CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

<< 2013年04月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
Google

ウェブ全体
インド滞在記
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
匿名
クレイアニメが映す「ハンセン病」に当事者から抗議の声 (02/12) awa→ちびすけさん
1年目の振り返り。 (12/23) ちびすけ
1年目の振り返り。 (12/15) awa→KUROさん
1年目の振り返り。 (12/15) KURO
1年目の振り返り。 (12/15) awa
1年目の振り返り。 (11/30) Hena
1年目の振り返り。 (11/28) もりりん
1年目の振り返り。 (11/27) awa→きょこさん
モチベーション (10/27) きょこ
モチベーション (10/27)
月別アーカイブ
日本財団東北地方太平洋沖地震支援基金のアップデートはこちらからご覧ください。

 日本財団ROADプロジェクトのサイト
 
ご協力いただいている皆さん、心から感謝申し上げます。ありがとうございます!

インドでのハンセン病関連については、引き続きアップしてまいります。

よろしくお願いいたします。
「スバーシュ」という名の男 [2012年11月23日(Fri)]

DSC_4172_.jpg

マディヤ・プラデーシュ州の州リーダー、サラン氏のことは前にも紹介した。
笹川会長のブログでも紹介されている。

代表であるサラン氏と並んで、彼と同じインドールに居住する2人がハンセン病回復者の州組織の役員に就いている。

ケラーシュ・セン氏と、その息子だ。

ケラーシュ氏は自分から進んで前に立つタイプではないけれど、いつもサラン氏の隣で静かに耳を傾け、議事録を作ったりコーディネートをするなどの細かい仕事をこなす、働き者。

DSC_3220_.jpg

ケラーシュ氏の息子は、薬屋の会計士としてフルタイムで働いている。
給与は月額8,000ルピーと、平均からしても悪くない水準だ。
(大卒の初任給が約6,000ルピー)

仕事が11時から始まるため、州組織の会合があると仕事前に朝の一時間だけ顔を出し、10時頃になると礼儀正しく辞去する。

パソコン操作が得意で英語もできるため、州組織のメールのやりとりは彼が担っている。

DSC_4169_.jpg

コロニーの第二世代で、「12年生を卒業しても職につけない」という声をよく聞く。

成功している彼と、職に就けない人と、何が違うのか? と父親のケラーシュ氏に尋ねたら、間髪をおかずにこう答えた。

「あきらめないで努力するかどうかだよ」



第二世代の成功談は、苦労話でもある。



12年生(日本でいう高校)を卒業後、すぐには良い仕事は見つからなかった。

インドでは祭りや祝い事などの時に家をマリーゴールドの花で飾る習慣があるが、その仕事に就いた。給与は月たったの300ルピー。
もちろんそれだけでは食べていけず、かけもちで色んな仕事をした。日雇い労働、郵便配達。

そのうち、ミルク屋で夜の数時間だけ事務仕事を手伝うことになった。
給与は月額1,500ルピー。そこで夜働きながら、パソコンの操作を身につけた。

新聞の片隅に求人広告を見つけて、今の仕事に応募した。


現在25歳。
結婚して1歳の息子がいる。



コロニーに住む第二世代の多く(もしくはインドの若者の多くかもしれない)は、卒業後に最初から高い給与の事務職に就くことを期待する。
働くことは、エアコンの利いた部屋でパソコンに向かうことだと。
そしてそのような道が外部の支援によって開かれることを期待する。


彼が、安い給与もかっこ悪さも厭わずに、向上心を持ってこつこつと努力を積み上げられたのは、きっと父親の背中を見て育ったからだろう。
ケラーシュ氏を見ているとそう思う。

DSC_3290_.jpg

8月に笹川会長がマディヤ・プラデーシュ州を訪れた時のこと。
州首相との面談から戻ってきた州組織の役員にかける言葉を探して、笹川記念保健協力財団のヤマグチさんが尋ねた。

「“よくやった、えらい”ってヒンディー語で何て言うの?」

「スバーシュ」


その言葉は、苦労の末に今の地位を手に入れた彼の名前でもある。


(Photo by Natsuko Tominaga
ランバライの悩み [2012年11月23日(Fri)]

