無事に仕事を納めました
[2014年12月26日(Fri)]
|
困難性が高くても働けることを目指して
一日の過ぎるのが早かったですね〜。
近頃高等部低学年のお子さんをお持ちの親御さんから「卒後」の進路を意識したご相談ご見学が増えています。 高等部→生活介護か継続Bという既定路線ではなく「こどもの可能性」に目を向けてくださっている親御さんが少しずつ増えている手応えが嬉しいな…と。 それだけに「出口」を創出する責任も。 Schaleは「就労移行支援」です。 新しい働き方として仙台市の「中間的就労支援モデル事業」に農福連携で挑戦もさせていただいています。 これまでなら一般就労どころか福祉的就労でも難しいと思われる自閉症や発達障害のある若年層の方々と挑戦させていただいています。 9月から農業法人さんでの就労体験の機会をいただきました。 毎月行われる農家さんも含めた「振り返り」。今日はその日でした。 Aさんは、知的な遅れはほとんどありませんが、私たちと出会った時には「緘黙」という評価。高校卒業時にはいくつかの企業さんを受けましたが、「やり取り・応答」の難しさから就職には繋がらず、「やり直し」のステージとしてSchaleを選択。 事業所内でのトレーニングを通して挨拶や返事の声も聞きとれるようになり、今回のプロジェクトに白羽の矢が。 「一人で黙々」タイプかと思いきや、家族経営の法人さんの息子さんたちやパートのおばさんたちとも会話をするする様子が見受けられるようになってきました。 ただ、「自己流」の修正が今はまだすんなりいかないことが課題でです。 農家の方の作業方法の方が効率が良いのですが、そこをくみ取ることが難しい… ジョブトレーナーの出番です。 Bさんは知的な重さもあり、「理解」の力も高くありません。 でも、私の中には“Bさんのような特性の方でも「働いて」役に立ち感謝されてお給料をもらえるようになって欲しい”という願いがあっての挑戦です。 でも、大苦戦中。 トマトの袋詰めの作業では、重さの見極めがとっても難しいことが解りました。 Schaleのトレーニングプログラムの中に「計量」があります。 今思えば、比較的細かなメモリを見極めさせる内容が多かったのですが、彼は正確に測ることが出来るようになっていました。 だけど、トマトのような大きくて、相当の重さがあるものを複数個選んで既定の重さの袋詰めをすることがとても難しい。 250g/袋という基準があった時、「250g±10gはOK」という決まり。 玉の大きさで5〜6個くらい。 220gになって後一つどれを入れたら基準を満たすのか…大きさからおよその重さを判断して選ぶことがBさんにはとっても難しかった。 自閉症の人の中には、ウチの息子のように「手測り」に神業を示す人もいます。そして私たち定型発達の人も、なんとな〜く、見た目から重さを感じて後一つを選ぶことが出来たり、修正が出来ます。 でもBさんには難しい… “そもそも彼には「重さ」が解っていたんだろうか?” そんな猛省をするチャンスをいただいています。 その上、「トイレにペーパーを詰める」なんて新たな問題行動も出てきて… 今日はそんなことにどう対処していくかを、このプロジェクトの事務局も含めて検討。 いろんな議論がありました。 事務局からは「そもそも就労体験をするにいたっていないのでは…」とも。 計量も、袋のシール貼りも作業性や生産性も求められる仕事内容です。 “迷惑をかけるよな〜”と、撤退することは簡単なことかもしれません。 だけど、その道を選ぶことは出来ないのです。 私はね「Bさんのような方が働くステージで出会えることがこの事業の大きな意義」だと思っているのです。 「重たい人は働けない」なんて思って欲しくないし、それは逆を言えば「障害がある人でも働く準備性が整っていなければ実習には出られない→働くチャンスは機能の高い人にだけ用意されている」ってことにしかならないわけです。 そこはとっても「抵抗」があるんです。 結構「穏やかに」意見を伝えられたと思います。 でね… 預かって下さっている農家さんが言ってくださったことが素敵だったんです。 「なんで、そんなに大騒ぎするの? 詰まったらスッポン(配管が詰まった時に使う道具)を持って取ればいいだけでしょう?」 って。 