CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

«インド、ハンセン病界の先人たちの訃報 | Main | 訃報3:ムンバイ大都市のハンセン病対策を支えた医師»
<< 2013年04月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
Google

ウェブ全体
インド滞在記
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
匿名
クレイアニメが映す「ハンセン病」に当事者から抗議の声 (02/12) awa→ちびすけさん
1年目の振り返り。 (12/23) ちびすけ
1年目の振り返り。 (12/15) awa→KUROさん
1年目の振り返り。 (12/15) KURO
1年目の振り返り。 (12/15) awa
1年目の振り返り。 (11/30) Hena
1年目の振り返り。 (11/28) もりりん
1年目の振り返り。 (11/27) awa→きょこさん
モチベーション (10/27) きょこ
モチベーション (10/27)
月別アーカイブ
訃報2:壁のないコロニーをつくった紳士 [2011年12月23日(Fri)]

Md. サラフディン氏
アンドラ・プラデーシュ州 ハンセン病社会福祉協会

Md. Salahuddin
Founder and Secretary,
Council of Hansen's Social Welfare, Andhra Pradesh
(2011年9月没)



表向きに彼が使用した肩書は「ハンセン病社会福祉協会(Council of Hansen's Social Welfare)」だが、あえてロックランド・コロニー(Rockland Colony)の創設者と呼びたい。

インドのハンセン病回復者は、ハンセン病コロニーに住む人と、地域に暮らす人とで大きく分かれる。
地域に住みながらも、ハンセン病コロニーの生活向上のために、彼らの「リーダー」として貢献した偉人。


(2009年3月、ロックランド・コロニー訪問時)


2009年の3月、彼のコロニーを訪れた際に帰りの車の中でナショナル・フォーラム会長のゴパール氏の「一般の人がコロニーの中に移住してきて、誰が回復者で誰が後から移住してきた人か、区別がつかない。境界線などない。これが、将来のコロニーの目指す姿だ」と呟いた言葉が、忘れられない。


享年81歳(推定)。


彼の自伝はIDEA Indiaから2005年に発行されたハンセン病回復者の自伝集”Dignity Regained(尊厳の回復)”という書籍に収められている。
(以下、抜粋訳)

・・・・・・

ハイデラバードの裕福な家庭に生まれる。

もともとは医者になりたかった。スポーツが好きで、ボディービルディングが好きだった。


16歳でハンセン病を発症。
最初は医者も父親も病名を明かしてくれず、自分の薬が入った封筒に「ハンセン病」の文字を発見した時は恐怖におののいたという。
まず右足の爪先から、神経の麻痺はやがて足に広がった。

医者のいうことを聞いても治らない、自分がハンセン病であることを忘れたい、と治療を拒否。
勉強を続けたが、医科大学の入学の際にハンセン病に羅患していないという医師の証明書を大学から求められ、進学を断念した。

「すべての扉が閉ざされても、どこかで必ずひとつの扉は開ける」
子どものころに聞いたこの名言を信じ、就職活動を続ける。

海軍の試験に受かったが、そこでも「肌が海水に合わないから」と病気を理由に就職を断られた。
手書きの履歴書を手に一軒一軒扉を叩いて就職活動を続けたが、断られる。

仕事に就くためには手に職をつけるしかないと、大学に通う。朝は英文タイプの仕事、残りは中古車販売をし、空いた時間は建設現場の手伝いもしながら、お金を稼いだ。


希望が見え始めた頃、未治療のままだった病気の症状が悪化。

熱が下がらず、痛みを伴う潰瘍が足にできる。ハイデラバード郊外のディチパリーにあるヴィクトリア病院に行くことを勧められ、治療を拒否し続けた彼も症状の悪化に耐え兼ね、病院を訪れた。


(AP州ニザマバード県、ディチパリーの近くにあるコロニー)


ヴィクトリア病院でであったダヴェイ医師の存在が彼を救う。
潰瘍の治療が終わった後、「残って病院の事務を手伝ってくれないか」という彼のオファーを喜んで引き受けた。

病院での仕事は、通院患者の登録と登録証の作成だった。病院の周囲にあるハンセン病コロニーも訪れるようになった。
そこで、病気が治った後もなお社会復帰できずにコロニーで暮らす人々と出会う。

やがてダヴェイ医師が病院を去り、サラフディン氏も病院を去ることを決めた。


コロニーで暮らす回復者の社会参画を実現させようと、雇用を求めて政府の扉を叩いた。
ハイデラバード市の関係機関で、ハンセン病回復者述べ約400人の雇用に成功した。

1978年に「ハンセン病社会福祉協議会」を設立。

最初の仕事は、回復者の住人登録だった。これによってアンドラ・プラデーシュ州で初めて、回復者が選挙で投票できるようになった。

「ハンセン病回復者と一般の人たちが共生できるコミュニティをつくりたい」
と切望し、政府に協力を要請。
願いが叶い、56エーカーの土地がそのために提供されることになった。

いくつかの問題に直面した。
周辺住民の説得。
住人となるハンセン病回復者の雇用の問題。
周辺の建設業者に相談したところ、彼らの雇用に同意。また銀行からの融資を受け、リキシャも10台購入した。

そしてできあがったのが「パルバティナガール」、またの名を「ロックランド・コロニー」。

ハンセン病回復者に限らず、社会に行き場のない人たちを受け止める場となった。

現在も約300世帯の家族が暮らす。

・・・・・・


壁のないコミュニティ、ロックランド・コロニー。
もともとは岩だらけの荒れ地だったが、ハイデラバードが都市として成長するにつれて人口増加が進んだ。
IT企業が集まるハイテク・シティの目の前に所在する。


裁縫の職業訓練を受ける女性たち。
この他、障害予防のためのクリニックもコロニー内に併設されている。


注:サラフディン氏が治療を受けたのは、有効な治療法が確率されていなかった1950年代の話です。現在はMDT(多剤併用法)によって、半年〜1年間で完治し、早期に診断・適切な治療を受ければ障害が残ることもありません。

電球 参照リンク

笹川陽平ブログ 第17回国際ハンセン病学会とサラフディン氏 [2008年03月10日(月)]
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1257

「物乞いから地主へ」 ハイデラバードのハンセン病コロニー
http://www.nippon-foundation.or.jp/inter/topics_dtl/080220.html
トラックバック
ご利用前に必ずご利用規約(別ウィンドウで開きます)をお読みください。
CanpanBlogにトラックバックした時点で本規約を承諾したものとみなします。
この記事へのトラックバックURL
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
トラックバックの受付は終了しました

コメントする
コメント