3機のB29が蔵王に墜落 [2009年02月28日(Sat)]
太平洋戦争末期、日本本土の空襲をしていた米国空軍の爆撃機B29が冬の蔵王山腹に激突墜落した歴史があります。その墜落した地点に石碑があり、登ることが出来ない方もその事実を知ることができるように、その碑文のことを記したサインボードが、蔵王山麓に建てられています。その碑には以下の文が英文と和文で書かれています。
1945年3月10日、太平洋戦争で日本に襲来したアメリカ空軍B-29が3機この山中に墜落し、その乗員34名が全員死亡しました。ひどい吹雪の夜のことでした。今この碑を建てて異郷の山中に果てたアメリカ空軍将兵の霊を慰め、あわせて人類永遠の平和を祈ります。 わが父の家には住み家多し ヨハネ伝第4章第2節 1961年9月 不忘会建立 この3機の機体のほとんどは戦後米軍によって回収されたと聞いていましたが、高校山岳部時代、沢登りで大若沢を遡行した折、かなり大き目の機体を見て驚いたのを思い出します。急峻な崖もあり機体の回収も不可能なところもあったのでしょう。不忘の碑の周辺にはいまでも沢山のボルトや部品がさび付いた状態で散乱しているのを見ることが出来ます。 こんな東北の田舎でもあの戦争の悲しい出来事があったのです。 ------------------------------------------------------- 第2次世界大戦で、日本を降伏に追い込んだアメリカの4発(エンジン4基)爆撃機。 日本の爆撃機の10倍近い最大9トンの爆弾を運び、500km/時以上速く飛べ、最新鋭のノルデン爆撃照準器とレーダーで目標を捉え、計算機を連動させて精密爆撃した。排気タービン(ターボ)付エンジンで、空気の薄い1万mの高空でも高性能を発揮。通常エンジンの日本の戦闘機は上がるのが精一杯、地上の高射砲の弾丸も届かなかった。 また、0.2気圧、マイナス50℃の外気でも、乗員は、現在の旅客機と同じ与圧キャビンの冷暖房の中、酸素マスクや防寒着なしで快適に行動できた。自動操縦装置や敵味方識別装置を備え、防御力も強力で、4基の遠隔操作砲塔などに合計11基の機関銃を載せた「超空の要塞」(Superfortress)、当時の超ハイテク兵器だった。それがなぜ1800mもない不忘山腹に激突したかは未だに謎とされています。 このB29爆撃機は東京大空襲など、合計17万トンの焼夷弾と爆弾の投下で日本中の都市を焼き尽くし、さらに、1945年8月6日には広島、9日には長崎に原爆を投下し、8月15日、日本は無条件降伏するに至った。 ※この関連の記事アップしたのは理由があります。後日のお楽しみに! |