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第125話 竹の開花現象[2009年04月30日(木)]


 昨年千里丘陵の竹やぶで間伐していたところ、モウソウチクに花が咲いたあとの稲穂のような竹が見つかったそうです。このことを箕面だんだんクラブのNさんに話したところ、2、3年前に能勢でモウソウチクの花が咲いているのを見たというのです。

 上田弘一郎博士は「マダケでは、記録などから見ると120年前後と推定できる。60年周期説もあるが、この場合、同一人の目で確認できるはずだが、その報告のないことが気がかりである。ここで気をつけたいのは、開花した竹林の中で、そのとき咲かなかった一部のタケが後になって開花したとき、もとの大開花との間隔年数は周期といえないことである」といわれています。

 マダケの開花が60年周期としても、花が咲くのは珍しいことです。竹の開花現象について調べてみました。


モウソウチクに花が咲いた!

 モウソウチクは10メートル以上の高さに葉が茂っていますから、花が咲いたといってもなかなか見つけられるものではありません。たまたま竹林の間伐作業をしたところ、その間伐した竹の中の1本は写真1のようになっていて花が咲いたあとのようでした。



写真1上段:間伐したモウソウチクの全体

  
 中段:近づいてみた竹の花

下段:接写した竹の花


 竹の花と稲穂で検索してみると、三田市の農家の敷地内に「2007年6月中旬にマダケの花を咲かせているのを発見。同月下旬には、花が稲穂のような形で節々から横方向に伸び、満開」になり、兵庫県立人と自然の博物館で展示されていたと神戸新聞に掲載されていたようです。

モウソウチクの花

 世界大百科事典で「竹」を調べてみると、「花の形態からはイネ科に所属されるが、栄養器官の特殊性を重要視する意見によれば、タケ科として独立させられる。タケは単子葉植物でありながら、稈(茎をさす)が木質で多年生になる特異な生活型を有し、また葉に葉柄があって葉鞘(ようしょう)につながり、主として地下茎で無性的に繁殖し、開花はきわめてまれである」と書いています。

 「花の形態からはイネ科」とあるので、イネの花を「イネの一生」(守矢 登 著 あかね書房)から引用しました。




写真2:イネの花(イネの一生から)


 モウソウチクの花は「もうそうちくのおやこ」(甲斐 信枝 作、福音館書店)の絵本から引用しました。



写真3:モウソウチクの花(「もうそうちくのおやこ」から)から


 上田博士の「竹と暮らし(小学館創造選書)に、「竹やササの花は、たいてい6〜7月ころに咲き、イネの花に似て花弁がないので地味で、雄しべが外にぶら下がり、なかに雌しべがある。
 日本に広く育っているモウソウチクは、二百数十年まえに中国から渡来したといわれている。この竹の開花には、今まではマダケのような一斉的な全面開花とちがい、部分的に点々と咲く程度であった。

 ところが大正元年(1912年)にモウソウチクの部分開花のとき、横浜市郊外で種子をとって播き、生えた実生苗を植えつけ、その後に京都大学演習林の上賀茂試験地に分植したところ、その子孫が昭和54年(1979年)に、横浜市郊外の親元と共に、同時に、すべての竹に花が咲いて枯れたのである。
 竹林の竹のすべてが咲いたのは、はじめての珍しい現象で、この間隔が67年に当たる。これが周期といえるかどうかは、今のところわからない」と書いておられます。


マダケの花

 上田弘一郎博士の「竹のはなし(PH研究所)」によると、「竹に花が咲くとたいてい枯れてしまう。これは竹にとって大きな災難といわねばならない。竹はふだん地下茎の芽が大きくなって竹になり殖えていく。
 つまり、からだの一部分がふくれて竹になり、無性的に殖えていくのである。だから花を咲かせなくても子孫を殖やしていけるのに、稀に花を咲かせ、しかも枯れてしまう。じつにミステリーに富んだ出来事である・・・・・・

 日本に広く育てられている有用なマダケは、過去の記録から見ると、およそ120年目に1回花を咲かせることになる。昭和40年から43年ごろにかけて全国のマダケ林がみんな一斉に花を咲かせて、竹も地下茎も枯れてしまった。枯れたマダケの数は、じつに7億本をこえ、大きな災害であった。そして花が咲いても実をむすばなかった。

 これでは子孫全滅かと心配された一大事件である。ところが幸いに再起が見られたのである。すなわち花が咲くと、地下茎は2〜3年間生きていて、そのあいだに、小さいササのような若竹を出し、それがもとになって、だんだん太り地下茎と花の咲かない大きな若竹を出してよみがえり子孫が殖えてきた。そして十年もたたないうちに、もとの大きさの、花の咲かない竹林に復活した。

 いわばマダケの一斉的な開花に伴う枯死は、竹にとっては、たいへんな災難であったが、地下茎をもとにして、花の咲かない竹を出して再び立ち上がることができた。この再起力には心をうたれるものがある」と書いておられます。


 そのマダケの花が朝日百科「世界の植物・種子植物[」にカラー写真で掲載されていましたので、引用しました。
「円筒形で、長さ4センチから10センチ。10片前後の重なりあった包のなかには、数個の小穂がある。雄しべは3個」と解説しています。




写真4 マダケの花穂(撮影 矢野 勇)


メロカンナの実

 昨年7月の「さとやまSTEP UP研修」の竹林の講義の中で、京都大学フィールド科学教育研究センター柴田昌三教授が、インド・ミゾラム地方に出向いて、インド原産の竹類、メロカンナの開花の調査をされたときの話を聞きました。

 今回「竹の花」の資料を調べた中で、上記「朝日百科」の中で上田博士が、インド原産のタケ・ササ類のメロカンナのことを書いておられましたので、引用してみました。
 「この種は、花はめったに咲かないが、開花したときには穂に種子はつかず、その枝の別な部分にイチジクの実くらいのいわゆるむかごがつく。これが成長して、やがて地表に落下し、根を出して若竹となるのである。地下茎の伸び方は連軸型だが、1メートルも伸びるので、地上では稈がばらばらに立つ。

 1959年インドのアッサム、そして1961年に東パキスタン(現バングラディシュ)のカルナフーリーを旅したが、このときメロカンナ・バッキフェラの開花その他をつぶさに調査する機会に恵まれた。
 日本のマダケに似ていて、稈の肉が薄く、直径は3センチから8センチぐらいだが、葉は大きく、筍は連軸的に夏ごろ出る。インド、バングラディシュのほか、ビルマの奥地つづきに広く分布し、パルプ材として利用されている」。




写真5 メロカンナの実(朝日百科より)


竹の花が咲くと不吉の前触れか?

 上田博士は、先の著書の中で「竹やササに花が咲くと、たいてい枯れるので、開花病だといったり、不吉の前ぶれだと、今でもいうものがある。あるいは病気と早合点してあわてて薬剤を散布したとのエピソードがある・・・・・・。竹の開花枯死は生理現象であるのに、これだけ誤解のあることは放任できない」といわれています。

 また、「ものと人間の文化史10『竹』(室井 尺〈博〉法政大学出版局)のなかで「昭和45年は関西、四国、九州のネザサの大開花があり、全面的に開花枯死した。この奇現象をめぐって各新聞、テレビ、ラジオなどを通じて豊凶の両説がとび出したが、いったいどういうことであろうか。

 古く延書式などでは豊年の兆といったが、後には凶作の前兆というように傾いてきた。
 しかし、昭和45年度はあれほどネザサが開花枯死したのに有史以来4番目の豊作ということであるし、さらに、2、3年らい各地にマダケがさかんに開花するが、ここ数年らいまれにみる豊作である。こうしたことから凶作説も薄らぎ、むしろ豊作説へかたむいたことであろう」と書いておられます。

 竹に関する文献を引用しながら、めったに見ることのできない竹の開花現象についてまとめてみました。
 上記に書いたように、竹の花が咲くとたいてい枯れてしまいます。竹の開花現象をまとめたのを機に、私が担当してきたブログも枯れて(閉じて)しまうことにしました。

 マダケの枯れた竹林が10年も待たずに元の竹林に復活したように、いつの日か再起したいと考えています。そのときは、今まで書いてきたような長々とした記事でなく、簡潔で枯れた味わいのある記事が書けるように励みたいと思っています。
 
 いままで、公開した記事を読んでいただいた皆さん、さらにコメントまでいただいてきた方々、大いに励みになりました。
 また、下書きの原稿に意見をいただき、話題や資料等を提供していただきたりして、何とか第125話までたどり着きました。

 心より感謝申し上げます。ありがとうございました。


(平成21年4月30日)


追伸 

 5月5日から、個人ブログの方で四季折々の話題を書き始めました。
箕面だんだんクラブの個人ブログのタイトルは「四季折々」です。
アドレスは「http://blog.canpan.info/masataka/archive/2」です。

よろしくお願いします。
第124話 年輪[2009年04月21日(火)]


 4月19日の朝、NHKラジオ第一放送「歌の日曜散歩」で、北島三郎の「年輪」が流れていました。その歌詞の「苦労 年輪 樹は育つ」と最後のフレーズが耳に残っています。
 ところで、今年に入ってから「体験学習の森」の活動では、以前から問題になっていた松枯れ被害による樹齢50年以上の松の木を本格的に伐採し始めました。
写真1は4月4日の活動日で切り倒した松の木を処理したあとの休憩のひとときを写したものです。




写真1 伐採した松の木(09年4月4日撮影)


  伐採した松の木は、運び出しが困難なので、この森では適当な寸法に切って現地で朽ちていくのを松?(待つ)などの処理しかないようです。
 こうして伐採したたくさん松の切断面を見るにつけ、そこに現れた年輪が気になります。そこで、年輪に関する話題を集めてみました。


年輪とは

  平凡社の世界大百科事典で年輪を見ると、「肥大生長をして材をつくる木本植物の場合、形成層のはたらきによって茎の肥大生長が行われる。植物のあらゆる活動の例にもれず、形成層のはたらきも外界の影響などによって左右される。特に気温の高い夏季に活発になり、冬季にはそのはたらきが鈍るのが特徴的である。このため、でき上がった茎をみると、形成層のはたらきが活発であった時期に、つくられた細胞も大きく、生長量の大きい部分と、逆に生長量が小さくて小さな細胞が詰まっている部分の差がはっきりしている。

 前者を春材spring wood,後者を秋材fall woodと呼ぶが,これら1対で1年分の生長量が示され、材には春材と秋材が交互にみられるため、各年における生長量を確かめることができる。このように材の断面に環状に表れる模様を年輪という。年輪は茎にはっきりみられるが、根でも認めることができる」と説明しています。


