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HOME VIDEO DAYに参加しました [2014年03月11日(Tue)]

3月1日、シネミンガがオフィスを借りているDCTV(Downtown Community Television Center)
HOME VIDEO DAY というイベントが、ニューヨークで初めて行われました。

photo-1.JPG

昨今は、撮るのも見るのも、全てデジタル。
ビデオカメラもカード式のものが増えてきましたが、1995年頃までは、VHSやminiDVなどのテープが主流でした。
そんなテープ式のビデオをみんなで持ち寄って、みんなで見よう!というものです。
(2002年までは、HOME MOVIE DAYという16mmや8mmフィルムを持ち寄るイベントをしていたそうです)

photo-2.JPG

シネミンガは参加団体の一員として、アイヌ民族の萱野志朗さんが1992年に制作された「トノトカムイ・酒の神様」を5分上映し、プレゼンテーションもしました。
時間制限があったので、全20分の作品の中から、私がハイライトを編集して5分にしました。
下のビデオが、その英語字幕版です!

冒頭のアイヌ語の内容は以下です。

ヤイウプソロ  家懐に(家の中で) 
エプンキネワ  (私たちを)守って  
ウンコレク二  下さいますように
タパンペ クエプ これこの食べ物を捧げ
ネルウェ タパンナー  このように申し上げ
コンカミナー  私は礼拝(らいはい)いたします 



VHS-Cで撮影された物である事、萱野さんはアイヌ文化を記録したいという熱意の元、
自らカメラを持って作った事、プロの編集マンがボランティアで編集した事。
萱野さんが、アイヌ語でコミュニティラジオ放送をプロデュースしている事などを紹介しました。

私たちがプレゼンした時は、会場には50人ほどの人が居ました。
皆さん、興味を持ってくれたみたいで、上映中の会場は、しーんとしていました。
終わった後は拍手をもらい、「面白かった」と声をかけられました。

この日は、入れ替わり、立ち代わり、次々に人がやってきて、色々なビデオが上映されました。
ベッドルームで友だちを撮ったもの。洪水の様子を映したもの。
人種差別を訴えるイベントでのスピーチを撮ったもの。などなど・・・。

photo-3.JPG

DCTVの他に、イベントを協同運営したのは Third World NewsreelActivist Archivistsという団体。
シネミンガと活動が似ている所もあり、スタッフと色々な話ができた事も良かったです。

英語版は完成したので、次は20分、全作品を見せる機会を作っていきたいと思っています。
ロベルティーナさんの話 [2014年02月14日(Fri)]

マグイのブログページを日本語・英語・スペイン語で読めるようにしました。

今日はロベルティーナさんの話です。
リンクは、こちら

1.jpg
ホセさんの声 [2014年02月09日(Sun)]

柴田大輔さんが、聞き取りしたホセ・チンガルさんからのメッセージです。
ホセさんは、Resguardo Magui という地域グループのリーダーであり、
カビルド(地域議会のような物)の相談役も担っているそうです。

***以下、Maguiのブログより(翻訳・柴田大輔)***

戦闘が始まったのは昼の12時前でした。
その時私は妻と自宅の敷地にある魚を養殖している池を見に行っていました。
谷を挟んだ向かいの山からゲリラがこちら側に向かって4発爆弾を打ち込んできました。
こちら側には、山の上に軍がいて、そこへ向けてのものです。
戦闘の後、人権団体へ報告するホセさん(2月5日撮影 柴田大輔).jpg
コピーライトマーク柴田大輔 2/5/2014: 戦闘の後、人権団体へ報告するホセさん)

一つが私の家から100mくらいのところに落ちました。
家が大きく揺れました。
その後、銃を発砲してきた。これが長かった。2時間半続いた。
それから銃声が単発になって、完全に収まったのは3時間後だったでしょうか。
家に孫娘がいてお絵かきをしていたんだけど、びっくりしていました。

ここは危ないからと10人でこの場を離れました。私の家族は5人。
もう5人は朝からこの先の畑にチロ(この地域の主食の小ぶりのバナナ)を採りに行っていた家族で、お母さんと4人の小さな子どもたち。
銃弾が上空を行き交っていた。状況が落ち着くのを待って、(避難所である)学校に向かった。
この家族は、逃げるのに邪魔になるからと、うちに折角採ってきた沢山のチロをおいていきました。
(訳者注:ホセさんの家族は学校に向かい、チロを採ってきた家族は自宅へ帰った。)
banana.jpg
(CHIRO・地元のミニバナナ)

