日本財団公益コミュニティサイト CANPAN CANPANブログ:公益法人,NPO,CSR,社会貢献活動のための無料ブログ

Yo_カッパな毎日

CANPANウェブマスターとしての毎日を綴ります・・・と言いながら更新はかなりゆっくり目なのでご容赦ください・・・


http://blog.canpan.info/cosmo/index1_0.rdf
プロフィール


カテゴリ別記事
最新記事
コメント
トラックバック
宇宙はダークマターに満ちている? [2008年08月07日(木)]
世の中はダークマター(またはダークエネルギー)に満ちているらしい。

ダーク」というと、「悪い」イメージがあるが、そんなものではない。
見えない、わからないという意味。

例えば月は宇宙空間にぽっかりと浮かんでいるようでいて、地球からの重力だとか、太陽からの引力だとか、慣性の法則だとか、様々な力関係のバランスによって浮かぶことができている。(なんだか人が社会で生きていくことと似ていなくもない・・・)

月が地球の衛星として浮かんでいること、これは、実は奇跡に近い偶然の産物なのだが、それはそれとして・・・

この様々な力、つまりエネルギーの総量を色々な見地から考えると、世の中には目に見えたり、自分たちが知り得る以外のエネルギーや物質(というか質量)が存在していないと理屈が合わない、ということらしい。

その総量、なんと85%!

つまり自分たちが把握できている物質(質量)やエネルギーはわずかに15%しかないことになり、他の謎の部分がこの世界の大部分を占めているということになる。

これは大変だ!

ラジオが無い時代、「箱から人の声が聞こえてくる」なんて魔法の世界の話でしかなかったはず。それは単にまだ人類が電波というものを知らなかったからに過ぎない。

もし、このダークマターが解読され、利用できるようになれば、重力すら制御可能になる。

そんな時代が、地球がこのまま破壊されてしまう前に来れば、人類はなんとかその先も生き続けていけるのでは!

と、下の本を読みながら思った。

「Newton」の「未解決の天文学」





宇宙で最初の一番星 [2008年08月01日(金)]
現在、自分たちが存在する宇宙が、約150億年前にビックバンによって作られたと言われている。(これはどうやら本当らしい。)

じゃあ、宇宙で最初に光り出した星『一番星』は?」というのは昔から言われてきたことで、それを探すべく、大規模な観測が実施されてきた。

しかし、現在観測されている最も古い星でも約130億年ほど前の星で、事実上の最古の星は見つかっていないのだ。

その一番星の形成過程を名古屋大学大学院助教の吉田直紀氏らが大規模なコンピューターシミュレーションで明らかにしたとのこと。うーむ、すごい

初めて生まれた星はあまり大きな星ではなかったようだが、世の中すべからく最初に光り出そうとすることは勇気がいる。

たとえどんなに小さな光でも、それは暗黒の宇宙を照らした最初の光

現在、宇宙全体では一個で2000億個の星をしたがえる銀河が2000億個も存在すると言われている。

そんな無限に近い輝きに満ちた宇宙が、最初はたった一つの輝きからはじまったという事実は、なんだか自分を勇気づけてくれる。

------------------------------------------------------------

下の写真は「はくちょう座」のベータ星「アルビレオ

全く色が違う星が二重星になっていてとても美しく、全天で最も美しい星とも言われる。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも出てくるから知っている人も多いかも。
(写真はNASAのウェブページからお借りしました。)

音のある生活 MY iPod LIFE [2008年07月05日(土)]
MY iPod LIFEもだんだんマニアックになってきて、すでにiPod本体は三台、nanoは一台、Shuffleも一台とたかだか音楽再生機に多額の資金を投入してしまっている・・・

「そんなにたくさん何すんの???耳は二つしかないでしょうに???」

という賢者の声も聞こえてきそうな昨今、自分の音楽ライフはiPodによって劇的に変えられてしまった。

そもそも、自宅にある1,000枚近いCDを、コンポに入れ替えながら音楽を聴くなんて正直めんどう臭いことこの上なかった。

そこで、聴きたい曲を集めたマイベスト盤のCDを夜な夜な作っては、聴いていたわけだが、それはヒマだからできるという話。

そんな時に颯爽と現れたのがMDというCDのお手軽版。これは入れ替えするのが楽な上にサイズが小さいので何枚もベスト盤を作ることができて便利だった。

そこにメガトン級の重量で現れたのがiPod。友だちが「1,000曲入るプレイヤーができたらしいよ。」と言うのを聞いて「100曲の間違いじゃね?」と言い返したのを覚えている。

