アブダクション2
[2008年04月10日(木)]
アブダクションの続きです。
作家、橋本治。古典を現代風に翻訳した作品を多く輩出しています。彼こそがアブダクションを実践されています。
「情報編集力をつける国語」(藤原和博、重松清、橋本治。ちくま文庫)の第3章は橋本氏によるものです。そこで橋本氏は、徒然草を例に得意の推論を披露します。
徒然草で一番有名なのは書き出しの、「つれづれなるままに日くらし硯に向かいて、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」である。これが橋本流の訳になると、「退屈でしょうがないから、一日中硯に向かって、心に浮かんでくるどうでもいいことをタラタラと書きつけていると、へんてこりんな感じがホントにアブナイんだよなア」となる。
兼好法師の置かれた状況やキャリアに照らすとき、かつこの600年、700年で人間はそう変わっていないとのスタンスにたつとき、橋本氏は、「隠者の文学」といわれる徒然草の書き出し部分を書いたのは、兼好法師が、通説の「枯れたおじさんあるいはおじいさん」ではなく、「若い頃」だったと推論します。枯れた人だったら、「暇を持てあまして危ない方向にいってしまう」なんて考えには陥らないだろうと推察されるからです。だから、橋本氏は上記のように若者言葉風に訳されたのです。
橋本流現代訳は私にとって非常に腑に落ちます。昔、徒然草は隠遁の文学、無常観の文学だから作者はかなりの年長者であろうと教えられましたが、おじさんやおじいさんだと想定すると、橋本氏が主張されるように、誰もが知っている(聞いたことがある)有名な文章は「意味はわかる、でも正確には訳しにくい」文章になってしまうのです。
橋本氏が導かれた仮説こそがアブダクションという推論から導かれたものだといえましょう。
どうでしょうか?橋本氏は兼好法師になりきって「こうだったろう」「こうだったに違いない」と推論されたのです。ええー乱暴だ!と思うかどうかで、アブダクションに対するご自身の納得感も違ってきましょうか。
作家、橋本治。古典を現代風に翻訳した作品を多く輩出しています。彼こそがアブダクションを実践されています。
「情報編集力をつける国語」(藤原和博、重松清、橋本治。ちくま文庫)の第3章は橋本氏によるものです。そこで橋本氏は、徒然草を例に得意の推論を披露します。
徒然草で一番有名なのは書き出しの、「つれづれなるままに日くらし硯に向かいて、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」である。これが橋本流の訳になると、「退屈でしょうがないから、一日中硯に向かって、心に浮かんでくるどうでもいいことをタラタラと書きつけていると、へんてこりんな感じがホントにアブナイんだよなア」となる。
兼好法師の置かれた状況やキャリアに照らすとき、かつこの600年、700年で人間はそう変わっていないとのスタンスにたつとき、橋本氏は、「隠者の文学」といわれる徒然草の書き出し部分を書いたのは、兼好法師が、通説の「枯れたおじさんあるいはおじいさん」ではなく、「若い頃」だったと推論します。枯れた人だったら、「暇を持てあまして危ない方向にいってしまう」なんて考えには陥らないだろうと推察されるからです。だから、橋本氏は上記のように若者言葉風に訳されたのです。
橋本流現代訳は私にとって非常に腑に落ちます。昔、徒然草は隠遁の文学、無常観の文学だから作者はかなりの年長者であろうと教えられましたが、おじさんやおじいさんだと想定すると、橋本氏が主張されるように、誰もが知っている(聞いたことがある)有名な文章は「意味はわかる、でも正確には訳しにくい」文章になってしまうのです。
橋本氏が導かれた仮説こそがアブダクションという推論から導かれたものだといえましょう。
どうでしょうか?橋本氏は兼好法師になりきって「こうだったろう」「こうだったに違いない」と推論されたのです。ええー乱暴だ!と思うかどうかで、アブダクションに対するご自身の納得感も違ってきましょうか。



