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「スバーシュ」という名の男 [2012年11月23日(Fri)]

DSC_4172_.jpg

マディヤ・プラデーシュ州の州リーダー、サラン氏のことは前にも紹介した。
笹川会長のブログでも紹介されている。

代表であるサラン氏と並んで、彼と同じインドールに居住する2人がハンセン病回復者の州組織の役員に就いている。

ケラーシュ・セン氏と、その息子だ。

ケラーシュ氏は自分から進んで前に立つタイプではないけれど、いつもサラン氏の隣で静かに耳を傾け、議事録を作ったりコーディネートをするなどの細かい仕事をこなす、働き者。

DSC_3220_.jpg

ケラーシュ氏の息子は、薬屋の会計士としてフルタイムで働いている。
給与は月額8,000ルピーと、平均からしても悪くない水準だ。
(大卒の初任給が約6,000ルピー)

仕事が11時から始まるため、州組織の会合があると仕事前に朝の一時間だけ顔を出し、10時頃になると礼儀正しく辞去する。

パソコン操作が得意で英語もできるため、州組織のメールのやりとりは彼が担っている。

DSC_4169_.jpg

コロニーの第二世代で、「12年生を卒業しても職につけない」という声をよく聞く。

成功している彼と、職に就けない人と、何が違うのか? と父親のケラーシュ氏に尋ねたら、間髪をおかずにこう答えた。

「あきらめないで努力するかどうかだよ」



第二世代の成功談は、苦労話でもある。



12年生(日本でいう高校)を卒業後、すぐには良い仕事は見つからなかった。

インドでは祭りや祝い事などの時に家をマリーゴールドの花で飾る習慣があるが、その仕事に就いた。給与は月たったの300ルピー。
もちろんそれだけでは食べていけず、かけもちで色んな仕事をした。日雇い労働、郵便配達。

そのうち、ミルク屋で夜の数時間だけ事務仕事を手伝うことになった。
給与は月額1,500ルピー。そこで夜働きながら、パソコンの操作を身につけた。

新聞の片隅に求人広告を見つけて、今の仕事に応募した。


現在25歳。
結婚して1歳の息子がいる。



コロニーに住む第二世代の多く(もしくはインドの若者の多くかもしれない)は、卒業後に最初から高い給与の事務職に就くことを期待する。
働くことは、エアコンの利いた部屋でパソコンに向かうことだと。
そしてそのような道が外部の支援によって開かれることを期待する。


彼が、安い給与もかっこ悪さも厭わずに、向上心を持ってこつこつと努力を積み上げられたのは、きっと父親の背中を見て育ったからだろう。
ケラーシュ氏を見ているとそう思う。

DSC_3290_.jpg

8月に笹川会長がマディヤ・プラデーシュ州を訪れた時のこと。
州首相との面談から戻ってきた州組織の役員にかける言葉を探して、笹川記念保健協力財団のヤマグチさんが尋ねた。

「“よくやった、えらい”ってヒンディー語で何て言うの?」

「スバーシュ」


その言葉は、苦労の末に今の地位を手に入れた彼の名前でもある。


(Photo by Natsuko Tominaga
ランバライの悩み [2012年11月23日(Fri)]

ランバライ氏については、以前別の記事でも紹介した。
英文ニューズレターでも紹介されている。

rambarai.jpg


彼が居住するのは、あるミッション系NGOが運営する大規模なコミュニティ。

そのコミュニティにはハンセン病の専門病院がある。
8歳で発病し、家族から家を追い出されて泣きながら掘立小屋で一人で暮らしていたランバライは、この病院で初めてハンセン病の治療を受けた。

子どもたちのための全寮制の学校もある。

機織りの作業所があり、シルクを中心とした布製品を製造することで住人に収入をもたらしている。

障害があっても、病院の門番、電気の配線点検など、何らかの役割を与えられて働く住人には、月2,000ルピー(約3,000円)の給与が出る。

そのように、たくさんのハンセン病患者の人生を変え、支えてきた。
その功績は疑いようがない。

DSC01864_.jpg


が、一方で、設立者である神父は、コミュニティの住人が外に出ていくことを良しとしなかった。

「ハンセン病回復者の生活向上」という目的は共通している。

でも神父が目指したのは、支援者である自分たちがつくったコミュニティの中で、ハンセン病回復者が衣食住を得て、不自由なく暮らすこと。
住人が自立して、支援者のコントロールが及ばない領域に出ていくことには難色を示した。