形成層

 上記の説明で出てくる形成層をもう少しわかりやすく知るために「木のびっくり100話:に本木材学会編、講談社2005年5月21日第1刷発行」の「5.死ぬことで長生き!!」の中で「木は細胞の死骸の集まり」を調べてみました。




図−1 樹幹の構成図(木のびっくり話100より引用)


  図−1の樹幹の構成図では、「樹木の幹は、木部(年輪の部分)と、それを取り囲む樹皮とに分かれ、そのあいだにある形成層とよばれる組織で、細胞分裂によって新しい細胞がどんどん生産されています。形成層より髄(ずい)側(内側)に生まれた細胞は、伸長した後、二次壁とよばれる厚い細胞壁を堆積して、やがて死にます。

 このくり返しで木部は太っていくわけですが、別の言い方をすると、木は『細長い細胞の死骸の集合体』。抜け殻である細胞壁しか残っておらず、中身は空っぽです。ただ、隣り合った細胞とは小さな穴が通じているため、水分の行き来が可能で、また、木部の細胞は死ぬ前にリグニンという物質を細胞壁に沈着させ、水がしみ込んでいかないような性質にするため、効率よく水を運搬することができるのです」と説明しています。


 そして、「樹木のなかには100メートル以上に成長し、何千年もの風雪に耐え、生きつづけるものがあります。それを可能にしたのは、植物が長い進化の過程で、巨体を支える強度と、根から葉まで水を効率よく運ぶ機能、腐りにくい性質「木部」(年輪の部分)を獲得したからです」と解説しています。

 年輪年代法

 今から5年ほど前に年鳥取県・倉吉の三仏寺投入堂を訪れたとき、本尊蔵王権現像の建立年代が年輪年代測定法で判明したと、境内に書いてありました。
 蔵王権現像の胎内の造立願文に記されている年代1168年と像を年輪年代法で測定した年代とほぼ一致していることが科学的に証明されたそうです。
 新聞でも、「東大寺仁王像の主要木材は完成二年前の1201年産ヒノキだった」ことが判明しています。

 年輪年代法は、「毎年形成される樹木の年輪は、年々の生育環境の差異を反映して、その幅に広狭の差が生じる。多数の資料に基づいて、この年輪幅を過去にさかのぼって測定し、標準とする年輪変動曲線が作成できれば、伐採年代不明の資料の年輪幅を測定し、その変動曲線パターンと合致する部分を棲準変動曲線のなかで見いだすことによって、その資料の年代の推定が可能になる。これが年輪年代法の原理である・・・・・・

 この原理は、20世紀初頭、アメリカ合衆国の天文学者A.E.ダグラスが太陽の黒点活動と気候変化の周期性の関係を過去にさかのぼって追求する方法を探索中に発見したものである。その後、アメリカの西部地方で研究が進められ、アリゾナ大学に年輪研究所が設置されて研究の中心となっている。またダグラスの研究に刺激されて、1930年代以降ヨーロッパでも研究が開始され、現在では20ヵ国以上で研究が進められている」(平凡社:世界大百科事典から)。

 上記事典の続きには、現在アメリカでは8200年前まで、西ドイツでは6700年前まで、アイルランドでは2000年前までの標準年輪変動曲線が完成しています。

 微細な環境条件の変化が認められる日本では、その実施を問題視する考えが強かったが、1970年代後半から、現生樹木あるいは奈良県下の遺跡、とくに藤原宮跡や平城宮跡からの出土品によって、それが可能なことが実証され、西暦紀元以降の標準年輪変動曲線も完成直前にあり、その応用研究も開始されつつあるそうです。


切り株から方向がわかるか

 伐採した松丸太をみると、根元の年輪の数と上方とは年輪の数が違うのは当然です。柱の上下を見分けるのに、上下の年輪数を数えて多い方が柱の下になります。

 豚汁広場では、杉丸太を60センチほどに切りそろえて、椅子として利用しています。その座る面は年輪(写真2)が現れています。




写真2上段:下方の年輪巾が密になっている杉丸太

下段:枝分かれして2つの年輪が入った杉丸太


 写真2下段では、杉が途中で枝分かれしたために、1つの杉丸太の中に年輪が2つ入っています。
 写真2上段では、下の年輪が蜜になっていて日当たりが悪く北方向だと判断しがちですが、これは間違いで木の生長の仕組みを考えると理解できます。

 「一本の木の中で、ある一方向だけの成長がよいのは、その方向の細胞の数が多く、一つ一つの細胞も大きいものが多いためである。
 


  図−2に示しように、根から吸収された土壌中の水分や養分は、木部の外側(辺材)を仮道管という両端の尖った細長い管を伝わって上昇する。この管には年輪に直角の面にたくさんの穴が開いていて、この穴を介して水は上までつながっていて、水はまっすぐに上に昇るよりも、らせん状に昇っていき、枝を通り葉まで達する。葉では光合成によって糖がつくられ、その糖は、今度は樹皮の内側の部分、内樹皮にある師細胞という管を通って幹や根まで下がっていく。成長を促進させる植物ホルモンも同時に運ばれる。

 この管は仮道管と同じように側壁に穴をもっていて、この穴を介して糖は下へ降りていくが、まっすぐ下に降りることなく、らせん状にあるいは扇状に広がって降りていくと考えられる。現在の切り株の高さでは、そこまで降りてきた糖が、植物ホルモンなどの作用によって、細胞を分裂させたり大きくしたりするのに使われ、ある方向で成長量が多いのは,そこで使われた糖の量が多いからと考えられる、その糖がその方向でつくられたとは限りらない」。

 上記は、森林の100不思議(日本林業技術協会編)の中の「切り株から方向がわかるか」を抄訳しました。


松の木の枝を数えると年数がわかる

 2007年12月に「箕面・森の学校」の最終講義の自然観察の中で、講師から松の木(写真3)を見上げて「この松の木の樹齢はどのくらいですか」と聞かれました。



写真3 松の木の樹齢は約60年(07年12月2日撮影)


 アカマツ、クロマツ、モミなどのように、毎年一段ずつ枝を出す樹種では、枝やその痕跡を数えると樹齢がわかりますが、年を経るにつれてこれらの痕跡は幹に包み込まれてしまうので、外観からの判定は難しくなります。

 木を倒さずに樹齢の判定方法として、成長錘を打ち込んで資料を採取する方法やエックス線CT(コンピュータ・トモグラフィー)を応用したもの、大気中に一定の割合で含まれている放射性炭素を使って樹齢を推定する方法などがあります。(森林の100不思議:23「木の年齢」参照)

 この年輪の記事を書いていて、10年以上前に日本文化国際研究センターの安田喜憲教授が、深い湖をボーリングして出てきた堆積物を分析して地球の何万年も前のことがわかるという講演を思い出しました。

 そのときの「年縞(ねんこう)」と言う言葉は記憶にありませでしたが、「年縞とは、深い湖にできる堆積物の縞模様のことで、春には珪藻が繁茂して白い縞ができ、秋冬には黒い粘土鉱物が堆積して黒い縞ができ、この白と黒の縞模様が一つに組み合わせて1年の年輪と同じものを形成する」というもので、安田教授は「環境考古学」という新しい分野を確立されました。
 「年縞を調べることによって年単位で過去の気候変動や森林の変遷が復元できるようになった」とNIPPON STEEL MONTHLY 2008.4の中で、安田教授は語っておられます。


(平成21年4月21日)
第123話 桜の花便り[2009年04月12日(日)]


 今年の近畿地方の桜は、開花宣言してから花冷えが続いたために長く咲いていますが、この1週間のぽかぽか陽気でそろそろ散り始めました。

 4月に入って最初の活動日、4日には未だ咲いていなかった体験学習の森の山桜は、1週間後の昨日11日には、満開になった場所もあれば、すでに花が散っていて葉桜になった場所も見られました。
 今春印象に残った桜の花便りをお届けします。


万博記念公園の桜
 
 開花宣言されてから10日ほど経った4月6日は、好天に恵まれて万博公園内の自然文化園はたくさんの人でにぎわっていましたので、日本庭園を訪れてみました。
 人通りも少なく、つぼみは全くないほどに満開になっていました。




写真1 万博記念公園内日本庭園にて(09年4月6日撮影)


 近くの迎賓館の建物から花嫁・花婿が満開の桜の下のベンチで記念撮影し始めました。よく見ると、両親や親族も居ないのが気がかりでしたが、そのあと別の場所でも撮影していたのでモデルさんの撮影だとわかりました。

奈良県大宇陀町の又兵衛桜

 奈良県内には桜の名所がたくさんありますが、4月9日に又兵衛桜を訪れました。 
 この地に伝わる戦国武将「後藤又兵衛」の伝説と、この桜が後藤家の屋敷跡にあることから「又兵衛桜」と呼ばれ親しまれています。この日のNHK「おはようニッポン」で8時前に紹介されたそうですから、全国的に知られた桜のようです。




写真2 満開の又兵衛桜(09年4月9日撮影)


 又兵衛桜の近くの地蔵のすぐ側にも古木の桜も満開でした。北向きの地蔵の側にあるから「北向地蔵桜」と名付けられたそうです。

 行く前にインターネットで調べた又兵衛桜の写真を見た感じでは、こんもりと茂っていて、その花がだらりと垂れ下がっているのですからあまり良い印象はありませんでした。

 現地に赴いて何枚か撮影した又兵衛桜の中から、背面からのすっきりした写真を選びました。樹齢300年とも言われるこの桜の木は樹高13m、幹周り3m超のシダレザクラです。


菟田野の水分桜

 大宇陀町の又兵衛桜から東へ約10キロ歩くと、隣町の菟田野(うたの)町の水分(ミクマリ)神社です。

 途中の平坦な山道で「みくまり桜は、この道を歩けばよいのですか」と畑仕事の初老のおじさんに尋ねると、首をかしげられたので「水分と漢字で書きますが・・・・・・」というと、「水分(すいぶん)神社のことだね」とやっと理解してもらいました。
菟田野のバス停にはローマ字で「Mikumari Jinnjya」と書いてあったので、正式には「みくまり」のようです。

 インターネットで「宇太水分(うだみくまり)神社」を検索すると、「大和の国に4つある水分神社(宇太、葛城、都祁、吉野)のうちの1つで、芳野川(ほうのがわ)沿いにある三水分神社のうちのひとつ。宇太水分神社の創起は、第10代崇神天皇7年2月と伝えられ、鎌倉時代末期の1320年(元応2年)2月に造営された社殿は、春日造り桧皮葺で、国宝に指定されています」と説明しています。