それから早5年くらい?今やiPodには最大で40,000曲とかが入ってしまう時代になった。

40,000曲と言ったら、CD一枚に10曲入っているとして、4,000枚!
一生かかってもそんなに聴けるかどーかっていう分量だ。
したがって、すでにその数値には自分の中では意味がない。

と、なると自分がiPodをそんなに買ってしまう理由はなんだろう・・・

そう、iPodは自分のライフスタイルに合わせた音楽シーンを作り出すためのツールなのだ。

普段の通勤用には最新のiPodクラシック80Gがフル稼働。
お風呂ではすでにリタイヤ気味のiPodPhoto30Gを防水機能付きのスピーカーと共に配置、リビングではiPodの第二世代の40GをiPodの再生機と共に置いてあって、いつでも好きな曲が聴ける。(この二台はバッテリーがダメになったので分解して新しいのに取り換えたりもしている。もうAppleのサポートは受けられないが・・・)

夏の薄着の通勤とトレーニングの時にはiPod Shuffleを胸にクリップで止めたり、腕に巻いて使ったりしている。

2Gのnanoだけはイマイチ使うシーンが無い・・・

という具合に、家の中を見渡すと、音のあるシーンには必ずiPodがいたりする。

革命的な発明品は、人間の行動パターンを劇的に変えてしまうが、iPodにはまんまとしてやられている・・・。

しかも、今のiPodは動画も見れるし、写真も見れる、今度はそれに携帯電話が付くと言うから、音楽再生機などでは括れないiPod戦略に脱帽するしかない。

と延々と書いてきて、言いたい事は、10,000曲入っているMY iPodをシャッフルして、「一人イントロクイズ」をやりながら聴くと、とんでもなく楽しい・・・ことに気づいた・・・(ホントは教えてもらった)

ただ、それだけだったりして・・・

ウルビーノのヴィーナス展 [2008年05月03日(土)]
人気爆発中の「ウルビーノのヴィーナス展」を観に国立西洋美術館へ

世の中は黄金週間、混んでも仕方がないのだが、半端なく混んでいた・・・

会場の中にも間違っている人がいてびっくりしたが、ヴィーナスを描いたのはウルビーノではない。

ウルビーノというのは、このビィーナス画の制作を発注した公爵の名前で、ウルビーノ公の自宅の寝室に飾られていた絵なのでそのように呼ばれているだけの話。

実際にこの絵を描いたのは、ヴェネツィア派の代表、「画家の王」と呼ばれたティツィアーノだ。

行ってわかったのだが、この展覧会のテーマは、ティツィアーノをテーマにしたものではなく、西洋美術におけるヴィーナスの変遷を追ったものだった。

「なるほど、それは面白い」と思ったのだが、あまりの人の多さにめげてしまい、カメオとか綺麗な装飾が施された煙草入れとか、そういうのはほとんどチラ見でやり過ごした・・・

だが、展覧会の目玉であるティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」だけは、なんとか目の前に行って眺める。

彼の特徴は、人の肌の質感の表現力とその表現力を活かした人物の表情と言われている。

彼の絵の代表作を見るのはこれが初めて。その質感と人物の存在感に圧倒される。
人肌の質感をここまで表現できる技法はまさに「画家の王」たるにふさわしい。

この絵を観に来るだけでも価値のある展覧会と言えたが、考えてみると、ヴィーナスという存在は芸術という側面よりもむしろエロティシズムと深いつながりの歴史を持っている。

ここで、もし「ウルビーノのヴィーナス」が芸術ではないと仮定すると、上野公園の入口とかJRの駅のホームにどどーんと裸の女性が横たわっているのを皆で眺めているという話になるわけで、すごい話だ。

という、どーでもいいことを考えながら、もうちょっと空いている時に来たかったと思いつつ、美術館をあとにした。

横山大観展 [2008年02月29日(金)]
2008年3月3日まで、国立新美術館で「横山大観展」をやっており、夕焼けきれいな国立新美術館に足を運んだ。



国立新美術館に行ったのはこれが初めてだったので、新しいタイプの美術館を作ろうとした心意気の匂いがぷんぷんする美術館のたたずまいに「おおー!」という感じ。

そもそも発想として常設展を持たないというのがとても割り切っていて良い。
東京のど真ん中という恵まれたロケーションなら集客力も間違いがなく、むしろ常設展で余計なコストを定常的にかけ続けることを考えれば、そのコストを特別展に投入したほうがいい。