いつまで学校にいるかはわからない。
もうこの状況が始まって20日が経ちます。
(訳者注:地域に軍が入りゲリラとの間に緊張が高まってから)

昨日(2月4日)も、自宅近くで5回の爆発があった。
これまでに死傷者が出ているのかはわからない。もし軍に死傷者が出ていたらヘリコプターが来るだろう。でもそれはまだ来ていない。
(訳者注:住民に死傷者は出ていない。)
これからどうなるかわからない。

2014年2月5日
紛争に翻弄されているマグイ民族からの便り [2014年02月09日(Sun)]

日本で寄付を受けたデジタルカメラの1つをコロンビアのアワ民族が暮らす
マグイというコミュニティに届けました。
カメラを届けてくださったのは、写真家の柴田大輔さん。(彼のブログはこちら
柴田さんはコロンビア・エクアドル・メキシコなどを単身で訪れ、
写真を撮り続けておられます。
私たちが活動していたカウカ県で2010年に初めて会いました。

magui map.jpg

柴田さんは、エクアドルで難民として暮らすアワ民族と出会ったのがきっかけで
交流を重ね、アワ民族の故郷であるマグイを訪れるようになったそうです。
アワ民族は、ゲリラと軍の紛争に巻き込まれ、危険な生活を続けています。
現地の人たちから、「自分たちの暮らしと状況を発信したい」という気持ちを
聞き、シネミンガとコラボレーションしてはどうか?と思いついたそうです。
もちろん、私たちの答えはイエス!
magui blog page.png

そこで、私たちは写真家でもある柴田さんに、現地で写真撮影&ブログを発信する
ワークショップ(講習)をしてもらう事にしたのです。
マグイのブログページ「も立ち上げました(スペイン語)
ところが柴田さんが到着した早々、ゲリラによる「爆撃」が起こりました。
ワークショップは延期となりましたが、私たちは急遽、情報発信を始めるにしました。
まずは、柴田さんからの報告をアップします。

***(以下、柴田さんからの報告・ブログの翻訳です)***

コロンビア南部ナリーニョ県のエクアドルと国境を接するリカウルテ市に
アワ民族コミュニティーの1つマグイがあります。
白旗を掲げる人々(2月5日撮影 柴田大輔).jpg
コピーライトマーク柴田大輔 2/5/2014:白旗を揚げる人々)


この地域は1990年代後半から次第に激化する紛争に巻き込まれていきました。
私は、エクアドルで紛争避難民として暮らすマグイの人たちに出会い、その縁がきっかけに、
昨年よりこ の地域に出入りすることになりました。
マグイの学校(撮影日不明 ホセ・チンガル).jpg
コピーライトマークホセ・チンガル:マグイコミュニティの山々)

紛争の中で沢山の人が傷つき、亡くなったと聞いています。
実際にこの地に立ち、その豊かな緑と水に心を奪われまし た。
朝日に照らされた山々が美しく輝いていました。
ある避難民の老人が、もう戻れないかもしれない故郷マグイを思い出しながら
「あんなに豊かな土地はな い。なんでも(作物が)育ったんだ。」と話したのを思い出しました。
マグイの上空を旋回する軍のヘリコプター(2月4日撮影 ホセ・チンガル).jpg
コピーライトマークホセ・チンガル 2/4/2014:マグイの上空を旋回する軍のヘリ)

紛争は、静けさと激しさを繰り返しながら終わることなく続いています。
今年に入り、ゲリラと軍による衝突がマグイとその周辺で激しくなっています。
人々 は今、何を思いどう生きているのか。
マグイの学校institucion educativa INKAL AWAを拠点に、
この地に生きる人々の声をシネミンガがアワ民族コミュニティー・マグイと
協働作業(ミンガ)で発信していきます。その第一歩としてこのブログを始めます。
Magui logo.jpg
日本の機材をコロンビアへ寄付してきました! [2014年02月07日(Fri)]

2014年になりました。本年も宜しくお願いします。
2008年の冬に初めてコロンビアに行ってからもう5年。
時が過ぎるのは早いなぁと思います。

2013年のエクアドル訪問以降、去年は、ハリケーン後の放浪生活からおさらば。
引っ越しなどの私用が忙しく、
しばらく大きな活動やブログの更新もできませんでした・・・。
*エクアドルの最後のビデオ(現地編)は、その後、著作権関連の
ちょっとした問題が発生し、公開を控えています。
問題がクリアになり次第公開します。
特に支援してくださったサポーターさんにご報告したく、
申し訳なく思っているのですが、もうしばし、お待ちを・・・。

