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勉強が苦手な子どもたちのために

勉強が苦手な子どもたちがいます。教えても自分でやるとできなかったり、そもそもちゃんと聞いているのか、わかっているのかもあやしかったりします。

保護者や先生たちが一生懸命になっても、それが叶うとは限りません。そんな現実を受け入れることができず、私たちはついカッとなり、子どもにあたってしまうこともあるでしょう。

そして、子どももきっと辛い思いに苛まれているはずです。

ここでは、勉強の苦手な子どもに何とか寄り添った教え方ができないか。「技術」・「理論」・「心理」など様々な切り口で考えていきたいと思っています。

特定非営利活動法人 CEセンター 理事長 野田弘一


ひき算が苦手なときは [2016年01月14日(Thu)]
〇ひき算が苦手なときは
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ひき算は、たし算よりも難しい傾向があります。大人になってもまだ苦手意識が残っているという人もいるかと思います。子どもたちの中には、苦手意識どころか、指を使っても上手に計算できないといった場合もあります。

ひき算が難しい理由は大きく二つあります。

ひとつは、「就学前に数の学習は必要か@」でお話しした具体物から数字だけの計算になる難しさです。

ひく数を、(具体物なしに)数字だけ見ていくつを表しているのかを瞬時に判断できなければならないことです。

もうひとつの理由は、ひく数を数えるときに数字を逆にたどっていかなければならない難しさです。

ふたつ目の理由はひき算独特の難しさで、私たちは数字を逆にたどっていくことに慣れていないことからきています。ふだん私たちがモノを数える時に「1(イチ)、2(ニ)、3(サン)、4(シ)、5(ゴ)・・・」と数えますね。子どもにも同じように順番に唱える練習をさせてきました。たし算のときは、この練習通りたす数の分だけ順番に数えれば答えは自然に出てくるわけです。たとえば「2+3」であれば「2」から順に「3(サン)、4(シ)、5(ゴ)」と順番に数えていけば、答えは自然に「5」だとわかります。

ところが、ひき算は逆に数えていかなければなりません。「5−3」であれば「5」から順に「5(ゴ)、4(ヨン)、3(サン)」と数えなければならないのですが、このとき逆に数えることが(順番に数えるときに比べて)スムーズにできないわけです。

このふたつの理由のどちらか、またはふたつとも重なって、どうしてもゆっくりになったり指でもわからなくなってしまう子どもが出てくるわけです。そのままにしていると当然苦手意識も強くなります。

もし就学前の段階であれば、10までの数で充分ですから逆の順番でも唱えたり書いたりする練習をしてみてください。順番に唱えるときと同じようにスムーズにできるようになることが大切です。10より大きな数を習うよりも優先して取り組んだほうが良いと思います。

入学後になってからであれば、逆の順番で練習する充分な時間がない場合もあるかもしれません。そんなときでも「ひき算」の練習する前に3分ほど練習する時間を確保してください。

最初は「10までの数を逆に唱える」ことがスムーズにできることを重視して練習します。数字を見ながら、それができたら数字を見ないで逆の順番に言えるように練習してみてください。一回の練習でできるようにならなくてもかまいません。2〜3日かけるとできるようになるはずです。スムーズに唱えることができたら、今度は数を唱えながら数字を逆の順番に書いてみる練習をしてみましょう。「ひき算」の練習とあわせてすると効果がでてくると思います。

「就学前に数の学習は必要か@」のときにもお話ししましたが、10までの数であれば暗算できるまでを目標にしたほうが、後の単元でつまずくリスクが少なくなります。

就学前や入学直後、私たちは無意識に順番に唱えることを重視してきました。これは言ってみれば「たし算」に向けた練習をしてきたと言えます。ところが逆に唱える機会が少なかったことから、「ひき算」に向けた練習はおろそかにしてきたとも言えます。

子どもの中には自身の能力で乗り越えて、何ごともなかったように学力をつけていける子どももたくさんいるでしょう。いっぽうで「ひき算」に向けた練習をしないままその単元の授業に入ってしまい、できないまま困ってしまう子どももいるわけです。

数字を逆に唱える練習をしたところで、足し算よりも得意になることは一般的にありません。なぜならその後の日常でも順番に唱える場面の方が生活の中に多いからです。それでも、学校の授業がわかったりできたりする意味では、逆に唱える練習はとても有効な方法といえます。

Posted by ookubo at 19:50 | 技術編 | この記事のURL
子どもについ怒ってしまう不思議(下) [2015年12月30日(Wed)]
〇子どもについ怒ってしまう不思議(下)
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これまで、勉強が苦手な子どもに教えていると「怒り」の感情が子どもに向かい、いろいろな言い訳をしながら、矛先が身近な大人に移っていき、最終的に自分に戻ってくるというパターンがあることをお話しました。

そして、多くの方が体験しているこの感情パターンは、そう簡単にはコントロールできないことや、せめて自己モニタリングを通じて冷静になることで、少なくとも子どもの自尊感情を損なわないことにつながるというお話もさせていただきました。

今回は、子どもが期待通りにならないと、「怒り」の感情がなぜ子どもに向かってしまうのかについてお話したいと思います。

冷静に考えると、子どもの勉強ひとつとっても、それが苦手なところで直接大人が困ることはあまりありません。教える側の寿命が縮まることもなければ、給料が下がることもありません。もちろん苦手で苦労している子どもの姿を見て、何とかしてあげようと手を差し伸べるのは当然としても、それが「怒り」に変わってしまうのはおかしな話です。

