーブルで下山する。登った後は、クッキングセンターで焼肉や野菜などのバーベキューと少々のアルコールが、汗を流した後の気持ちの良い楽しみになっている。
秋は10月22日で行程を組んだが、あいにく雨の予報で28日になり、快晴に恵まれ、陽ざしも強く、能勢電鉄妙見口10時に集まったときには、Tシャツだけの軽装でも登りだすと汗が滴り出ていた。
いつもはケーブル沿いの新滝道コースだったが、今回は上杉尾根コースになった。川西市内在住の2人は、このコースを上り下り下ことがあるといっていたが、残り7人は初めてのコースだった。
上杉尾根(稜線展望)コース
妙見口駅から国道477号の信号を渡って直ぐに、上杉池の手前を右折れして直ぐに登山道に入っていく。今まで登ってきた新滝道コースでは階段が整備されているところもあったが、
このコースは地道が山上駐車場まで続き、同じ勾配が長いので一息つく場所が少なく、1時間ほどの登りは少々きつく感じた。
写真1 同じ勾配が続く山道
ところどころに、妙見宮と彫った石塔がところどころに見られたが、妙見ケーブルが昭和35年4月に開業するまでは、この上杉尾根コースが参道だったのだろうか。
ウィキペディア「能勢電鉄」によると、「旧下部線を復活。黒川〜山上間623mで、戦前に妙見鋼索鉄道によって設置された妙見ケーブルを自社線として再開業させた」と書いていた。
尾根筋で南西方向に見えた3つの光る点
頂上に近づくと、緩やかな勾配になってきて尾根筋に出た。ベンチも置いてあって見晴らしのよい絶景場所であった。
木々に覆われた真下には住宅地が見えた。ときわ台、新光風台といった昭和40年代から分譲された団地である。
その山のむこうにわずかに見えている住宅地は、清和台だと教えてくれた。
清和台のさらに奥の山々は中山連山だろうか。
その中山連山の向こうに薄っすらと見える山なみにポッコリとこぶのような丸い山は甲山だ。
写真2 尾根から南西方向を望む
甲山のすぐ左に肉眼で三つの光が見えた。方向から行ってあれだけ高い物は、明石海峡大橋の塔柱だろうということになった。
この写真3では、その光るものが見えていたが、記事を書くために、縮小したらかき消されてしまった。持参した14倍ズームで光る物体を撮ってきた。
妙見山と甲山方向の先は?
帰宅して妙見山、甲山、明石海峡大橋の3つをターゲットにいろんな地図を引っ張り出して直線で結んだのが図1である。
明石海峡大橋と予測していたのだが、その先には六甲アイランドに突き当たっていた。
図1 妙見山と甲山を結んでみる
写真3は、ズームで写したものを、甲山と光る物体に照準を合わせてトリミングしてみた。
甲山の左端に3つの光と薄っすらだが、高層建物と分かる細長い影が写っている。図1の直線の先の六甲アイランドの高層建物だと判断できた。
肉眼では甲山のさらに奥に薄っすらと山なみが見えたが、写真では再現できなかった。
写真3 甲山と三つの光
六甲連山は、西端の明石市、鉢伏(はちぶせ)山(246メートル)から、鉄拐(てっかい)山(236メートル)、高倉山(291メートル)、高取山(320メートル)、再度(ふたたび)山(470メートル)、摩耶(まや)山(702メートル)、主峰の東六甲山(931メートル)と東へ行くにしたがって高くなっているから、肉眼で見えた写真3甲山のさらに奥の六甲連山の、その先の明石海峡大橋の塔柱はこの山に遮られて妙見山の尾根筋からはからは見えないことも分かった。
山頂では秋本番
尾根筋で一息入れたあと、山上駐車場までは、左側の斜面には杉の植林地が広がっていて、その林の中を車1台が通れる作業道が整備されていた。
右側は「台場クヌギ・250m先は行き止まり」などと書かれた標識があって雑木林が広がっていた。
能勢電鉄妙見口駅を10時20分から歩き出して標高660mの山頂には12時前に着いた。山頂付近には能勢妙見宮によって「星嶺」(せいれい)という、能勢妙見宮の紋章をかたどった信徒会館が建てられていて、風変わりな総ガラス張りの礼拝堂の周りは展望が良いので、久しぶりに上がってみた。