その上 「ジョブトレーナーさんがお世話しすぎてるんじゃない?もっと一人でさせてみれば良いのに」 とも。 嬉しかったです。 本当は泣きそうでした。 ジョブマッチングは「職務マッチングとマンマッチング(決め手はマンマッチングの方が大きい)」…こんなことをJCーNETのセミナーで教えていただいたことがあります。 だからどれだけ私たちのこどもの「良いところ」を受取って、愛して下さって、引き受けてくださる方と出会えるのか… 私の役割は「知ってもらって・認めてもらって・尊重してもらう」ための橋渡しなのだと思っています。 この事業を通して確認できた課題はスタッフとも共有して、もっと支援が上手になれるように努めます。 Schaleはエリートの集まりではありません。 でも「自閉症の方は成人期に幸せでなければならない。そのご家族もまた幸せでなければならない」と強く強く願い、叶える集団にはなれるはずです。 そう信じて明日からも励みます。
今日から4期目
今日12月1日から、法人が設立されて4期目に入りました。
「石の上にも3年」…2011年は震災やなにやかにやら、厳しい年でした。 2012年…「ドリームプラン・プレゼンテーション」に出会い、なぜこの事業に取り組むのかを真正面から向き合う機会をいただきました。 2013年…「ミッションmovie」の制作ワークショップを通して、スタッフが自分の果たす役割と価値を整理することができました。 2014年…ようやく放課後等児童デイサービスとCafe事業が軌道に乗りかかりました。 まだまだです。 どうぞこれからも見守り、応援をしていただけましたら幸いです。
再挑戦
2012年12月。
私たちのこどもの「未来を創る」ことへの決意をプレゼンテーションさせていただきました。 https://www.youtube.com/watch?v=Oa1XkNkHzMo&feature=youtu.be そして今年はこの福祉の業界の方々だけが挑む「さぽ☆どり」に挑戦します。 もう3週間ほどになりました。 日々の業務に追われ、進捗状況は5%くらいでしょうか。 でも、必ずやり遂げます。 新たな夢と、そこから広がる感動と共感を力に、私たちのミッションを叶えるために。 以下、実行委員長からのお誘いにお目通しください。 知的・発達障がい者福祉サポーターズ ドリームプラン・プレゼンテーション2014 (さぽ☆どり2014)へのおさそい! 実行委員長 阿部美樹雄 福祉とは幸せや豊かさを意味する言葉です! そのためには、私たちはあらゆる場面において福祉の水準を上げる取り組み(ソーシャルアクション)と、私たちとのかかわりの中でご利用者が、幸せ・豊かさを感じていただけるようなあり方を身に着けなければなりません。 福祉的就労についても、生産性を上げるだけという意味ではなく、支援を請けながら仕事を通じて幸せになるということ、介護(care)という意味はそもそも、関心を持つ、気配りをするなど身体的なことだけでなく、「心」のあり方が前提となっている概念です。 そのような支援者になるための人材育成はどのようにするのか? 人が安定感を持って他者に好意的にかかわれるとしたら、その人を愛し、必要とし、ありのままの存在を承認し、感謝することなどが大切になります。 さらには「してやっている」という感覚を育成者が持たないようにしなければなりません。「してくれなかいからできないのだ」という感覚をすぐに持ってしまいます。 私たちが求めているのは、ゆるやかな感性を持った自立型の人材なのです。 プレゼンターは一人でプレゼンを作るわけではありません! 支援者は、プレゼンターの話をしっかり聴いて、その話の中に社会的価値を見つけ共有し共に喜び、苦手な点については、自分ができることを申し出ます。信頼し、励まし、安心できるようにそばにいるようにします。アドバイスはしません。音楽やPCの専門家など多くの支援者が必要ですが、それも基本的にはプレゼンターが探します。 あるプレゼンターが、「こんなにほめられた経験はなかった!」という話をしていました。私たちは、他者から無条件に応援される経験は大人になると極めて少ないのです。 他者に支えられながらも、道は自ら決め困難を乗り越えてきた経験(成長のサイクル)は生涯の財産となります。 