残念ながら古くから活動するミッション系の団体において、しばしば見られる傾向だ。



「当事者が主役となって問題解決のために働く」という笹川会長が提唱するナショナル・フォーラムの概念は、その神父にとっては受け入れられるものではなかった。

ラン・バライがビハール州組織の役員として、またナショナル・フォーラムの理事として活動するようになると、彼の妻は職を失った。



そのコミュニティの創立者である神父が昨年逝去し、新しく外部から来た女性が代表となった。
代表に就任してしばらく経った頃、彼女はランバライに言った。

「州組織とナショナル・フォーラムを辞めて、コミュニティのために働きなさい」

言葉だけでなく、何が効果があるかを知っている彼女は、順番待ちをしている何人もの住人を抜かして、優先的にランバライの妻を病院の職に戻した。

DSC01863_.jpg


ラン・バライは家に併設した小さな日用雑貨屋を営んでいる。
かつてコミュニティに来た欧米人をネパールの病院に案内した際、「ガイド料」としてもらった謝礼を元手に立ち上げた店だ。
店先に座って話をしながら、慣れた様子で客をあしらう。

その雑貨屋で得た収入で、コミュニティの外に家を持っている。
昨年オートバイも購入した。
息子二人はデリーの大学で学んでいる。

コミュニティを出て外で暮らすという選択肢も、手が届くところにはある。
そうすれば州組織やナショナル・フォーラムの活動に専念することに何の支障もない。


が、その選択肢を選ぶことは、コミュニティに住み続けることで得られる利益を手放すことを意味する。

コミュニティに出入りする欧米人との出会い。
月々入ってくる2,000ルピーの給与。
妻の仕事。

どちらも手放さないよう、曖昧なバランスを保ち続けることを彼は選んでいる。


双方の予定が重なる度に、また州組織およびナショナル・フォーラムの方針とコミュニティを運営する女性との方針が相反する度に、彼の足元は揺らぐ。

タイミングを調整して、曖昧に、どちらにも角が立たないように切り抜ける。


いつまでそのバランスを保ち続けられるか。
バランスが崩れた時に、コミュニティに居続けることと、本当の意味で自立して自分の力で困難に立ち向かいながら生活することと、どちらを選ぶのか。


それは他の誰が決めることでもなく、彼自身が決めることだ。
訃報3:ムンバイ大都市のハンセン病対策を支えた医師 [2011年12月23日(Fri)]

ガナパティ博士
マハラシュトラ州 ボンベイ・ハンセン病プロジェクト 
創設者、名誉理事

Dr.Ganapati
Founder and Director Emeritus, Bombay Leprosy Project (BLP), Maharashtra

(2011年11月13日没)


(写真:LAUREN FARROW World Pressより)



1976年にムンバイに「ボンベイ・ハンセン病プロジェクト」を設立。

ハンセン病患者数が最も多い州のひとつであるマハラシュトラ州(※2010年度の新患数15,000人、全国3位)の大都市ムンバイで、人口の出入りが多い都市部の状況に合わせたハンセン病対策を推進した。

ムンバイ周辺のハンセン病回復者で、特に重複した症状が出た人は、ガナパティ医師の治療を受けた人が多い。

数字上の患者数(active case)のみでなく、治療後の回復者の福祉にも関心が強かった。

心臓病で亡くなった。


電球 参照リンク

Bombay Leprosy Project
http://www.bombayleprosy.org/index.htm

LAUREN FARROW World Press
Feb 13:India's forgotten people
http://laurenfarrow.wordpress.com/tag/social-justice/

追悼文
http://leprosymailinglist.blogspot.com/2011/11/demise-of-dr-r-ganapati_24.html
訃報2:壁のないコロニーをつくった紳士 [2011年12月23日(Fri)]

Md. サラフディン氏
アンドラ・プラデーシュ州 ハンセン病社会福祉協会

Md. Salahuddin
Founder and Secretary,
Council of Hansen's Social Welfare, Andhra Pradesh
(2011年9月没)



表向きに彼が使用した肩書は「ハンセン病社会福祉協会(Council of Hansen's Social Welfare)」だが、あえてロックランド・コロニー(Rockland Colony)の創設者と呼びたい。

インドのハンセン病回復者は、ハンセン病コロニーに住む人と、地域に暮らす人とで大きく分かれる。
地域に住みながらも、ハンセン病コロニーの生活向上のために、彼らの「リーダー」として貢献した偉人。