仮に勉強ができることが学歴社会を勝ち抜くための条件だとしても、たとえば今この時間に多少できないことがあっても大きな支障になるとは限りませんし、「勉強だけが全てではない」という考え方に方針を変えるという手もありますね。

それなのに「怒り」がおさまらない・・・。

実は先ほどの感情のパターンの最後にヒントが隠されています。前回の例の中ではお母さんと先生が出てきました。「怒り」の感情が、お母さんであれば最終的に自分自身に戻ってきて「私は母親として失格なのではないか」と思いつめてしまうこと。これが園や学校であれば、「先生として向いていないのではないか」と落胆してしまうことをお話しました。

親としてまたは先生としてダメなのではないかという思いは、実は自分が他の人からどう思われているかという意識が過剰に働くことで沸き起こります。

子どもが勉強できない場面に直面すると、「母親」として「先生」としてダメだしされるのではと怖くなり、つい「怒り」を覚えてしまうわけです。

思い起こすと、私たちは子どもの頃にこの「他者からの目」を気にしながら頑張るよう育てられてきたところがあります。

私たちは、園や学校という集団の中で、みんなと一緒に同じことを頑張るように求められてきました。クラスや集団の空気を読んで頑張って生活することも求められてきました。

そして同じことができないと、本人の努力や意識・態度などの問題とされ責められました。

そして、皆の前で責められたり怒られたりすると、恥ずかしい思いや見捨てられている思いも加わってしまうので、ますます「他者からの目」を気にすることになります。

みなさんの中にも、皆の前で怒られた経験がある方がいるでしょう。自分にはその経験がなくても、クラスメートが目の前で怒られていたという経験はあるはずです。このような経験を積み重ねると、集団からはみ出るようなことをすると怒られるのではないかと、常に不安を抱えながら生活をするようになります。

そのことに気がつかないままでいると、大人になっても、自分が「母親」や「先生」として怒られたり責められたりするのではないか、あいかわらず不安を抱えながら生活することが続きます。

そして、子どもが勉強できない場面に直面すると、「母親」や「先生」として怒られたり責められたりするのではないかと急に怖くなり、子どもについ「怒り」を覚えてしまうわけです。

この「他者からの目」は、プラスに働くこともあります。たとえば外出する際に、着ていく服をどうしようかと悩むのも「他者からの目」を気にすることから来ていますが、気にするからこそ外出先で失礼な格好をしないですむわけです。また社会に目を広げると、多様な人が生活している世の中で、規範意識や秩序などがある程度守られるという効果もありますね。

したがって「他者からの目」を気にすることそのものが悪いと考えてしまうのはちょっと違う気がします。むしろ子どもの頃からの「他者からの目」を過剰に気にする習慣から抜け出せないことが原因と考えてよさそうです。

特に「母親」としての重圧は、この社会では非常に負担になっているというのが私の実感です。子どもの様々な失敗が、母親の子育ての方法に原因があると決めつけてしまう傾向が、特に私の年代も含めて上の世代ではまだ根強く残っています。「親の顔を見てみたい」という言葉があるくらいですから。

一方で「先生」という肩書きも、「世間の目」は決して優しいものではありませんね。また、世間ばかりでなく職場内での人間関係が難しい場合もありますから、「世間の目」と「管理職や同僚の目」の両方からの重圧を抱える場合もあるかもしれません。

こうして私たちは、子どもの頃に身近な大人から「他者からの目」を過剰に気にするように育てられました。

そして大人になった私たちは、目の前の子どもが期待通りにならないと、自分が責められるのではないかと不安になり、そして「怒り」がこみ上げてくる。

怒られた子どもは、自分の力では乗り越えることができないので、怒られることそのものに不安を感じながら、今度はその子どもが母親や先生の目を過剰に気にするようになるわけです。

このままいくと、おそらく目の前の子どもたちは、将来大人になったときに将来の子どもたちに向かって同じことをするかもしれませんね。

 冷静に考えてみると、そもそも世の中に評価が100点満点の大人や子どもはひとりもいません。

せいぜい50点から70点くらいで、あとは方法と技術で補いながら社会がまわっていかないと皆困ってしまうのではないでしょうか。

 方法や技術に目を向けず、子どもに努力や精神的な面ばかり期待しても、けっして良い結果は生まれません。

また、自分の評価を気にして言い訳をしたり、100点でない相手を理屈で責めて怒るから、ややこしくなってしまう。

 そもそも勉強が苦手な子どもは、私たちに「他者の目」としての役割を期待しているわけではありません。

子どもたちは「ダメな子どもでないと認めて欲しい」こと、「もっと解りやすく教えて欲しい」ことを望んでいるのですが、私たちは自分の評価が気になって、そのサインを見逃してきてしまったのかもしれませんね。

三回にわたり、私たちの「怒り」の感情について話をさせていただきました。そもそも自分の心の中を見つめるのは、あまり気分の良いことではありません。他人には打ち明けなくてもよいので、せめて「自己モニタリング」だけは心がけたいものですね。

Posted by ookubo at 11:14 | 心理編 | この記事のURL
子どもについ怒ってしまう不思議(中) [2015年12月19日(Sat)]
〇子どもについ怒ってしまう不思議(中)

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私たちは、子どもを前にするとその人となりがどうしても出てしまう傾向があります。

人間の赤ちゃんに限らず動物でも、見たとたん「かわいい」と感じて抱きかかえたくなります。これは子どもに対するプラスの感情が思わず出てしまった例です。

逆に不満があるときでも、それが子どもだと遠慮なく感情を表に出してしまいます。子どもは、体格の面でも精神的な面でも未熟であるため、大人はつい許されると無意識に思ってしまうのでしょうね。