ランバライ氏については、以前別の記事でも紹介した。
英文ニューズレターでも紹介されている。

rambarai.jpg


彼が居住するのは、あるミッション系NGOが運営する大規模なコミュニティ。

そのコミュニティにはハンセン病の専門病院がある。
8歳で発病し、家族から家を追い出されて泣きながら掘立小屋で一人で暮らしていたランバライは、この病院で初めてハンセン病の治療を受けた。

子どもたちのための全寮制の学校もある。

機織りの作業所があり、シルクを中心とした布製品を製造することで住人に収入をもたらしている。

障害があっても、病院の門番、電気の配線点検など、何らかの役割を与えられて働く住人には、月2,000ルピー(約3,000円)の給与が出る。

そのように、たくさんのハンセン病患者の人生を変え、支えてきた。
その功績は疑いようがない。

DSC01864_.jpg


が、一方で、設立者である神父は、コミュニティの住人が外に出ていくことを良しとしなかった。

「ハンセン病回復者の生活向上」という目的は共通している。

でも神父が目指したのは、支援者である自分たちがつくったコミュニティの中で、ハンセン病回復者が衣食住を得て、不自由なく暮らすこと。
住人が自立して、支援者のコントロールが及ばない領域に出ていくことには難色を示した。

残念ながら古くから活動するミッション系の団体において、しばしば見られる傾向だ。



「当事者が主役となって問題解決のために働く」という笹川会長が提唱するナショナル・フォーラムの概念は、その神父にとっては受け入れられるものではなかった。

ラン・バライがビハール州組織の役員として、またナショナル・フォーラムの理事として活動するようになると、彼の妻は職を失った。



そのコミュニティの創立者である神父が昨年逝去し、新しく外部から来た女性が代表となった。
代表に就任してしばらく経った頃、彼女はランバライに言った。

「州組織とナショナル・フォーラムを辞めて、コミュニティのために働きなさい」

言葉だけでなく、何が効果があるかを知っている彼女は、順番待ちをしている何人もの住人を抜かして、優先的にランバライの妻を病院の職に戻した。

DSC01863_.jpg


ラン・バライは家に併設した小さな日用雑貨屋を営んでいる。
かつてコミュニティに来た欧米人をネパールの病院に案内した際、「ガイド料」としてもらった謝礼を元手に立ち上げた店だ。
店先に座って話をしながら、慣れた様子で客をあしらう。

その雑貨屋で得た収入で、コミュニティの外に家を持っている。
昨年オートバイも購入した。
息子二人はデリーの大学で学んでいる。

コミュニティを出て外で暮らすという選択肢も、手が届くところにはある。
そうすれば州組織やナショナル・フォーラムの活動に専念することに何の支障もない。


が、その選択肢を選ぶことは、コミュニティに住み続けることで得られる利益を手放すことを意味する。

コミュニティに出入りする欧米人との出会い。
月々入ってくる2,000ルピーの給与。
妻の仕事。

どちらも手放さないよう、曖昧なバランスを保ち続けることを彼は選んでいる。


双方の予定が重なる度に、また州組織およびナショナル・フォーラムの方針とコミュニティを運営する女性との方針が相反する度に、彼の足元は揺らぐ。

タイミングを調整して、曖昧に、どちらにも角が立たないように切り抜ける。


いつまでそのバランスを保ち続けられるか。
バランスが崩れた時に、コミュニティに居続けることと、本当の意味で自立して自分の力で困難に立ち向かいながら生活することと、どちらを選ぶのか。


それは他の誰が決めることでもなく、彼自身が決めることだ。
ぬかるみと車輪とレアな「テェンキュー」 [2012年09月06日(Thu)]

