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No.213【ファンドレイジングスーパースター列伝】1888年の磐梯山噴火(日本) [2018年08月01日(Wed)]

1888年の磐梯山噴火

1888年の磐梯山噴火のこと、まったく知りませんでした。
でも、この噴火災害は、寄付に関してはエポックメイキングな出来事だったようです。
明治国家が設立されて以来の大規模災害でした。

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1888年の磐梯山噴火(1888ねんのばんだいさんふんか)は、1888年(明治21年)7月15日に発生した磐梯山の噴火である。噴火に伴い山体崩壊が発生し、磐梯山を構成する成層火山の一つであった小磐梯は全面的に崩壊し消滅した。そして北麓に岩屑なだれが流れ下り3つの集落が埋没した。その後、岩屑なだれは水分を含み泥流化して長瀬川流域に大きな被害を出した。更に磐梯山東麓を襲った火砕サージによる爆風、土石流によっても被害が出た。この噴火によって477名が死亡したとされ、これは明治以降の近代日本において最も多い犠牲者が発生した火山災害である。
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(Wikipediaより)


196px-Bandaisan_funka_shinzu_by_Yamamoto_Hōsui.jpg
東京進出間もない朝日新聞は磐梯山噴火報道に精力を傾け、山本芳翠作の磐梯噴火真図を付録とした。


Wikipediaからの引用です。

◎噴火後の救援、報道についても、近代日本で初めて発生した大規模災害らしく鉄道や電報が活躍し、日本赤十字社の平時における救援活動、災害時のボランティア活動の始まりとなったり、報道機関主導の広範囲かつ大規模な義援金募集が行われた。また当時広まりつつあった写真や幻灯によって多くの国民に新たな自然災害像がもたらされるようになった。

◎そして戊辰戦争で朝敵とされた会津で発生した大規模自然災害である1888年の磐梯山噴火では、皇室から恩賜金が下賜され、政府が災害救援対策に乗り出した。それらは報道機関主導の広範囲かつ大規模な義援金の募集などとともに、これまでの幕藩体制のもと狭い地域の中で完結しがちであった人々の意識から、国民意識を育てる一つの契機となり、国家としても近代国家のあり方を示す契機にもなった。

◎救援活動の費用支出について
上記の救援活動の費用は、まず1880年(明治13年)に太政官布告により公布された、備荒儲蓄金の制度により賄われたものがあった。備荒儲蓄金とは凶作や天災時、被災者に対して国と地方が平時に蓄えていた資金を、食糧援助、小屋掛料、農具・種籾代として支給し、地租の負担が困難となった者には補助ないし貸与することを定めていた。磐梯山の噴火では炊き出しと救助米の支給、そして小屋掛代の一部として支出された。なお小屋掛代は恩賜金と義援金からなる救済金から、その多くが補助されている。
避難所の運営資金は地方税の救育費からと、一部は救済金から支出された。そして医療に関する資金は全て恩賜金と義援金からなる救済金から賄われた。

◎7月21日になって新聞社15社合同で義援金の募集を発表した。朝日新聞は戊辰戦争で戦場となり大きな被害、苦しみを受けた会津が、また磐梯山噴火という大きな災難に見舞われたとして、会津人民の不幸に同情するという内容の社説を掲載した。翌22日には各紙とも義援金の拠出を促す社説を掲載した。こうして新聞各紙はこれまであまり報道して来なかった被災者支援にようやく目を向け始めた。その後も義援金の募集や犠牲者追悼の記事が掲載され、被害状況について紹介する記事は減っていった。

◎知人の写真師、吉原を説き伏せた田中は、7月20日、ともに磐梯山の現地に向かった。帰京後、吉原が撮影した写真はスライド化され、8月から9月にかけて東京とその近郊の各地で田中の解説のもとで幻灯会が開催された。この幻灯会では入場料10銭が徴収され、会場で義援金も募集されたが、ともに田中、吉原の名前で被災地に送られた。この幻灯会は好評を博し、幻灯が流行するきっかけとなったと見られている