この礼拝堂から急な坂道を下ってクッキングセンターまで、近道を通っていった。途中で、見晴らしのよいところに出たら、銀色に輝いたススキが一面に咲いていた。
ススキは秋の七草に数えられていて、別名「尾花」と言うから「ススキは咲くというのだろか」と一瞬迷った。
写真4 一面の広がって咲くススキ
ネットには「花といっても花びらはなく、おしべとめしべだけなのです。ススキは風に吹かれて受粉する風媒花だったのです」と書いていた。
(平成23年10月29日)
第155話 安治川沿いの史跡を訪ねて[2011年10月07日(金)]
第150話、第151のブログ「平洋丸の進水式」で安治川河口の日立造船桜島工場で大型船が進水した話題を取り上げたところ、この安治川沿いで育ち、箕面市在住のU市議からコメントをいただいた。
市民活動の場で付き合いがあり、Uさんの友人で大阪市西区九条の「川沿いを歩ける町づくりの会」のK代表に、九条の史跡を案内してもらう機会をつくってもらった。
江戸時代初期の新田開発から明治のはじめには外国人居留地として開かれた川口エリアをはじめ、旧府庁が置かれるなどした江之子島エリアなどの史跡を訪ねてきた。
九条 川沿いあるきMAP
昔の面影を残す狭い九条の路地裏を抜けて9月30日午後3時にK代表と落ち合った。
当日は雨模様だったが、A3版の「あるきMAP」には、濡れても大丈夫なようにラミネート加工した説明図を準備してもらっていた。
図1 九条 川沿いあるきMAPの一部
この地図は安治川からJR環状線、尻無川、木津川を囲んだ地図で、全体は28の史跡が写真入りで解説付きだったが、本稿では安治川沿いの居留地跡周辺の地図に絞った。
九条村の古地図から
図2は「貞享四年新撰増補大坂大絵図」から九条村を中心に切り取ったものである。
絵図の右側中央辺りは、碁盤の目の町並みが描かれている。当時の大坂は三郷といって大川で南北に二分されていて、北組(絵図●印)、南組(絵図▲印)それ以外は天満組だった。
図2 貞享四年(1687)新撰増補大坂大絵図の一部
本渡 章著「大阪古地図むかし案内」(創元社発行)によると、「大阪平野は大川・尻無用・木津川・中津川・神崎川などの河川がはこぶ土砂が堆積して、面積を広げていった。慶長年間(1569〜1615)の末ごろから、沼沢地や海辺の干拓による新田開発がすすみ、江戸時代にはさらに盛んになって、寛永(1624〜)以後の200余年間で水際線はおよそ4キロメートルものびた。大坂という大都市の形成には、新田の造成が大きく関わっている……
九条島は中津川・大川の河口に発達した砂洲である。もともと南浦とよばれていたが、寛永元年(1624)に幕吏の高西夕雲が幕府に願い出て、地元の池山新兵衛らとともに開発をはじめ、幕府お抱えの儒学者、林羅山が衢壌(くじょう)島と命名した。延宝年間(1673〜1681)この洪水のとき、一本の木笏(モクシャク)※1が漂着し、京都九条家のものと判明したので九条島と字を改めたという……」と、この町の来歴を書いている。
*1木笏……東帯装束の着用に際して威儀を整えるために手に持った板片。長さがほぼ1尺なので、シャクの名になった。
大仏島と古川
安治川沿いを歩いていて「元古川が流れていた場所で橋があったのでその名残だ」とか「大仏島と呼んでいた所です」と説明を受けたが、上記「貞享四年大坂大絵図」には記載されていなくてよくわからなかった。
ネットの検索で「摂津名所図会」の「大仏島」に掲載されていた「文化3年(1803)」の絵図には古川が安治川に平行して流れていて、囲まれたところが大仏島だった。
図3 文化3年(1803)の絵図
その大仏島の川口3辺りでは「富島」の名を冠した会社が目についた。