(2009年3月、ロックランド・コロニー訪問時)


2009年の3月、彼のコロニーを訪れた際に帰りの車の中でナショナル・フォーラム会長のゴパール氏の「一般の人がコロニーの中に移住してきて、誰が回復者で誰が後から移住してきた人か、区別がつかない。境界線などない。これが、将来のコロニーの目指す姿だ」と呟いた言葉が、忘れられない。


享年81歳(推定)。


彼の自伝はIDEA Indiaから2005年に発行されたハンセン病回復者の自伝集”Dignity Regained(尊厳の回復)”という書籍に収められている。
(以下、抜粋訳)

・・・・・・

ハイデラバードの裕福な家庭に生まれる。

もともとは医者になりたかった。スポーツが好きで、ボディービルディングが好きだった。


16歳でハンセン病を発症。
最初は医者も父親も病名を明かしてくれず、自分の薬が入った封筒に「ハンセン病」の文字を発見した時は恐怖におののいたという。
まず右足の爪先から、神経の麻痺はやがて足に広がった。

医者のいうことを聞いても治らない、自分がハンセン病であることを忘れたい、と治療を拒否。
勉強を続けたが、医科大学の入学の際にハンセン病に羅患していないという医師の証明書を大学から求められ、進学を断念した。

「すべての扉が閉ざされても、どこかで必ずひとつの扉は開ける」
子どものころに聞いたこの名言を信じ、就職活動を続ける。

海軍の試験に受かったが、そこでも「肌が海水に合わないから」と病気を理由に就職を断られた。
手書きの履歴書を手に一軒一軒扉を叩いて就職活動を続けたが、断られる。

仕事に就くためには手に職をつけるしかないと、大学に通う。朝は英文タイプの仕事、残りは中古車販売をし、空いた時間は建設現場の手伝いもしながら、お金を稼いだ。


希望が見え始めた頃、未治療のままだった病気の症状が悪化。

熱が下がらず、痛みを伴う潰瘍が足にできる。ハイデラバード郊外のディチパリーにあるヴィクトリア病院に行くことを勧められ、治療を拒否し続けた彼も症状の悪化に耐え兼ね、病院を訪れた。


(AP州ニザマバード県、ディチパリーの近くにあるコロニー)


ヴィクトリア病院でであったダヴェイ医師の存在が彼を救う。
潰瘍の治療が終わった後、「残って病院の事務を手伝ってくれないか」という彼のオファーを喜んで引き受けた。

病院での仕事は、通院患者の登録と登録証の作成だった。病院の周囲にあるハンセン病コロニーも訪れるようになった。
そこで、病気が治った後もなお社会復帰できずにコロニーで暮らす人々と出会う。

やがてダヴェイ医師が病院を去り、サラフディン氏も病院を去ることを決めた。


コロニーで暮らす回復者の社会参画を実現させようと、雇用を求めて政府の扉を叩いた。
ハイデラバード市の関係機関で、ハンセン病回復者述べ約400人の雇用に成功した。

1978年に「ハンセン病社会福祉協議会」を設立。

最初の仕事は、回復者の住人登録だった。これによってアンドラ・プラデーシュ州で初めて、回復者が選挙で投票できるようになった。

「ハンセン病回復者と一般の人たちが共生できるコミュニティをつくりたい」
と切望し、政府に協力を要請。
願いが叶い、56エーカーの土地がそのために提供されることになった。

いくつかの問題に直面した。
周辺住民の説得。
住人となるハンセン病回復者の雇用の問題。
周辺の建設業者に相談したところ、彼らの雇用に同意。また銀行からの融資を受け、リキシャも10台購入した。

そしてできあがったのが「パルバティナガール」、またの名を「ロックランド・コロニー」。

ハンセン病回復者に限らず、社会に行き場のない人たちを受け止める場となった。

現在も約300世帯の家族が暮らす。

・・・・・・


壁のないコミュニティ、ロックランド・コロニー。
もともとは岩だらけの荒れ地だったが、ハイデラバードが都市として成長するにつれて人口増加が進んだ。
IT企業が集まるハイテク・シティの目の前に所在する。


裁縫の職業訓練を受ける女性たち。
この他、障害予防のためのクリニックもコロニー内に併設されている。


注:サラフディン氏が治療を受けたのは、有効な治療法が確率されていなかった1950年代の話です。現在はMDT(多剤併用法)によって、半年〜1年間で完治し、早期に診断・適切な治療を受ければ障害が残ることもありません。