 神社は山を背に住宅街の中にあり、水分神社は,その名のとおり流水の分配を司る神を祀る神社です。水は農耕,殊に稲作では欠くことのできないもので,このような水分神社は全国各地にあります。

 水分神社近くの宇太地区公民館の入り口に、紅白の幕が張られていたので尋ねると、「4月11日から19日までの『うたの夢街道』のイベントの準備中」ということでした。
 「どうぞ、中を見てください」と案内され、「今年は桜が早く咲いたので、予定が狂ってしまった」といいながら、雛人形や、武者人形、鯉のぼりの飾りつけの真っ最中でした。街道沿いの民家でも段飾りの立派な雛人形や武者人形が飾られていました。

 その段飾りの前にいたおばさんたちに尋ねると「今年初めて試みるイベントで、花祭りとひな祭り、端午の節句を一緒にする主旨がよくわからない」と言っていましたが、町おこしの行事のようです。




写真3 芳野川沿いの水分桜(09年4月9日撮影)


 芳野川沿い約1キロメートルには、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風災害の復旧に植えられたソメイヨシノ約250本が見事に咲いていました。

体験学習の森の山桜

 私たちの活動日は第1週、第2週の土曜日、日曜日と第4週目の土曜日ですから、山桜が長い間楽しめます。

 今春は活動拠点の豚汁広場からすぐ上のダム湖の近くの山桜の見事な満開を見ることができました。
 今朝(12日)炭窯の火を止める作業の合間に、このヤマザクラの花の辺りから小鳥のさえずる声が聞こえてきましたが、花の蜜を求めてやってきたのでしょう。




写真4 見事に咲いたヤマザクラ(09年4月11日撮影)


 花見といえばソメイヨシノですが、「江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成され『吉野桜(ヤマザクラの意)』として売り出していた。
 藤野寄命の調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり、1900年(明治33年)『日本園芸雑誌』において『染井吉野』と命名された」(出典:フリー百科事典・ウィキペディア)ですが、ソメイヨシノの植栽の普及する前の花見文化はヤマザクラです。

 体験学習の森では数多くのヤマザクラの大木が生えています。写真4の山桜は葉が目立たず、きりりとそそり立ったように真っ白に開花していて見事でした。

 昨日(11日)この森に入ってこの見事なヤマサクラを見上げて、本居宣長が詠んだ「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」を思い出しました。


体験学習の森にたった1本のウバヒガンが満開

 体験学習の森にたった1本ですが、ウバヒガンザクラが自生しています。石庭と呼んでいる大きな岩とごつごつした岩のかけらが散在している谷筋の、およそ標高470メートルの東の急斜面の、近寄りがたい場所に生えています。

 活動拠点の豚汁広場が標高340メートルですから、130メートルほど急な山道を登らなければならないので普段からめったに行かないところです。

 牧野富太郎博士の「牧野 新日本植物図鑑」の「うばひがん(えどひがん、あずまひがん)」の項を見ると、「しばしば山林中にはえる落葉高木で高さ15mぐらいになる。径は60cmぐらい。時には観賞植物として栽植されることがある。小枝は細長く表面はなめらか。葉は長楕円形。先端は細長くとがり、基部は鋭形、ふちには鋭くとがったきょ歯があり、長さ5〜9cm。若葉にも成葉にも軟毛がある。3月末に葉より早くまた他種に先がけて淡紅色の花を開き、散形状に数個の花が集る、花柄は長く、がくや花柱とともに毛でおおわれる。がくは筒状であるが、下部がややふくらみ、上端で5裂する・・・・・・」と説明しています。

 日本名の「ウバヒガン」の名前の由来について、「姥彼岸ウバヒガソザクラの略。姥(老婆)は普通歯が抜けてしまって無いものが多いが、本種も3月末に葉の無いうちに花を開くので歯無しと葉無しをかけて、ウバの名をつけた。江戸彼岸、東彼岸は、東国(関東)のヒガンザクラという意味。これをヒガソザクラというのは誤りである」と説明しています。
 
 この名前の由来を利用したのでしょうか、「ヤマザクラ」も歯と葉を引っ掛けた面白い名前もついているようです。




写真5 ウバヒガンザクラが満開(09年4月12日撮影)


 この森では今ウワズミザクラのつぼみが出ています。第4週目の土曜日、4月25日ころには、この花が満開になっていることでしょう。

(平成21年4月12日)
第122話 タケノコと地下茎[2009年04月02日(木)]


 今店先には竹の子が出回っています。タケノコ掘りの季節です。タケノコとして掘り出さず竹として生長させると、1日中(24時間)に121cmという記録があり、タケノコは約3ヶ月で大人の竹になってしまいます。

 日本で最大モウソウチクは直径20cm、高さ22mの記録があるそうですが、近隣の竹林の間伐作業で測定した結果では12mでした。
 それにしても、このスレンダー(ほっそりしたさま。すらっとしたさま)な竹が、強風になびきながらも、10年近い古竹ならともかく、若竹で7,8年くらいまでは倒れずに立っています。よほど地下茎がしっかりしていないと自立できないはずです。

 タケノコと地下茎の関係を調べてみました。資料として、主に世界的にも有名な竹博士・故上田弘一郎・京大名誉教授の著書「竹と暮らし:小学館創造選書」「竹のはなし:PHP研究所」「竹づくし文化考:京都新聞社」を利用しました。


タケノコの漢字「筍」の語源

 上記著書「竹のはなし」によると、「タケノコのスピード生長については、中国人はさすがに昔からよく知っていたようだ。タケノコの漢字『筍』の語源は、二旬(十日間)で竹になる、の意味だといわれる。
 たとえば、『筍の刑』というのがあるが、『たくさん出そろっているタケノコの上に、囚人を横にしてのせる。するとタケノコの力強い生長で、からだが宙にあがり、囚人はその痛さに耐えかねて白状する』ということ」と書いています。


タケノコの成長

 竹が伸び盛りの時には、1日中(24時間)に1メートル以上伸びます。
 この生長について上田博士は「竹はどの節間(節と節の間)にも節の上側に生長帯があって、どの節間も生長するので、タケノコの生長は各節間生長の合計となる。また昼も夜も1日中休みなく伸びていて、さらにタケノコの生長を助けるものに竹の皮(タケノコの皮)がある。なお生長の促進物質(チロシン、カイネチン、ジベレリンなど)があることも分った。タケノコのすばらしい生長は、これらの総合的な助けでおこるのである」と説明されています。




写真1上段:若竹も古竹もほぼ同じ高さのモウソウチク


下段:掘りたての大きなタケノコ


 タケノコが伸びきると、稈(かん:稲・竹などの、中空になっている茎、出典・大辞泉)には形成層がないので、なん年たっても少しも太らない。先端の毎年の伸びも木と違い、稈としては伸びず、小枝のようにきわめてわずかなものが多いのです。

 写真1上段のように、竹林の梢を見上げても、何年物の竹なのかは判断がつかない、同じような高さの竹がそびえています。


タケノコの生長

 「こんなに伸びる植物は、永年生植物では竹以外にないであろう。竹はまさに世界一の伸びぶりといえる。ところで、植物の生長には、動物と同じように有機養分が必要であるが、こんなに生長するのに、どうして養分が吸収され、そしてすぐ有機養分をつくれるのであろうか」という問題提起をして上田博士は、

 「ふつう、『竹』とよんでいるのは、地上に立っている地上茎のことである。日本の竹は、土中の地下茎(俗称、鞭根:べんこん)に連なっている。地下茎は土中にあるので、人の目に見えないが、大切な役割を果たしているのである。すなわち地下茎の節には一つずつ芽がついていて、この芽が地上に伸び出ると、タケノコから若竹に生長する。また土中に伸びたものは地下茎となる。なお地下茎には養分を貯えていてタケノコの生長を助ける。さらに地下茎の各節から数本の根を出し、この根は養水分を吸収する」と説明しています。




写真2:地下茎とタケノコとのつながり(09年4月1日撮影)


 写真2は、「地下茎とタケノコとのつながりがどうなっているか」を撮影しました。
 写真中央のタケノコの右下から地下茎に繋がっているのがわかります。タケノコの裏側の左右は地下茎の一部ですが、この地下茎が邪魔になって竹の子掘りを難しくしています。

 写真3は「もうそうちくのおやこ:甲斐 信枝 作、福音館書店1980年5月1日発行」の絵本で、「たけのこは こどもをうむために ちかけいを つちのなかに のばしています、たけのこは そのちかけいからうまれてくるのです」とこの絵を説明しています。





写真3:もうそうちくのおやこ(甲斐 信枝 作)から


地下茎と根

 モウソウチタや、ハチク、マダケは、ふだんは土中の地下茎(根でない)の芽が伸びて、竹と地下茎になります。だから子孫繁栄のもとは土中の地下茎にあり、地下茎は大切な繁殖器官なのです。

 タケノコを掘っていくと、その付近には網の目のように地下茎が広がっています。この地下茎は、写真4のように地面に顔を出していることもあります。




写真4 地面に顔を出している地下茎


 地下茎は写真4に見られるように、節がありますが、竹の稈のような中空になっていません。
 ふつう地下茎の太さは、稈よりも細く、稈の太さの2分の1から3分の1です。しかし、なかには地下茎はふつうの太さなのに、稈のほうが細いものがあるが、これは老齢の地下茎の芽が竹となって伸びたものです。
 地下茎の芽は、どれも同じような形をしているのに、ある芽は地上に伸び出て竹となり、ある芽は土中に伸びて地下茎となります。

 京都大学フィールド科学教育研究センター柴田昌三教授は「さとやまSTEP UP研修」の竹林の講義の中で、「地下茎の芽は、2年目は553、3年目402、4年目で220、5年目は156、6年目51、7年目で23、8年目には31もある」と文献の資料を紹介されていました。 

 この数字から見ると、2年目から5年目くらいの親竹からタケノコが多く出てくるようです。なお、竹林の中の地下茎は6年生以上のものは差し支えないが、それ以下のものは、タケノコを生む力があるので、切り取ると若竹の生産力が低下するので気をつけたいとも言われています。
 竹の地下茎は毎年先へ先へと枝分かれ状に伸び広がります。寿命は10年(竹)〜6年(ササ)くらいですが、毎年生死が繰り返されるので、毎年同じぐらいの生きた地下茎が広がり、この延長は竹の種類や土質などで違うが、土中の地下茎を解きほぐして、つなぎ合わせてみると、その延長は、100平方メートル(1アール)当たり、稈の太い竹の林では少ないところでも250メートル、多いところでは1,870メートルに及び、地表下80センチの深さに広がっているそうです。
 根は地下茎の節から出ている細いもので、長さは1本で短いのは30センチ、長いのは2メートルぐらいあります。稈の根元から出ているのも根であり、多いのは、竹1本に1400本もあります。
 
