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No.316【ファンドレイジングスーパースター列伝】福澤諭吉と義捐金(日本) [2018年11月12日(Mon)]

福澤諭吉と義捐金

福澤研究センター通信第14号2011年3月31日の巻頭に、面白い記事がありました。

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福沢諭吉と災害救援 *
福沢諭吉は、災害救援においてメディアが果たしうる役割に最初に着目した人の一人であった。自ら経営していた新聞『時事新報』において、たびたび義捐金募集を行い、大きな成果を収めた。そもそも紙上で義捐金活動を行った最初は明治18(1885)年のノルマントン号事件の時で、これは多少政治的な運動であったが、 3 年後に起こった磐梯山の大噴火にあたっては、『時事新報』がいち早く呼びかけて東京の15新聞社が連名で義捐金を募集し、『時事新報』が最大の応
募額を集めた。さらに 3 年後の明治24年10月28日には、濃尾地震が起こった。『時事新報』は同月30日に早くも「大地震に付義捐金募集広告」を掲載して義捐金募集を開始、その広告は福沢自らが筆を執った原稿が残されている(写真右)。
福沢は災害救援とは日本人が「国民」であることを確認する機会ととらえた。義捐金は救援の実を挙げられるほどの額にはならないと見通しながら、その行為は被災民の情を慰め、不平等条約をかかえる日本人の「徳義心」を世界に示すとし、一方で復興の実は政府の果断なる政策によるべきであると説いた。そして福沢は、連日義捐金応募者の姓名を、額で差をつけず到着順に全て紹介することに、紙幅を大きく割いた。写真左は明治29年 6 月15日に発生した三陸大津波に際しての義捐金応募者一覧に見える福沢の名である。福沢は50円の高額を寄付しながら 1 円の義捐者と同列に掲載されている。それぞれが応分の協力をする、いわば「社中」としての日本国を演出した福沢の工夫であった。(都倉)
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20181027.JPG

http://www.fmc.keio.ac.jp/common/pdf/tsushin14.pdf


義援金について、福澤諭吉の思いれを感じることが出来ます。
その当時の社会状況をあわせて、義援金の意味合いが今とは少し違いますね。



次の記事等からも、福澤諭吉の義捐金に対する思想を抜き出してみます。

オリジナル連載 (2011年7月15日掲載)
時事新報史<番外編>
『時事新報』と義捐金(1)
ノルマントン号事件と磐梯山噴火
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/26.html

このときの『時事』は、義援金募集の拡大に積極的であった。応募の手続きを整備し、ノルマントンの際は断続的だった応募者リストの紙面掲載を連日に、またその掲載位置は紙面最末尾ではなく、比較的目につく場所に移された。応募額の順調な伸びに福沢諭吉も満足を覚えたらしく、アメリカに留学していた娘婿の福沢桃介に宛てた手紙で次のように記した。

『時事新報は何故か、なかなか勢力ありて世の信用も厚し。既に先日磐梯山罹災につき、義捐の金を集めたるに、諸新聞は新報の半高に及ぶものさえなし。この一事をもっても推して知るべし。』
(明治21年8月27日付書簡、『書簡集』第6巻)


オリジナル連載 (2011年8月25日掲載)
時事新報史<番外編>
『時事新報』と義捐金(2)
濃尾地震救援キャンペーン
都倉武之(慶應義塾大学専任講師)
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/27.html

『時事』は、この根本問題を政府が直視しない限り、何度衆議院を解散しても国会の空転は解決されないと政府に警告し、『時事』の年来の主張である「官民調和」の重要性を主張するのである。『時事』のいう「官民調和」は、民を官に妥協させようとしたもののように誤解され、当時も現在もしばしば批判されるが、変化を求めるターゲットは紛れもなく官にも向いているのである。

福沢率いる『時事』は、このように被災地の復旧支援を第一に、粘り強く現状と向き合い続ける姿勢を貫き、息長く報道を続け、社説で被災地支援を主張し続けた。その取り組みと相まって、上記の通り、募金額が伸びたのである。


ほかにも、金銭の義援のみならず、古着古道具の救援品を送ることもできるといった具体的な支援策の提案(社説「古着古道具の義捐」)、被災者が心の平穏を取り戻すために、僧侶が早く現地に入るべきで、寺院は救援活動の拠点になるべきという主張(社説「震災善後の法」)、義援金は実用よりも日本人同士が心を寄せ合って感情を慰めるという情の面に大きな意味があるから、公平性に固執していたずらに遅延しては意味がないとして、迅速な分配を求める主張(社説「義捐金及び物品の分配」)など、当時の他紙に比すれば極めて具体的、建設的である点が注目される。

このように『時事』が被災地救援に心を砕いた理由には、福沢諭吉の感性という源があるようである。被災地の惨状を訴えるために上京して福沢を訪ねた大垣出身の治水事業家金森吉次郎は次のような回想を残している。