横山大観という人は、個人的にとても好きな画家の一人だ。

彼の画風をいちいち話すほど専門的な知識を持っているわけではないので、個人的な主観で言えば

「波がいい」

彼の描く絵の中で、特に「波」の描写がとても好きだ。


【朝日新聞ウェブサイトより】
北斎展 [2008年02月05日(火)]
2008年1月27日まで、江戸東京博物館で特別展「北斎展」をやっていたので、寒風吹きすさぶ中、朝も早くから観に行った。



葛飾北斎の人気は最近ますます上がっているように思う。
そのおかげもあって、このような形で北斎の絵を見るチャンスに恵まれることはとてもありがたい。。。

そして、もう一つ、一人の画家にフォーカスした展示会というのは、その人物そのものに迫ることができるという点においてさらに興味深い。

同じ画家であっても、いや、それだからこそ、その人生の中で描かれた絵にはその時に画家が考えていたことや環境などが反映する。それを時間を超えて確認する作業というのは、歴史を紐解くようで楽しい。

それが浮世絵の場合、さらにもっとストレートに歴史を知ることができる。

歴史上、文字による記録というものを庶民が手にしたのはさほど古い話ではない。

例えば、平安時代、京都には多くの町民が生活していたことはわかっている。しかし、それだけの人たちが何を生業として生きていたのかはよくわかっていないのだ。
なぜなら、彼らは自分たちの行動を逐一文字に書き残したりしていないからである。

つまり、一部の上流階級の行動は公式文書も含め数多く残されている。
しかし、それ以外の人たちが一体何をしていたのかは公式文書にはほとんど書かれていない。したがって文字で確認することが非常に困難なのである。

そこで役に立つのが洛内洛外図のような絵。これらは当時の街の様子やそこで生活している庶民たちの姿をそのまま描いている。したがって、それらを読み解いていけば彼らの生活の一部が垣間見えるというわけだ。

その江戸時代版が浮世絵である。
もっとも江戸時代というのは、世界でも稀有な、平和な時代が200年以上も続いた時代なので、ここで花開いた文化は江戸の町民と一体でもあった。

したがって町民の様々な暮らしぶりは町民自らが文字に残していたりするので、浮世絵はそれらの文字情報を視覚情報に変換しているというほうが正しいかもしれない。(「かわら版」の登場も江戸時代。)

江戸末期には「街道ブーム」のようなものが発生、庶民がこぞって東海道を旅するということが流行ったりしたが、これはいかに治安が良かったかの表れでもある。

余談が長くなってしまった。。。

その北斎展で一つ気になる絵があった。
「海女」を描いた絵なのだが、身体が奇妙な描かれ方をしているのだ。

ものすごい不自然な歪み方をしたその身体の描き方について、博物館のほうでは理由がよくわからないというコメントがついていた。

私はこの歪みは、水面上から水面下の海女を見た時のゆらぎの表現ではないかと思うのだ。

北斎がこの絵を描いたのはおそらく船の上である。
そこから海女が海に潜って、また戻ってくるというのを熱心にデッサンしたのだろう。
となると、水のゆらぎを当然表現するはずで、それを北斎流に描いたのがこの歪みなのではないだろうか。

というのは、自分もそのような経験があるからだ。プールで潜る友だちの姿を見ていて、別の生き物のように見えた。奇妙な揺らぎの中でそれは不思議な光景を醸し出し、なんだかとても怖いものを見ているような気になった。

それは底が二メートルもないようなプールでのことだったが、海女が潜る海はどこまでも黒い底である。底知れぬ黒の中で揺らぐ海女の白い肌は、より印象深いものであったろう。

浮世絵のすごさを写実性に求めるのは意味が無い。同時代におけるヨーロッパの写実性は浮世絵のおよぶところではない。

それこそギリシャやローマ彫刻が紀元前にはすでに立体的な造形を完成させていたのに対し、日本の彫刻が同じような表現技術を獲得するには約1,000年の時を経、運慶の出現を待たなければならなかったのと同様である。

では、浮世絵の凄さとは何か?