課題は一人で実現することは困難で、みんなでで一緒に叶えることがもっともたやすいのです。違いは助け合うためにあるからです。 私たちは、夢に懸命に挑戦する姿に心を奪われます! 応援したくなります。自分ができることを探し出します。 効果的に成果を出す組織には、相互支援のシステムが構築されています。 そしてリーダーは、見本となり信頼される人間関係を作ることが大切であることを知ります。相互支援によりもっとも大切な勇気を共有できる信頼できる仲間がいれば、喜びは倍増し悲しみは半減することを知ります。 ドリプラの仕組みは人を成長させる最高の機会です! 福祉の世界で管理職を育成することの難しさがよく話題になります。 ビジネス界での成果・売り上げはお客様が上げるものといわれています。そのために、コーチングやさまざまなマネージメントの手法など心理学から学びます。 ドリプラは心理学、脳科学等の要素を取り入れた根拠のある手法です。 福祉の仕事は、ご利用者が幸せだと感じていただけるようなかかわりを身に着けるということです。 私たちの最大の経営資源は職員です。 職員がいつでも応援しあえる仲間の作り方を体験し、過去の自らのあり方を克服することに挑戦し、人間として成長し、勇気を持って未来を創り上げていこうとする姿勢を身に着ける体験がドリプラなのです。 その集大成が、11月15日のプレゼンテーションなのです。 多くの人たちとともにこの仕事の魅力を分かちあいたいと思っています。 知的・発達障がい者福祉サポーターズ ドリームプラン・プレゼンテーション2014 2014年11月15日(土)13:00〜17:00 文京学院大学 仁愛ホール(東京メトロ南北線「東大前」駅(2番出口)) 参加費:1,000円(税込) ※「学生」無料!(要事前申込)
迷った時に立ち返る教え
成人期の方々の苦しみに突き当たる時、無力であることを感じると共に、“私たちじゃなくて誰が寄り添える?!”って気持ちを奮い立たせます。
私は幸いなことに自閉症の子の親としても学ぶ機会をたくさんいただいて来ました。 TEACCHアプローチと出会えたことで、日本ばかりではなくたくさんの素晴らしいジェネラリストの皆さんと出会いました。 ここ数日、成人期の方が不調で苦しんでいます。 暑かった今年の夏、乱高下する気圧…いろんなことが襲い掛かっています。 とっても困難な状況の方と相対していると、支援者としての「覚悟」を突き付けてくださった札幌の加藤潔さんを思います。 加藤さんは「支援者はもがき、苦しみ、のたうち回れ」と言い放ちます。 それは「彼らはこれまでの人生の中で今あなたが感じている数倍ももがき、苦しみ、のたうち回ってきたのだから。」と。 3年前のちょうど今頃、加藤さんに仙台にお越しいただいた時のレジュメの一部です。 感情コントロール <感情コントロールのうまいへた> 加藤理論では、2次的な症状は治療の対象。 だって、生まれたときにはもってないもん。したがって、2次的な症状を「自閉症だから」という理由で治療放棄する医者を加藤は全く信用していない。 感情コントロールは2次的なこと。だから、戦える領域(勝たなくても負けなければいい)。 感情コントロールのうまい人は、発達障がいであろうがなかろうが、そこそこ社会でうまく生きていける。 <感情コントロールは2大戦略をベースにする> (参考:ドーパミンとセレトニン ほめられたらうれしいのはドーパミンの分泌が増えるから。 しかし、ドーパミンの濃度が高いほど攻撃性が増すこともわかっている。 ドーパミンなどを抑制し、衝動的な行動や攻撃性を抑えるのがセレトニンである。) ドーパミン的戦略 自分への誇りを高めモチベーションをあげるための戦略である。 自尊感情→状況理解→作戦会議という基本的な流れを意識したい。 セレトニン的戦略 ほっとする空間や時間をもつための戦略である。 いやしや趣味の保証ももちろんであるが、自分の居場所があることも生活リズムをつくり、心の安定につながることを意識したい。 <ドーパミン的戦略〜3段階の構図> 自尊感情を高める 自分に対する「そんなに悪くない」思いは次へ進むための基本エネルギーとなる。 状況理解を促す 周囲の状況が見えれば、自分を客観視することが多少なりとも増える。 