 写真5は稈の根元から出ている根を写しました。




写真5 稈の根元から出ている竹の根


  地下茎と根の役割は、地下茎は養分を貯えてタケノコを生むが、根は養水分を吸い上げ青葉におくる役目をしています。

竹林による防災

 上田弘一郎先生の「竹のはなし・竹筋コンクリートで防災する」のなかで、「竹林では、竹は地上では1本1本独立しているように見えるが、じつは土中の地下茎にからだつづきに連なっている。そして地下茎は毎年枝分かれして伸び広がり、一方、地下茎の芽が地上に伸び出して竹になり、年齢の違う地下茎がからだつづきで家族的な集団となっている。だから1本1本が別々に離れて立っている木とは、まったく趣を異にする。

 かつ竹林では、いくつもの家族が同居し社会生活をおくっている。試みに土中を掘りおこしてみると、地下茎が連帯的な広がりとなっている。一つの家族分は、マダケ林で地下茎の延長が100〜150メートルあり、他の家族と交錯して土中に深くネットを重ねたようになっている。いわば永久に壊れない分厚い竹筋コンクリートの体制となる。こうして、人工ではとうてい防げない大きな山崩れなどの災害を最小限度の被害にくいとめるのである。この力は、竹と地下茎による強い連帯協同力にほかならない・・・・・

 根が竹稈の土中基部と地下茎の節から出ている。その数は竹梓では土中の基部から一本当たり300〜1400本で、その根の1本の長さ50〜220センチ。また地下茎には各節に7〜25本の根がついている。こうして、土中は多数の地下茎と根でみちていて、土をしっかりつかんでいる」と書いておられます。

 写真3の絵では、1本の親竹にその地下茎と根が描かれていますが、竹林では土中で多数の地下茎と根が網目状に広がっていて、親竹と堅く結びついているとともに、地下茎のネットワークで雨水を土中にしみこませて土砂の流出を少なくするほか、土砂崩れを防いでいるのです。


(平成21年4月2日)
第121話 「みどり生き生き みのお生き生きフィールド体験フェア」に参加[2009年03月23日(月)]


 3月20日、21日の両日、箕面市坊島のかやの広場およびみのお市民活動センター内で、「みどり生き生き みのお生き生きフィールド体験フェア」が開催されました(写真1)。

 このフェアは、「『山なみに抱かれ、みどり豊なわがまち、箕面』の将来を受けついでいくために、山麓保全・河川や公園の美化・自然保護などに関わる市民団体やNPO活動(配布されている市民活動グループマップに26団体名、主な活動内容、問い合わせ先電話番号が記載されている)を紹介し、ともに考え行動していくための催しです」とあり、私たちの活動グループ「箕面だんだんクラブ」も参加しました。

 団体ごとにテントで仕切られたブースが設けられ、私たちのブースでは、活動内容をパネルで紹介するとともに、子どもたちにのこぎりを使って竹切りの体験をしたり、太さの様々な竹を用意して竹細工で飾り物を作ったりする体験をしてもらいました。
初日の20日は少し風が冷たかったのですが、21日はぽかぽか陽気になり、私たちが山で製造してきた竹炭の無料頒布もあって多くの方が訪れてくれました。




写真1「体験フェア」案内の立て看板


主なコーナー

 写真2上段は、今回の体験フェアの北方向の全景です。かやの広場にテントが張られて市民活動グループが活動内容の紹介や体験コーナー、堆肥の無料配布、クワガタバトル、カブトムシ幼虫堀り、林野庁では「家庭での苗木育成と美しい里山を復活させるための植樹活動」の参加者募集などを行っていました。



写真2上段:催し会場全景

下段:プレゼンス・オブ・マインドのライブコンサート


 「箕面のほたる昔・今・これから」のコーナーでは箕面ホタルの昔・今のマップがゲンジボタル、ヘイケボタルなどに色分けしてわかりやすく示されていました。
 昔に比べて今もホタルの分布はあまり減ってはいないように見えましたが、ヘイケボタルが1箇所だけくらいに減って、ゲンジボタルが勢力を拡大しているようでした。

 写真2下段は、会場の南端のステージです。コンサートの舞台にドングリ投げ、正面には児童がみどりをテーマにした図画が展示されています。
 午後から2回、プレゼンス・オブ・マインド(箕面芸術金賞受賞)のライブコンサート(写真2下段)がありました。
 
 箕面のオリジナル曲「箕面の森の守りびと」や「ホタル」などのほかに、アンジェラ・アキが、NHKの全国学校音楽コンクールの合唱課題曲として書き下ろした曲「手紙」や会場の聴衆の手拍子を交えてハンク・ウィリアムズ (1923〜1953)が作ったカントリー曲「ジャンバラヤ」も聴くことができました。
 最後に「アンコール・アンコール」がいっせいにわきあがって「箕面の森の守りびと」を再度聴くことができました。


箕面だんだんクラブのコーナー

 箕面だんだんクラブのブースは、写真1上段で右側の3番目のテントでした。



写真3上段:箕面だんだんクラブのブース

 
  中段:ぬいぐるみのゴハンジャワンが表敬訪問

下段:募金箱と竹細工の展示


 写真3下段には竹細工と募金箱のほかに、A級の竹炭を置いています。その下にはB級の少し砕けた竹炭も置きました。A級の竹炭を無料で頒布していますが、NPO法人みのお山麓保全委員会の活動基金として、気持ちだけ募金箱に寄付をしていただきました。
 若い人には竹炭に興味のある方が多くおられ、美味しい水をつくるほかに、お風呂や冷蔵庫へ入れるために持ち帰られました。

 そろそろ閉会となる3時過ぎに、「ごはん大好き お米が」のたすきをかけたぬいぐるみキャラクター「ごはんじゃわん」(写真3中段)が表敬訪問してくれました。


箕面だんだんクラブの紹介コーナー

 私たちのクラブの活動を紹介するパネルは4枚を展示しました。



写真4 活動状況を紹介した4枚のパネル


 右側上段は箕面だんだんクラブのパンフレットでその活動内容を紹介するとともに、具体的な作業の一部を写真で示しています。右側下段は、竹炭やきの作業工程を図で示すとともに、竹の間伐から、炭材つくりや炭やき作業を紹介しました。

 左側は活動拠点である「箕面体験学習の森」の自然を、春と秋の2枚にまとめています。
 4月中旬から満開になるヤマザクラ、下旬に咲くウワミズザクラが満開になりますし、この写真には掲載できませんでしたが、ゴマギやタニウツギが、5月ころにはシャガの花が、お盆のころにはキツネノカミソリが咲きます。
 秋になると、シロダモの実が赤く色づき、ムラサキシキブの実を結びます。モミジの紅葉より早くシロキが一番先に紅葉し始めます。草むらにはヨメナが一面にさきます。

 1ヶ月に第1、第2の土、日曜日と第4の土曜日が活動日ですが、草花だけでなく、木々に咲く花なども、体験学習の森で四季折々の変化を楽しむことができます。


竹切りや竹細工の体験コーナー

 今までのこぎりを持ったことのない子どもたちに竹切りを体験してもらいました。
 竹は空洞になっているので、木を切るような力は要りませんが、表面が滑りやすいのでベテランの会員にすこし切り口を入れてもらいながら、切り落とす感触を味わってもらいました。切り落とした竹を、遊び道具として使うのでしょうか、うれしそうにもらって帰る子供たちが結構いました。




写真5上段:真剣になって竹を切る坊や

中段:もう少しで切れるぞ!

下段:器用に小さな桶が完成


 写真5下段では、飾り物として作ったのでしょうか、小さな桶を懸命に作っている人がいました。

広葉樹の苗を育て、国有林に植える活動

 林野庁・近畿中国森林管理局・箕面森林環境保全ふれあいセンターのコーナーで「広葉樹を育て 国有林に植える活動に参加してみませんか」のポスターを見て立ち寄って見ました。
 この活動は今年の3月から1年間、家庭等でクヌギ、コナラ、エドヒガンなどの落葉広葉樹をポットで育てて、平成22年4月頃から国有林に植樹する計画です。私たちのクラブでも2年前に家庭で育てたクヌギやコナラの苗を昨年末に植樹した経験があります。

 そこで、植林した後のシカの食害対策をどうするのか尋ねてみました。「シカの生息数が増えすぎて困っているので、実態調査をして個体数をある範囲で管理する方向にある」ということでした。
 1年後には植樹するのに、シカの生息調査をするようでは遅すぎるので具体的な対策を尋ねてみました。植樹した周りを狭い範囲で囲うことにより、シカがその中に入ってしまうと出られない恐怖から効果があるとか言っていました。

 私たちの活動面積の10倍以上の箕面川ダムの北側の広大な国有林のスギやヒノキの森林を、クヌギやコナラの広葉樹林にするのですから、来年には確実で抜本的なシカの食害対策がとられることと思います。



 2年ほど前に開催された「みどり環境フェア」では、展示場所も狭く、パネル展示と竹炭頒布だけの活動紹介でした。

 今回は体験フェアと銘打っただけに、のこぎりを持ったこともない幼い子どもたちに、竹を切る感触を伝えるとともに、切り取った竹を器やいろいろなものに利用できることを知ってもらえるよい機会になったことと思います。

 こうした貴重な体験を通じて、子どもたちが「みどり豊なわがまち、箕面」の将来を受けついでいってくれることを願っています。
第120話 剥製のシカ[2009年03月13日(金)]


 2月7日の活動日に、シカがシャガの葉っぱまで食べだしたことを2月14日に公開した第117話で書きました。
 その後、2月14日、2月28日、3月7日の活動日に、シカがシャガの葉っぱをどの程度食い荒らしているかを観察に出かけています。行く度に根っこを引き抜かれたシャガがところどころに見られます。さすがにシカも心得たもので、渓谷沿いの急斜面に生えているところまでは近寄れないために青々と茂っていて、ここだけでも助かっているのでホッとした気になります。

 この森林に生えている植物を手当たりしだいに食い荒らすシカですが、その文献を調べに行った図書館の入り口にシカの剥製が展示してありました。その経緯を調べてみました。


東図書館に「シカの剥製」が展示されている!

