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放送を終えてその2 孤独を知った日々 [2017年05月03日(Wed)]
さて昨日の続きから。
番組で放送されなかった話を中心に
シリーズで投稿していきます。

そんなことで18歳の春。
人生においてはじめて富田地区で
孤独を感じる生活を強いられることになります。

浪人生といえども予備校で友達を作ることは
もちろん可能ですし、GWが終わる頃には
予備校でもそんな仲良しグループがあちこちに。
しかし授業が終わったらすぐに夕刊配達へ
行かないといけないため友人を作ることができない。
ということでお昼も学食でぼっち飯。

正直、高校卒業するまで家族との団らんや
学校の休み時間の友人たちとの薄ぺっらい会話を
人生において無意味なものと思っていました。
富田地区に行き家庭、学校での関係性がなくなった時
その無意味なものと思った時間が本当はとても
大事な時間や空間であったことに気づかされたわけです。

そんな25年前に孤独な生活を送っていた話を取材で入った
富田地区のみなさんに話すとみんな笑いながら
「隣保館に来てくれたら良かったのに」
と言われてしまいました。
TV取材ではあまり触れられませんでしたが
富田地区は同和対策として隣保館の取り組むなどで
子どもや若者の居場所があったのですが
ネットもない当時に通りの向こうにそんな世界が
あったことを知るすべなかったのです。

そう歴史を遡ると子どもの居場所といえば
同和地区などでは隣保館と呼ばれる支援センターがあり
学習、遊びそして食の支援が当たり前に行われていました。
しかし特に大阪や京都では政策転換が起こり
行政による同和対策の取り組みは急激になくなりました。

番組の中で富田地区の中学校が子ども食堂づくりに
学校をあげて協力してくれるシーンが映ります。
その背景にはそのような地域としての歴史があるわけです。

さて25年前の自分は富田地区の居場所を
知りませんでしたが、別の地域の居場所を知っていました。
「こども劇場・おやこ劇場」
子ども時代から参加していた地域のNPO活動に
親が役員をしていたこともあり岡山でずっと
参加していたこの団体が全国各地にあるのを思い出し
でも申し訳ないのですが大阪高槻の印象が悪かったので
京都で活動に参加しようと思い事務局に問い合わしました。

それが「山科醍醐こどものひろば」だったわけです。
20年後に理事長になり、全国デビューするきっかけに
なるとは当時全く知りませんでした。

続く・・・

s_1992camp.jpg
秘蔵写真シリーズ(?)山科醍醐こどものひろばデビュー
当時の山科醍醐こどものひろばではキャンプが一大イベント。
毎週2回の会議と子どもたちとの班会。
同世代の仲間と話をすること。そんなあたり前の日常を
毎回感じながら活動に参加していました。
写真は新聞配達の夏期休を使っても
途中からの参加しか出来なかったキャンプの一コマ。
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