私たちは無意識に「許される」と思っているので、その人となりのまま「怒り」の感情を表に出してしまう。前回それを防ぐことは難しいというお話をしました。でも難しいからといって感情のおもむくままでよいわけではありません。

無意識に「許される」と思っていたところで、そもそも子どもは許してはいませんね。

そして、自己モニタリングができないまま、「怒り」をそのまま目の前の子どもにぶつけてしまうこともあります。

お母さんやお父さんが、自己モニタリングできないまま「怒り」を暴力や暴言でぶつけてしまうのが虐待です。「躾のつもりだった」という理由で自身のことを隠しても、子どもの心の傷や命はもとにもどりません。

先生が、自己モニタリングできないまま「怒り」を暴力や暴言でぶつけてしまうのが体罰です。「心を入れかえて欲しかった」という理由で自身のことを隠しても、子どもの心の傷や命はもとにもどりません。

また、勉強が苦手な子どもに注がれる先生の「怒り」の眼差しを、クラスメートが察してしまうことがあります。これが「いじめ」につながる原因のひとつになることも知っておいてください。

さらに最近私がもっとも心配しているのは、園や学校といった組織もまた「怒り」にまかせて子どもの態度や規範意識の問題にしてしまう意見に出会うことです。

特に、知的な遅れはないものの勉強が苦手なことから皆と同じことができない子どもに、管理職や担任が特別支援学級に行くよう薦めている最近の流れは、非常に心配しています。

自己モニタリングができていれば、学校の取組み方や先生の授業方法の問題、さらに掘り下げると教科書にも課題があることに気がつくはずなのに、皆と同じことができない子どもに向かって態度や努力不足を挙げて排除してしまう。

今日この時間にも、管理職や先生の「怒り」を直接ぶつけられ心を傷つけられている子どもと保護者が、全国にたくさんいることも知っておいてください。

このままいくと数年で、知的障害の子どもが通う特別支援学級の数は大幅に増え、そこに通う子どもの半分以上が知的な遅れがない子どもたちになってしまいます。学級数も子どもの数も増えることになりますから、教員の数も増やさなければなりません。

さらにこのような学級が、個々の特性に応じた教育をおこなうことができていれば、そして制度上の矛盾に目をつぶれば、子どもたちにとっては良い環境になることでしょう。

でも、特別支援学級などもまた取組みや技術が充分とは言えない現状ですから、いずれ他に行くように言われる子どもたちが出てきて、新しい排除が生まれることになるでしょう。こうして学級と教員の数を増やすことが繰り返されることになります。

もっとも、今の日本にそれだけの財政的余裕はありませんね。

子どもに勉強を教えているうちに「怒り」がこみ上げてくることはよくあることです。その感情や本質的な問題から目を背けてしまうと、私たちは子どものせいにして片付けてしまうことを繰り返すだけです。

これでは子どもは勉強ができるようになるどころか、精神的に健康な成長が望めなくなりますね。

 学校の先生がどう教えてよいのか困っているわけですから、家でお父さんやお母さんが上手に教えてあげることはもっと難しいはずです。

立場にかかわらず、私たちは自己モニタリングしながら、目の前の子どものために良い方法を探るしかないわけです。


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Posted by ookubo at 12:17 | 心理編 | この記事のURL
子どもについ怒っていまう不思議(上) [2015年12月10日(Thu)]
〇子どもについ怒ってしまう不思議(上)

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世の中に広まっている「子育て論」や「指導技術」のほとんどは、子どもの特性や心情についての理解とそれに基づいた方法について述べられています。これは、教える側の特性や心情については触れられていないので、保護者や先生は何の問題もない100点満点の大人であることが必要になります。

でも、私たち大人も振り返ってみればいろいろ欠点があるわけで、本来は教える側の様々な特性や心情面も理解しておくことが必要だと思います。

もっとも、自分のことを深く見つめることが好きな人はいませんから、あまり触れたくないことかもしれませんね。子どもたちのためにも知っておくべきことかと思いテーマにしてみましたが、無理のない範囲で読み進めていただければと思います。

子どもに勉強を教えるとき、私たちがもっとも気をつけなければならないのは「怒り」の感情です。思い通りに子どもがならない(教えてもわからない)場面に直面すると、カッとなってしまうこと、多くの方が経験しているのではないでしょうか。

ついカッとなって叱る場面でも、「お手伝いをしない」とか「人に意地悪をした」といった、子どもが次は「ちゃんとできそう」と見通しが立つときは問題ありません。でも子ども自身がどうしてよいのかわからない場面で叱るのは、その失敗体験を強く印象付けるだけで良いことはありません。

失敗体験が多い子どもは、毎日のようにその「怒り」を受け止めていますから、事前に察して何とかその場から逃れようとします。ところが、その方法が幼稚であればあるほど、私たちは逃れようとするその態度にますます「怒り」が増幅します。

「お母さん、これはやらなくて良いって先生が言ってた」とか「わかったからもう大丈夫(ぜんぜん大丈夫ではないのですが)」など。中には泣いたりふてくされたりといった態度を取る子どももいますね。

お母さんは「怒り」を抱えたまま何とかしようとしますから、あれこれ褒めてみたり脅かしてみたりする。一方で子どもも何とかその場を回避しようと適当な理由を持ち出す。こうなってしまうとほとんど感情的な応酬になっていますから勉強することの意味も怪しくなりますね。