帰り道のこと。

ぬかるんで粘土状になった工事中の道。
オートリキシャの車輪がはまって動けなくなった。

やせたリキシャドライバー、ひとりで引っ張っても押してもどうにもならず、立ち往生。

通りすがりの男性が手を貸そうとしてくれるも、2人の力では動かず、あきらめて立ち去ってしまう。

「どうするの?」と私。

「どうしようもないよ」と、まったく解決の気配を感じさせないドライバー。

IMG_1171_.jpg


そこへ手をつないで歩いてきた二人の男性。
見かねたひとりが「手伝ってやろうよ」と通り過ぎかけた連れを呼び止める。

反対車線からやってきたバイクの男性もバイクを降りてきてくれた。

四人がかりで車体を持ち上げて、なんとかぬかるみから脱出。

(こういう時女性は手を出しません。レディーファーストの国ですから。)

普段、まったくお礼を言う習慣のないインド人だけど、

「バイヤー(兄弟)、テェンキュー、テェンキュー」

と、バイクの運転手にも仲良し二人組にもお礼を繰り返すドライバー。


たまーに、こういう心温まることがあるんだよね。
半年に1回くらい。
「傍観者ではない視点」‏ [2012年09月03日(Mon)]

8/25〜9/1、ダラムサラ、デリー、マディヤ・プラデーシュの会長出張、無事終了。
とりあえず年末までいくつかある山脈のひとつの峠を越えました。

今回の会長訪印は、サンケイエキスプレスCampus新聞大賞をとった学生記者が全行程を同行するというおまけつき。
皆の期待に反して一度もお腹を壊さなかった、タフガイなユイカワくんが最後に残してくれた感想。

「日本財団という立場も、(卒業後に就職予定の)報道という立場も、当事者にはなれない。
当事者にはなれないけれど、でも傍観者ではない、当事者により近い立場での関わり方があるということを、会長や皆さんがハンセン病回復者と接するのをみて学んだ。
それはこれからの仕事に活かしていきたいと思う」

DSC_3217.jpg


私の中でベースになっている、学生時代の恩師の言葉を思い出す。

「本当に必要な支援は、現場を現地の人と歩きながら考える。
車でもなく、自転車でもなく、歩きながら。
そうすれば答えがみえてくる」

この環境で、この立場で、この距離で、当事者と関われることは、貴重なことだと改めて思う。



詳細の内容は笹川会長ブログからご覧ください↓
http://blog.canpan.info/sasakawa


今回は努力の甲斐あって、メディアにも多くとりあげていただきました。

http://health.india.com/news/who-ambassador-commends-india-on-its-effort-of-lower-rates-of-leprosy/

http://www.dailypioneer.com/state-editions/bhopal/91312-cm-for-action-plan-to-rehabilitate-leprosy-patients-in-state.html

http://www.dailypioneer.com/state-editions/bhopal/91311-why-separate-colonies-for-leprosy-patients.html
「それでもまだ人生を愛していたし、人間であることを信じる」 [2012年07月18日(Wed)]

2ヶ月に一度発行している、WHOハンセン病制圧特別大使のニューズレター。
2003年4月から欠かすことなく、地道にこつこつと9年間続いている。
(奥ゆかしくて敏腕な編集者のジョナサンは、いつの日かその功績を表彰されるべきだと思う)


第56号(2012年6月号)が届いた。

今月号から印象に残った言葉。


「私はハンセン病に罹ったけれど、それでもまだ人生を愛していたし、人間であることを信じることにした。
常に、自分の中にある劣等感を消すことを第一に心がけた。
だから治療やさらなる障害を防ぐための訓練に精一杯励んだ」


“Although I contracted leprosy, I still loved life and kept my faith in human beings.
"I always acted first to try and erase any feelings of inferiority. I tried my best in having treatment and in practicing to avoid disability."

-Mr. Ngyuen Duc Thin, Teacher, poet and activist in Vietnam
(ニュエン・ドゥック・ティン氏/ベトナム)

教員、詩人、活動家であるティン氏。1979年にハンセン病と診断され、ハンセン病病院で4年間の治療を終えた後、教員として復職した。

ph056_04.jpg



「もしハンセン病のような新たな感染病が発生し、治療薬がなかったら、私たちはどうするのか? 
今となっては強く非難される隔離政策を受け入れて、また歴史上の同じ過ちを繰り返してしまうのか?
それとも、より良い選択肢を選べるのか?
この問いに対する答えは、私たちの歴史認識、個人として生きる患者たちへの態度に表れる」


“If another infectious disease similar to leprosy emerges with no cure, how should we handle it? Should we repeat the mistake in history and accept the policy of segregation that is now bombarded with criticisms?
Or do we have better choices?
This may eventually boil down to our reflection of history and our respect for patients as living individuals.”