上記ネットの「大仏島」の説明に「富島(大阪市西区川口3)は、もと大仏島と呼ばれていた。江戸時代三傑僧の一人・公慶が、永禄10年(1567)に焼失した東大寺大仏殿の復興を志し、全国勧進行脚の途中、この地に松庵をむすび付近一帯の浄財寄付を募ったところ、膨大な喜捨※2が集まったので大仏島と呼ばれた。後に「富んだ島」ということから富島に変わったという。古川町とともに元禄16年(1703)大坂三郷のうち天満組に編入された。幕末には萩藩の蔵屋敷もあった」と解説してあった。
※2進んで寺社、僧や貧者に金品を寄付すること
昭和の中頃まで安治川には12ヶ所の渡しがあったそうで、「富島の渡しの跡」の碑が図1のHにある。
安治川開削
安治川の開削で九条の新田開発は進んだが、図1、図2から新川(安治川)がなかったらと絵図を見てみると、九条島が川の流れをふさぐかたちで横たわっていて洪水の一因であり、大坂に出入りする船の運航にとっても障害になっていた。
「安治川と河村瑞賢紀功碑」には「もとの九条島(衛攘島)はデルタ地帯で、たび重なる淀川洪水のため、被害が絶え間なかった。そこで、貞享元年(1684)2月幕府は治水の専門家である河村瑞賢に命じ、九条島を掘り割り、淀川の水を一直線に大阪湾へ導くことにした。4年の歳月を費やして、貞享4年に開削されたのが安治川である。はじめ新川と呼ばれたが、元禄11年(1698 )この地が安らかに治まるように願いをこめて、安治川と改名された」と書いている。
ネットの検索では長さ約3km、幅90mで、貞享元(1684)年2月11日起工、4年余を費やし、貞享4年4月竣工を見た。
この辺りを歩いていると、「海の御堂筋」の幟(のぼり)旗が目についたが、「淀川の水を一直線に大阪湾へ導いた」と言う文言が、一直線に南北を貫く御堂筋になぞられたネーミングだろうかと思った。
安治川沿いの護岸から繋留した船へ行く階段を登って安治川から下流の大阪湾を望んでみた。
写真 安治川左岸から大阪湾を望む
写真の遠くにJR環状線のトラスドランガー橋が小さく見える。
安治川の開削により、大阪湾から直接蔵屋敷に接岸できるようになった中之島や堂島には蔵屋敷が増えていった。
大坂蔵屋敷表(天保14年)によると、125の蔵屋敷のうち、中之島に42、堂島附下福島23の蔵屋敷があって、数多くの船が往来していたことがうかがえる。
治水目的で作られた安治川は、水運の発達で町は繁栄したが、治水では目立った効果は得られなかったようだ。
安治川開削から20年後の1704年2月に起工し、柏原から堺の間約14.5kmに新しい流路を開削する大和川付替工事が8ヶ月で完成した。これで、河内平野は、大和川からの洪水から解放された(大阪府「治水のあゆみ」から)。
河村瑞賢
河村瑞賢が治水の専門家になるまでを、中央公論社「日本の歴史16」で調べてみた。
要約すると「瑞賢の父の代までは伊勢の国司北畠氏に仕え、北畠氏が信長に滅ぼされたのちは蒲生氏郷に仕えていたという。生まれつき利発な子で、片田舎にうもれさすのは惜しいと思ったか、父は二、三分の金を与えて江戸へくだらせた。6、7年間働いたが、日の目を見なかった。
大坂は天下の台所、ここへは諸方から人が集まって成功していると聞いて小田原まで行ったとき、一老人が、『江戸には天下の武士が集まっていて諸国の金銀がたえまもなく流れこんでいる。人の気性も大きく、金づかいもはでである。大坂は商業が盛んだといっても江戸とは比べられない。また上方の人は、はでな使い方をしないから、いっきょにもうけることはできない。江戸を去るのは愚かなことだ』と諭された。
江戸に戻って日雇頭として働き、人足の口入れ稼業を始め、材木屋までなった。才能のすぐれた人であったから、多数の者が入りこんで、手足を働かせ知恵をめぐらせているなかで、しだいに頭角をあらわしたのだろう」と書いている。
世界大百科事典(平凡社発行)によると、「江戸の明暦の大火に際し、木曾山林を買占め莫大な資産を作ったという。さらに土建業を営み、幕府や諸大名の工事を請け負った。
