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儀式と撮影の日々(フアンタマ湖篇その2) [2009年11月30日(Mon)]

朝、夜通しで儀式をしたフアンタマ湖を見渡す高台からは、ウイラ山が見えました。
火山活動を示す煙が空に舞い上がっていました。数10キロ〜100キロ離れていると思いますが、ここに来るまでの道中も、火山灰をかぶった植物をたくさん見かけました。

フアンタマ湖をバックに1シーン撮影後、山(というよりも崖)を下り、湖のほとりでラストシーンを撮りました。

ピオさんと、象徴的な女性を演ずるヒゼラが湖に入る(帰る)という神秘的なシーンです。
私達からは何も言わなかったのですが、2人は上半身裸・下着姿になり、湖に入って行きました。

撮影後、男性スタッフは湖で水浴びをしていました。
日本人でここまで来た人は、珍しいんだからNaomiも入ればいいのにと言われましたが、寒いのと帰り道の体力を温存したかったので、湖に入るのは止め、聖なる水を飲むだけにしました。

フアンタマ湖に来る事はナサ民族にとっても、非常に特別な体験です。外国人は私1人だったんですが、チームのメンバーやフアンタマが私を受け入れてくれて、一緒に時間を過ごした事は、一生の思い出になりました。
儀式と撮影の日々(フアンタマ湖篇その1) [2009年11月29日(Sun)]

翌朝5時 に起きて、登山口で下車。キャンプ用具と撮影道具の大荷物を背中に背負い、フアンタマ湖に向かいました。

聖なるフアンタマ湖の地域に入る時は、塩を採る事が禁じられています。私達は、
フルーツや塩なしアーモンドなどの食料と儀式+飲み物用の為のお酒チリンチョとチチャ酒を持参しました。

道中の山道はとても険しく、長靴で、しかも久しぶりの山歩きに足がガクガクになりました。しかも寒いパラモで、たっぷり水を含んだ苔のような湿地帯で足を取られ、長靴が水浸しに・・・。

道なき道が続く中、60度を超える傾斜ではないかと思われる所を木々を支えにターザンのように降りたり、滑ったり・・・と、「アドベンチャー in コロンビア」という言葉が思わず出てしまいました。
(↓ちなみに私が着ているのは、アーティストであるカルロスの弟が作ってくれたシネミンガ特製「キンティンラメのオリジナルサイン」Tシャツです。背中にはシネミンガのロゴをプリントしました)

出発から約4時間、パラモ(アンデスの高原地帯)にある、フアンタマ湖に到着しました。聖なる湖にふさわしい美しさと荘厳さ。道中の疲れも吹っ飛びました。

フアンタマ湖では、撮影もさることながら、夜通しの儀式が待っていました。
高山地帯なので非常に寒く、私は一番外に着たカッパも含め、6枚重ねで挑みました。途中、男の人やメディスンを採っている2人組などのシルエットイメージが見えたんですが、後で聞くと、それはGrandfather=フアンタマだと言われました。
儀式と撮影の日々(フアンタマ湖へ向けて篇) [2009年11月28日(Sat)]

11月22日から4日間は、ティエラデントロで撮影を行いました。

ピオさんの自宅のあるカブジョ村(Cabuyo)、トゥンビチュクエ村 (Tumbichucue)、 最後はティエラデントロの聖なる湖・フアンタマ (Juan tama)というスケジュールで撮影をしました。メインは、オープニングとエンディングシーンにもなるフアンタマ湖です。

カブジョへはポパヤンからバスと徒歩で向かいました。この日は日曜日。道中、村の人たちが「チチャ酒(トウモロコシから出来たどぶろくのような地酒)でも飲んで行きなさい」と気軽に声をかけてくれ、旅の疲れを癒してくれました。

初日、フアンタマ湖が私達を受け入れてくれるかどうかを判断する為に、ピオさんの自宅近くで儀式をしました。ひょっとしたらスタッフの誰か1人だけ、あるいは全員が拒否される事もあるかもしれないけど、悪い気持ちにならないようにとピオさんは最初に言いました。
この日は夜中の4時まで、8時間近く儀式をしました。ホタルも捕まって、とても良い結果に終わり、私達は全員、フアンタマ湖へ行く事が決まりました。

トゥンビチュクエでは、ミンガ(恊働)で家を建てるシーンを朝一で撮る予定だったので、儀式の後、殆ど徹夜状態で向かったのですが、途中、チャーターした車が故障。
4時間、道ばたで修理を待ちました。シーンは逃しましたが、みんな(フアンタマ湖に備え)この間に眠る事が出来たので、まぁ良かったのかなと思いました。

トゥンビチュクエで、2シーン撮影。ヘオディエルとロサナがメインでカメラを担当しました。

儀式と撮影の日々(オルテガ篇) [2009年11月27日(Fri)]