―Loh Choy Mun, Compiler of the book "A Valley Where Birds and Insects Sing for Hope: Stories of Sungai Buloh Leprosy Settlement, Malaysia
(ロー・チョイ・ムン氏/マレーシア)

かつて英植民地時代にハンセン病患者を隔離するために建てられたスンゲイ・ブロー・ハンセン病療養所。
開発によって取り壊しの危機にあった施設を歴史的な場所として残そうと、学者や大学生、アーティスト、記者などが「聞き書き」によるオラル・ヒストリーの保存に取り組んだ。
今もそこに暮らす300人の住人の体験談を集めた書籍「希望の谷」の共同編集者であるムン氏の言葉。

ph056_06.jpg



「ハンセン病の治癒率はとても高いのに、ブラジルは世界で最も蔓延率(※人口における患者の割合)が高い。
この残念な事実には、社会的偏見の影響が大きい。
偏見が、患者を診断や保健施設から遠ざけている。
だからこそ、情報が一番の治療薬なんだ」


”Although Hansen's disease has a high cure rate, Brazil ranks first in the world in terms of disease prevalance.
"This sad reality is strongly influenced by stigma, which excludes patients from diagnosis and health facilities. Therefore, information is the best medicine.”

―Artur Custodio, MORHAN's National Coordinator, Brazil

ブラジルでミレニアム開発目標賞の表彰20団体に選ばれたMORHANが、自分たちの活動の意義を振り返って。
MORHANはハンセン病に関する正しい知識を広め、相談に乗るフリーダイヤル「テレハンセン」の活動を日本財団の支援を受けて継続して行っている。
授賞式にはジルマ・ルセフ大統領も出席した。

ph056_11.jpg



「差別についていえば、9割は減ったといっていい。
しかしまだ差別が残る地域もあり、ハンセン病と診断された人が村から追い出される可能性もある」


“With regard to stigma, I would say it has decreased by 90%. However, it still exists in some locations, and may result in a person diagnosed with leprosy being forced out of his or her village.”

-Dr. Laxman Karmi, Jharsuguda District Leprosy Officer, Orissa, India.
(ラクスマン・カルミ医師/インド)

オリッサ州ジャルスグダ県のハンセン病担当官として、コロニーの生活改善に取り組むカルミ医師が、現在の自分が担当する県の状況について語った言葉。

ph056_02.jpg



全文(※英語)のPDFは、こちらからご覧いただけます↓
http://www.smhf.or.jp/e/newsletter/index.html
ナショナル・フォーラム新会長の誕生 [2012年07月03日(Tue)]

DSC_1319_.jpg

(2011年2月、第1回理事会理事会の写真 写真:なつさん


インド唯一の全国レベルでのハンセン病回復者組織、ナショナル・フォーラム

2005年の設立以来、自身が回復者であり、ソーシャルワークの博士号を持つP.K.ゴパール博士が会長を務めてきた。

ゴパール博士は、保健省のハンセン病対策専門家会議(Technical Resource Group)にも、WHOの世界ハンセン病対策プログラムの内容を協議する会議にも参加する、国際的な場でも専門的な議論の場でも活躍できる「当事者」として、象徴的な存在だった。
(2012年にはパドマ・シュリ賞も受賞)

彼の功績は大きい。
厳しい環境で鍛えられた強者が揃う、政治的な駆け引きが行われる中で、全国レベルでかろうじて人々をまとめあげられてきたのは、中立的で穏やかな態度を崩さない、ゴパール氏の人徳があってこそだ。
彼の存在なくしてはナショナル・フォーラムの設立はあり得なかっただろうし、政府にこれほど立場を認識されることもなかっただろう。