電球 参照リンク

笹川陽平ブログ 第17回国際ハンセン病学会とサラフディン氏 [2008年03月10日(月)]
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1257

「物乞いから地主へ」 ハイデラバードのハンセン病コロニー
http://www.nippon-foundation.or.jp/inter/topics_dtl/080220.html
インド、ハンセン病界の先人たちの訃報 [2011年12月23日(Fri)]

2011年は、インドのハンセン病の世界で著名な方々の訃報が相次いだ年だった。

彼らが文字通り「ライフワーク」として長年手がけてきた事業の、一瞬のわずかな部分だけでも交差して、知ることができたのは光栄に思う。

考え方や手法のすべてに同感するわけではないけれど、
彼らが築き上げた功績に敬意を表し、ここに記しておきたい。

改めて、ご冥福を心からお祈りします。

・・・・・・・

クリストダス神父
ビハール州 リトル・フラワー設立代表者

Father Christudas
Head, Little Flower, Bihar

(2011年7月27日没)


1937年生まれ、南部ケララ州Kottayam県出身。

1970年代に東部西ベンガル州コルカタのマザーテレサのハンセン病センターでディレクターを務める。

1981年に、北部ビハール州、ネパール国境近くのラクソールに「リトル・フラワー病院(Little Flower Hospital)」を設立。
設立にはムザファプールの教師の支援があった。

病院の周辺にはハンセン病回復者とその家族たちが暮らす大きなコミュニティーが形成されている。
回復者の社会参画を目的とし、機織りの工場もある。
シルクを原料としたリトルフラワーのストールには、デザイン性、質とともに定評がある。
ヨーロッパからのドナーやボランティアとの結びつきも強い。

(リトル・フラワーはナショナル・フォーラム理事の一員、ラン・バライ氏が住むコロニーでもある)







(2011年4月ビハール訪問時。右から2番目がクリストダス神父)

ハンセン病患者・回復者を支援するうち、彼自身も羅患した。足のくるぶしにパッチが出るが、やがて治癒。

2009年にインドの週刊誌WEEKの”Man of the Year”受賞。

心臓病で亡くなった。
享年74歳。


電球 参照リンク>

ucanews.comの追悼記事
http://www.cathnewsindia.com/2011/07/28/leprosy-patients-lose-their-%E2%80%98messiah%E2%80%99/

Little Flowerのウェブサイト
http://am000104.host.inode.at/english/index.php?navigation=leader
閑話休題。 [2011年10月05日(Wed)]

なぜ長々とウダイ・タカール氏の紹介をしたかというと。


この写真をアップしたかったからです!



手乗りウダイ。

・・・実際は逆で、手のひらで転がされてるのは私の方ですけどね。



だって、寺院に佇む彼の立ち姿があまりにもマスコット的で。
ちょっとなつさんと二人で遊んでみました。




笑ってるけど目がコワーい。


皆が「グル(師)」と仰ぐ彼をつかまえて、
「全員分の荷物、空港からホテルに運んどいて!」とか、
「ドルをルピーに換金して車代精算しといて!」などと言える失礼な人は、世界広しといえども私くらいでしょう。

ムンバイに足を向けては眠れません。


現在の私のミッション、ナショナル・フォーラムの基盤強化は、彼の存在なくしてはできない。


100%菜食主義の彼と一緒に巡る全国行脚、ミッシィーロティ(豆でできたパン)とミックスベジが三日三晩続いても、四日四晩続いても、どこまでもついていきましょう。

(写真提供:なつさん
ダルマさん [2011年10月05日(Wed)]

笹川会長が敬意を込めて、「ダルマさん」と呼ぶ人がいる。

インドのハンセン病回復者組織ナショナル・フォーラムの影の立役者、
ウダイ・タカール氏。



彼の賞賛されるべきところは、人を育てようとする姿勢。

ナショナル・フォーラムの理事は、全員がハンセン病回復者。
ハンセン病回復者である当事者が決定権を持つ。


ハンセン病患者・回復者の支援をしてきた社会活動家は数多くいる。
でもその中で、この「当事者主権」の理念を、頭だけでなく心の底から理解し、行動できる人は希少だ。
団体にしても個人にしても多くの場合は、ハンセン病回復者を支援する「自分」の功績に重きを置きがちなために、支援者である自分よりも当事者が前面に立つことを好まない。