 箕面市立東図書館は「体験学習の森」の帰り道にあるので再三利用しています。
 その図書館の入り口の右側に「シカの剥製」が展示していることは知っていましたが、「鹿」に関する本を探すことになって、あらためてじっくり見てみました。




写真1:展示されている剥製のシカ


 写真1の左側に説明板が立っています。シカの剥製はガラスケースの中に収められていて、その説明文は細かい文字でびっしりと書いています。


写真2:展示した経緯の説明文


 その説明文の主要な箇所を抜書きしてみると、「明治の森箕面国定公園とその周辺地域一帯は、府下では数少ない豊な自然に恵まれたところです。なかでも野生シカは府下では箕面、高槻、能勢など北摂地方の限られた地域にしか生息せず、1974年以降、狩猟鳥獣からはずし保護措置がとられてきました。

 1984年12月から1985年2月にかけて箕面市白土島地区の住宅地に近接したため池で、子ジカもふくめ17頭ものシカの変死体が相次いで見つかるという異常事態が発生しました。この間、自然を愛する多くの市民にとって、このような事態の再発を防ぎ、これらのシカを助けるために全力を挙げて夜間パトロールの強化など努力が続けられました。
この雄シカは1985年1月21日未明、何ものかに追い詰められて五藤池から新薩摩池へと逃げ込んだ個体です・・・・・・

 この剥製を展示することによって、多くの人々が箕面の奥深い自然について語り合い、このかけがえのない自然をいつくしみ守っていこうとする心が育つための自然保護を訴える警鐘になることを願ってやみません」。

 図書館では@「世界遺産をシカが喰う シカと森の生態学」(湯本 貴和・松田 裕之編兜カ一総合出版2006年3月31日初版発行)A「山と田畑をシカから守る」(井上 雅央、金森 弘樹著、社団法人農山漁村文化協会 2006年2月25日第1刷発行)B「野生鹿の慟哭・大阪の鹿生息状況と箕面野生鹿連続殺傷事件報告書」(社団法人 大阪自然環境保全協会、1986年6月29日発行)を借りました。


「野生鹿の慟哭」

 上記Bの「野生鹿の慟哭」には、第3章で1984年(昭和59年)12月より連続的に発生した、箕面市白島地域における「ニホンジカ大量殺傷事件」調査報告を書いています。その事件のシカの1頭が、剥製のシカになって入り口に展示されているのです。

 第3章の最後に各紙新聞報道がコピーされています。
 その見出しを拾ってみると、1984年11月27日、毎日朝刊「野ジカ君助かった、野犬襲い、あわや」、1985年1月15日読売夕刊「密猟か シカ4頭死ぬ、箕面の池、1頭に散弾の」、1985年1月20日朝日朝刊「池で水死、相次ぎ8頭 野犬に襲われ転落?狩猟訓練 標的の疑いも」などと書いていました。

 野生ジカの大量死は、「野犬に襲われて水死した」と発表した大阪府に対し、市民グループの自然保護団体では「密猟に起因している可能性が極めて強い」と結論を出しています。

 野生ジカの大量死事件に関連して、昭和60年1月30日朝日朝刊には「野生ジカを守ろう」の記事の中で、「府緑の環境整備室によると、能勢町、高槻市、箕面市の山間部には、73頭〜200頭の野生ジカがいるが、56年ごろから『植林した幼木やイネが食い荒らされて困る』との苦情が相次ぎ、府に補償を求める声も出ている…・・・」という記事もありました。


昭和60年ごろの大台ケ原は、すでにレッドゾーンを越えていた!

 シカの食害の話題では、大台ケ原の事例がよく取り上げられています。

 上記@の「世界遺産をシカが喰う」の第4章で岩本 泉治さんが、「大台大峯の山麓から」のなかで、「このころ(昭和45年ころ)から、植えても植えても一向に山にならない、つまり木が育たなくなってしまいました。昭和50年になると、村の最北部にあたる大普賢岳の中腹部や大台ケ原ドライブウェイの南斜面でも新たな植林は難しくなりました。当時の植林担当者が古老に叱られていたのを今でも覚えています。『いったいいつになったら山になるのか、どれだけ首を補充しているのか、わかっているのか、なぜあんなに首が枯れてしまうのか・・・・・・

 『いくら構えても翌朝にはシカに喰われてなくなってしまう』。それが現実でした・・・・・・昭和55年ごろ、奥吉野ではかつてのような植林は不可能になってしまいました。植えても植えても山にならず、補植(枯れたところに翌年再び植えること)の繰り返しになってしまい、運良く育っても、首の天辺が食べられて、盆栽みたいなスギやヒノキが生えている、そんなことになってしまいました・・・・・・

 大台ケ原で鹿害が問題になり始めたのも昭和55年ごろでした。ただし、トウヒ林(唐檜)注)はまだ暗く、ましてやシカの姿を見る、という事はまずありませんでした。それが、60年頃になると時々シカが目撃されることが多くなり、食害を受けたトウヒがめっきり増えてきました。注)トウヒ属(唐檜)は、マツ科トウヒ属の常緑針葉樹。

 大台ケ原で最初に柵が設置されたのもこの頃です。とりあえず囲っておこう、という雰囲気で、たいした緊張感はありませんでした。当時、テレビ局が取材に来ると、正木峠を案内するのが定番でしたが、林床は苔に覆われ山頂付近はまだ黒々とした森でした。誰も、ここが白骨樹林になってしまうとは、想像していませんでした。

 しかし、一部の研究者はその頃から「このまま放置すると危ない」と環境庁(当時)に対して警告はしていましたし、自らも手探りながら調査を始めていました。その頃イギリスからきた研究者に大台ケ原のシカの密度について、どのくらいのレベルか、と質問したところ、オーマイゴッドのレベル」と答えました。すでにレッドゾーンを越えていたのでした


大峯山系の食害

 上記の続きで、大峰山系の食害では、「シカによる食害は関西では特に大台ケ原がよく取り上げられています。しかし、深刻なのは大峯山系も同じことです。昔は、山頂付近でシカに出会うという記憶はありません。大峯山系の稜線は直ぐ下に崖やガレ場が控えていて、どちらかというと、シカにとっては近寄りにくい地形のはずです。しかし今は奥駈道にも足跡があるくらいです・・・・・・

 天ヶ瀬の子供は時に奥駈道まで遊びに行きました。その頃、行者還や一ノタワなどでは、一度道からそれると戻るのにたいへんなほどのスズタケのブッシュで、夏でも長袖の服を着ていくようにいわれたものでした。袖をまくっていようものなら、腕は傷だらけになりました。ところが、最近の大峯山系では昔のような背丈を越えるスズタケのブッシュはほとんど見当たらなくなってしまい、半袖半ズボンでも歩けるくらいです。

 このような大峯山系の異変は、十年程前にすでに始まっていました。たとえば、歩くのに邪魔になるほど繁茂していた八経ケ岳周辺のオオヤマレンゲが絶滅状態になりました。

 8年前は行者還トンネルから弥山へ上る途中の、ちょうど奥駈道と出会うあたりはたいへんなブッシュでしたが、今はまったくありません。スズタケどころか、林床にはほとんど植物が見られません。7年前、狼平のコシアブラは、たった2週間で、目につくものはすべて樹皮剥ぎ被害を受け、今は1本も見られません」と書いています。


現在の行者還から弥山の奥駆道

 岩本 泉治さんが「行者還トンネルから弥山へ上る途中の、ちょうど奥駈道と出会うあたり」と書かれたあたりを、昨年10月初旬に行ってきました。

 「一度道からそれると戻るのにたいへんなほどのスズタケのブッシュで、夏でも長袖の服を着ていくようにいわれた」という時代は知る由もありませんが、急斜面を登りきった辺りの一息ついたあたり(写真3)は、昔はたいへんなブッシュだったのでしょう。


写真3 弥山への奥駆道(08年10月7日撮影)

 引き返す途中で、シカの群れが足早に走っていくのを目撃しました。



写真4 弥山頂上の立ち枯れのトウヒ林




写真5 弥山頂上の神社


 今私たちが活動している「体験学習の森」では、シカの食害が目だって増えてきています。
 これまで保護されてきた野生ジカも、これ以上に増えすぎてしまったら、大台ケ原や大峰山系の二の舞にならないとも限りません。
 今では食べられていなかったヤブツバキの樹皮も食べだしていて、この木もいずれ枯れてしまうことでしょう。シカも生きるためには、1000種を越える採取植物を食べつくしていくのですから。


(平成21年3月13日)
第119話 2月第4週土曜日の活動と平成20年度総会の報告[2009年03月03日(火)]


 2月28日は、午前中椿山の作業道作りとそれに伴った森林内でヤマザクラやスギなどに絡みついたつる草の除去、ツバキや先駆種のアカメガシワなどの除伐を行いました。豚汁広場の西斜面は椿山と名付けたように、ヤブツバキが多く生えていてこの斜面を一層暗い森にしています。急斜面なのでなかなか手がつけられなかったのですが、少しずつ作業道が出来上がってきて、森内が明るくなり日の光が入るようになってきました。

 この作業の様子を報告するとともに、にぎやかな昼食の様子と、食後の行った「箕面だんだんクラブ」の総会の内容を報告します。


作業道2本が出来上がった
 
 豚汁広場西側の急斜面へは尾根へ続く登り道は昨年までに2本は完成していたのですが、2月28日の活動で、この斜面の中腹に南北方向に2本の作業道を完成させました。その北側先端の急斜面には階段をつけて安全に上り下りできるようにしました。



写真1上・中段:ほぼ完成した作業道

下段:北側の急な斜面には階段を設置


 作業道を作りながら、絡まったツルを根元から切るとともに、ヤブツバキや幹が空洞になりかけたアカメガシワを除伐しました。
 今までシカが通っただけのけもの道で近寄りがたい森内でしたが、写真2のように日が差し込むようになりました。




写真2上段:除伐の結果、ツルの垂れ下がりが目立つ

中段・下段:除伐で明るくなった林内


棚にぼたもち!