それは、心の眼の表現だと思う。(すでに誰かが同じようなことを言っているのだろうと思うが私は研究者ではないのであまり論文等に興味が無い。)

北斎展では、他にも有名な「赤富士」「黒富士」なども展示されていたが、写実性を優先させるとするならば、こんな富士はあり得ない。ましてや有名な「品川沖浪裏」の巨大な波の間から富士が見えるなどもっとあり得ない。

しかし、そのくらいにすごい波に船がもまれているという情景を我々はその絵から感得することができる。

この制約の無いデフォルメこそが浮世絵の強みであり、この遊び心というか、心で感じた色と形を自由に表現する技能こそが浮世絵の凄さなのだとあらためて思う。

この発想の自由さと大胆さ、表現の多様性は、そのまま今の日本のマンガ文化につながっているようにも思う。
世界から認められる「MANGA」の源流は浮世絵にあるのではないだろうか。


【写真は江戸東京博物館ウェブサイトより】
雪とメル [2008年02月03日(日)]
昔、雪が降ると「犬はよろこび庭駆け回り」、「猫はこたつで丸くなる」と教わったので・・・

久しぶりに雪が降った東京で、愛犬のメルを散歩に連れ出した・・・

すると・・・

なんと数歩歩いただけで、「うおー!さむい〜」とぶるぶる震える始末・・・弱っ!

あんまり仕草がかわいいので、それが見たくて、もうちょっと歩かせてみたひどい飼い主

室内犬は猫と変わらないことがわかった日曜の朝

恐竜の絶滅とマヤ文明 [2007年04月26日(木)]
昔から古代文明、特に南米系の文明が好きなので、先日、テレビの「地球ふしぎ発見」のマヤ文明特集を見た。

その中で、「セノーテ」と呼ばれる淡水の池の話が出てきた。
マヤという文明は非常に興味深い点を数多く持っているが、最初にマヤ文明の地理的条件を無視することはできない。

マヤ文明は今のユカタン半島を中心とした文明だが、文明が発祥する最も重要な要素である「水(淡水)」の存在を世界地図上では確認できない。

人間が定住し文明を築くには、安定した水源がなければならず、四大文明はもとより、全ての文明にとって「水」は命である。

そんな中で、マヤという巨大文明を支えたのは大河でもなく、雨でもなく、「セノーテ」と呼ばれる池であった。

この「セノーテ」は、小さいものも合わせると数千とも言われる数のあまり大きくない池で、水の透明度は高いが、水深が深いため湖底を見ることはできない。

そのため神聖な場所として崇められてきたセノーテであるが、番組によれば、最近の調査で実は550kmにも渡ってつながる地下水脈であったことがわかったそうである。

その地下水脈ができた理由が、隕石の衝突によってできた大きなクレーターの窪地に石灰質の土砂が積もり、長い年月をかけて中が水が溜まって石灰が溶けて空洞化、いわゆる鍾乳洞状態になって強度が無いところがズドンと落ちて池が地上に現れたということであった。

ここで、ふと「ユカタン半島に落ちた隕石・・・恐竜の絶滅につながったあの巨大隕石かな?」と思い、調べてみたところ、それらしい記事を見つけることができた。

マヤは暦と優れた建築技術を持ったすばらしい文明であったが、6500万年前という時間がそんなマヤを生んだという事実に妙に感動してしまった夜であった。


写真はこちらのサイトからお借りしました。
オタクと宗教について考える [2007年04月23日(月)]
久米繊維工業株式会社 社長の久米さんからありがたいお誘いをいただいて、「オタクについて、ゆるくも真面目に考える」勉強会に参加させていただいた。

勉強会のタイトルは、勉強会の正式名称自体がまだ決まっていないこともあって、とりあえず勝手にそんな感じの勉強会だったという名前を名づけただけなのでご容赦ください。。。

最初に「オタク市場の研究」という本を出版された野村総研さんからのお話しを伺い、その後ディスカッションを行った二時間であった。

そこで説明を受けたマーケットを活性化させるためのフレームとして、

イベント
聖地
伝説

という三要素が必要という話がとても興味深かった。

マーケティングフレームとして、通常の4Pに加えた3C、「収集(Collection)」、「創造(Creative)」、「コミュニケーション」という3つを加えたものをメインとして、先述の三要素はその補助フレームという位置付けであった。

参加者から「オタク市場の場合、補助フレームの三要素がむしろメインではないか」というご指摘があったが、これは私も全く同感であった。

それはさておき、この三要素としてのキーワード、私は宗教を連想した。他の参加者からもコメントがあったので、宗教を連想したのは私だけではなかったようだ。

浄土真宗という、現代では曹洞宗に次いで信者が多いと言われる宗派がある。親鸞が開祖の宗教であるが、この浄土真宗は、戦国時代に織田信長と戦った一向一揆の元締め、本願寺蓮如が出現しなければ現代まで伝わらずに消えていた可能性もある宗派である。