(個性も言葉も強いので誤解を生むことは多いけれど)
私の周囲で、最もその理念を理解し、行動に移している人が、この人だ。


(2010年5月 ビハール州での面談時)



彼のすごいところは、人を育てるために、失敗を許すことができること。

今回のチャッティスガールでも、プログラムの決定権は一貫して、州リーダーに決めさせた。
時には間違うことがある(それでこちらは振り回されるのだけど)。
優先順位がわからなかったり、時間の読みが甘かったり。
あえて間違えさせ、自分で気づかせ、訂正させる。

要人との面談の際にも、州リーダーを前に座らせ、彼らに口火を切らせる。
自分はひたすら黙り、脇役に徹する。

それでもどうしてもまわらなくなって必要な時にだけ、フォローの手を出す。

そのバランスが、絶妙。


(2011年9月 チャッティスガールにて)


今回、彼のライフストーリを聞く機会があった。

マハラシュトラ州のプネ出身。

親戚に医者が9人もいる家に生まれた。

初めてのハンセン病回復者との出会いは、祖父のもとで働いていた小間使い。
でもハンセン病を特別意識することはなかった。


この世界に入ったきっかけは、偶然。


もともとは軍隊に入るつもりだったが、失格した。
ある日、列車に乗り遅れて1日足止めをくった時に、一緒にいた先輩に「いいところに連れていってやる」と連れて行かれたところが、「アナンダワン(至福の森)」と名づけられた社会活動家ババ・アムテのコミュニティだった。

そこで社会活動に目覚め、ババ・アムテのコミュニティに出入りするようになった。

ある日、別のところでサマーキャンプがあると聞き、シャンティヴァンに来た。
そこは1950年代に設立された、ハンセン病患者の他、障害者などが共存して生活するコミュニティだった。

そこで感銘を受け、「ここで働きたい」と責任者に申し出たところ、
「もしここで働きたいのなら、モンスーン(雨季)の時期に働きに来ると良い」
と言われた。

10日間のキャンプが終わり、一旦はプネに戻った。

そして、言われた通りにモンスーンの時期に再びシャンティヴァンを目指した。

雨季は道路が通行できなくなり、パンヴィールの施設に辿りつくまで7,8時間かかる。
途中までバスで行き、車がそれ以上行けないところまでくると水に浸かりながら3〜4km歩き、夜になってようやく着いた。

へとへとになって辿りついて、
「来るのが大変だとわかっているのに、なぜモンスーンの時期に来るように言ったのか?」

と尋ねると、責任者はこう答えた。

「もし本気で働く気があるなら、苦労を乗り越えてくるだろう。
あなたは困難を乗り越えてやってきた。ここで働くのを認めよう」


それから、仕事を持つ傍ら、ひと月に10日間シャンティヴァンに通った。
働きが認められるようになり、1986年には政府の補助金、寄付などを掌握する会計担当になった。


「シャンティヴァンで働くなら、基礎的なハンセン病の知識を身に着けるべき」といわれ、ガンディー記念ハンセン病財団で6ヶ月の特別トレーニングを自分のために組んでくれた。

著名なハンセン病学者でボンベイ・ハンセン病プロジェクトの創設者でもあるガナパティ博士、微生物学者のシャラド・ナイック博士、など、一流の人々が講師陣を務め、あらゆる知識を教えてくれた。



現在、ヒンドゥ・クシュタ・ニワラン・サン(インド・ハンセン病協会)マハラシュトラ支部事務局長をはじめ、数々の団体の理事・担当職を務める。


なぜこの活動に関わるようになったのか? という質問に対する答えは、

“Where nothing is there, I should be there”
「誰もやる人がいないところに、自分が行く」。


確かに、彼の今の立ち位置を代われる人は、誰もいない。

(写真提供:なつさん
サラン [2011年06月19日(Sun)]


Sarang Gaydhani
サラン・ガイダニ

インドールに暮らす、MP州の州リーダー。
ナショナル・フォーラムの新理事のひとり。


いつも表情が硬い。

英語はほとんど話せない。

物静かで自分から口を開くことはあまりないけれど、発言したいことがある時には堂々と意見をいう。


定職がない彼は、州リーダーとして活動する移動費や携帯電話代を稼ぐために、物乞いをする。
でも物乞いをしていることを、SILFのスタッフの前では見せようとはしない。