 午前の休憩時に、書類を捜すために棚を開けてみると、紙袋の中に3段重ねの重箱が見えました。この重箱はリサイクルセンターでもらってきたものだろうと思いながらも、念のためにふたをそっと開けて見ました。
 中には三列、三行に隙間なく詰まったぼたもちが入っているではありませんか!しかも3段重なっていますから、27個のぼたもちです。




写真3 昼食時に並べられたぼたもち27個


 「開けてはいけない箱を開けてしまったこと」という後ろめたさと、「今日のおやつにぼたもちが食べられる」といううれしさで「リサイクルセンターからもらってきた重箱だと思って開けてみると、ぼたもちが入っていた!」と思わずみんなに知らせずにはいられませんでした。
 このぼたもちをつくってきたSさんが、「違うよ、私の家の重箱で、リサイクルセンターものとは違うよ。朝早くからつくってきたの」とすぐさま答が返ってきました。

 27個作ってこられましたが、今日の参加者は28人で1個足りません。朝早くから手間をかけてつくってきてくれたSさんが、家に帰ったら未だ残っているというやさしい言葉で、総会前にみんなで美味しくいただきました。

 予期しないときに幸運が舞い込んでくることを、ことわざで「棚からぼたもち」といいますが、まさに「棚にぼたもち」がありました。
ちなみに、「ぼたもち」と「おはぎ」は同じ食べ物でありながら、違った名前がついています。ぼたもちは、ワードで「牡丹餅」と、おはぎは「お萩」と変換されます。春の彼岸ころに咲く牡丹の季節には「ぼたもち」、秋のお彼岸ころに咲く萩の花に見立てて「おはぎ」と呼ばれたりしますが、その区別は薄れているようです。

 このぼたもちの話題の続きで、総会の最後にKさんからの提案で、家で使わなくなった杵やうす、蒸篭などの餅つき道具を提供して下さることになり、ヨモギの新芽の出揃う5月の活動日に餅つき大会をすることが決まりました。
 この話題も、この森の中で「餅つき大会」ができるという、予期せぬラッキーな話で「棚からぼたもち」となりました。


具たくさんの味噌汁

 活動日のなかでの楽しみの一つに、昼食の美味しい味噌汁が出てくることです。会員になるかどうか迷っているEさんは、この森ですする味噌汁が美味しいからと、時々宝塚からやってこられます。

 今日の昼食は、炭焼やきがなかったので、28人全員がそろって食べることができました。テーブルには出来立ての味噌汁に、Sさんが作ったぼたもち、Kさんが愛媛県の里から送ってきた伊予柑も並べられました。




写真4上段:リサイクルのお椀に熱々の味噌汁を注ぐ

中段:にぎやかな昼食の様子

下段:食後のフルーツ


  あまり具がないときには、素麺が入っていたりすることがありますが、今日の味はいつもより美味しかったので、具の中身を尋ねてみました。シイタケ、サツマイモ、たまねぎ、ラディッシュの葉、ねぎ、水菜、春菊が入っていました。会員の好意で持ち寄って出来上がった味噌汁です。
 時にはこの山で摘み取った葉っぱなどを入れますが、クサギのオシタシを食べたと田舎育ちの仲間に話したら、「あの臭いにおいの葉っぱを食べるなんて!」あきれていました。


昼食時はやはりシカの話題

 以前この斜面の踏査したとき、シカの角が見つかっていますが、今日の作業中にシカの角が見つかりました。
 昼食時に「今までシカでも歩きにくい斜面だったのに、作業道ができてますます来るようになるだろう」と話題になりました。

 「山と田畑をシカから守る」(井上雅央・金森弘樹著:農山漁村文化協会発行)によると、シカは、「先が見通せない」ことや「足場が悪いこと」を嫌うようです。この性質を利用して「農業用の遮光シートを造林地帯の周囲に張ったところ、強度がさほど強くない遮光ネットでも、中が見通せないことから顕著な効果あったようだ」と上記の本の中の「シカが嫌がること」に紹介しています。
 また、「間伐した伐倒木をそのまま林内に放置すれば、シカが腹をこすりながらまたいでいく障害物を嫌うため、枝葉がついたまま伐り置き間伐はシカ除け柵になる」とも書いていました。
 
 今後の作業道つくりで出てきた間伐材の処理方法で試みてみる価値がありそうです。


平成20年度の総会報告

 箕面だんだんクラブは、市との協定書の中で、実施した森づくり活動について、「『体験学習の森』森づくり活動報告書」とともに、箕面山麓保全委員会からの助成を受けて活動しているために、「みのお山麓保全ファンド助成金実績報告書」を提出しなければなりません。
 このために、毎年2月末の活動日に総会を開いて、会員に活動状況を報告するとともに、次年度の「山麓保全ファンド助成金」の案を会員に諮って申請することにしています。

 今年度実施した活動報告書によると、現有会員数が44名で、体験学習の森での活動は50日・803人、「浪速少年院」隣接の竹林整備に3日・35人、福祉法人あかつき特別養護老人ホーム内の竹林および果樹の整備に2日・12人、「外院」の竹林整備に1日15人で、合計56日・865人の実績がありました。

 竹炭やきは、本年度は延べ日数38日、37窯でした。また、竹炭やきに使う炭材は、「あかつき」の竹林ではイノシシやシカの食害で若竹が育たなくなったので、浪速少年院に隣接の竹林と外院で間伐した孟宗竹を活用しました。

 森の手入れでは、市有林約25.3ヘクタールのうち、「明るい森つくり」を目的に「花見山」「もりもり園地」「杉林」「関電道」「椿山」および「茶畑」などの作業道造り、除伐、下草刈りなどの作業を実施しました。




写真5:豚汁広場で行った平成20年度総会


 植樹について、平成19年12月と1月に植樹したクヌギ約200本の生育状況を調査するとともに、周辺の草を刈りました。植樹した場所が悪かった一部では根付かなかったものの80%以上が順調に育っています。
 初めての試みとしてヘキサチューブを採用し保護しましたが、風による強制蒸散を防ぎ、紫外線を100%カットできて、植栽木の乾燥枯れを防いでいるので、植生保護管としての役目を果たしてきています。
 野生動物を生息域から排除せずに幼齢樹が保護できていると判断できました。

 平成20年の12月には、箕面クワガタ探検隊の親子40人の協力を得て、クヌギ16本、コナラ10本、水辺に近い場所にエノキ5本を植えました。

 これらの活動報告は、提出する箕面市、山麓保全委員会の様式により早速に報告することにしています。
3月20日、21日にかやの広場・市民活動センターで開催される「みどり・みのお生き生き体験フェア」に、参加するので、そのパネル作りや開催当日の協力要請がありました。
最後に19年度、20年度の中山代表の辞意が承認され、後任に福井良介さんが選任されました。中山さんには引き続き、顧問として役員会に出席していただくことになりました。


(平成21年3月3日)
第118話 枯れた松の大木を伐採しました[2009年02月24日(火)]
 2月14日の活動日は、竹炭やきと豚汁広場西側斜面、椿山の作業道つくりとその周辺の木を除伐しました。中でも尾根道に生えた松の大木は、松枯れしていて危険なので伐採しました。
 「尾根松 沢スギ、中ヒノキ」という言葉がありますが、この体験学習の森でも尾根筋には松の木が生えています。松ぼっくりから種が飛び出して尾根に根付いたのでしょうか。
 伐採した松の年輪を数えてみると、50年は経過しています。50年前といえば昭和30年代です。昭和31年の経済白書に「もはや戦後ではない」という有名な言葉が生まれた高度成長時代に芽を出したころの森は、どんな姿だったのでしょうか。

 「小鳥の水場」あたりには石積み跡が僅かに残っていますから、戦後のしばらくの間、人が住んでいたと思われます。この森に生えているマツやクヌギ、ヤマザクラなどは、昭和30年代に生えてきて育って大木になっています。それらの木々の中でマツだけが松枯れ病にやられて半世紀で切り倒されてしまうことになりました。
 松の木の伐採と松枯れの話題を取り上げてみました。


松の下を歩くときは注意! 
 この森の斜面にはクヌギやアベマキに混じってマツがところどころに生えています。2月14日には枯れた松を3本切りましたが、この1年以内には枯れてしまって危険な木が未だ数本残っています。
 写真1はその枯れた松の木を写しました。お互いの木が競い合って太陽の光を求めて伸びていきますから、下から見上げると、葉っぱの茂った他の木の先端に僅かに枯れた松の枝が見えます。遠くから見るとこの枯れたこれらの松が際立って見えていました。




写真1上段:枯れた松の木の枝(08年2月15日撮影)

下段:松の木の周辺(08年2月15日撮影)


 松の木の伐採をした翌日、みのお山麓保全委員会主催の「里山交流ひろば」の座談会で、「外院の杜でも多くの松が枯れていて下を歩いていると、太い枝が突然に折れて落下することがあるので、注意しないといけない」と話されていました。

マツの大木を伐採する

 今まではこれ程の大木を伐採したことはなかったのですが、チルホール〈写真1上段〉という手動式ウインチを購入できたお陰で、小型で軽量ながら、強力な牽引力を発揮して安全に伐採することができました。



写真2上段:伐採作業にチルホール(川上金物・使用例から)

中段:伐採したマツ

下段:枯れたマツの年輪


 写真2中段は伐採したマツ材です。年輪(写真2下段)を数えてみると、中心から36年くらいまでははっきりと読み取ることができますが、その外側は黒ずんで年輪の巾も狭くなっています。
 表面を削ってみました。読みにくいかったのですが、14、5年間くらいでしょう。14年前というと、平成7年(1995年)で、阪神大震災のあった年です。そのころから、徐々にマツ枯れ病に侵されていったと思われます。


マツ枯れ

 箕面公園自然研究路5号線に「マツ枯れ」について写真3の示す解説板があります。
 その解説には「マツは、常緑樹です。冬も葉が青々としていることから、常盤の松と言われ、縁起の良い木とされています。ところが、府下のマツ山でも同じような状況ですが、ここ箕面のマツ山も、夏から秋にかけて紅葉し枯れていくマツが、目につきます。これはどういうことでしょう?老化していくもの、また、病気や害虫に食われて枯れていくものも一部あるようですが、マツ枯れの主犯は、次のように考えられています。

 ある研究者がマツ枯れの犯人を捜し続けているときに、枯木の中から線虫を検出し、これをマツの木に注入したところ、枯れてしまったのです。この線虫は、マツノザイセンチュウと命名されています。その後、羽根も足もないこの小さな線虫が、どのようにして木から木へ移動するのかという謎も、別図のような仕組みであることがわかりました」と書いた文章の下に、写真3の図でわかりやすく説明しています。




写真3 松枯れの解説板(箕面公園自然研究路5号線)


松枯れはカミキリとマツノザイセンチュウの相利共生

 この図をYAHOO百科事典マツノザイセンチュウ等から解説を試みると、「マツノマダラは約1ミリメートルで自ら木から木へと移動する能力を持っていないので、その移動手段にカミキリを利用する。1匹のカミキリが成虫になるとき、カミキリの気管内にセンチュウが何万と侵入する。カミキリは多数のセンチュウを抱え外界へ脱出し、健康な松の若枝をかじる。