初めての撮影はキンティン・ラメが晩年を過ごした場所で、彼のお墓もあるトリマ州(Tolima)のオルテガ(Ortega)という街でした。

11月14日〜15日。オルテガにナサ民族とグアンビアノ民族が集まり、キンティン・ラメを讃える儀式があるというので、そこに参加する形で撮影をしました。先住民族の人たちがチャーターした大型トラックに乗って行きました。

撮影用のカメラは、イノセンシオが地元の先住民族団体にお願いして、大きなHDVカメラを借りてくれました。これに私の小型HDVカメラ、メイキング用にサポーターさんから頂いたVictorの3台で臨みました。(その後、Victorは調子が悪くなってしまいました)
私達は、市内でキンティンを知る人たちにインタビューをする事から始めました。

お墓はオルテガの郊外にあります。車で15分と川渡りを含む徒歩30分。儀式が行われる場所に到着しました。

イノセンシオは、音楽家でもあります。弟のミンチョと2人で、カウカ州やナサ民族の様々な音楽を奏で、現場を盛り上げていました。
夕方、キンティンのお墓に向かって食事が捧げられ、ジャイマさんという
キンティンを直接知るメディスンマンとピオさんのリードで儀式が行われました。
ジャイマさんは、キンティンの貴重な話をみんなの前で語りました。
儀式の後は、イノセンシオが奏でる音楽と共にお酒と踊りで、一日を閉めくくりました。

テントで一晩過ごし、朝、私はキンティンのお墓に行きました。
前方に神秘的な山を一望するこの場所は、キンティンが望んだとも言われてますが、いやいや、お骨はなく、キリスト教の信者(キンティンはキリスト教徒でもありました)が建てただけだという説もあります。

お墓には、次のような言葉が彫られていました。
「不公正に決して屈しなかった男、先住民族のマニュエル・キンティン・ラメ・チャントレ、ここに眠る。1967年10月7日」
儀式と撮影の日々(序章) [2009年11月26日(Thu)]

11月は儀式と撮影で、あっという間に過ぎました。インターネットとは無縁の日々でした。

マニュエル・キンティン・ラメのビデオ制作が、11月8日に本格的にスタート。
制作チームはナサ民族4人・カンクアモ民族1人・ボゴタ出身者2人・日本人の私、合わせて8人がメイン。これにスペインから訪問中のビデオアーティストが飛び入り参加、という顔ぶれです。
チームリーダー的存在のイノセンシオは、ミーティングで「ユニークな国際チーム。みんなが力を合わせたら面白い物が出来ると思う」と最初に言いました。

こちらは、キンティン・ラメを演ずるピオさんです。カウカ州ティエラデントロで暮らすメディスンマンです。キンティンのトレードマークでもあるTobaccoを数ヶ月前から吸い出して、準備してきました。
ちなみに、普通の白いタバコとは違って、このTobacco(いわゆる葉巻ですね)は、儀式や身体を清める事、人の状態を読んだりするのにも使われます。(私も読んでもらいました)

ちなみに本当のキンティンの写真はこちらに貼付けています。

数時間、脚本ミーティングをした後、ピオさんと共に、「チームの結束とビデオ制作の成功」の為に、みんなで儀式をしました。夜、ピオさんに連れられ、前方に山を見渡す事のできる場所で、儀式は行われました。儀式の詳しいステップは、こちらにもありますが、全員で一列に並んでコカを噛み、何時間も夜空を眺めながら、ピオさんが空や山の様子を読みます。

途中、雲が空を覆ったり雨が降って来たら悪いサイン。適度にメディスンマンは、タバコ・チリンチョ (Chirrincho)というお酒・違うメディスンなどを与え、コカと噛み合わせながら、雲が晴れるようにみんなで願います。その間、ピオさんは、ホタルを捕まえます。ホタルを捕る事は悪いサインを取り除く事になるのだそうです。
この夜、流れ星が良くない方角に流れ、ホタルも姿を現さず、結果は良くありませんでした。もっともっと儀式をする必要があるとピオさんは言っていました。
火山が再び・・・ [2009年10月24日(Sat)]


しばらく、カウカ州の活火山・ウイラ山の活動は、小休止していたんですが、2日前、再び活動を始めたという連絡が、シネミンガのイノセンシオから入りました。

イノセンシオは今、ウイラ山の下流にあるBelalcazar(ベラルカザール) という町で働いています。
ここは冬に、私が川を綱渡りして行った町です。
現地からの連絡によると、火山灰がいっぱい降っていて、今後の危機対策の対応に追われているようです。
ベラルカザ−ルは、キンティン・ラメのビデオ制作の拠点にしようと考えていた所で、私達は今週末にボゴタを
出発して、向かう予定を立てていました。
イノセンシオもメディスンマンも火山活動の対応をしなければならず、制作にも影響が出そうなので、心配しています。
初仕事が漸く始動 [2009年10月21日(Wed)]

以前に書いた「コロンビアの初仕事」が、やっと動き始めました。

コロンビアは2010年に建国200周年を迎えます。
その関係で、Ministry of Culture (文化庁のような政府機関)が、3本のビデオを作る事になったのですが、その1つが、20世紀の歴史的な先住民族の運動家・Manuel Quintin Lame(マニュエル・キンティン・ラメ)氏に関するもので、シネミンガが、その仕事をする事になったといういきさつです。