1670年(寛文10)幕府より奥州信夫郡の幕領米数万石を江戸に回漕するように命ぜられた。瑞賢は沿岸を現地踏査し、刷新的回漕策でこれを行い、さらに72年に、出羽国村山郡の幕領米の江戸回漕にも従事し、房総半島を迂回する東廻航路(東廻り海運)と日本海沿岸より下関、大坂経由の西廻り航路を確立した」という。
安治川開削でにぎわった九条
図1のDは川口運上所跡・川口電信局跡で、「慶応3年(1867)この地に大阪税関の前身である川口運上所が設置され、外国事務や税関事務を取り扱っていた。明治3年川口運上所内に川口電話局が開設され頭まで電話線が架設された。
これは日本最初の電話線であり、大阪電信の発祥の地である」と説明書きの横に居留地付近の地図があった。
図4 川口居留地付近の地図
図4は明治時代の地図だろうが、地形そのものは大きく変っていないなかで、当時は大阪府庁や警察、大阪市江之子島庁舎など官庁街であったことがわかる。
このほか、プール女学院跡、現大阪女学院跡、現平安女学院跡、桃山学院跡、雑喉場魚市場跡など案内してもらった。
かつてにぎわっていた九条界隈は、高層マンションの建設など都心回帰で人口増加率が高いという。
9月に大阪市内街並み再発見でハイキング仲間と空堀通り付近を散策してきた。
今回は九条界隈に生まれて70年近く暮らしてこられたK代表に、同行してもらって史跡を解説までしていただいた。充実した「街並み再発見」の午後だった。
(平成23年10月7日)
第154話 秋の気配[2011年09月28日(水)]
暑かった今年の夏も台風15号が9月21日未明から日本列島を北上した後、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、すっかり秋めいてきた。
9月24日、第四週目の土曜日は「箕面だんだんクラブ」の活動日で、清々しい快晴日だったこともあって、24人が参加した。
山では未だ夏の名残が!
毎年年末には市民参加の植林を実施しているが、今年は12月11日の日曜日に予定している。今年の植林場所は、花見山の西側の斜面で、「小鳥の水場」の斜面を北へ登った辺りである。
この周辺で作業をするのは、半年振りくらいだろうか。久しぶりにきつい山道をあえぎながら登っていった。
秋の彼岸中日も過ぎたので、「『体験学習の森』の山なみの秋の気配はどうだろうか」と観察しながら歩いてみた。
活動拠点の「豚汁広場」を少し登った治山用砂防ダム周辺は、季節変化を感じる撮影ポイントとしている場所である。
写真1 未だ夏の名残のダム湖周辺
この水辺には秋が深まるとともに白い花のノギクが咲きそろい、中洲にはススキの白い穂が一面にみえてくるが、写真1でみるように穂が出てきたばかりだし、周辺の木々も青々としていて、夏の名残をとどめていた。
以前にNさんから、秋になるとこのあたりに咲く白い菊に似た花は「ヨメナだろう」と教えてもらったことがある。
写真2は、「もりもり園地」を少し登った辺りに春先に咲く「シャガ」である。今年の冬は山にシカの食べ物が少なかったせいか、このあたりのシャガの葉っぱはほとんど食いちぎられていて、シカの口先が届かない急斜面にわずかに咲いているだけだった。
今は青々と茂っていて葉っぱがびっしりとつまっている。
花が咲く3月頃には、またシカが「食べ物がなくてひもじくてシャーガない(ある)ので、シャガの葉っぱで我慢するか」と食い荒らすことになるだろう。
写真2 生い茂ったシャガの葉
ダンロボロギク
急な坂道をどんどん登っていくと、ウリハダカエデやヤマザクラの木陰のあたりは、あまり陽が差し込まないので、草も生えていなかったが、「小鳥の水場」辺りでは、間伐して3年前に植樹した場所なので明るく開けた場所になっている。
久しぶりに見たこの辺りは、場所によってシダが密集して生えていた。
タンポポの綿毛に似た背の高い雑草も目立っていた。今頃タンポポではあるまいと思ってNさんに聞くと「ダンロボロギク」だと教えてくれた。
写真3 白い綿毛が飛んでいるダンドボロギク