作戦会議を行う その前提があって、どうするかの作戦を考えることができる。 <自尊感情を高める大原則> 話し言葉で、書き言葉で、態度で、物で・・・。 ほめることを伝える方法なんて、いくらでもありますよ。 すごいことをほめるのはだれでもできる。 あたりまえにできていることをほめるのである。 つまり・・・ ×おれはすごい。おれだけがすごい。 ○けっこうわるくない。 うまくやれている部分もある。 <彼らは評価されたくてたまらない> 自分がダメだなんて思いたい人はいない。 でも、他者からの評価が高くないと感じている。 だけど、自分でどうしていいかわからない。 自閉症支援の根幹にあるのは、彼らが自分に対して「そんなに悪くない」と思えること <何より大切なこと それは自己実現> 自分はけっこういけてるという実感だれかが認めてくれているという実感 だれかのために(何かのために)生きているという実感 そして「がんばってみようかなと思う自分」がいること (加藤辞書より検索) ☆自立は「できる」と「できない」だけの論理ではない ☆定型発達に近づける支援は自己実現にはつながらない (自分は自分のままでけっこういいというのが自己実現だから) ☆修正や訂正のない完了は十分にほめたことになる ☆報酬に向かって頑張ることは十二分にほめたことになる ☆本人セッションで加藤がよく使うフレーズ 「それが魅力のひとつです」 「少なくとも加藤はそう思います」 「○○さんはきっと喜んでくれるでしょう」 <障がい受容ってありえるの?> ご本人にせよ、ご家族にせよ、100%障がい受容できるなんてありえない!というのが加藤の基本〜だって人間だもん 「しっかり受けとめていこう」「自分なりの、その子なりの成長でいいんだ」と思い続ける努力を続けなければ、心がふっと揺れてしまう 〜ふつうになりたい(したい)というのはある意味日本人の本能だもん つまり、受容しようとする努力こそが「受容」なのである。 <すぐに受容できるものなの?> 100%受容できないとしても、少しずつ受容 に向かうのにはかなりの時間がかかる。 現実から目をそらしたい、考えたくないという時期はある。それは無関心という態度としてあらわれる。 事実を突きつけられることに対し、他者への攻撃という行動で自分の心のバランスをとることもある。 だからこそ、その歯止めになるのが「そんなに悪くない自分」なのである。 <加藤の頻出フレーズ> 「よかったねえ」「それがいいとこなんだよな」 相手の方に「えっ?」「加藤は何を言ってんの?」と思わせる。 「社会性のスキルはそれなりに学んでるよ。 社交性がないだけでしょ。ボクも社交性はかなりレベル低いよ」 どの人ともうまくやろうとして苦しむのはむなしい努力。 「好かれなくていい。嫌われなきゃいい」と知ってほしい。 <状況理解を促す大原則> 書いて見せる、書いて説明すること 一時一事の説明 ・長々と書かない〜一文は短めに ・ひとつのスペースにひとつの内容 ・できれば、図も使いながら <作戦会議の大原則> 書いて見せる、書いて説明すること 完璧な作戦実行を求めない。「やってみようと思います」程度を求める。できなかったマイナスではなく、できた分のプラスに注目させる。 物や行動に名前をつける ・「そう、あれ」「それだよ、それ」 「それをあれすればいいんだ」??? 今日は、就労のスタッフ全員と、改めてここに書いていただいたことを確認し合いました。 ご本人とは午後一でお目にかかり、親御さんからも「一週間ぶりでまともな会話をしました。久しぶりに笑いました。」と言っていただけるところまで状況の整理をお手伝いできることが出来ました。 でも、私たちのこどもが壊れるのは本当に瞬間芸のようなものです。 彼らの苦しみの奥の深さは計り知れません。 だからこそ、これまで導いてくださった先輩支援者の経験から学び続けていきたいと決意を新たにしています。
加藤哲夫さんが逝った日
市民活動のコアバリューを教えてくださった加藤哲夫さんが逝って丸3年。