これはナサ民族の人たちが中心になって作る所にポイントがあります。
シネミンガには4人のナサ民族が居ますが、加えて、ナサのメディスンマンにも加わってもらって、プロジェクトを進める事になりました。他にもカンクアモ民族、ボゴタ在住のスタッフ、シネミンガ・コロンビアが全員参加する形で、制作をします。



1番の問題は、バジェット。予算がこちらの希望の半分しか出ないのです。
なんとか、少額でも全員に「仕事の報酬」が残せるように、今、思案している所です。
先日は、ボゴタのスタッフとポパヤン在住のスタッフで最初のミーティングをしました。

お金の事は、さておき。
これから2ヶ月かけて、みんなで15分の完成品を目指して、制作を進めます。
再現シーンやアーカイブ、インタビューなどのドキュメンタリー的要素に、キンティン・ラメが残した言葉や詩をクリエイティブに表現した映像を加えようと考えています。

内容もさることながら、私にとっては、様々なバックグラウンドの人たち、私達がビデオワークショップをして技術を得たスタッフが、チームとなって制作するその課程が楽しみです。
日本では、プロデューサーやディレクタ−などの制作部が、撮影・照明・役者など、各分野のプロを集めて撮影場所を訪ね、それぞれの役割を果たしてもらう形で仕事をする。というのが普通です。
今回の企画は、ナサの人々が自ら企画から編集まで中心となって仕事をし、私達プロはアドバイザー的に参加する。
という、これまでとは全く違う制作形態なのです。

もちろん!ミンガサポーターさん達に頂いた機材も、この企画で活躍する事になります。
スペイン語のブログ始まりました [2009年10月13日(Tue)]

コロンビアのシネミンガのスタッフがスペイン語のブログを始めました。今、書いているのはロサウラです。
まだ記事数は少ないですが、これから充実して行くはずです。
興味のある方、お立ち寄り下さい。転送・転載、大歓迎です。


パレンケ写真いろいろ [2009年10月12日(Mon)]


このグループのパフォーマンスは、特に見応えがありました。


名前はわからないんですが、Kalimbaという楽器の仲間?この箱の上に人が座って演奏します。


子ども達も沢山参加していました。


太鼓のワークショップ・・・。


女性たちはみんなセクシーできれいです。
熱暑・熱唱・躍動のパレンケ [2009年10月11日(Sun)]

パレンケでは、シネミンガ・コロンビアのもう1人の女性スタッフ・ボゴタ在住のRosaura (ロサウラ)と合流しました。
ロサウラは、ボゴタでデザインや映像制作やイベントの企画などで働いて来た経験があります。
1月に日本から寄付してもらったウィンドウズのパソコンに、スペイン語の編集ソフトをインストールしてくれたのはロサウラでした。


この撮影は、ロサウラが以前にフェスティバルのスタッフと会った時に、
「シネミンガとして撮影させて下さい」と提案したのが始まりです。
今回は、初めての撮影で、交通費の実費。それに食事・宿泊が提供されるだけ。
という厳しい条件なのですが、仕事を気に入ってもらって、フェスティバルだけでなく、今後、コミュニティと長いつながりを築きたいという想いがあります。
パレンケは、アフリカ系とスペイン語が交じった独自の言葉を持つ民族でもあるのです。


イベントでは、お昼前ぐらいから、深夜まで、メインステージでは、音楽とダンスなどのパフォーマンスが次々と披露され、同時に(酷暑の中!)マラソンや様々なワークショップも開催されていました。

このフェスティバルは、Sikito(シキート)さんという、現在84才になるおじいちゃんが始めたのだそうです。その経歴を讃え、イベントでは文化庁から表彰されていました。

私達はシキートさんの家にも行って、撮影させてもらいました。
他にも、家族全員が音楽家で、国内外でも有名なおばあちゃんの家に行きました。家の前には、大きなスピーカーから、そのおばあちゃんの歌が一日中ガンガン流れ、毎日近所の人が立ち寄っては踊ったりおしゃべりします。
当然、私達も挨拶代わりに、ひたすら、おばあちゃんや家族の人たちと歌い・踊る事となりました。


ステージでは毎夜、遅くまでアフリカ系コロンビア音楽が次々と披露され、終わった後も、町中のお店で人々は踊り、歌い、呑み続けていました。

ロサウラは、プロジェクターを持ってきていて、ステージに映像を流したりするなど、とても熱心に撮影に取り組んでいました。
プロデューサーとしての能力に優れている女性だなと感じました。

フェスティバルから頼まれたのは10分の完成品ですが、私達は10時間近くの素材を撮りました。
この素材はシネミンガが著作権を持つ事になるので、そのうちシネミンガオリジナルの作品を作ります。もちろん、英語版と日本語版も作ります。
映像に興味のある方、ご一報下さいね。 naomi@cineminga.org