秋に、日本で運転免許証を更新するついでに、久しぶりに帰郷。
日本での活動報告が2つあります。
アイヌ民族コミュニティへの再訪問と新たな機材の寄付です!
今日は、機材についてのレポートをします。
videos.JPG

新たに2人のサポーターさんから中古機材を頂きました。
ビデオカメラが2台と写真用のデジタルカメラが3台。
2008年の末の記念すべき1人目から、少しずつミンガサポーターの数が増え、
約5年で、41人になりました!(クラウドファンディングを入れるともっと増えます)

いつも思いますが、日本の方々からの寄付は、中古とはいえ、非常に状態がよく
箱や細かいビニール袋までついて、感心します。
物を大切にする心が、当たり前にある文化っていいですね。
digitalcameras.JPG

デジタルカメラ3台は、ちょうど、コロンビアで11月13日から行われたDAUPARA(ダウパラ)という先住民族映画祭で、シネミンガの作品が上映されるので、カルロスが持参しました。
daupara.png

シネミンガが2007年から制作準備を始め、今年やっと完全バージョンが完成した
NANZ abuelo volcan」(「ニャンツ・祖父なる父」 *旧題「少年の夢」)の世界プレミア、
2010年に作ったピオさん主演の「キンティン・ラメーその智慧のルーツ」の再上映、
カルロスがネパールの先住民族映画祭の様子をレポートした「ビデオレター」の3本です。
また、ネパールの映像作家の作品「CELLPHONE」北米ナバホ民族の「The 6th World」を紹介するなど、
シネミンガがプラットホームとなって、国際交流にも貢献するという使命も果たしました。

機材の話に戻りますが、今回はビデオカメラは持っていきませんでした。
というのも、頂いたビデオカメラのうち、1台は日本語メニューしかなく、
私が居ないと教えられないので、次回どこかに行く時まで預かっておく事にしました。
もう1台はDVDで録画するタイプで、少々、メディアの扱い方が難しく
(私がまず覚えないといけないので)とりあえず、ニューヨークで預かる事にしました。
mic_light.JPG
写真用のデジタルカメラ(もちろんビデオ機能もあり)のうち1台は、
DAUPARAの為にボゴタに来ていた
コロンビアのアマゾンに住むウィトト民族・アーノルドに渡しました。
narino guy.JPG

デジタル写真のカメラは、手軽に撮れるし、SDカードだと、殆どの国で使えるので
結構欲しいという人が多いので助かっています。
日本は案外買い替える人が多いとの事、不要なカメラが眠ってましたら、ご一報ください!
(naomi@cineminga.org ) 宜しくお願いします。
いざバメノへ!ビデオ [2013年05月31日(Fri)]

時間が空いちゃいましたが、バメノへの旅の様子のビデオの日本語版を作りました。
この旅報告ビデオの最後は、肝心の現地でのワークショップの様子です。
もう少しで出来そうなんですが、
ワオラニ語→スペイン語→英語→日本語の翻訳作業に手間取っています・・・。



地図のリンクはこちら

いざバメノへ。関連記事はこちら
ミーティング時の写真いろいろ [2013年03月25日(Mon)]


このミーティングでは、領土権を獲得する為のステップとして、コミュニティとしての正式団体「オメ(ワオラニ語で家または領土を意味する)」を設立する事になり、理事が選出されました。
写真は、理事選出の瞬間をオメワイ君が撮影している様子です。

6. omehuay-boardOME.jpg

ミーティングの最後の日には、カルロスがコミュニティの人々の前で、シネミンガが
来た目的、ペンティと出会ったいきさつ、活動内容について説明する機会がありました。

carlos_explain.jpg

ミーティングが終わり、日が暮れると、人々はペンティの家に集まってフィエスタを楽しみました。狩りの練習でもあるという踊りと歌、また結婚式に立ち会う事もできました。
写真は、フィエスタを撮影しているペンティです。