「日本の野草・秋(Gakkennフィールドベスト図鑑)」によると、「山林の伐採跡や荒れ地などに生える。愛知県の段戸山で最初に帰化が発見されたことからこの名がある。
戦後に急速に広がり,アメリカでは山火事の跡によく生え、fire weed(火の草)と呼ばれる。
ベニバナボロギクに似るが、本種は花が上向きに咲くのが相違点」と書いていた。
3年前に植えたクヌギ
2008年12月に「小鳥の水場」付近に植樹したクヌギは、写真4で見るように、1.5メートルのヘキサチューブ(植生保護管)から顔を2倍近く出して成長していた。
写真4 3年前に植えたクヌギ
この辺りは、植生保護管でチューブ内部の保湿効果により、異常気象等による乾燥から苗木を守り、風による強制蒸散を防ぐ上に、陽あたりの良い斜面になっているので、特に、成長が早いのだろう。
箕面の市街地では
アイランド民謡の「夏の名残のバラ」ではないが、山では未だ「夏名残のダンドボロギク」だった。
里(箕面の市街地)では写真5で見るように、側溝と垣根のわずかな空地にヒガンバナが満開になっていた。
写真5 満開のヒガンバナ(2011年9月25日撮影)
今後の作業予定
10月4日の火曜日(予備日10月5日)には、箕面市社会福祉法人あかつき特別養護老人ホーム内の竹林および果樹園の間伐、草刈、保全、整理を予定している。
2004年3月から、「箕面だんだんクラブ」のボランティア活動の一環として無償で引き受けて今日に至っている(年に4日〜6日)。
12月11日の日曜日には、毎年市民参加で植樹を予定しているので、10月からの活動日には竹炭や木のほかに、植樹場所の作業道を作り、植樹する場所付近の整地が主な作業となる。
(平成23年9月28日)
第153話 「第19回メキシコ文化の夕べ」に参加して[2011年09月25日(日)]
毎年9月には「箕面メキシコ友の会」の主催、箕面市国際交流協会共催で「メキシコ文化の夕べ」が開催されているが、今年は第19回で、9月22日に箕面市グリーンホールで開催された。
近所の教授から誘われたのがきっかけで今年は4回目の参加になった。
日本とメキシコの交流
外務省のホームページで見てみると、「1609年9月、フィリピン諸島総督ロドリゴ・デ・ビベロを長とする一団の船は、ヌエバ・エスパーニャ(当時のスペイン領メキシコ)への帰国途中、千葉県御宿沖で遭難し、村人の献身的な救助により、乗組員317人が救出されました。ビベロ一行は地元城主や村人からの暖かい歓迎を受け、その後、徳川秀忠及び徳川家康に謁見しました。
翌年、徳川家康がビベロ帰国のため造らせた船はメキシコに向けて出航。ビベロと共に渡航した京の商人田中勝介他20数名の日本人は、メキシコを訪問した最初の日本人となりました
我が国の時の為政者とメキシコからの政府高官が対面し、初めての会談が行われた意義は大きく、2009年はそれから400年目にあたります」と紹介されている。
箕面市とメキシコとの交流
「箕面メキシコ友の会のプロフィール」によると、箕面市国際交流協会が1992年からメキシコ・クエルナバカ市にあるモレロス大学で日本語を学ぶ学生たちを、毎年箕面での日本語学習のため受け入れてきたことに始まるという。このプログラムを生活面で支えるホストファミリーから、「箕面メキシコ友の会」を作って発展してきた。
メキシコの国土は196万4375平方キロメートルというから、日本の国土面積37万8千平方キロメートルの5倍強もある。
国土の大部分は山地と広大な高原からなるが、クエルナバカ市は、首都メキシコ・シティーの南方のモレロス州の州都である。そのモレロス大学で日本語と日本文化の教鞭をとられていた深原先生が箕面市在住で、大阪外国語大学(現在は大阪大学・外国語学部)が箕面市にあるという好条件がきっかけで、今日に至っているという。今年は箕面―クエルナバカ国際友好都市提携8周年になる。
Alejandro Lazzariniさんの独唱
