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仮設空室の利用 [2012年01月23日(Mon)]
政府は23日、岩手、宮城、福島3県に建設された仮設住宅の空室を、被災地で活動するボランティアや自治体職員の宿泊施設として活用することを認める方針を決めた。近く3県に通知する。

被災地では、復旧・復興作業や被災者支援に当たるボランティアや自治体職員などの宿泊施設が不足。一方、生活の不便さなどから仮設住宅の空室が目立ち、一部自治体などから空室の活用を求める声が出ていた。

厚生労働省によると、仮設住宅の空室は1月20日現在、岩手599戸、宮城876戸、福島2452戸の計3927戸
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因みに応急仮設住宅1戸当たりの建築経費は災害救助法で定められている金額を大きく超えているのが実情で、400万円とも500万円とも言われている。
仮に400万円として、4000戸の空室数を掛けると総額160億円が無駄になっている計算になる。そんなお金があったらもっと被災地のために有効に使えるのに・・・・
Posted by coco at 22:45 | 東日本大震災 | この記事のURL
Rebuilding Japan After Tsunami [2012年01月23日(Mon)]
Posted by coco at 07:23 | 東日本大震災 | この記事のURL
大川小学校のこと [2012年01月23日(Mon)]
7カ月半ぶりに大川小学校の犠牲者遺族に対する市教委の説明会が22日午後、宮城県石巻市にて開催された。

(以下産経新聞配信)

石巻・大川小説明会 「天災と人災両面」 学校、住民 避難決断で迷い
産経新聞 1月23日(月)7時55分配信

東日本大震災で児童74人と教諭10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の遺族らへの説明会が22日開かれ、市教委は検証報告書を公表した。説明会は3回目で約7カ月半ぶり。市教委が関係者から聴取した結果、地震直後から津波襲来までの間、避難先をめぐって、学校側と住民側で意見が分かれ、裏山への避難が見送られた経緯が明らかになった。

境直彦教育長は「天災と人災、両方の面があったと思う。学校として津波への危機意識を高めておくべきだった」と謝罪した。当時、児童らと一緒に避難していたが、津波から逃れて助かった男性教諭が昨年6月に保護者や校長にあてた手紙も朗読された。

報告書によると、児童らはまず校庭に避難。校舎の裏山に二次避難することを目指す同校教頭と、「津波はここまで来ない」として、それより低地で山崩れの心配がない三角地帯への避難を主張する地元の行政区長との間でさまざまなやり取りが交わされた。裏山以外にも避難先の候補は浮かんでは消えたようだ。

津波が来る約15分前には広報車で訪れた市職員が「体育館はどうか」と打診。学校側は「電球などが落ちてくるので危ない」と拒んだ。校舎の2階なども検討されたが、最終的に三角地帯に避難が始まった。

調査担当者は個人的見解と断ったうえで「校庭に居続けるか山に逃げるかの2択しかなかったのが問題。山は木が倒れ、崩れる心配があるので校庭に居続けたのではないか」と話した。

報告書は
(1)災害対応マニュアルの不備
(2)教職員の津波に対する意識の低さ
(3)地域の防災体制が確立されていなかった
の3点を指摘。市教委は災害対応マニュアルに不備があった小中学校のうち、学校管理下で児童に被害が出たのは大川小だけだったとした。

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こんな不幸極まりないことが二度と起きないよう、自然災害に対しての市民防衛(シビルディフェンス)意識を少しでも高めて行けたらと思う。

4月初旬、初めて訪ねた時の大川小学校
あまりの惨さと凄まじさにただ茫然としていたのを思い出す。


捜索を見つめる家族
Posted by coco at 06:19 | 大川地区 | この記事のURL
大川小学校のこと [2012年01月23日(Mon)]
避難より議論だった40分…犠牲者多数の大川小

東日本大震災で全校児童の約7割にあたる74人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校で、地震発生から児童らが津波にのまれるまでの詳細な状況が13日、市教委や助かった児童の保護者らへの取材で明らかになった。

学校側が、具体的な避難場所を決めていなかったことや、教諭らの危機意識の薄さから避難が遅れ、さらに避難先の判断も誤るなど、様々な〈ミスの連鎖〉が悲劇を招いた。

市教委の調査などによると、3月11日午後2時46分の地震発生時は、児童は下校中か、「帰りの会」の途中だった。校舎内の児童は教師の指示で校庭に集合し、学年ごとに整列した。下校中の児童もほとんどが学校に戻った。

午後3時頃、点呼を終えると、教頭と数人の教諭が桜の木の下で、「山へ逃げるか」「この揺れでは木が倒れるので駄目だ」などと話し合っていた。学校の津波の際の避難マニュアルは避難場所について「高台」としていただけで、具体的な場所を記していなかった。

ただ、津波被害を受けた周辺の5小中学校のうち、1校には避難マニュアルがなく、作成していた4校のうち1校は避難場所を「校庭」としていた。

一方、防災無線からは大津波警報が鳴り、避難を呼びかける声が響いていた。余震が続き、泣き出したり、嘔吐(おうと)したりする子もいた。保護者らが相次いで児童を迎えに訪れ、教諭は対応にも追われた。「ここって海岸沿いなの」と不安がる女子児童や、「死んでたまるか」と口にする男子児童もいて、騒然とした雰囲気になった。

当時6年生の女児を連れ帰った母親(44)によると、母親が担任に「大津波が来る」と慌てて伝えた際、担任は「お母さん、落ち着いてください」と話した。しかし、すぐに避難する様子はなく、「危機感がないようだった」という。暖を取るため、たき火をしようとした教諭もいたとの証言もあったが、市教委は確認できなかったとしている。

市教委の調査では、その後、市の広報車から「津波が松林を越えてきた。高台に避難してください」と呼びかける声が聞こえた。教諭と、この時も、集まった地域住民の間で「山へ逃げた方がいい」「山は崩れないのか」などのやり取りがあった。結局、約200メートル先の北上川堤防付近にあり、堤防とほぼ同じ高さ6〜7メートルの高台に避難することになった。

避難を始めたのは地震から約40分後の午後3時25分頃。約10分後の午後3時37分頃、6年生を先頭に、学校の裏手から北上川沿いの県道に出ようとしたところで波が襲い、高台ものまれた。

(2011年6月13日14時55分 読売新聞)
Posted by coco at 06:05 | 大川地区 | この記事のURL
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