一方で、コロニーで暮らす多くの人たちにとって、ゴパール氏は雲の上の人だった。



タミルナドゥではIDEAインドの会長として、ビジネス立ち上げ支援や奨学金事業を運営しているので、実際にコロニーに足を運び、彼らと言葉を交わすことはある。

しかし、タミルナドゥ以外の州のコロニーに住む人々は、ゴパール氏と直接対話することは少ない。

何よりも、大多数の共通言語であるヒンディー語を、タミルナドゥ出身のゴパール氏は話せないし、理解しない。



ナショナル・フォーラムの事業に関する決定権はすべて、ゴパール氏の手に握られていた。

どのような事業をやるかのみでなく、
どこで、いつ行うか、
そのために誰を呼ぶか、
誰が列車で来て誰が飛行機で来るか、列車のチケット手配などの細かいことまで、すべて。

"It's either G or G"とは、2010年の9月にラジャゴパラン氏から聞いた言葉だ。
「それは、神かゴパールが決めること」。


2011年は、既に70歳を迎えるゴパール氏の健康状態が不安定な時期だった。
体力だけでなく、気力の衰えは誰の目にも明らかだった。

「ナショナル・フォーラムは急激に発展しすぎた、少しペースを緩めたい」
と弱気な発言も目立った。

もし適切な権限移譲がされないまま、ゴパール氏が動けない状態になれば、ナショナル・フォーラムの活動は、事実上休止してしまう。
もしくは、「非回復者」である声の強い支援者に乗っ取られる。


力をつけてきた当事者のリーダーに、少しずつ適切な形で権限移譲を促したい。
日本財団として5年以上投資し続けてきたナショナル・フォーラムを、健全な形で持続させたい。

それが、インド赴任を希望した一番の動機だった。



ゴパール氏の、コロニー出身の回復者に対する信頼は、高いとはいえない。

「政府主催の会議に参加させては?」
「意思決定のプロセスに参加させては?」
「ある集会の運営を任せてみては?」

そのような質問を投げかける度に、眉をひそめてしばらく考え込んだあと、必ず同じ答えが返ってきていた。

「いや、まだ早い」。

RIMG1291_.jpg


そのゴパール氏の態度が変わったのは、今年の2月、ゴアでのこと。

それまで何度話を持ちかけても「会長の座を渡すのはまだ早い、次期候補者はいない」と頑なだったのが、自身の体力に自信がなくなったせいか、
「自分は来年で会長職を退く。体が動くうちに、次期会長を育てたい」
との発言があった。

日本から出張に来た上司たちが到着する前の晩、ホテルの一室でその言葉を聞いた時のことは、強く印象に残っている。



そして、先週末、6月23〜24日の2日間にかけて、第3回となるナショナル・フォーラムの理事会が行われた。

一日目、23日の会議終了直後に、会長および理事退任の旨がゴパール氏自身の口から発表された。

IMG_1465_.jpg


翌24日の朝、理事会が始まる前に、足が不自由なサランを除く理事全員がゴパール氏の部屋に押し掛けた。

ゴパール氏を除く8人の理事たちは、口々に言った。
「私たちにはまだ指導者としてあなたが必要だ」「会長を続けて欲しい」
と。


それに対してゴパール氏は、
「ずっと会長を続けるわけにはいかない。3年後、5年後には体が動かなくなるかもしれない。今の体が動くうちなら、次の会長を育てることができる」
と、退任の意思は揺るがなかった。



ゴパール氏の退任と、シニア・コンサルタントとして残ることが決議された後に、新会長の選出が行われた。

2人の候補者が推薦され、協議の結果、
アンドラ・プラデーシュ州のナルサッパ氏が新会長に選ばれた。


新会長に選ばれたナルサッパ氏は、前日夜に理事のひとりから「あなたを新会長に推したい」と言われてから投票までずっと、かわいそうになるくらい切羽詰まった表情で考え込んでいた。

あまりに張りつめた雰囲気を見かねて声をかけると、
「自分に会長が務まるかどうか、考えているんだ」
と、小声で打ち明けた。



投票後、彼は理事たち全員の前でヒンディー語で挨拶をした。

「会長に選ばれたが、自分が他の理事より高い地位にあるとか、他の人たちが低い地位にあるとか、そういうことは一切ないと思っている。
全員同じ立ち位置だ。
皆で協力して今後も活動を続けていきたい」