開会の後、特別番組「ハリスコ州の蛮刀 踊り」に続いて、メキシコ・ハリスコ州出身のバリトン歌手Alejandro Lazzariniさんの協賛出演で独唱があったが、遅れて入場したために聞くことができなかった。
第3部市民交流ダンスパーティー“マリアチで踊ろう”で孫たち2人が大柄のメキシコ人とステップを教えてもらいながら、手を繋いで最後まで相手をしてもらったのが、Alejandro Lazzariniさんだと終演後に知人から聞いた。
写真1 バリトン歌手と踊った孫たち
プロフィールには「メキシコ・ハリスコ州在住の音楽家。1997年からメキシコ内外の各種音楽会で活躍している著名なバリトン歌手。2004年、在東京メキシコ大使館の招聘で来日し、日本各地で歌う。現在ハリスコ州コーラスチームディレクター」と紹介されていた。
メキシカン・ マリンバ演奏
プログラムは三部構成で第二部は毎年「マリアチ・アガベ」のマリアチ演奏だが、第一部は毎年メキシコ文化を紹介するプログラムが組まれている。
一昨年はメキシカン・ダンスグループの「メキシコ民族舞踊」で、昨年は「メキシコ・ラサイエ大学音楽隊」の演奏だった。
今年はメキシカン・マリンバの演奏だった。マリンバと言うと木琴の親玉で軟らかい音色を奏でてくれるくらいの理解しかなかった。
演奏は古徳景子と“Paax・Percussion”で、「メキシカン・マリンパとクラシックマリンバの双方の音色を、多彩に響かせ、描くのが特徴。PaaX(パックス)の意味は、マヤの言葉で『音楽家たち』。メキシカン・マリンバの聖地チアパスから、マリンバの響きを世界に発信している」と紹介していた。
写真2 メキシカン・マリンバの演奏
フリー事典「ウィキペディア」の「マリンバ」には、「同じ木琴の一種であるシロフォンと同様の構造であるが、シロフォンよりも鍵盤が広く厚く造られており、深みのある音色を表現できる。
さらに、鍵盤の下部に各音階によって長さを変えた共鳴用の金属管が設けられており、その下端を閉じることにより、鍵盤の音に共鳴し増幅させる。それにより、さらに豊かな音色となる……マリンバの源はアフリカにあると言われ・・・・・・現在の形のマリンバが生まれたのは、19世紀後半、グアテマラ(メキシコの南隣りの国)であると言われている。またメキシコ等南米でもマリンバが古くから演奏されており、メキシカン・マリンバとして民族音楽のスタイルを形成している」と説明している。
パーカッションのリーダー古徳景子さん自身が作曲という「希望の地」の演奏を聞いていると、豊かな音色に凄い迫力を感じた。
写真3 「希望の地」を演奏中
古徳景子さんのプロフィールには、「東京芸術大学卒業。ボストン音楽院ディプロマコースを経て、スウェーデン国立ピテオ音楽大学院演奏首席修了。現在、メキシコ・チアパス州立芸術科学大学(UNICACH)准教授」と紹介されている。
「マリアチ・アガベ」の演奏
第三部で、市民参加で“マリアチで踊ろう”の演奏が「マリアチ・アガベ」であり、例年このメンバー6人で演奏するのだが、今年は病気だろうか1名(バイオリン奏者)欠けて5人だった。
写真4 手拍子を入れてマリアチ・アガベの演奏
今回は会場が広かったこともあって、今年は観客席の最上段から演奏しながら下りてきて、拍手に迎えられながら舞台に上がっていった。
メキシコの代表的な唄「ラ・マラグェニア」や「シェリト・リンド」「ラ・バンバ」といった馴染みの曲に、美空ひばりの「川の流れのように」をマリアチスタイルで演奏したのは昨年と同じだったが、今年は長渕剛の「乾杯」が加わった。
美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」は、日頃は彼女のしんみりした哀調のある歌声で聞くことが多いだけに、陽気でにぎやかな演奏と、やや訛りが交じった日本語では、曲のイメージとは違った感じがした。