状況を理解しているから、SILFのスタッフもそのことについては何も言わない。

繊細で、自尊心が強い。


移動中、駅で突然表情を曇らせた。

後で(本人の了承を得て)聞いた話。


彼には娘が1人いる。

彼女の教育の面倒をずっと見てくれていたミッション系の団体があった。
その団体の支援を受けて、大学に進むはずだった。

ところが、父親であるサランが州リーダーとして活動し始めたことを面白くないと思ったのか、団体が大学進学のための奨学金を出さないと言ってきたのだ。


自分たちの団体が行う支援の枠内に留めておくのを良しとして、
回復者が勝手に外部とコンタクトを持ち、独自に活動を始めるのを良く思わないのは、一部のミッション系の団体に時々見受けられる。


誰に命令されたわけでもなく、ただ自分がそれをすべきと信じて、州リーダーとして他の多くのハンセン病回復者の生活改善のために活動してきた。

それが、こんな形で自分の家族の身に仇となって返ってくるとは。



しんとしてしまった部屋の空気を和ますために、チャイを頼む。

カップを持つのが難しいサランは、運ばれてきたチャイを、カップから半分だけソーサーの上に移して、片手でソーサーを支えて器用に口に運ぶ。


ずっと眉間に皺を寄せているサランが、今回の訪問中、一度だけ笑った。
チャイを運んできたホテルのボーイとアトゥールが交わす会話を聞いた時。



体調が良くない中、松葉杖をつきながらの遠距離の移動は辛いはずだ。

でも無理をおして、本州と北海道を足したよりも広いMP州を歩き回る彼の存在がなければ、MPのハンセン病コロニーの状況改善はいつまで経っても望めないだろう。

彼のような草の根で働く州リーダーの期待に応えられないのなら、回復者の全国組織を支援する意味はないと思う。



話をした後、
「Thank you for coming to MP(マディヤ・プラデーシュに来てくれてありがとう)」
と、サランに言われた。

言葉を返すなら、Thank you for showing me MP. 
私にとっては、州リーダーを通して、その州を見る。


MPを見せてくれてありがとう。
「あなたは何もわかってない」 [2011年06月06日(Mon)]

Braj Kishore Prasad
ブラジ・キショール・プラサード



通称BKJ。(Braj Kishoreの頭文字と、ヒンディー語の敬称"jee"を合わせて)


BKKM(Bihar Kushtu Kalyan Mahasangh、ビハール州ハンセン病回復者組織)の書記担当。

ダミアン財団のプログラム・スタッフとして働いた経験が彼の強み。

組織で働く上での立ち回り方、外部の人間とのコミュニケーションの取り方、書類のまとめ方、フィールドでの物事の進め方が上手い。
ビハールのコロニーでBKKMが関わり成功しているプロジェクト−例えばSILFの収入向上のための融資、記念保健財団の支援による家屋修繕とトイレ建設、チェンナイのライジング・スターによる収入向上のための事業など−の背景には、何度も現場へ地道に足を運び、受益者と話し合いを重ねながら彼の努力がある。


ビハール東チャンパラン地区のひとつ、アリレジのコロニーでは、銀行口座の開設がなかなか進まなかった。
銀行から口座開設に数千ルピーという多額の頭金が必要といわれ、開設を断られたのだ。
貧困ライン以下の層向けに1ルピーから口座開設ができる、というSILFスタッフからのアドバイスを受け、ブラジ・キショールが銀行に何度も足を運び、窓口担当者、ひいては支店長と交渉し、最終的に融資受け手全員の口座を開設することができた。


(クリニックの中にある一部屋に、中古パソコンをセッティングするSILFスタッフのアトゥール。
周りでBKJとその息子たち(と野次馬)が操作を覚えようと真剣に見守る)



奥さんもヘルス・ワーカーとして働いている。
息子2人、娘2人。(一番上が10年生)

弟が2人いて、最近、東チャンパラン地区の建物の一画を兄弟共同で借り、小さなクリニックと薬局を始めた。
部屋の一つにSILFから寄付された中古のデスクトップ・パソコンを設置。

クリニックの建物から徒歩10分ほどの距離にあるコロニーに住んでいる。





一見おとなしそうに見えて、彼は、強い。


表舞台に立つことを極端に避ける。
要人面談でも、日本から来たスタッフとの打合せでも、会長であるカムレーシュと会計のラン・バライの2人を前面に立たせ、自分はいつの間にかひっそりと姿を消すことが多い。