そして子どもに対する「怒り」が長期化すると、その「怒り」の矛先が身近な大人に移っていきます。怒っているお母さんにとって、その矛先は担任の先生に移ったりします。「もうあの担任は教師のくせに何をやっているの!(何で私が苦労しなければならないの)」となります。あるいはもっと身近なお父さんに向けられることもあるでしょう。「少しは子どもの面倒をみてよ!(私ばっかりに押し付けないで)」となります。

そして身近な大人への「怒り」が長期化すると、最終的に自分自身に「怒り」や「虚しさ」として戻ってきます。「私は母親失格なのでは」とか「子どもなんて産まなければ良かった」などです。

「怒り」などの感情が子どもに向かい、身近な大人に移り、最終的に自分に戻ってくるというパターンを、多くの方が体験しているに違いありません。

実は園や学校の先生も同じです。できない子どもがいると、その態度を見るや否や「怒り」がこみ上げます。感情的になって追い込むような言動になることもあるでしょう。

こうした感情が長期化すると、今度は同僚の先生やその子どもの保護者に矛先が移ります。たとえば保護者に「怒り」を向けたまま(中にはお腹の中で抱えたまま)、電話などでやり取りしてしまうので、保護者を萎縮させたり怒らせたりしてしまいます。

保護者や同僚への「怒り」が長期化すると、最終的に自分自身に「怒り」や「虚しさ」として戻ってきてしまいます。「私は先生として向いていないのでは」とか「教員になんてなるんじゃなかった」となります。

ではこうした感情をどうしたら無くすことができるのでしょうか。

実は怒らないようにすることは不可能だと思ってください。詳しくは次の機会で触れるとして、でももう少し穏やかな対応ができる方法があります。

それは、深呼吸をしながら、心の中で自分自身をもうひとりの自分が観察することです。

うまく教えられずに子どもに向かって怒っている自分をモニタリングすることで、一度は「怒り」がこみ上げたとしても、まもなく冷静になることができるかもしれません。

冷静になったところで、どうしたら勉強がわかるようになるのかが浮かんでくるとは限りません。でも「怒り」の感情をいろいろな理屈で子どもにぶつけてみても、解決するわけではありませんね。

自己モニタリングができるようになると、感情を子どもにぶつけることに意味がないことに気がつきます。

そしてまもなく、感情をぶつけられた子どもは「自分はダメな子」「自分はお母さん(先生)に嫌われているのかも」と思い込んでいることにも気がつくはずです。

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Posted by ookubo at 20:42 | 心理編 | この記事のURL
就学前に数の学習は必要かA [2015年11月30日(Mon)]
〇就学前に数の学習は必要かA
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前回、数の特徴として「形と音と数概念」についてお話をしました。数字を書く練習だけ、声を出して唱える練習だけを続けるのはあまり良い方法とは言えないこと。数字を見て音が分かり、いくつを表しているかがリンクして理解できる学習を、学校に入る前の段階で意識していただければという内容でした。

今回は、数字の形や音からリンクしてわかる能力をもう少し掘り下げてみたいと思います。

年長児になれば、三つのアメと五つのアメを見て比べて、少ない方(多い方)がどちらなのかわかります。ところが具体的なモノを使わずに「3(サン)」と「5(ゴ)」ではどちらが小さい(大きい)のかと聞かれると、答えられない子どもが出てきます。園児に使う言葉としては、「小さい(大きい)」よりも「ちょっと(いっぱい)」のほうがいいかもしれませんね。

要は見て比べることができる具体物があればわかるのに、数字やその音だけではいくつを表すのか瞬時に出てこないので答えられないというわけです。

このように、書くことや読むことはできるのに数字だけでは大小の比較が難しい子どもがいます。

そんなときは、次のような練習を日頃から意識してみてください。
食事の際に(例えば)ウインナーを与えるときは、「お兄ちゃんだからいっぱいね。イチ、ニ、サン、シ(ヨン)、ゴ!」「妹はちょっとね。イチ、ニ、サン!」。

また洗濯物を取り込んだときに、「お父さんのシャツは、イチ、ニ、サン、シ(ヨン)だからいっぱいだね」「お兄ちゃんのは、イチ、ニ、サンだからちょっとだね」などです。

ここでくれぐれも単位にはこだわらないでください。ウインナーだから一本、二本と言わせようとしたり、シャツだから一枚、二枚と言わせたいなどと、他のことも同時に学ばせたいと欲張ると結局どれも身につかないことになりかねません。

また、数の勉強をするときに「いっぱい・おおい・ちいさい」と「ちょっと・すくない・ちいさい」といった言葉をつけ加えるのもひとつです。

就学前の知育教材などを使って、数字と具体物の両方書かれている数の大小比較から始めて、最終的に数字だけで比較する練習へ段階を踏んで練習するのも良いでしょう。

小学校になると引き算の勉強があります。最初は教科書にも具体物が描かれていますし、それを使って大小関係を確認しながら学ぶようになっています。教科書の構成にしたがって学んでいくうちに、数字を見て大小関係が瞬時に判断できるようになる子どももいます。

また「5−3」のように計算式から答えを求める場面では、最初から引かれる数が決まっているので、「5」と「3」はどちらが大きいのか(小さいのか)をわざわざ意識しなくても計算できてしまいます。それゆえに、子どもの課題に気がつかないまま進んでしまうこともあります。

ところが、二学期になると次のような場面に出くわします。

「おとうとは、アメを 5こ もっていました。おかあさんから 2こもらいました。
いもうとに 3こ あげました。のこりは、なんこでしょうか」

読んで文章の内容を頭に浮かべることができれば、順番に「5+2−3」で良いわけです。またなかなか文意がつかめなくても、「もらった」「あげた」「のこりは」といったキーワードから理解につなげていくことも可能です。