長渕剛の「乾杯」は、「地元の友人が結婚すると聞いた長渕が、友人への祝福のために書いた、人生の節目に置かれた人間に対する応援歌」といわれているだけに、トランペットやアコーディオン、ギターなどでにぎやかに演奏し、声高らかにうたいあげ、なかなかに聞かせてくれた。
マリアチで踊ろう
第三部の市民参加の交流ダンスパーティーは、第二部でマリアチを演奏していた“マリアチ・アガベ”が、引き続きマリアチの演奏を始めると、この晴れ舞台のためにやってきたと風にたちまち舞台に上がって踊り始めた。
40人以上の市民参加の人たちに、演奏した人たちも加わってにぎやかで陽気に踊りを楽しむ舞台になっていった。
写真5 マリアチを踊る人たち
帰り際に近所の人に出会ったとき、「ラテン音楽は陽気でにぎやかでいいですね」と話しかけられた。
確かに「メキシコ文化の夕べ」に参加した過去4回を振り返ってみてそういった感想が出てくる。
翌日我が家で娘婿二人と飲みながら出来上がった写真を見せ、ラテン音楽の話が出た。
確かに陽気でにぎやかな音楽というイメージが強いが、メキシコ音楽にもメキシコオリンピックの閉会式で演奏されたという「ラ・ゴロンドリーナ(つばめ)」は哀愁を帯びた曲調で、日本の「蛍の光」といわれている曲の方もあり、好きな曲だと紹介しておいた。
リクエストを言えるなら、来年は最後に「ラ・ゴロンドリーナ」で締めくくってほしいいと思った。
(平成23年9月25日)
第152話 「戦没した船と海員の資料館」を訪ねて[2011年09月21日(水)]
前々回で「第150話平洋丸の進水式」、前回には「第151話 平洋丸の進水式(その2)」を公開したが、友人からのコメントを参考に戦時化の徴用船についてもう少し詳しく調べることにした。
戦時徴用船などを検索していると、「戦没した船と海員の資料館」が神戸元町の「全日本海員組合関西支部」内に展示されていることを知ったので、9月15日に見学してきた。
国道2号線沿いに面した海岸通3丁目の資料館を入ると、「日本海員組合記念碑(写真1)」と右の壁には船舵(rudder)が飾られていた。
写真1 日本海員組合記念碑
その記念碑には初代組合長楢崎猪太郎氏が大正十四年に私財を以って購入し、寄付されたことなどが書いてあった。
その経歴を見ると、「1865〜1932 明治・昭和時代前期の労働運動家。元治(げんじ)2年2月20日生まれ。明治20年三井物産船舶部にはいり、船長、監督。のち満鉄大連埠頭事務所長、海員協会専務理事を歴任。大正10年日本海員組合を結成し,初代組合長となる」と書いていた。
海に墓標を 海員不戦の誓い
展示室で「日本は周りを海に囲まれた国です。その上資源の少ない国土ですので、食料品から石油燃料、鉄の原料など、様々な物資を外国から輸入して経済を維持しています。
1941年から1945年にかけて、日本がアメリカ・イギリス・中国・オランダなど、世界の多くの国と戦った第二次世界大戦は、こうした認識を忘れた無謀な戦争だったのです。
このため沢山の船が、戦争の犠牲になりました。戦争が終わった時、政府が発表した被害の総額は、官・民一般汽船3575隻、機帆船2070隻、漁船1595隻(計7240隻)などとなっています。
この資料館には、これらの船の在りし日の写真を展示しております」と資料館の主旨を書いた案内書をもらった。
第一展示室には戦没した徴用船の写真が壁面にびっしりと展示されていた。
持ち帰って読んだ「さいべりあ丸(日本海汽船)セブ島残留船員の帰還報告・新谷英一著」に気になる文があった。
「由来軍公用船々員は、何処までも軍属であった。船長であろうが何であろうが、軍はそんなことは問わないのである。戦局の進展につれ、多少の考慮は払われた様だが、それは飽まで必要に迫られたことで、根本概念においては少しも変ってはいなかった。軍人、軍馬、軍犬、鳩、軍属と当時は小さい声でしか云えなかったのだが、とに角最低位の中でも、直属の軍属は外様(否三等軍属)の船員に対し威張ったものである・・・・・・」
展示室の片隅に「或る機関長の雄叫び」
「商船乗りは日章旗のもとでは死すとも