と。



ゴパール博士の代わりを務められる人材は、インド中掘り起こしても二度とは出てこないだろう。

けれども、ナショナル・フォーラムの会長は、誰かが引き継がなければならない。



7月1日付で、ゴパール氏は会長からシニア・コンサルタントとなり、
代わりにナルサッパ氏が新会長として就任した。



二代目の会長となるナルサッパ氏が、雲の上の「神」ではなく、
地から足を離すことなく、コロニーの人々の信頼を得られるリーダーとなることを、心から願う。

IMG_1469_.jpg
第二世代の重荷 [2012年06月06日(Wed)]

アンドラ・プラデーシュ州にはある程度のパフォーマンスを見込める州リーダーがいるため、外からの支援が集中しやすい、と前の記事で書いた。

ササカワ・インド・ハンセン病財団も例外ではない。

ハンセン病回復者の第二世代を対象に、安定した職業に就くための職業訓練プログラムを昨年から始め、そのパイロット対象地として選定されたのもアンドラ・プラデーシュ州。

7割〜8割の高い就職率を誇る民間の職業訓練センターと連携し、ハンセン病コロニーの若者が職業訓練を経て一般の職に就くことを目指す。

4人の男女がこれまでにトレーニングを修了し、ハイデラバード近辺で、チェーンのピザ屋、郵便の配達、洋服の販売などの職に就いている。


雇用先は、彼・彼女らがハンセン病コミュニティの出身者だということは知らない。
それは知られることがないよう、職業訓練センターのスタッフも気を遣っている。

RIMG2046_.jpg

(他県のリーダーを案内する、トレーニング受講中のコロニー出身の男性)



ハンセン病の差別がなくなる、
ハンセン病コミュニティ出身であっても、一般の人と変わりなく結婚できる、就職できる、
という社会が目指すべき理想。


少しずつそのようなケースも生まれつつはある。

例えば、マディア・プラデーシュ州リーダーのサラン氏の娘は、ハンセン病コミュニティ出身ではない男性と先月結婚した。
相手の男性と家族は、重度の障害を持ちながら州リーダーとして活躍する父親サランの姿に感銘を受け、結婚話がまとまったという。

例えば、自身もハンセン病回復者であるコリ氏は、マハラシュトラ州の総合福祉施設シャンティヴァンで、外部からボランティアに来る何百人もの学生たちに体験学習を提供するコーディネーターを務めている。

自分自身の背景を隠さずに、周囲に理解してもらい、社会の中で居場所を見つける。

それはそれで素晴らしいことだ。

でも、まだ社会に偏見が残り、受け入れる準備が整っていない中、それをすべての第二世代、第三世代の若者に課すのはあまりにも酷だ。

Mr.Nilkant_Koli__Photo_.jpg

(シャンティヴァンのコリ氏 写真提供:シャンティヴァン)