 このときにセンチュウがマダラカミキリから抜け出して松の枝に入り込む。センチュウはカミキリがマツの枝をかじると、その傷跡からセンチュウが樹体内に侵入繁殖し、木全体に広がる。

 このためマツは萎凋(いちょう:茎に糸状菌の一種が寄生し、水分の供給が悪くなって枯れる病害)をおこし、松脂(まつやに)の滲出(しんしゅつ)が止まり数週間で枯死する。カミキリはこのような木の幹に産卵する。翌春マツの材中でカミキリが蛹(さなぎ)から羽化すると、センチュウはカミキリの気門から気管内に侵入する」という循環を繰り返す相利共生(そうりきょうせい)関係にあります。

 マツ枯れについて自然農法の創始者・福岡信正氏の意見

 松枯れについて昼食時に話し合っていたら翌日Tさんが、「〈自然〉を生きる」(福岡正信、聞き手・金光寿郎:春秋社1997年2月10日初版)の本を貸してくれました。

 それによると、「45年前から自然には四百四病はあっても病虫害はないんだという考え方でやってきてますが、山の木は枯れることがない。ある程度の病虫害が発生しても部分的で収まるものです・・・・・・いまの学説でいうとカミキリムシが来て、線虫※が来て枯らすというのですが、それにちょっと疑問をもちまして、この山小屋で3カ年、昔の生活に返って顕微鏡をのぞいてみたんです。(※線虫は幹に侵入したカビの菌を食べて生きられる虫で、マツを直接殺すのではない。)

 その結果、いま日本の山林の土壌は強酸性になっていまして、この付近の松山市周辺を調べてみても、ペーハー3.8から4.5ぐらいまでの強酸性になっています。マツというのはマツタケ菌とマツが共生している植物ですが、そのマツタケ菌が強酸性で衰弱して、そこにカビ(セノコックム菌)が寄生し、さらに死滅させたり根腐れを起こす。

 このマツの根腐れをスタートにして、その次にアメリカから来たアルタナリア菌なんていう病菌が枝、葉、幹のなかまで入って、さらにマツは弱ってしまう。そこに追い打ちをかけて、カミキリムシがもう死にかけているマツに産卵する。そのとき線虫が媒介して幹に侵入し、とどめを刺されてマツは枯れていくという順序だと思います・・・・・・

犯人でいえば線虫やカミキリムシはチンピラにしかすぎない。最後の死骸掃除人です。それよりも大気汚染のようなことで土壌が酸性になったことがスタートになっているはずです。直接的にはマツタケ菌が病害によってやられているのが第一原因だけれど、第二は幹に外来の病原菌が侵入して衰弱したという見方をしています」と自然農法を実践しておられる福岡氏らしい意見です。

 松枯れについてインターネットで検索してみると、マツノザイセンチュウ因説と大気汚染説が対立しています。「松枯れ白書」(松本文雄著、高砂緑地研究会1998年4月1日初版発行)では、大気汚染公害説を主張されています。


松枯れ防除

 マツ枯れの防除方法としては、伐倒駆除、樹幹注入、薬剤散布という手段が主に用いられています。

 上記「松枯白書」で松本氏は、「『虫因説』による農業の空中散布は、大気汚染を隠ぺいした生態系を破壊する行為だとして、農薬空中散布に反対。農薬という対処療法にたよらず、総合的な大気汚染対策により空気を浄化することで、青松を復活させたい」と主張されています。

 2月初旬に法隆寺から西大寺まで散策しましたが、秋篠川沿いから見る薬師寺の東塔、西塔を望む景色はのどかな田園にマッチした景色でした。




写真4上段:秋篠川から薬師寺を望む

下段:薬師寺東塔その付近の松


 お寺の周辺はこんもりとしていていますが、薬師寺から唐招提寺までの道沿いは歴史的風土保全区域なので、松並木が整備されています。
 松の周辺で作業している人に声をかけたら、「マツノザイセンチュウの防除に樹幹注入をしている」と答えてくれました。




写真5上段:薬師寺から唐招提寺への松並木
  
 下段:樹幹注入をして松並木を保全している


 かつて、松林の落葉落枝は広く燃料として利用され、人里周辺では松林が維持されてきたが、燃料革命で見捨てられている松です。

 歴史的風土を保全されていく松を保存していくのは当然として、森林内の松は、植物遷移の上では、裸地に定着する先駆者樹木であり、その役目を果たして淘汰されていくのでしょうか。  


(平成21年2月24日)
第117話 シカはシャガの葉っぱまで食べだした[2009年02月14日(土)]


 1月の活動日は天候不良で一度も炭やきができず、2月8日に今年始めて窯を開いて火を入れました。この日は3月中旬の暖かい陽気で久しぶりの活動日だったのか、28人も参加しました。炭やきのほかに炭窯上の急斜面に生い茂った椿山の除伐を兼ねて作業道つくりを行いました。

 この日の活動場所は豚汁広場付近だったのですが、早春の山の兆しを求めて「小鳥の水場」辺りまで登ってみました。久しぶりに「キツネのベンチ」を少し登った山道の両側に群生しているシャガの葉っぱが食いちぎられていました。しか(確)というほどではなかったのですが、食い方からして鹿に相違ありません。
 ベテランのNさんに話してみると、「数年前に北摂山地でシャガの葉っぱがシカに食べられだした」と仲間から聞いたそうです。この山でもシカの食べ物が少なくなり食べ始めたのでしょうか。
 シャガと鹿の話題をまとめてみました。


シャガ

 シャガはアヤメ科アヤメ属で、古く中国から渡来したと推定され、低山地に群生しています。葉は1年中常緑で、剣形の3センチほどの巾で、長さ40センチほど光沢のある葉っぱです。



     写真1上段:体験学習の森に咲くシャガ(08年5月3日撮影)

下段:シャガの花(08年5月3日撮影)


 写真1は昨年5月3日に花が咲きそろったころに写しました。接写(写真1下段)してみると、花は直径約5cmで白く、外花被片は倒卵形で縁に細かい切れ込みがあり、中央に橙色のときか状突起と橙色と紫色の斑があります。

 東海自然歩道のポンポン山から下った善峰寺近くで日陰の斜面一面に咲いていましたが、こうした低山地に群生しています。
Nさんは「日本のシャガはすべて同じDNAである」と話してくれました。そこでシャガの増え方を調べてみると、「走出枝」注)で増えるのが特徴である。日本のものは三倍体注)で種子は実らないが、中国のものは実るといわれている」(世界大百科事典、兜ス凡社、アヤメ)

注)走出枝(そうしゅつし):根っこの横から伸びて地上を横に伸びていく茎のこと。

注)三倍体「倍数体」の一種。受精や分裂時の異常によって生じた、染色体のセットが3組ある個体。3n。二倍体と四倍体の交配から生じることが多い。染色体が奇数組なので、不稔性(子孫を残せない)であることが多い。


シカに食いちぎられたシャガの葉っぱ

 今年1月にこの山道を通ったとき、シャガの葉っぱは、緑色で剣形、扇状に折れたように地面に接していましたが、食いちぎられてはいませんでした。

 写真2上段は、昨年5月に写した場所とほぼ同じです。写真中段の写真で見られるように葉の先端が食いちぎられています。この辺りにはササもたくさん生えていましたが、食いちぎられたシャガの葉っぱの間からシカに葉を食べられたササの茎だけが目立って残っていました。
 シカが勢いよく食いちぎったため、根っこまで抜かれてしまったシャガをNさんがたくさん持ち帰ってきました。
 写真2下段は食いちぎられ葉っぱと引き抜かれた根っこの部分を写しました。
 これらは未だ十分に育つ可能性があるので別の場所に植えることにしました。




写真2上段:シャガが生えている山道(09年2月8日)

中段:食いちぎられたシャガの葉っぱ(09年2月8日)

 下段:シカに引き抜かれたシャガの根(09年2月8日)


ニホンジカ
 箕面公園政の茶屋近くに「ニホンジカについて」の解説板が立っています。それによると、「野生のニホンジカは、府下では北摂山系だけにみられ、中でも箕面公園周辺は代表的な生息地の一つです。そしてこのような都市近郊の里山地域で見られるのは、大変めずらしいことです。ニホンジカ(学名Cervus Nippon)は偶蹄目シカ科の動物で、長く立派な角や可愛らしいバンビなど、古くから私たち日本人に親しまれています。秋の繁殖期にオスジカはテリトリー(なわばり)をつくり、「フィーヨー」となく習性があります」と解説しています。 



写真3 箕面公園に設置された「ニホンジカ」の解説板


体験学習の森で、真っ昼間、突然、シカが猛突進してきた!


 日本国内に棲息するニホンジカは、エゾシカ、ホンシュウジカ、キュウシュウジカ、マゲシカ、ヤクシカ、ケラマジカ、ツシマジカの7つの地域亜種に分類されますが、本州に生息するからこの山のシカはホンシュウジカでしょう。
 奈良市一円のシカは天然記念物になっています。2年前の夏に奈良公園に群れていたシカを写しました。




           写真3 奈良公園のニホンジカ


 人馴れしていて、天然記念物で過保護に育っているせいか一緒についてきて紙など持っているとすぐさま食べられてしまいます。
 体験学習の森にはどのくらい生息しているのかわかりませんが、シカの糞をよく見かけるし、時たまシカの角を拾ってくる人もいます。1月ほど前には渓流の中からシカの頭蓋骨が見つかっていますし、シャガの葉っぱの近くから大腿骨が見つかっています。

 この山ではめったに出くわすことはありませんが、昨年の夏、Kさん一人が翌日の準備作業のため豚汁広場で作業をしていたとき、坂道から大きなオスジカが猛突進してきたそうです。「何か来た気配を感じたのでシカに向かって鉈で立ち向かおうとした瞬間、Kさんの目の前でシカは急ブレーキをかけて立ち去った」と、そのときのシカが飛びかかろうとした位置を示しながら恐怖の場面を話してくれました。

 フリー百科事典「ウィキペディア」の「夜行性」を検索してみると、「シカ、イノシシ、タヌキなどは夜間によく活動するものが多いが、人間が関わらない地域ではそれらが意外に昼間動いている例がある。夜行性という性質も、それほど固定的とは限らない例である」と書いています。体験学習の森では人里に近いせいか、夜間に活動していると思われますが、1月に5回程度の活動ですし、ふだんはこの山に入ってくることは少ないため、「人間が居ない」とシカは高をくくって昼間に餌を求めて出没してきたのでしょう。