が、要望書やコロニー調査結果など、重要な書類をまとめ上げ、必要な時に忘れずに、華奢な体の肩から下げた鞄に持ち歩くのは彼だ。

そして自分のポリシーに反すること、自分が正しいと思う信念については、強固な意志を持って声を上げる。

ただ、きちんと説得すれば、理解が早い。
そして一旦納得すると、違う意見でも柔軟に取り入れ、素直に対応する。

SILFのスタッフとも、現在は毎晩のようにスタッフの部屋を訪れるほど信頼関係が築けているけれど、事業開始当初は何度も白熱した議論を重ねたそう。
何か意見の食い違いが起こる度に、
"Aap jantaa nahiin hena!(あんたは(現実を)わかってないんだ!)"
と怒鳴られたと、笑いながら話してくれた。
悪路に揺れる車内で隣に座ってそれを聞きながら、照れくさそうに本人も苦笑する。


折れそうに細い華奢な体の内に、困っている人のために働く熱意と、何が最良の道かを探り実践する熱意と、状況を変えるための強い意志が宿っている。
普段はおとなしい彼が、コロニーでは一回り大きく見える。
草の根で働くリーダーの鏡だ。

彼は、真剣に食い入るように人の話を聞く。
彼の透き通った目で直視されると、気が引き締まる。




(BKJの家でご馳走になったお昼ご飯。
食べている間中ずっと、息子さんが団扇でハエを払い続けてくれた)
チャンスを逃さない [2011年06月06日(Mon)]

Ram Barai Shah
ラン・バライ・シャー



ビハール州、ネパールとの国境に位置するラクソールのコロニー出身。
200人近くが暮らす大規模なコロニーだ。
リトル・フラワーというNGOが運営するコロニーで、ハンセン病病院もすぐ側にあり、支援が隅々まで行き届いている。
「ビハール1のコロニー」と、彼も胸を張る。

その活動に賛否両論はあるものの、リトル・フラワーの存在がなければ、彼が成功することは無かっただろう。



彼の最大の強みは、向上心と人懐こさにあると思う。

リトル・フラワーが運営する病院で働いていた彼は、英語を習得した。

運営者との意見の違いでクビになり、半年間リキシャを漕いでいたという。


ある日、リトルフラワーを訪れたイギリス人の訪問者が、ネパールのカトマンズとアナンダバン・ハンセン病病院を訪れる旅のガイドに、英語が話せる彼を雇った。
その旅には奥さんと2人の息子も同行し、初めての家族(すぐ隣だけど海外)旅行になっただけでなく、旅の最後にガイドの礼にと2000ルピーを渡された。

このお金を元手に、小さな商店を始めた。

もともとビジネスの才能はあったのだろう。愛想がいいから接客業も向いている。

こつこつとお金を貯め、長男をデリーの大学に行かせ、次男も大学まで入れ、コロニーの敷地外に1軒の家も購入した。


そんな身の上話をしながらも、子どもからお年寄りまでひっきりなしに店を訪れ次々と物を買い求めていく。


(ラン・バライが営む雑貨屋に飾られたニューズレターの写真。
2010年5月、ビハール州副首長と面談した時のもの)


州組織をまとめあげる全国組織、ナショナル・フォーラムの新理事の1員でもある。

理事会の時、「自分がナショナル・フォーラムの理事になるなんて、物乞いをしていた頃から考えると信じられない」と、顔全体で興奮を表して、少し目を潤ませながら話していた。


唯一欠点は、要人と会う時でも、なぜかシャツのボタンを3つ目くらいまで外したままなこと。
こっそり「閉めた方がいいよ」というと、「Oh, thank you」といってその場では閉めるものの、面談が終わって外に出るとまたすぐ元の状態に戻っている。


(ラクソールのコロニー)


自宅で見せてもらったアルバムの最後に、閉じられていない印象的な写真が一枚あった。
最初の息子が生まれた時だろうか。

藁の上に横たわり、生まれたばかりの赤ん坊を抱いている奥さんの傍らで、(今は立派な体格だけど)まだ細いラン・バライが、奥さんをいたわり髪をなでている写真。

そのような写真が残っているのは、もともとの状況もコロニーの中でもわりと恵まれた方だったということもあるだろうけれど、
そこから苦労を重ねて、今の成功を手にしたんだと思う。
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