9. penti camera dance.jpeg

ミーティングの合間のスナップ。ワオラニ民族の女性たちは、私が提げていたバッグに興味津々。
編み方の違いなどを熱心に見ては、感心していました。(ワオラニ語で理解できないので、これは私の想像ですが・・・)
「コロンビアのナサ民族がカブジャ(カブジャから糸を作る様子が、こちらのリンクにあります。ビデオも見れますよ)という植物で作ったバッグです」と片言のスペイン語で伝えました。一応、「コロンビア」と「インディヒナ(先住民族)」は通じたみたいでした。

5. bag wide.jpg
バメノで早速、撮影開始 [2013年03月24日(Sun)]

バメノに滞在したのは、15日間。
最初の3日間は、5つのコミュニティの代表が集合し、それぞれの場所で起こっている事を発表するミーティングが行われる事になっていました。

meetingwide.jpg

石油開発に伴い、領土が奪われるのではないかという常に付きまとう不安。森林が破壊されると、動植物の生態系も変わり、それらを狩猟採取して生活するワオラニ民族にも当然影響が出ます。
バメノコミュニティが外部の人とコンタクト(接触)したのは、1970年代。まだ40数年しか経っていません。自分たちの領土を守る為に、官庁に訴えに行ったり、書面を作ったり、果ては裁判の事まで考えたり・・・それは、生まれた時から文明の恩恵を受けている私たちには想像できないストレスだと思います。ペンティの人生は、開発との闘いの歴史でもあるのです。

写真5.jpeg

ペンティがミーティングの全てを記録したいというので、若者にカメラや録音機器の使い方を教えながら、撮影しました。到着直後で、ワークショップをする時間がなかったので、まずはカルロスが撮影をし、途中で、ペンティの息子でもあるテペーニャに撮り方を指導しました。
また、1人だけというのもどうか思い、持参したサウンドレコーダー(これは寄付しなかった機材です)を出して誰かに音声を撮ってもらう事にしました。これに、オメワイ君という18才の少年が興味を示し、彼が録音を担当する事になりました。
オメワイ君は、おとなしい性格で、カメラがやりたいとは言わなかったのですが、3日目に撮ってみる?というと、すごく嬉しそうな顔をして、「撮りたい」と顔に書いてあるなと思ったぐらいでした。
彼は忍耐強く、私たちが休んでもいいよというまで、ずっとカメラを持ち続けていました。

4. tepena-zoom-martin.jpg

このミーティング会場(実はペンティの家)には、電気がなかったので、ソーラーパネルが役に立ちました。ヤシの葉で作られた屋根にパネルを紐でくくりつけ、日当りに合わせて場所を移動。おかげで議事録を取ったり、地図を見せる為のコンピュータ(持参したマックが早速活躍しました)を1日中使う事ができました。

7. takiing minutes.jpg

ここで少し、電気の事について触れます。
実は、バメノに来て驚いたのは、電気があった事でした。石油会社が開発の代わりに、エクアドル政府に利益の10数パーセントを支払い、政府がインフラ設備や病人などが出た時のセスナ代などをコミュニティに提供するしくみが出来たのだそうです。
ただ、電気をおこすジェネレーターは、決して安定した物ではなく、旅の最後には壊れてしまいました。修理をする人は、遠くに住んでいるので、いつ復旧するかは誰にもわかりません。日常生活は、なんとかなっても、ビデオ制作には電気が不可欠です。環境にも良いソーラーパネルは、今後、もっと持っていきたいと思っています。

2. panel day1.jpeg

閑話休題。撮影素材は、滞在中にペンティと一緒に編集しました。1日目の素材だけでも約8時間。これを、約3時間にカットしました。
本当は、3日間全てを編集したかったのですが、ペンティも忙しく、時々停電したり、雨が降ってソーラーパネルの充電が出来なかったりして時間が取れず、1日目しか完成できませんでした。
編集した映像は、DVDを作って数枚プレゼントしました。広大なアマゾンで、人を集めてミーティングを行うのは、そう簡単ではありません。ペンティは、このDVDを参加できなかった沢山の人たちに見せたかったのだそうです。
編集作業中に何度か、「こうやってビデオを活用するのが、僕の夢だった」と言われ、「ああ、来てよかったな」と実感できました。
カヌーで、いざバメノへ! [2013年03月05日(Tue)]

