教育を考える会報告1
[2011年08月29日(Mon)]
第38回教育を考える会報告1
永瀬正臣先生(元浦和西高校長)も81歳になった。初めて先生に会ったのは40年ほど前、県主催同和教育研究協議会であった。講師であった先生の講義はリーダーとしての使命感、正義感と人間愛に溢れた内容であった。感覚の鋭さには目を見張った。
生徒指導の鬼「大宮高の永瀬」を知らぬ人はなかった。正義の人、不良高校生の畏敬の先生であった。やくざの親分も一目をおいた。手出しをするチンピラはいなかった。夜回り先生の先駆者であった。
東京文理科大時代は(現筑波大)サッカー部の名選手であった。釜本選手などと並び称せられた。プロからの引き抜きも多くあった。スポーツ界の誘いを退け、高校の教師となった。
ソウルパラリンピックで盧泰愚大統領の隣に座った先生、ソニー井深会長の代理としての参列であった。
角田秀明先生は聖学院中・高指導部長、聖学院の英語を飛躍的に向上させた。
高橋寛子先生は川口・元郷保育園長、川口市立保育園長会の会長である。
畠山れい子先生は、特別支援学校で働き、森美津子先生はギタリスト、小貫浩先生は越谷南高校で倫理社会を教えている。
今、青葉学園長の神戸信行先生は高校教師であった。全国社会福祉協議会総務部長、現場から日本の社会福祉に切り込んでいる。演題は「今 福島で生きること」重い重い内容であった。
森美津子先生はギタリスト、演奏家である。スペインに留学、クラシックギターを演奏してくれた。それから40年近くたつ。今も現役の演奏家である。教室を持つとともに、各地でボランテイア演奏をおこなっている。
午後ゲリラ豪雨、道路も寸断、参加も大変であった。「雨ニモ負ケズ 風ニモ負けず、夏ノ暑サニモ負ケズ・・・・。」である。何があっても「本物の教育」を探る人たちである。
永瀬正臣先生(元浦和西高校長)も81歳になった。初めて先生に会ったのは40年ほど前、県主催同和教育研究協議会であった。講師であった先生の講義はリーダーとしての使命感、正義感と人間愛に溢れた内容であった。感覚の鋭さには目を見張った。
生徒指導の鬼「大宮高の永瀬」を知らぬ人はなかった。正義の人、不良高校生の畏敬の先生であった。やくざの親分も一目をおいた。手出しをするチンピラはいなかった。夜回り先生の先駆者であった。
東京文理科大時代は(現筑波大)サッカー部の名選手であった。釜本選手などと並び称せられた。プロからの引き抜きも多くあった。スポーツ界の誘いを退け、高校の教師となった。
ソウルパラリンピックで盧泰愚大統領の隣に座った先生、ソニー井深会長の代理としての参列であった。
角田秀明先生は聖学院中・高指導部長、聖学院の英語を飛躍的に向上させた。
高橋寛子先生は川口・元郷保育園長、川口市立保育園長会の会長である。
畠山れい子先生は、特別支援学校で働き、森美津子先生はギタリスト、小貫浩先生は越谷南高校で倫理社会を教えている。
今、青葉学園長の神戸信行先生は高校教師であった。全国社会福祉協議会総務部長、現場から日本の社会福祉に切り込んでいる。演題は「今 福島で生きること」重い重い内容であった。
森美津子先生はギタリスト、演奏家である。スペインに留学、クラシックギターを演奏してくれた。それから40年近くたつ。今も現役の演奏家である。教室を持つとともに、各地でボランテイア演奏をおこなっている。
午後ゲリラ豪雨、道路も寸断、参加も大変であった。「雨ニモ負ケズ 風ニモ負けず、夏ノ暑サニモ負ケズ・・・・。」である。何があっても「本物の教育」を探る人たちである。