No.161【ファンドレイジングスーパースター列伝】備荒儲蓄法(日本) [2018年06月10日(Sun)]
備荒儲蓄法
明治時代に、「備荒儲蓄法」という法律がありました。 明治13年から明治32年までの約20年間、使用されていた法律です。 厳密にいうと、ファンドレイジングではありませんが、明治時代の状況を知る参考として。 この法律では、備荒貯蓄のための基金が設置されました。 国から毎年支出される 120 万円の国庫支出金について、そのうち 30 万円は中央儲蓄金として大蔵省が管理し、残りの 90 万円は各府県の地租額に応じて配付されました。各県では、地租に対する付加税として「土地ヲ有スル人民ヨリ地租ノ幾分ニ当ル金額ヲ公儲セシメ」、国からの配付金と合わせて府県儲蓄金とした。税金として、徴収されたようです。 詳しい情報がインターネットに載っていませんでしたが、こちらの論文に情報が掲載されていました。 基金制度の沿革と課題(1) − 社会保障政策として始まった基金制度 − 予算委員会調査室 藤井 亮二 http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2015pdf/20150701073.pdf (1)備荒儲蓄法 基金の始まりは、明治初期の備荒儲蓄法にまで遡ることができると考えられる。ここで備荒儲蓄法の概要を見ていく。 我が国の予算制度は、明治6年 12 月に金穀出納順序(太政官達第 427 号及 428 号)が制定され、初めて国庫の収支に関して規定されたことに始まる。当時の大蔵卿・大隈重信の財政政策の基本的方針は同 11 年6月に出された「財政四件ヲ挙行セン事ヲ請フノ議」に示されている。ここで当面実施すべき4つの財政政策(財政四件)として@「地租再査ノ事」、A「儲蓄備荒ノ事」、B「紙幣支消ノ額ヲ増シテ之ヲ裁断ニ付スル事」、C「外国関係ノ用度ヲ節減スル事」を挙げ、第2項目に備荒儲蓄制度の創設を掲げている。 続いて、大隈卿は明治 12 年度予算表例言で、予算書において救荒儲蓄補助金の項目を新設したのは国民の備荒貯蓄を奨励するためであるとその必要性を説き、そのために政府も毎年 120 万円の財政支出を実施する方針を示している。 大隈卿が示した救荒儲蓄補助金 120 万円は、明治 12 年度予算歳出総計 5,565 万 1,379円のうちの 2.2%に相当する規模である。仮に平成 27 年度一般会計歳出予算 96 兆 3,420億円と対比させるとその 2.2%は約 2.1 兆円であって、主要経費別の食料安定供給関係費(1.0 兆円)、エネルギー対策費(0.9 兆円)及び中小企業対策費(0.2 兆円)の合計額に相当することとなり、備荒貯蓄にかける当時の政府の意気込みが伝わる。 備荒儲蓄法は最終的には、明治 13 年6月 15 日に太政官布告第 31 号として公布され、翌14 年1月から施行されることとなった。同法の目的は「非常ノ凶荒不慮ノ災害ニ罹リタル窮民」に対する「食料小屋掛料農具料種穀料」の支給(生活必需品の支給)と「罹災ノ為メ地租(國税ノ部分ニ限ル)ヲ納ムル能ハサル者」に対する「租額」の「補助」又は「貸與」であり(同法第1条)、社会保障政策の一環として実施された。 災害と要援護者支援 ──新潟県の地域防災計画の改訂に着目して──(研究ノート) 福祉社会デザイン研究科ヒューマンデザイン専攻博士後期課程2年 喜勢 昌枝 https://www.toyo.ac.jp/file/kiyo/pdf/45/kise.pdf 1.日本の防災対策の歴史と課題 1)日本の防災対策の歴史 日本の災害対策に関する制度は、窮民救助の「備荒儲蓄法」1880(明治13)年まで遡るこ とができる。「備荒儲蓄法」は罹災困窮者に対する食料、小屋掛料、農具及び種穀料の支給 並びに、地租納税不能者に対する租額の補助、貸与を内容とするものであった。その後1890 (明治23)年以降大規模な風水害が相次ぎ1899(明治32)年には、「罹災者救助基金法」が施 行された。各道府県は最低50万円(当時の金額)の基金を設け、国がその一部について補助 金を支出した。その後、数次にわたって改正され、1947(昭和22)年、「災害救助法」が制 定されるまで、「罹災者救助基金法」によって被災者の救助が行われた。 生活復興の理論と実践(仮題) 神戸都市問題研究所編(99年1月発行予定) 第1章:生活復興の基本政策 生活支援の政策展開 中川 和之 http://news.nkaz.org/genkou/tosiken.htm ・備荒儲蓄法と罹災救助基金法 明治になって、七分金のような制度はいったんなくなり、一八六九年に諸府県施政順序として、人口に応じて備蓄をして災害時などに備えるよう令が出された。また、同年の凶荒には自治体職員の給与を一部返上して救助費用に当てるよう求めたり、コメの支給や、種もみと農具の無利息賃貸などが行われた。一八七一年になって、太政官達県治条例中窮民一時救助規則で、コメの支給基準や家屋再建不能者への建築費貸与、農具代の貸与、種もみの貸与の基準が定められ、一八七五年に仮小屋や炊き出しが付け加わった。 一八八〇年になって、ようやく現在の災害救助法の原型となる備荒儲蓄法が発布された。二十年間の時限立法で、政府が十年間毎年百二十万円を支出し、うち四分の三を府県の地租額に応じて分けて、それを財源にして三十日以内の食料の供与や、小屋掛け料は一戸十円以内、農具・種もみ代は一戸二十円以内という救助を行うとした。 ところが、濃尾地震(一八九一年)や三陸地震津波(一八九六年)のほか、各地で洪水も多く、中央政府の儲蓄が支出し尽くしてしまったため、各府県ごとに基金を独立させて設置する罹災救助基金法が一八九九年に施行された。各府県は五十万円(北海道は百万円)を最少額とした基金を用意し、(1)避難所費、(2)食料費、(3)被服費、(4)治療費、(5)埋葬費、(6)小屋掛け費、(7)就業費、(8)学用品費、(9)運搬用具費、(10)人夫賃−−を原則現物支給し、支給基準は地方ごとに規定するとした。 しかし、地方ごとの財政力の違いや救助に対する考え方の相違などから、救助の実態には濃淡があり、救助活動が各府県ごとにばらばらで不徹底にわたりやすく、関係機関相互の連絡に統一を欠くことが多かった。 こちらも参考資料として。 我が国の地震対策の変遷 http://www.bousai.go.jp/kaigirep/chuobou/senmon/kongo/8/pdf/sankou1.pdf 日本では、災害が資金調達の一つのきっかけになっていますね。 |