ところが数字から大小関係を瞬時に判断できない子どもは、上記の文章を読んでから式を考える過程で、例えば「・・・2こ もらいました。いもうとに 3こ あげました・・・」のところだけを見て「2−3」を先に計算しようとすることがあります。

そこで間違いに気がついた先生やお母さんは、「2は3より小さいから、引き算できないよ」と助言してしまいます。

でも、そもそも子どもは「2は3より小さい」ことが判断できないから間違えたわけですから、効果がありませんね。子どもは頭が真っ白になって固まってしまいます。

さらにその後の単元では、
「みかんが 5こと りんごが 3こ では、どちらが なんこ おおいでしょうか」
といったことも学習します。

教科書では、ほぼ全ての文章に具体物が描かれていますし、必要に応じてブロックなどを使って考える構成にもなっています。ただし、もうこの単元の段階では、具体物やブロックを使う意味が、引き算は、「残りはいくつ?」という場面と「差はいくつ?」という場面があることを学ぶという目的に変わってきます。

数字から大小関係を瞬時に判断できていないままだと、授業そのものがわからず見通しがもてなかったり、いままでできていた引き算そのものができなくなったりすることもあります。

このように就学を控えた年長児が数字を学ぶ際、数字の形や音の構成に目を向けることに加えて、大小関係が判断できるようにすることも意識してみることも大切かと思います。


Posted by ookubo at 19:44 | 技術編 | この記事のURL
就学前に数の学習は必要か。 [2015年11月18日(Wed)]
〇就学前に数の学習は必要か@

入学を控えた園児のお父さんとお母さんは、学校で授業についていけるか心配なことと思います。特に幼稚園や保育園の生活でうまくいかなかった経験が多いほど不安が強くなることでしょう。

ひらがなや数字の事前学習について、小学校の先生の立場から言えば不要という答えが返ってくると思います。誤った書き方を覚えてしまったり、エンピツのもち方に変な癖がついてしまったりがないようにというのがその理由です。また事前に書けるようになったところで、一年もたたないうちに差はなくなってしまうことが多いのも事実です。

また、最近になって就学前教育や幼児教育という考え方が登場してきました。数の学習をどうするかも議論になっています。早い段階で数字を書いたり読んだりできることが必要であるという意見がある一方で、遊びや子ども同士の関わりの中で様々なことに興味や関心をもつことが先であるという意見があります。

もっとも、最近では年長の時期に文字や数の勉強をする園が既に増えてきています。不安を抱えるお父さんとお母さんにとっては、安心ですね。

結局、就学前の数の学習は必要かどうかと問われれば、全員が一律同じ考え方で良いというわけではなく、子どもの個々の発達状況に応じることが必要です。先ほどお話ししたように入学してからでも大丈夫な子どもがいる一方で、やはり事前にひらがなや数字がわかっている状態で卒園したほうが良い子どももいるというのが、現実的なひとつの答えになりそうです。

実際、入学してくる子どもたちの中に、「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク・・・」と唱えることができても、ただ音として暗記しているだけで、数字の「1、2、3、4、5、6・・・」とリンクさせて理解できていない子どもに出会うことがあります。

また数字は書けるのに最初に習う「3+5」のような足し算が、三つのものと五つのものを合わせることだとなかなか理解できない子どもにも出会います。

就学前の数の練習の時、数字を読む練習は見ながら順番に読むことを繰り返しているだけだったり、書く練習では薄く書かれた部分をなぞったり見本の字を見ながら順番に書くことを繰り返しているだけだったりすると、このようなことが起きることがあります。

もし数字を順番に声に出して言うときに、いくつかの数字が抜けてしまったり順序が違ったりしたら、また数字を(順番にではなく)ひとつひとつ指差して読ませても言えない数字があったら、それは音だけを覚えようとしているのかもしれません。

数字を見ながら「イチ、ニ、サン、シ(ヨン)、ゴ・・・」と声に出して読むことは大切なことですし、そもそも始めて習う子どもたちにとって最初はこれで良いと思います。

でもある程度読めるようになったら、今度は「サン」と先生が言ったら「3」が書けること、「サン」や「3」は三つのこと(「〇〇〇」)を表していることを組み合わせて練習して欲しいのです。

また、お父さんがお風呂で一緒に数字を唱え練習している家庭もあるでしょう。10まで言えるようになったら、さらに10より大きい数にステップアップするのではなく、今度は三本の指を見せて「サン」と言える、5本指を見せて「ゴ」と言える練習をして欲しいのです。

同じように、数字を書けるけれども音にすると違っていたり、実際にいくつを意味しているのかがわかっていなようであれば、それは形だけを覚えようとしているのかもしれません。

最初は形だけでも音だけでもかまいませんが、10まで覚えることができたら、一度子どもの様子を見てください。園児向けの知育教材の中には、このような形だけ音だけ覚えてしまうことがないように、形と音と数概念をリンクさせて身に付けられるよう工夫されているものがあります。そうした教材を使ってみるのもひとつの方法です。

実は数字についてあまり知られていないことに、この「形と音と数概念」の関係があります。

数字といっても、
〇目で見て判断する「形」としての役割
〇聞いて判断する「音」としての役割、
〇それぞれの形や音と結びついた「数概念」
の三つの要素があります。


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私たちは、それぞれを知らないうちにリンクさせて覚えていくので、学校の授業がわかったり、日常生活で使うことができたりするわけです。

ブロックなどを使って何度教えても、数字だけの計算だとさっぱり積み上がらない子どもがいたら、原因はこのあたりにあるのかもしれません。さらに言えば、このことは数字だけのことではありません。ひらがなも同じなのです。
Posted by ookubo at 17:07 | 技術編 | この記事のURL
論理的な思考力を育てるとは [2015年10月29日(Thu)]
〇論理的な思考力を育てるとは