同じハンセン病コミュニティ出身の結婚相手をみつけ、日雇い労働などでなんとか食いつなぐのが大多数の若者の辿る道。

貧困の連鎖を断ち切るのは難しい。
それに加えて、「ハンセン病コミュニティ」というレッテルが、面接の度、住所を尋ねられる度ににつきまとう。


障害のあるハンセン病回復者である祖父母、親が生きているうちはまだいい。NGOやミッション系団体からの支援も届く。

が、年老いた祖父母と親はいつかいなくなる。

障害のあるハンセン病回復者がいなくなれば、それまで食べものや毛布を運んできた寄付者も来なくなる。


近い将来、「ハンセン病コロニー」というレッテルと、障害のない第二世代、第三世代だけが残される時がやってくる。

RIMG2038_.jpg


就職先で修了生の一人に話を聞いた。

トレーニングの中で最も重要なことは、「就職先を自分で探すこと」。

誰かにしてもらうのではなく、自分で道を切り開く力をつける。
それは、自己肯定感と自信につながる。

学んだ知識よりも何よりも、しゃべり方や表情が変わった彼女の姿をみて、同じコロニーから何人かがトレーニングの受講を希望しているそうだ。


「社会参画」は、言い換えれば、これまで暮らしてきたコミュニティの外に出て、ハンセン病のレッテルがつきまとわない世界に足を踏み入れること。

親や仲間が暮らす、外からの寄付への依存心が定着したコミュニティから、外に踏み出す勇気と行動力が本人なければ、実現しない。


仕事場は、生活の一部分だけであることは確か。

たとえばもし恋愛して、結婚して、親と会うということになれば、家族のことを隠し続けることはできないだろう。

でも仕事場では少なくとも、ハンセン病というレッテルを忘れることができる。

そして望むらくは、その背景も含めて理解してくれるような異性と出会うきっかけが、その世界にあれば。



ハンセン病という重いラベルは、もう背負わなくてもいいんだよ。

掴む気があれば、コロニーの外の世界に出るステップは、開かれているから。
一歩先をゆくアンドラ・プラデーシュ州 [2012年06月06日(Wed)]

6/1〜3の間、出張でアンドラ・プラデーシュ州(ハイデラバード)と、タミルナドゥ州(エロード)へ。

タミルナドゥに向かう前にハイデラバードに立ち寄ったのは、アンドラ・プラデーシュ州の回復者組織SLAP(Society of Leprosy Affected People)が新しく設置した事務所を見ておきたかったから。

RIMG2066_.jpg

(SLAPの事務所がある建物。2階の一区画、3部屋がSLAPの事務所)


ハンセン病回復者組織のナショナル・フォーラム。
全国20州に回復者組織があるが、中でもアンドラ・プラデーシュ州の活動の充実度は他を抜きんでている。

数ではインド一多い、州内99ヶ所のハンセン病コロニーの情報は、住人数やコロニーリーダーの連絡先も含めて、きちんとリストにまとめられている。

州よりもうひとまわり下の県単位で県リーダーを選出し、地元主体で問題解決をしようと試みている。

RIMG2061_.jpg

(壁に貼られた活動指針と年間計画。英語が読めないメンバーにもわかるように、テレグ語訳を作成中)



AP州の州組織が他と比べて優れている、その要因はいくつかある。
最も精力的な州リーダーであるナルサッパ氏が、州都ハイデラバードの近くに居住していること。
同じく州都に、「当事者主体」の概念を表面的ではなく心から理解し実現しようとする、ハンセン病関係のNGO(LEPRA Society)があること。

コーディネーターとしてある程度のパフォーマンスが見込める州リーダー、支援NGOの体制が揃っていると、自然と外からの支援が集まる。
資金が集まれば、それだけ活動は充実する。

RIMG2058_.jpg

(写真右から、州リーダーのナルサッパ氏、LEPRAスタッフのサティラジュ氏、事務担当のクマール氏、啓発スタッフのラジマ、LEPRAスタッフの…最後の人名前訊き忘れました。)

日本財団の助成金が使われている、ナショナル・フォーラムから各州組織に出される活動補助には、今のところ事務所の運営費は含まれていない。

運営費を出したとしても、例えばSLAPがFCRA(外国からの資金提要許可を受けられるようにするためのインド政府内務省からの許可)取得のための手続きなど、日々の事務をサポートできる人材は、ナショナル・フォーラムの本部にはいない。

全国組織がどうあるべきか、各州組織がどうあるべきか、
ビジョンやそれに向けた具体的な事業計画が明確に打ち出されていない。


その遅々とした本体を横目に、AP州は実質的な実をとりながら、一歩先を歩んでいる。

事務所の運営費と事務スタッフの人件費は、現在LEPRAが支援している。


他からの支援状況を把握し、必要に応じて線を引くことは必要。
でも動き始めているその歩みを止めるべきではない、と感じた。


ここから、何かが変わるかもしれない。

DSC_7007_.jpg

(州リーダーのナルサッパ氏 写真提供:なつさん


ナルサッパ氏に関する記事はこちら(英文)
WHO Goodwill Ambassador's Newsletter No.52 pg.4
HUMAN STORY "Non-Stop Activist"
http://www.nippon-foundation.or.jp/eng/media/publications/2jcahj000005bps8-att/8f0j6k00000b8pv4.pdf
経済格差 [2012年05月31日(Thu)]