この蓮如は、まさにこの三要素を布教に使い、風前の灯であった浄土真宗を現代につながる隆盛に導いている。オタクの市場理論と蓮如の行為が完全に重ねうるのは、心の傾倒というオタクと宗教とに共通する要素が濃いからであろう。

さらに思う。

日本人は無宗教だと言われる。
たしかに宗教という視点で見てしまうとそうかもしれない。しかし心理学的に見ると、もしかすると著しい多様性があるだけで、一人一人が心にオリジナルの宗教を持っているだけかもしれない、とふと思った。

要は崇拝しているものが宗教的な神以外の何かというだけの話で、それが今回の勉強会の中で出たモー娘でもいいだろう、鉄道でもいいだろう、ポケモンでもいいのかもしれない。

行動様式の多様化と共に、八百万に神が存在するとした日本人が古来から持つ許容性がオタクという形でさらに顕在化、心のよりどころが宗教上における神ですらなくなっただけではないのか?

とすれば、日本人は世界が理解できないだけで、とてもユニークな宗教観を有していることになる。
その宗教観が今、「Japan Cool」として世界にもてはやされる「オタク」への憧憬の原動力になっているのではないか? そうすると、あの熱狂性も理解できる。

全然話は逸れてしまうが、先日、真言宗の総本山「金剛峯寺」の東京別院でマンガ「北斗の拳」の主人公の兄「ラオウ」の葬儀がしめやか(?)に行われ、3000人のファンが追悼したそうで。。。マンガの設定として、「北斗神拳」は一子相伝、それを日本に伝えたのが空海の弟子なので真言宗ということで。。。うーん、生きていて楽しい時代である。

それさておき、「オタクは日本の宝」と締め括った野村総研さんのお話しには深く首肯できた私でした。貴重なお話しをありがとうございました。



写真は「石橋美術館」のHPよりお借りした「「丹霞焼仏(たんかしょうぶつ)」の図(国宝)

なぜこの絵なのかわかったオタクな方、ぜひコメントください。
ダリ回顧展に行く [2006年12月30日(土)]
上野の森美術館で1月4日まで開催されているダリ展を観にほてほてと朝から出かけました。

本当はずっと前に行きたかったのでしたが、とにかく、とにかく、人気があって長蛇長蛇の列の勢いに負け、美術館に足を運んでは断念を繰り返してきたのです。

しかし、いよいよ会期が無いということで、普段出勤するよりも早起きをして並ぶつもりで出かけました。

10時開館なのに、9時にはすでに列ができてしまい、9時30分に前倒しの開館、寒い中を待つ身としてはこの配慮はとてもありがたかったです。

で、以前のゴッホ展もそうでしたが、とにかく『ダリってこんなに人気があるの???』という混雑っぷりと熱心ぶり。

展覧会としては、作品数もそれなりの数で、しかも初めて見る絵が多かったので満足できました。(好きな作品が少なかったのだけは残念・・・)

シュールレアリスムや前衛アートは、例えば印象派のように純粋に美しさを鑑賞するというより、何を表現しようとしたのかを読み解くみたいな面白さがあるので、そういうアートに対してこれだけ人気が出るというのは、日本人が優れた感性と教養を持っていることの現れではないかと思うわけです。

一方で「全然わからないよー、解説して欲しいよ」という方も多いことでしょう。
そんな時、解説書なんかを紐解くけど、もっともらしく書いてあるんだけど、結局何が言いたいのかわからないという経験をしますよね(笑)

私もそんな一人なので、ぜひここは「自分が感じたことが全て!」と割り切って観ることをお勧めします。

ダリ氏がどんな人生を送って、この絵はどんな時期に描かれたのか、どんなことをその頃ダリ氏は言っていたのか、といったことを押さえたら、あとは鑑賞する自分の世界でダリ氏を感じてみましょう。

そもそも抽象的な世界を文字化して説明すること自体に無理があるはずです。

すると面白い視点が生まれます。鑑賞者の個々人の人生が、ダリ氏の絵の中のダリ氏の人生とシンクロ&フューチャーされて、その絵を感じていると言えばいいのでしょうか。。。

意味分からないこと言いはじめてますね、これも文字化するのは意味がないのか。。。

ということで、最近はいい展覧会が多いなぁ・・・とうれしい昨今です。
| 次へ