シカの生態 
 上記解説板の後半に「ニホンジカは草食でササ類などのイネ科の植物を主な餌としており、そのほかイヌツゲ、ヒサカキ、アオキ、シラカシなどの様々な種類の樹木の葉を食べています」と書いていますが、インターネットで宮城県農産園芸環境課のホームページ「ニホンジカの生態」を引用してみました。

■分布と生息環境:北海道から沖縄まで多雪地を除き、全国に分布している。近年、その分布域は全国的に拡大傾向にある。餌となる植物が多い場所を好むため,林内以外に、林縁、伐採跡地、造林地なども餌場としている。

■行動特性:シカはほとんど除助走せずに1.5m以上の障害物を跳び越える能力を持つ。しかし防護柵など障害物では上を跳び越えるよりも、隙間や下をくぐり抜けることの方が多い。

■農作物被害の特徴と痕跡:牛と同じ反芻動物であるシカは,一部の有毒な植物(アセビなど)を除き1000種を超える植物の葉、芽、樹皮、果実を餌としている。その量は1日約3sとなる。シカにとっては、農地の農作物だけでなく、集落周辺の雑草の大半が餌となる。特にシカの餌が乏しくなる冬〜早春の農地、林道や農道のり面、果樹園などに茂る青草は格好の餌資源である。それ以外にも、水稲のヒコバエ(2番穂)、レンゲやクローバー、ナンテン、サカキなどの植木も餌となる。農地周辺で見られるシカの痕跡として、足跡(イノシシと異なり,副蹄跡は残りにくい)、糞、食痕がある。また、樹皮はき跡、休み場などが見られる。特にシカの密度が高い地域の森林では、シカの食害によって,高さ2m以下の林床の植物がほとんど消失し、都市公園のような景観を呈している場合がある。


シカの被害対策

 この話題の結びとして、(社)日本森林技術協会 藤森 隆郎技術指導役の「シカの被害対策」を紹介します。シカの被害が拡大した理由は,20世紀の初頭に天敵であるオオカミを絶滅させたことと、戦後の農山村人口の減少と生活様式の変化から,狩猟人口が激減してきたことである・・・・・・

 ウサギ程度の大きさの動物であれば、オオカミはいなくてもキツネや猛禽類など代役は多いが、シカの大きさになると,クマがときどき襲うことはあっても、オオカミの代役はいない。シカは天敵に食われてもポピュレーション(生態学で、個体群)が維持できる繁殖力を、進化を通して身につけてきた。その天敵がいなくなれば、シカの繁殖の抑止力はなくなり、人間がシカのポピュレーションをコントロールする以外に、正常な生態系を維持することはできない。

 そのためには,それぞれの地域のシカの適正密度を求めて,頭数管理をしていかなければならない。そのことに必要な条件は,自治体の森林の管理計画を行う部署に野生生物の専門家がいること,必要な数の狩猟者が確保されることである。これからの森林管理には,シカを含めて野生生物の専門的技術者の存在が不可欠である。

 さらに,その対策を現実的なものにするためには,シカの肉を食へる文化を築くか,オオカミの分身である犬に,シカ肉を材料にしたペットフードを食べさせることまで考えなければならないだろう。そうしないと生態系を維持することは難しい。


第116話 空気孔20mmを25mmにすると空気量が約5割も増える![2009年02月04日(水)]


  昨年12月6日の竹炭やきでは、炭やき担当のベテランが参加できなかったこと、朝9時の気温がマイナス0.2℃だったこと、炭材が9月に間伐したもので乾燥期間が短かったことなどの理由で、煙道口の温度が83℃以上になった時点で、いつもは空気量を20mmに絞ることを堅持してきたのを25mmにしてしまいました。

 空気孔の直径は106mmですが、20mmが25mmとわずか5mm広げただけですが、竹炭の出来具合は前回に比べて51%減でした。私たちの炭窯の炭化過程における空気量を検討してみました。


空気量20mmのときの温度推移

 2007年5月に取り替えた新しい炭窯は、それ以前に使ってきた1.5mm厚さのドラム缶式から、6mm厚さの鉄板を加工した気密性の高い炭窯になりました。ドラム缶式のときは窯底が腐食して大きな穴が空いていて空気量の調整がうまくできませんでした。

 新窯では窯の周りにイソウールで断熱性を上げるとともに、焚口と煙道口以外からの空気が完全に遮断されています。
 火入れして煙道口の温度が83℃を超えた時点で焚口、煙道口ともパイプΦ106mmの全開から20mmに絞りゆっくりと熱減成から熱分解、炭化へ、最終段階で精錬(ねらし〉を経て窯止めの工程を踏んで竹炭を作っています。




写真1上段:火を落とし窯蓋の空気孔パイプを入れる直前

中段:レンガで空気孔を20mmにした状況

下段:火入れした翌日の空気孔の状況


 写真1上段では、火入れから煙道口に煙突機能を果たしていた可搬式のパイプ煙突(Φ106mm)を窯蓋の下の孔に挿入し、中段のように欠円の20mmからだけ空気が入るようにします。

 この炭窯は箕面市環境クリーンセンター敷地内の山中にあり、前日18時から、翌朝7時まではゲートが閉り下山して不在になるため、温度計測や空気量の調整ができなくなります。したがって、この夜間の時間帯では急激な温度変化にならないようにしています。
 新窯の第1回目の慣らしの炭やきでは25mmにして失敗したので、それ以来煙道口、焚口からの空気の出入は20mmにしています。



図1 火入れから窯止めまでの温度推移と空気量の調節


  図1は火入れから窯止めまでの温度推移(07年10月6日〜7日)をグラフで示しました。前日の17時ころに煙道口の温度が83℃を超えた段階で写真1中段のように空気量を20mmに絞ります。煙は炭材に含まれる水分が放出し、湿煙(水煙)から灰色褐色のきわだ煙に変わってきます。
 煙道口の温度は13時間ほど経過した翌朝7時に計測した段階でも温度は100度前後で約20℃の微増で推移しています。
 窯内では竹材を構成するヘミセルロースが分解(150℃まで)し、熱減成が起っています。


 図1のケースでは煙道口の温度が110℃から焚口を30mmに、煙道口では53mmにして空気量を増やして温度を上げていきます。
 
 煙道口の温度が200℃を超した段階で焚口、煙道口とも全開(Φ106mm)にして一気にタール分などを飛ばす精錬(ねらし)をして300℃を超した段階で完全に空気を遮断して窯止めになります。

 窯内部の温度が150℃〜450℃くらいでは竹材の約半分を占めるセルロースの熱分解が起り、400℃以上ではリグニン(リグニンはセルロース繊維の間をセメントのように埋めて強度を保持する接着剤のようなもの)が分解され、炭化していきます。
 260℃から600℃(800℃と書いている本もある)を炭化といい、それより高温になると炭は炭素化し、1600℃から2200℃になるとグラファイト構造になって結晶化します。




図2 12月6日〜7日の温度計測表と温度推移図


 図2の表では12月6日16時に焚口、煙道口とも、25mmにして当日の作業を終え、翌朝7日の8時には通常の20mmではこの段階では煙道口の周りは湿気た鉄色なのですが、今回は白い結晶の状態でした。
 すぐに精錬(ねらし)のため、空気孔のパイプを全開(Φ106mm)にしたところ、右窯は一気に400℃に、左窯も360℃に跳ね上がりました。ただちに空気を遮断して窯止めにしました。
 
 窯止めの目安として煙道口での温度計測のほかに、マッチ棒(280℃以上で発火する)をかざしてその秒数を数えて5〜7秒で空気を遮断することにしています。今回のマッチの発火は左右の窯とも5秒でした。
 
 また、通常竹酢液は4kg強採取できますが、今回は左右の窯とも5.3kgとなっていました。いつもは煙道口が140℃で竹酢液の採取を止めますが、今回はそれ以上の温度で竹酢液を採取していて、タール分を多く含む竹酢液ができてしまいました。


竹炭の出来具合
  写真2上段は12月6日に窯出し直前の窯内部の状況です。右窯が14.1kg、左窯では16.9kgの竹炭ができました。
 下段はその1週間後、12月13日の窯出し直前に写しました。写真でも明らかなように、多くが灰になってしまって右窯の竹炭は6.8kg、左窯では9.0kgでした。

 25mmの場合の窯の最深部に設けたタールピットには左窯ではタールが少し溜まっていましたが、右窯にはタールは燃え尽きてしまって痕跡はありませんでした。




写真2上段:空気量20mmの窯内(11月1日火入れ)

下段:空気量25mmの窯内(12月6日火入れ)


欠円の面積を求める

 上記のように、この場所での竹炭作りの条件として約13時間以上は空気量を25mmにすると、炭化が進みすぎて灰になることがわかりました。わずか5mmですが、20mmと25mmではどのくらい空気量が増えるか求めてみました。
 図3において△ABOにおいてABの長さを三平方の定理で求めることができます。


 
H=20mmの欠円面積801.8mm2を基準にするとH=25mmは1187.6/801.8=1.48したがって、20mmを熱減成から熱分解、炭化の過程での標準の空気量とした場合、25mmに広げると、1.48倍、約5割の空気量が増えたことになります。 

ドラム缶式炭窯と6mm鉄板の炭窯の比較

 1.5mmのドラム缶は2年間使用してきたことから、現在使っている6mm鉄板の炭窯は、酸で鉄板の腐食が進んでいくにしても、厚みだけから見た耐用年数は4倍の8年間は持ちこたえるのではないかと思われます。

 また、このブログを開設した2007年6月19日に「第1話 新窯で竹炭を作り始めました」の中で、酸で腐食したドラム缶の写真を掲載しましたが、あれだけ窯底に穴が空いていても、それなりに竹炭が出来上がっていました。当時空気量は30mmから35mmでした。前日83℃以上で窯内の熱減成が十分に進んでいると確信していても、翌朝窯内の火が消えていることが再三ありました。

 それでも竹炭ができたのは、ドラム缶と周りを固めたレンガと赤土が形状維持してくれていて、土窯の役目をしていてくれたのだろうと思われます。又、よく火が消えてしまったのは、窯周辺のレンガや赤土にすき間が広がり、断熱力が少なくなって保温力が低下してきたためだと思います。


 今あらためて新窯の特色を考えてみると、鉄板6mmで製作したお陰で気密性の高い窯になりました。さらに窯の周りは耐火レンガを積むとともに、断熱性に優れたイソウールを巻いた結果、保温力が強化されて窯内部の温度が気温に左右されなくなりました。タールが溜まりすぎたなどの特殊な事例を除けば翌朝窯内の火が消えることはなくなりました。今回の事例を見て、あらためて6mm鉄板の炭窯の性能の良さが認識できました。

(平成21年2月4日)


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