『三田のお宅へ始めて参りまして震災の話をしている中に、驚いたことには〔福沢〕先生が泣いていられる。私の話を聞きながら両眼にいっぱい涙を浮かべ、それがあふれてポロポロと頬を伝い落ちるのをこぶしで横なでにぬぐいながら、熱心に耳を傾けていられました。そして「今度のような震災は千古未曾有の出来事であるから、政府も全力を挙げてこれが救済のことを計らねばならない」といわれ、種々のお話があり、「時事新報のごときは紙面をことごとく解放して十分に罹災者のために力を添えよう」という…。』
(『福沢諭吉伝』4巻)



2012年5月19日(土)
慶應義塾大学大学院アートマネジメント分野講師 鈴木隆敏氏
「『時事新報』に集った福澤諭吉の門下生たち
〜武藤山治と門野幾之進を中心に〜」 (於大阪武藤記念ホール)
http://www.kokuminkaikan.jp/chair/detail20120519.html

3.「大災害非常時における『時事新報』社説の今日性」
いずれもマグニチュード8を超えた明治24年死者7232人の「濃尾大地震」と死者22000人の明治29年「三陸大津波」発生に対しては、現代の東日本大震災の報道と比べて全く変わらず、むしろより的確であり、政府などに対する主張は今のメディアよりシビアに訴えてい る。福澤は両地震で「大災害の被災者を即刻救うのは日本国中同胞の至情、義務である。新聞社などの義捐金募集だけでは足りないので、富豪大家の大奮発を望み、中央政府が国庫金を早急に 支出して救助に尽力すべきである。死傷者の手当てには軍医や看病卒を派遣するべきだ」と、連日のように『時事新報』紙上で編集、論説記者陣を総動員して被災者支援、被災地復旧の義捐金募集キャンペーンなどを行った。復興についても、そのままでは被害者はいかにも気の毒不憫で あり、出来る限り以前の姿へ戻すべく、復興資金として、上場会社が資本金の百分の一の株券を拠出するべきと提案した。又スピードが大切で、議会を通さず、臨時出費でお金を作れと訴えた。現在福澤が存命していたならば、東日本大震災の復興の遅れをどのように論評するであろうか?



福沢諭吉における世論と争論 −明治 23 年の『時事新報』の検討から−
都倉武之
http://www.mediacom.keio.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2015/04/2015Tokura.pdf

次に,この年に行われた時事新報紙面を利用した義捐金募集が 3 つあることに着目したい。紙面を活用した義捐金募集は,福沢においては国家と個人の関係を国民が自覚するという教育的機会として重視され,様々な試みを経て,発展を続けたことを別稿において明らかにしたが (67),この年の 3 回の募集はこれに先立つノルマントン号事件(明治 19 年),磐梯山噴火(明治 21 年),またこれ以後の濃尾地震(明治 24 年),日清戦争軍資醵集(明治 27 年),三陸大津波(明治 29 年)の中で見渡すとき,尋常ではないペースといわなければならない。
 その最初は,8 月 11 日に開始された「虎列剌予防の義捐金募集」である。紙面の本文冒頭に掲載された広告には「大日本私立衛生会に託して府下貧困者施療予防の資に供せんとす」とあり,同日の社説では,磐梯山の時のように全くの慈善ではなく,今回は「自分の身に及ぶ可き病毒を其未だ来らざるに防ぎ止ること」が目的であるとして募金への参加を呼びかけている (68)。なお,この募金は博覧会投票の結果発表の翌日から開始され,博覧会投票の次の企画,という位置づけであったと考えられる (69)。
この募金は,余り注目された形跡がないが,ほどなく 9 月 16 日,オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が紀州沖で沈没した大事故が発生。同月 20 日の一報と並んで,「土耳其軍艦沈没の悲惨」との大見出しで新たな義捐金募集が開始された。趣意書には「広く義捐金を募集して憐む可き罹災者の心情を慰め日本人の慈愛義侠を海外に表明せんとす」とあり,募集広告は翌日には一面の第一段を全て埋めて掲載されるなど,以後力を入れた広告が展開されている。この事故に対する社説も盛んに掲載された (70)。
 トルコ義捐金の総計は 10 月 11 日に 4248 円 97 銭 6 厘と発表され,これを為替証書の形
で軍艦比叡に同乗する特派員野田正太郎に手渡したことが伝えられている (71)。
さらに,トルコ義捐金の締め切り直前の 10 月 5 日より,「三船乗組遭難者弔慰金」募集を開始する。これは 9 月 17 日に遭難した,日本の汽船武蔵丸,帆船頼信丸,布引丸の 3隻の死者の追悼と遺族の救援のための義捐金募集であった。こちらは 11 月 27 日に,合計439 円 47 銭が贈られたと報告されている。帝国議会召集の 2 日後,開院式の 2 日前のことである。
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こちらの論文も、とても参考になりますので、ぜひご一読ください。

災害復旧支援と福沢諭吉──『時事新報』のキャンペーンを中心に──
都倉武之
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalps/48/2/48_152/_pdf


これ以外にも、日清戦争や、三陸大津波の際にも、福沢諭吉が積極的に義援金を集めていたそうです。

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