先日、繰り上がりの足し算で「10のまとまりをつくって計算する(サクランボ計算)」の難しさと、それを丁寧に少しずつ練習していくことの意味についてお話しました。実際の学校の授業では、サクランボ計算を身につけるところまでいかない子どもが多いので、順番に数えて答えを求めることで済ませてしまう場合もたくさんあります。また家庭でも「計算さえできれば良い」と考えてしまうことが多いかと思います。

学校での授業は時間の制約などがありますし、家庭で教えるとなるとサクランボ計算は教えにくいことも原因です。あまり理屈にこだわるよりも、状況にそって現実的な対応にならざるを得ないのは当然のことと思います。

ではなぜ教科書は理屈にこだわるのでしょうか。もちろん、10進法の仕組みに準じて計算をすることが大切だと考えているからですが、実はもっと大きな考え方が根底にあります。それは「論理的な思考力を育てる」ことです。

これまで、算数・数学は論理的な思考力を育てることだとよく言われてきましたが、このことについて丁寧に説明している機会は以外に少なかった気がします。そこで小学生に期待している論理的な思考力とは具体的にどんなことなのか、そして論理的な思考力とサクランボ計算などがどのように結びつくのかについてお話してみたいと思います。

小学生、特に低学年の子どもに論理的な思考力といっても、大人が思考するようなレベルのことを期待しているわけではありません。「10進法の仕組みにあわせて、10のまとまりをつくって計算する」ことそのものを論理的な思考と考えることもできますが、私は論理的な思考力を育てるための基礎的な力を身につけると考えたほうが近い気がしています。

この基礎的な力とは、複数の情報を頭の中に置いておく一種の記憶能力を指しています。

人間は何かを思考するときにいろいろなことを頭の中に置いて、「これでもない。あれでもない。」と考えます。「これ」や「あれ」を考えることができるのは、「これ」や「あれ」を頭の中に置いておけるからです。置いてあるものから「これ」を引っ張ってきたり「あれ」を引っ張ってきたりするから「これでもない。あれでもない。」と思考することができます。

ところがもし、頭の中に置いておける量が少なければどうなるでしょうか?「これでもないし・・・」で終わってしまい「あれ」が出てきませんね。

子どもたちは、この頭の中に置いておける量が大人に比べて少なく、いろいろなことを思考することがまだ難しい段階です。さらにその子どもたちの中に個人差もあります。特に一年生の中には、三つの数字を頭の中に置いて復唱することが難しい子どももいるくらいです。

小学校の間に「これでもない。あれでもない。」と考えることに耐えられる記憶能力を育てるから、いずれ「こうなって、ああなって」と「論理的に」考えることができるようになるわけです。

そんなわけで、サクランボ計算のような学習は、「10のまとまりをつくる」作業を通じて頭の中に置いておける量を増やしていく練習の意味をもっています。頭の中に置いておける量を増やしていくことで、複数の情報を順序立てて考えることができるようになり、それが論理的な思考力を育てることにつながるわけです。

こうした意味を考えると、教科書が理屈にこだわっている理由が少しわかっていただけたのではないでしょうか。

算数は、数字が書けることから始まり長さや量を測ることやお金を数えることなど生活に直接役に立つ知識や技術を身につける部分と、サクランボ計算のように論理的な思考力を育てる(ための基礎的な力を育てる)部分があります。九九などのように生活に役立つ部分と論理的な思考力を育てる両方の部分をもっているものもあります。

そしてもうひとつ、他の教科と同じく成績や進学のような選抜の場面で勝ち抜く役割もありますね。

このように、算数の勉強はいくつもの役割を担っていますが、時間の制約や教えにくさなどがあって、特に論理的な思考力やその基礎的な力を育てることを意識して、私たちは子どもに教えようとしていなかったと思います。そして最近では、一足飛びに「問題解決能力」を求めてしまっているところも気になるところです。

能力のある子どもはどのように教えてもできますからよいのですが、論理的な思考力につながる基礎的な力を育てる必要がある子どもが犠牲になりがちであることは知っておかなければなりません。

ときどき、最初からできている子どもを指して「問題解決能力が育った」と評価したり、逆に基礎的な力を育てないまま結果がでない子どもに向かって精神論で追い込んでしまっている場面を目にすることがあります。これでは教えていることにも育てていることにもなりませんね。

私たちは、少なくとも教えることを通じて子どもを選抜してしまうことにならないよう、心しておかなければなりませんね。

Posted by ookubo at 19:11 | 理論編 | この記事のURL
最初は式を書いてあげよう [2015年10月13日(Tue)]
〇最初は式を書いてあげよう

字を書くことが苦手な子どもがいます。授業でよく目にするのは、このような子どもの苦心している姿です。

黒板に書かれた式をノートに書いて計算する場面では、まず式を写す段階で書き間違いをしてしまいます。消しゴムで消して書き直すのですが、消し方も上手ではないため黒く汚れたりノートそのものが切れてしまうことがあります。式を無事書き写した頃には、習った計算の仕方がもうわからなくなっています。

書くことが苦手な子どもには、最初の式や問題文を書いてあげたほうが学習内容が身につきやすい傾向があります。まず身につけるべき内容だけをしっかりできるようにします。書くことの負担は、そのあとに少しずつ増やしていけば、学習内容も身につきかつ書くことの練習もできるわけです。