◎義援金の募集
福島県の集計によれば磐梯山噴火に際して集められた募金は、総額40918円58銭となった。これは新聞を通じての義援金、個人、団体が福島県などに送った義援金、天皇・皇后からの恩賜金、皇族、政府要人らの義援金の総計である。義援金は福島県、耶麻郡などを窓口として、全国の多くの新聞社、各宗教団体、慈善団体などが義援金を募った。また日本国内ばかりではなく、ハワイなど外国からも義援金が寄せられた。
中でも新聞社を通しての義援金は合計23000円余りと全体の半分を超えている。災害などに際しての新聞の義援金募集は、1885年(明治18年)の大阪の洪水時に確認されている。そして1886年(明治19年)のノルマントン号事件に際しても新聞を通して義援金が集められた[170]。磐梯山噴火に際しては、東京日日新聞に引用されている福島新聞の記事により、地元福島新聞が7月20日より義援金の募集を開始したことが知られている。続いて7月21日からは、東京の15新聞社が合同で義援金の募集を開始した。最終的には全国55の新聞社が磐梯山噴火の義援金を募集した。
新聞社が広く読者から災害の義援金を募ることは、江戸時代から行われ続けてきた災害時の地域内相互扶助というあり方から、広く一般社会から寄付を募るというやり方へと変わってきたことを示している。これは新聞社にとっても特定層だけではなく、広く一般に購読者を広げるきっかけにもなった。災害時の本格的な新聞社による義援金募集活動は、磐梯山噴火が初めての例であり、前述のように多くの募金を集めることに成功した。
この集められた4万円あまりの募金は、後述のように被災者の生活再建のために分配されることになった

◎募金の分配
福島県は当初、天皇からの恩賜金3000円のうち1000円を被災者への補助、負傷者の救援費用など被災者支援に充て、残りの2000円で公債を購入して、その利子で窮乏している被災者への持続的な支援を行う計画であった。しかし新聞による義援金の募集状況や他の募金の集金状況が好調であったため、改めて範囲を広げて寄せられた募金の被災者への分配が行われることになった。
まず被災者に一時救助金として被災者一人当たり2円の支給が決定した。対象者は被災した地元住民に限らず、磐梯山の温泉に湯治に来て被災し、亡くなった人の家族なども対象となった。この一時救助金は8月10日から18日にかけて分配された。一時給付金の意味としては被災者への生活資金の支給という意味合いの他に、義援金など多くの募金が集まっていながら、被災者の手元に届いていないとの不満を和らげるとともに、被災者へ募金を配分していく福島県の姿勢をアピールする必要性があったと考えられている[175]。
続いて発災後約半年後の1889年(明治22年)2月頃から7月頃にかけて、被災者へ第一回の救済金配分が行われた。この時の救済金配分では、被災状況によって1等から10等まで10段階に分け、1等は60円、そして10等は7円と等級ごとの基準額の救済金が支給された。なお後述のように、噴火時の岩屑なだれの直撃は免れた檜原村の檜原本村、小野川の両集落の住民も、河道閉塞の結果形成されつつあった湖の底に沈んでしまうため、新たな支援対象として救済金配分の対象となった[176]。
募金の残額については、福島県は当初、公債の購入と銀行への預金を行い、その利子で被災者遺族へ持続的な支援を行う計画であった。しかし生活難に苦しむ被災者から救済金の再配分を求める声が上がったため、1890年(明治23年)3月末から第二回配分として、1等99円、10等11円55銭と、やはり被災状況を10段階に分けた各等級ごとに決められた援助金が配分された[177]。
被災者が数百名単位であった磐梯山噴火では、義援金を中心とした募金の配分は被災者の生活再建に有効であった。なお募金の一部は死没者の招魂碑と慰霊碑の建立に使われた[178]。
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もう一つ、この噴火のエピソードです。
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噴火前年の1887年に結成された日本赤十字社初の災害救護活動となり、さらに赤十字活動における世界初の平時救護(それまでは戦時救護のみ)ともなった。
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http://www.jrc.or.jp/plaza/pdf/plaza_volume1_100715_vol4.pdf



Wikipedia:1888年の磐梯山噴火


By 山本芳翠(嘉永3年−明治39年) - 東京朝日新聞 明治21年8月1日号付録(石本巳四雄蒐集品、「地震火災版画張交帖」より), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=37606741
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