軍艦旗のもとでは死なじ」
が貼ってあった。
戦中派で直接戦争体験のない筆者にも、軍の勝手な都合で徴用船にされ、軍属という民間人に対して虐げられた扱いの船乗りの雄叫びに理解できた。
この館のスタッフの説明によると、軍艦以外の徴用船7240隻の88%が沈められ、海員は60,600人が犠牲になったが、死亡率は43%で、陸軍の23%、海軍の18%に比し、多くの徴用された船員が犠牲になっている。
第151話で、友人が教えてくれた「米軍が食料や弾薬の補給、即ちロジスティックスを最重要と考えたのに対し、日本軍は比較的軽視の傾向にありました」というコメントを裏付けたものといえる。
護送船団
ロジスティクスとは、「元来、軍事用語であり、軍隊の装備品、糧食などの軍事品の調達、供給に関する軍事科学である兵站(へいたん)術、およびその具体的運営を意味している(小学館・日本大百科全書)」と書いている。
ウキペディア(フリー百科事典)の「護送船団」の「第二次世界大戦(太平洋)」によると、「太平洋戦線においては、日本軍による通商破壊活動は不活発であったが、他方、アメリカ軍による日本に対する通商破壊活動は戦争後期以降、極めて活発であったために、日本軍が護送船団を組織している。
戦争前半においては、アメリカ海軍の潜水艦は魚雷の不調もあり、通商破壊活動をあまり行わなかった。戦争中期以降、ガトー級潜水艦の大量就役や魚雷の改善が進むと、航空機も加わっての活発な通商破壊活動を行うようになった。対する日本軍は、戦争前期には商船・輸送船などの喪失が極めて少なかったことから、上陸作戦時を除き、護送船団はほとんど組織していなかった。
その後、商船などの被害が急増するにつれ、護衛船団の必要性を認識し、1943年(昭和18年)11月15日に海軍内に海上護衛総司令部(海上護衛総隊・海護総隊)を設置し、通商活動におけるものも含む船団護衛に乗り出している。
しかし、日本の船団護衛は、駆逐艦・海防艦をはじめとする護衛艦艇の絶対数の不足、レーダーやソナー、対潜前投兵器などの対潜装備の能力不足、そしてアメリカ軍の攻撃力の大きさのために失敗に終わっている」と説明している。
戦争末期になってやっとロジスティクスの重要性を認識するようになったようだ。
第二図南丸
戦後の食糧難の時期、学校給食に鯨肉が出てきても、筆者には匂い等で食べにくかったことと共に、「図南丸(となんまる)」が捕鯨船として南氷洋で活躍していたことの記憶がある。
先の平洋丸や平安丸とともに、第二図南丸の進水式の記念絵葉書が出てきた。この船は日本水産の所属の捕鯨母船として活躍し、漁閑期には北米から海軍用石油の輸入に用いられた。
写真2 第二図南丸進水記念絵葉書
写真3 第二図南丸進水記念絵葉書
新聞記事文庫 造船業(07-023)・大阪朝日新聞 夕刊 1937.5.4(昭和12)、データ作成神戸大学付属図書館によると、
「科学の全智嚢と最新技術を挙げて行われんとする世界無比を誇る最新鋭超弩級捕鯨母船日本水産『図南丸』第二世の古今未曾有の河中進水式はいよいよ来る十一日に行われるが、当日は臨時列車が運転されるというほどの物凄さで、何ぶんにも2万トン級の大船が狭い川の中への進水式というので一般からも極めて注目されている」と当時の様子を報道している。
第二図南丸(19262総トン)は、当時商船として日本最大であった。昭和16年11月に海軍に徴用され、第三図南丸と同様の任務に従事した。
第二図南丸は昭和19年8月22日、舟山列島付近の北緯29−53、東経125−17において、米潜水艦の雷撃で沈没した。
戦前の日本捕鯨の期待を担ってきた巨大捕鯨母船は、本来の捕鯨母船と言う役割ではなく、単なる油槽船としてその短い生涯を閉じた。
商船が戦時下、軍のために徴用された船員は軍の横暴で虐げられ、軍人より20%強も多くの犠牲者が出した。「海に墓標を 海員不戦の誓い」を噛み締めながら資料館をあとにした。
(平成23年9月21日)