中越地震の被災者で災害ボランティア仲間の小千谷の間野棟梁の被災手記の最終回です。
【その9】
牛を預かってくれる人を探しに町に行くとオヤジが言い出した。
町の方に抜ける道は荷頃地区の気合の入った錦鯉屋さんがブルで道を作ったので車一台の幅なら行けるようになった。
オヤジは町に向かう。
俺とりゅうちゃんは日課の牛太郎の餌くれに行った 小栗山地区に入ると りゅうちゃんの携帯電話が鳴った。
小栗山地区は携帯が通じるようになって驚いた。
もっと驚いたのは携帯の話し相手。
となりに居てもわかるほどの物凄い剣幕 いろんな悪い情報が飛び交い混乱してるみたいだったな。
心配されているみたいなんだけど、問題にもなっていた。
うちらの悪あがきもこれで終わりかとこの時そう感じた。
結局、自衛隊の人に早く避難をするようにと言われ、ここでの生活はあっけなく終了。
今、考えると大した活動もせず村に残って焼肉を食ってた迷惑な人たちって感じだったな。
小千谷の総合体育館に向かう。
安全な所に行けて嬉しいという気持ちには全然なれなかった。
ずっと村に居たかった。
【その10】最終回
総合体育館に着くとこれは祭りなのか? めでたい日なのか?みたいな程の盛りあがり。
マスコミの車もたくさんあるし、モスバーガーや蕎麦や豚汁の所にはものすごい人の列。
今までの生活と全く違ってて気持ち悪くなった。
早く避難していた知人にここでの生活のことをいろいろ聞く。
食い物はあふれるほどあるし 服や毛布その他、生活用品は全部タダ。
タダなの〜? 無一文の俺でもこの祭りに参加できるの〜?みたいな事を冗談で言った。
だけど気持ちは、お山に帰りたい!!だった。アルプスの少女ハイジの気持ちが初めてわかった。
被災者は避難所でおとなしくオニギリか乾パンを食ってるもんだと勝手に勘違いしてたけど、まさかモスバーガーやパキスタンカレーを食うなんて夢にも思わなかった!!
総合体育館の中に入っても凄かった。
物凄い数の毛布や防寒着を一人でもらってる人。
食いきれない程のジャム&マーガリンのコッペパンをもらっていく人。
何人家族だよと!!と小一時間問い詰めてやりたい気分になるほどだったな(そんな度胸もないけど)
自分も骨抜きになるのは時間の問題だなとこのとき思った。
とまどいながらこの日から何千の人達と共同生活が始まる。
正直、体育館に避難なんて人事、テレビの中の事だと思ってた。
被災者になるなんて自分には絶対ありえあない事で関係無い事だとも思ってた。
はっきり言って浮かれてたし自然を舐めていた。
この先なにが起こるかわかんねーけど、この経験を忘れずに生きて行きたいと思います。
もう二度とこんな経験はイヤですが...
で事でこのブログを終わりにします。
今まで読んで下さったかたありがとうございました
またどっかで遭いましょう
では
※画像は中越沖地震で傾いたブロック塀の処理をしている棟梁です。
※牛太郎とは地元の小学校の児童が飼っている角突き牛です。
------------------------------------------------------
このブログに引用させていただいた棟梁のブログです。
http://blog.livedoor.jp/teechan_tetti/内容については若干手をしれた部分もあります。
中越地震が発生したとき、私は日本列島で暴れまくった超大型台風23号により、最も被害の酷かった兵庫県豊岡市でVCの立ち上げの支援に、大阪在住の医療ボランティアさんと1日半かけて漸く辿り着いた日だった。
豊岡の被害の大きさからボランティアが使う資材が全く足りないと予想され、新潟の災害系NPOに物資の運搬を依頼し、それを待っている矢先の地震だった。
その年の7月も新潟は大水害で三条市、見附市、旧中ノ島町を走り回っていた。正直また新潟かよって感じで、豊岡で合流した、東京・栃木・長野・京都・名古屋・広島などの災害系ボランティアのみんなとラジオにかじりついていた。
その時、ラジオから被災地で火の手も上がっていると聞こえてきた。まさか神戸の長田区のようになってるのかなとかいろいろ今後について思い巡らしていた。
それがその後、ボランティア活動が縁で、深い付き合いをするようになった棟梁の大事な家もそのうちの1軒だったのです。
この手記から地震災害のことや被災者の心理など、いろんなことが見えていきます。記録を残すことは、災害や防災を学習する意味においてもとてもとても重要なこと。思い出したくもないことばかりだったでしょうが、本当に書いてくれてありがとうございます。
地震から4年とい歳月。人が辛い過去を語るにはやはり時間が必要なのだろうと改めて思いました。
※バックナンバーです
◇
中越地震のある被災者の手記【1】◇
中越地震のある被災者の手記【2】◇
中越地震のある被災者の手記【3】◇
中越地震のある被災者の手記【4】