書き間違いが多い、自分で書いた字を読み間違う、マスからはみ出してしまうなど、苦手な様子がわかれば、学習内容を身につけることと字を書く練習を一度に求めることはせず、最初は式や問題文を書いてあげてください。

また、書くことが苦手な子どもに配慮しているワークブックなどを使うのもひとつの方法です。学ぶ内容をスモールステップで進めていく中で、少しずつ書く負担が増えていくように構成されています。

また書くことが苦手な子どもの中に、苦手さがわかりにくい子どももいます。

丁寧にゆっくり書いている子どもです。おそらく書き間違いが多いなどの経験から、自ら身につけた方法であったり、先生やお母さんから言われたりしたのでしょう。丁寧にゆっくり書くことそのものは悪いことではありません。ただ、書くことに時間がかかりすぎると、やはり教えてもらったことを忘れてしまうことがあります。

服のボタンやお箸などの使い方が不器用だったり、まとまった文章を読むときに行を飛ばして読んでしまったりする傾向がある場合も、仮に字を書くことが苦手なように見えなくても、少し気をつけて見てあげてください。もし書いているうちにわからなくなってしまうようでしたら、同じ対応で効果があがるかもしれません。

学校に限らず幼稚園や保育園でも同じことが言えますが、言葉や数といったことに比べて、手を使うことを含めた基本的な運動機能や目で形をとらえるなどの視機能について、配慮できていないことが多い気がします。

書くことが苦手な子どもは、本人自身がほかの子どもと比べて書くことにエネルギーを使っていることに気がついていません。それゆえに、「面倒くさい」「やりたくない」などと言ってしまうため、態度や規範意識の問題にされがちです。

私が小学生だった頃、担任の先生は「字は心をあらわす」と言って丁寧に書くことを大切にしていました。苦手なことはゆっくり丁寧にすることも、もちろん大切です。

でも、教える側が、苦手な理由を掘り下げて工夫してみることも大切なことです。

また子どもが身につけようとしていることの優先順位も、配慮してあげることが必要です。

Posted by ookubo at 20:13 | 技術編 | この記事のURL
10のまとまりを作るサクランボ計算に挑戦 [2015年09月29日(Tue)]
〇10のまとまりを作るサクランボ計算に挑戦

算数・数学は積み重ねの教科と言われていますが、一年生で積み重ねの成果が問われる最初の単元が繰り上がりのある足し算です。多くの教科書は、二つの数のうちどちらかを10のまとまりにしてから答えを導く方法(サクランボ計算)を採用しています。

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10のまとまりをつくって答えを導く過程は、図式化しておこないます。その見た目がサクランボのようなので「サクランボ計算」と言われています。

では、サクランボ計算という言葉を始めて聞く方のために実際にやってみましょう。

「9+4」を使ってやってみましょう。
私たちが日常使う多くの数字は「10進法」になっています。したがって一年生の段階では10ずつまとまって数が構成されていることを意識してもらうために、10のまとまりとあといくつあるのかを考えながら計算することになっているのです。

それでは始めます。

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「9+4」を「10+□」にしたいのですが、「9」はあといくつで「10」になるでしょう。

「9」に「1」を足すと「10」なりますね。 そこで足す数の「4」からひとつもってきて、足される数の「9」を「10」にしてしまいます。「4」はひとつもっていかれたので「3」になります。

「9+4」だった式が、この操作で「10+3」になりました。答えは「13」。つまり「9+4」は、10のまとまりとあと3になるというわけです。

この例では、足される数を10のまとまりにしましたが、足す数を10のまとまりにする方法も出てきます。操作が視覚的に逆になるので、これはこれで難しく感じる子どももいます。教科書の中には、さらに足される数と足す数からそれそれぞれ「5」をもってきて真ん中で10のまとまりをつくる方法を扱っているものもあります。

10進法を身につけるために10のまとまりを意識するという考えはわかりましたが、一年生にしてはかなり難しいですよね。ただ、教科書はいきなり難しいことを求めているわけではありません。実は10のまとまりを作ったり、ひとつの数字をふたつの数字に分解したりすることを、一学期からの単元で少しずつやっているのです。こうした積み重ねの中で、このサクランボ計算があることを知っておいてください。

ただ、実際は積み重ねが充分でないまま、つまずいてしまう子どもがたくさんいます。もちろん一学期の単元に戻って学び直す方法もありますが、ここでは、サクランボ計算を丁寧に少しずつ進めながらできるようにしていく方法を次にお話します。時間はかかりますが、チャレンジしてみましょう。

子どもの多くは、次の二点でつまずいてしまいます。その部分を丁寧に練習しながら全体の計算につなげていきます。

@ 10のまとまりをつくることを意識しながらだと、足す数をいくつといくつに分けたらよいかわらなくなる。

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A 分けた数のうち10にする数字を左に書き、もうひとつの数字を右に書かなければならないのに、間違えて逆に書いてしまううちにわからなくなる。


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最初は、@のつまずきをなくすために、10のまとまりをつくることを意識しながら足す数をふたつの数に分ける練習だけをします。ノートに「9+4」と書いて分けるところだけを練習するわけです。

「9+4」を例にとると「4」のわけかたは「1と3」と「2と2」のふたつあります。足される数を10にすることを考えながらピッタリの組み合わせを見つけるわけですから、意外と難しいのです。それなりの量をやらないと効果がありませんので、一回できたらOKとしないよう気をつけてください。


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もし、スムーズに分けることができるようでしたら、次の段階を見越して、分けたふたつの数のうち10のまとまりをつくる方を左側に書いておくように練習すると良いと思います。ただ、この段階では左右逆なってしまうことがあってもかまいません。あくまでも10のまとまりをつくるために、足す数をピッタリふたつの数にわけることを重視します。