アマゾンから、戻ってきましたが、タイムスリップして、滞在中に書いた
日記を、少しずつアップしていこうと思います。

1月13日午前8時30分、コカのホテルを出発、いよいよアマゾンへ向かいます。

ペンティは、ピックアップトラック式のタクシーを調達。
一緒に向かうのは、ペンティの息子たちと娘さん、親類の青年2人と女性1人、ニューヨークに住む弁護士のジュディス、それにカルロスと私、というメンツ。
バメノでは、5つのコミュニティが集まる大きなミーティングがあるので、ペンティたちは、たくさんの食材などを調達していました。

tankpipe.png

10時にピックアップトラック型のタクシーがコカを出発しました。
私はコカ市内のナポ川から出発するものと思っていたのですが、そうではありませんでした。
道中、石油パイプが蛇のように道沿いを通り、柵で頑丈に囲まれた大きな石油タンクのある工場を見ました。
道はアスファルトでした。石油会社が土の道をアスファルトにしたのだそうです。
ほんの10数年前までは、道など無く、森林地帯だったといいます。
外部の人間が、ここに住んでいた様々な生き物や自然環境を瞬く間に作り変えてしまいました。

fire.png

タクシーに乗って3時間、ようやく乗船場に着きました。
ここにには、軍と法務省が管轄するチェックポイントがあり、アマゾンへ入ってくる人たち(ツーリストを含む)を入国管理局のようにチェックしていました。国立ヤスニ自然公園だからです

piperiver.png

午後3時、荷物をボートに積み込み、私たちはシリプノ川 (Rio Shiripuno) を西へ、
13人で、バメノコミュニティへとカヌーで向かいました。
早速、私たちはコミュニティの為に持ってきたビデオカメラで撮影を始めました。
(写真は、ペンティの兄弟・マルティンです)
canoetrip.jpeg

ペンティは船旅の道中、アマゾン開発がどう起こったのか、彼の経験を話してくれました。
石油の調査が始まったのは、息子のテペーニャが生まれた1988年だと、ペンティははっきり覚えています。
同時期に、森林伐採も始まり、それは今も続いています。

canoetrip.jpg

そして翌年の89年、ヤスニ自然公園が作られました。
しかし、住人であるワオラニ民族に何がおこっているかは説明されませんでした。
その後も土地調査は続きますが、99年、石油掘削や森林伐採を禁止するインタンジャブルゾーン(不可侵領域)が、エクアドル政府によって設定されました。
ここには、タゲリとタロメナネという、UNCONTACT(アンコンタクト=外部と触れた事のない人たち)のワオラニ民族が暮らしています。
タゲリは、ウォリアー(戦士)で、ペンティたちCONTACT(コンタクト=外部と触れている人たち)とは全く違う生活をしています。
森のあちこちを動き周っているという話を聞いて、森の守衛みたいだなと感じました。

house.jpg

ペンティは話の最中に、「あそこに亀が居る!こんな鳥が居る」と、生き物を見つけるたびに、教えてくれました。
亀・鳥・きれいなエメラルドブルーの蝶蝶など、様々な生き物をみました。
そして!ワニも!!
(写真は鶴です)
crane.jpg

夜7時半、ペンティはカヌーを止めました。
そこは、観光客用のロッジでした。私たちの為に、シャワーもベッドも整っている心地よい場所を提供してくれたのです。
普段、ペンティたちはカヌーで寝るか、どこかの浜でテントを張って寝るという事でした。
ベッドで寝られるとは思ってもみませんでしたが、おかげでぐっすり眠ることができました。

smiles.jpg
地図です [2013年03月04日(Mon)]

エクアドルは地球の裏側の遠い国。
「コカ」っていったいどこ?
ペンティが暮らす「バメノコミュニティ」までどのくらいかかるの?
わからない人も多いはず。(そういう私が、去年までは、そうでした・・)
ということで、地図を作ってみました。
*地図はダブルクリックすると大きな画面で見れますよ!

エクアドルの首都キト→コカ(飛行機で30分、車なら6時間程度)
コカは、アマゾンに一番近い人口5万ほどの都市で、アマゾンへの観光客と石油開発に関連する
人たちが沢山訪れるところです。
いづれのビジネスも先住民族と関連しています。
MAP_ECUADOR.png


コカ→チェックポイント(車で30分)
チェックポイント→シリプノ川&コノナコ川→バメノコミュニティ
(カヌーで1日〜2日*川の水量次第でそれ以上かかることもある)
(セスナをチャーターして、コカからバメノコミュニティへ行く事も出来ます)
MAP_BAMENO.png