インドで仕事をするようになって初めて得た視点や感覚は色々ある。
中でも一番感じるのが、経済格差だ。

それは道端でビニールシートの家で暮らす人たちの横を車で通り過ぎる時よりも、
コロニーに住む回復者と一緒にいる時よりも、
事務所の中で一番感じる。


インド人9人の少所帯の団体。
お昼は、それぞれ持ってきたお弁当(中身はもちろんカレー)を持ち寄って食べる。

なぜか家賃の話になった。
その流れで、同じテーブルについていた総務・経理担当のスタッフが口を滑らせて、皆がいる場で私の所得税の額を公表してしまった。

彼らからみればそれが桁違いの額であることくらいは私もわかっている。


スタッフは大半が修士号を持っている。
私は学部卒。

インド人スタッフは汗をかいて現場を歩き回る仕事。
かたや私は、原則「オブザーバー」の立場。

経歴や業務内容だけをみれば、明らかにインド人スタッフの方が多い報酬を得るべき。
私が逆の立場だったらやる気をなくす。


なぜ給与の違いがあるかといえば、
(給与の支払元が日本の財団とインドの財団だから、とか、ドナー側と受け手側だから、とか、色々あるけれどもっともシンプルな言い方をすれば)
たまたま私が生まれたのが先進国で、
彼らが生まれたのが途上国だったからだ。

いたたまれない。


インドでは、よく給与の話をする。
飛行機の中で隣り合わせた人、出張先の他のNGOの人、思いもしないところでよく訊かれる。
「給与はいくらもらってる?」と。
その度に、日本は物価が高い、私の給与は日本の物価水準に合わせたものだから、と言葉を濁す。


アメリカに住んでいた中学生の時に、台湾人の友だちがしてくれた話があった。

「手の5本の指の長さが全部違うように、人間も生まれつき皆平等ではないんだ」と。

その話は妙に印象に残っている。



だからといってその格差を解消できるほどの頭脳と影響力は持ち合わせていないし、
インドにいる期間だけ私の給与額をインド水準に合わせたところで誰が得するわけでもない。

私が気にするほどに、同僚は気にしていないのかもしれないけれど。


でもせめて、札束で頬を叩くような真似だけは絶対にしたくない、と思う。
薬がわりに、バエルの実 [2012年05月26日(Sat)]

インドに住むようになってから、めっきり胃腸が弱くなってしまった。
油分が多い料理や慣れないものを食べると、すぐお腹の調子が悪くなる。

昨夜は久しぶりに外でムガールカレーを食べたら、今朝は案の定、きてしまった感じ。
さらに暑さのせいか、めまいが。

でも暑い中ひとりで寝てても気分が塞ぐだけだし・・と思って、予定どおり友人宅へ。
(ほとんどソファーで寝そべってましたけど)


お腹の調子が悪いんだよね、というと、
「これをジュースにして飲むといいよ」といわれたのが、こちら。

imagesCAU114U7.jpg


バエル・パッテャル(bael patyar)
http://en.wikipedia.org/wiki/Bael

消化を助ける作用があるらしい。

最初はわからなかったけど、割ってみたら見覚えが。

これはマディア・プラデーシュ州のコロニーで子どもたちが投げながら遊んでたやつだ!

001_.jpg


DSC02168_.jpg


(その時の様子はこちらをご参照ください ↓)
http://blog.canpan.info/c_india/archive/105
http://blog.canpan.info/c_india/archive/104


木になっているとこんな感じ。

DSC02158_.jpg



皮が石のように硬い。
硬いもので叩いて、割る。

中は、かぼちゃみたいな感じ。
そのまま食べると、かぼちゃとみかんの皮を足して2で割ったような味。

中身をスプーンでほじくり出して、水、はちみつ(または砂糖)とほんの少し塩を足して、手で実をつぶしながら混ぜて、茶こしで濾してジュースにして飲むと、飲みやすくなる。

IMG_1363_.jpg


ジュースが効いたのか?、ちゃんとマトンカレー少しだけど食べれました。


気難しいお腹を抱えながらのインド生活、これからもこのジュースにお世話になることが何度かありそうです。