足す数をスムーズにわけることができるようになったら、ノートに分けた数をサクランボのようにして書く練習をします。

これはAのつまずきのための練習ですから、わけた数のうち「10のまとまりをつくる数」はサクランボの左側に、もうひとつの数を右側になるよう書かせます。一息に答えを出すところまでいかないようにしてくださいね。ここでも丁寧に進めていきましょう。

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@で練習した「10のまとまりを作るために足す数をふたつに分ける」ことと「10のまとまりをつくる数は左側に書く」ことの両方をするわけですから、これも大人が考えている以上に難しいと思って取り組んでください。

もし途中から間違える(わからなくなる)ことが増えてくるようあれば、@とAの内容が混乱してきている可能性があります。少し気持ちと時間の余裕をもたせてみるか、一旦休憩するか翌日以降に再度やってみたほうが良いかもしれません。

ここまでスムーズにできるようになった、始めて全体を通して計算してみます。順番にこなせるようになったことを確認できたら、まとまった量の練習をしましょう。ただ、計算のプロセスが長いので、まとまった量といっても4問くらいずつのほうが良いようです。ほぼこれでできるようになるはずです。

この単元は、足される数を10のまとまりにする計算の後に、足す数を10のまとまりにする計算もでてきます。やり方は同じですが視覚的に逆になるので、戸惑ってしまう子どももいます。「同じように計算する」と言うだけでなく、上記と同じように少しずつ丁寧に進めてください。

Posted by ookubo at 20:41 | 技術編 | この記事のURL
足す数(右の数)を小さいものから始めてみる [2015年09月15日(Tue)]
〇足す数(右の数)を小さいものから始めてみる

足し算は引き算に比べて子どもたちの理解が早いことは、多くの大人が体験的に知っています。ただ引き算と「比べて」の話であって、どんな子どもでもスムーズに進めることができるわけではありません。

足し算は小学校に入学して5月が終わるころ本格的に始まります。本格的にと言ったのは、その前の単元でふたつの数をブロックなどの具体物と照らし合わせながら、「合わせていくつ?」または「いくつといくつで10になる?」など日常の言葉で足し算や引き算につながる勉強をしているからです。このブロックなどを使った足し算の「体験」から始め、5月が終わるころ本格的に数字を使った計算になります。

このとき、具体物から数字だけの計算にうまく切り替えることができない子どもたちがいます。詳細は後で触れますが、『ブロック(または指を使うと)できるのに、数字だけだとできない』ときは、足す数(右の数)を小さいものが始めてみたらどうでしょうか。

「3+5」ではなく、「5+3」のように足す数を「1」から「3」までにして練習してみると、ブロックや指を使わなくてもできるようになることが多いようです。

もし足す数を小さくしてできるようであれば、次は足される数(左の数)をいろいろ変えて(足す数は「1」から「3」までにしておくことを忘れずに)、繰り返し練習してみます。

何度も繰り返しているうちに暗算でできるようになったら、ここで始めて足す数を増やしてみます。それも一度に大きな数を使わずに、「1」から「3」までだったものに「4」と「5」を加えてみます。

これもまた暗算できるようになったら「6」と「7」を加えてみます。次の「8」と「9」を加えての練習はそれほど時間はかかりません。ここでは答えが10までの足し算を練習しているわけですから、足す数が「8」と「9」では足される数は「1」と「2」しかないからです。

最初は教える方も時間とエネルギーが必要ですが、途中からスムーズに進めることができますし、子どもも「できる」自信をもちながら勉強続けることができると思います。

そして、できることならこの段階でブロックや指を使わずに暗算でできるところまで目指してほしいと思います。

一年生の計算では、これまで指を使い続けることについて様々な意見がありました。学校での授業の様子を見ていると、二年生でも指を使っている子どもに出会うことがあります。最近はどこの学校でも、指を使う子どもにやめるよう指導していることはほとんどないと思います。ただ、これはどちらかというとやむを得ない措置で、その子どもに指を使わないで計算することを求めても、もはやこの授業の段階では難しいことを先生がわかっているからです。

実は10までの足し算で、暗算できない(指を使って何とか計算できる)という状態のままだと、単元が進んで
「10+6」や「8+2+3」などの計算になると授業についていくことが苦しくなる可能性が高くなります。

もちろん、苦しんでいる子どもを見過ごしてしまう先生ばかりではありません。「指を使ってもいいよ」とか「ゆっくりで大丈夫だからね」と時間に余裕をもたせるなどの配慮が期待できるかもしれません。

でも、次の単元は新しいことを身につけるためにありますから、暗算できる子どもは
「10+6」などを学んでいる一方で、暗算できない子どもは「指を使う練習」と
「10+8」をまとめて学ばなければならないことになります。できない子どものほうが負担が大きいわけです。

同じ時間に学ばなければならないことが増えるから苦しいのです。

そして、なんとか頑張って乗り切れたとしても、次の繰り上がりの足し算では、いよいよどうにもならなくなってしまいます。

もちろん、中には指を使い続け計算のプロセスが複雑になったり数字が大きくなったりしても、自然に指を使わないでできるようになる子どももいます。ただ、それを多くの子どもに求めるよりも、10までの足し算の段階で私たちが丁寧な教え方をすることのほうが確実です。

「指を使っても良い」というのは、あくまでも授業の進行上やむを得ないといことであり、指を使い続けても、いずれ皆(指を使わないで)できるようになるというわけではないのです。

Posted by ookubo at 14:00 | 技術編 | この記事のURL
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