今日は「メモリアルプロジェクト」の日。 お昼には、所縁のある方々がSchaleにお集まりくださいました。 パテシエールえりかさんがご用命をいただいてからずっと向き合ってより良いものを作ろうと努力してくださったクッキーとパンも、長男哲夫、次男秀人の総代理で三男太郎さんにお渡し出来ました。 今日はお見えになれませんでしたが、共に仕事をしてこられた日本財団の山田さんも、「加藤さんの仕事」をまとめてくださいました。 http://matome.naver.jp/odai/2136238500219804901 大切な方が遺してくださった大切なことを、これからも忘れずに私たちの役割と向き合っていけたら幸せです。
忘れる暇もなく…
久しぶりに鳴った携帯の緊急地震速報に飛び起きた朝。
皆様に大事はなかったでしょうか? 津波注意報も出され、緊張の朝でした。 私はフローレンさんと岩沼のグリーピアでの一泊研修に参加中。 こちらはほとんど揺れることもなく、仙台の留守宅の方が長い揺れで怖かったようです。 今日は「北海道南西沖地震」があった日でもあるそうです。 緊迫の朝でしたけど。週末で子どもたちもお家でご家族と一緒だったことは、安心の一つでした。 忘れる暇もなくやってくる大震災の余波。 危ない時はとにかく「逃げる」。 日頃からの心の準備も必要ですね。 台風一過。青空の広がる朝です。 大事ない一日を過ごされますように。
私たちの役割
IIHOEの川北さんのブログhttps://blog.canpan.info/dede/archive/931に、“チョット最近浮かれていたかもしれない”と自省中です。
川北さんは新しく社会起業家を目指す方々に 「この機会に必ず明らかにしてほしいのは、何をしたいかではなく、誰(対象)のために、どんな状況を実現したいのか、そのために、自分はどんな役割を担うべきか、の確認です。」 と伝えていらっしゃいます。 「天動説ではなく、地動説で。 中心にあるのは自分たちではなく、その問題の当事者である事業の対象者。 その対象の特長や課題や理想を知り抜いたうえで、最適な状態を実現 できるようにすることが、社会起業家の基本的な立ち位置です。」 とも。 先日スタッフとMTGをしていて「事業計画」の話題になり、何と無くスッキリしなかった私。 川北さんの記事でその理由が解ったように思えています。 いわゆる「事業計画」って、私たちのような所はとかく「行事計画」や「経営計画」をイメージしているのではないかしら? 「市民活動は自らの課題を自らの手で解決していく社会変革」と加藤哲夫さんから教えていただいたことが、この8年間いつかは「あったらいいな」が叶うという支えでもありました。 川北さん、太郎さんに引き継がれ、私たちも受け継いでいく「計画」って… 目先のことに追われていたかもしれません。 「ニーズを知り代弁者たれ」 「事業計画より社会変革計画を」 …大切なこと。大事にしていきます。
やっぱりイヤだな「親亡き後の心配」
親の会に入れていただいた時、初めて聞いた「親亡き後の心配」という言葉。
とっても違和感を持ちました。 「親亡き後の心配」をしなきゃいけない人生なんて、息子に失礼だとずっと思ってきました。 それが、息子が18歳になってある日突然 私やお父さんやおばあちゃんがいなくなる日がやって来ることが、ザワ〜ッと嵐のように心の中を駆け抜けました。 それから数か月… 「大阪に来てくれるなら何とかするよ」…こう言ってくださった中山さんの一言に心を決め、「18歳は普通の子でも親から離れていく歳だよね」という先輩お母さんの言葉に背中を押され、関西のTEACCHの仲間の皆さん、息子の憧れる若いイケテル福祉の仕事に携わるお兄さん・お姉さんとの出会いがあって、息子は「プチ独り立ち」を始めました。 今日で丁度丸1か月(4週間)。 「ねぇ、お母さんチョット聞いてね」…そんな一言から始まる電話もちっともかかって来なくなりました。 「生きていく力」は誰もが平等に与えていただいていることを実感しています。 だからこそ「親亡き後の心配」なんてしなくて良い世の中を。 ご本人にも親御さんにも「幸せ」な人生を。 叶えたいと願います。 戸枝さんの足元にも及ばないのは解り切っているけど、“戸枝さんのようになりたい”と憧れ続け学ぶことは許してもらえるでしょう。 本当の 「優しい人」 になりたいと 心を揺さぶられました。 出典 戸枝 陽基 “季刊誌「ふわふわ」2004年4月 『街の中でふわりふわりと考える』“より 街の中でふわりふわりと考えるvol.22「オカアサン!オキテ!」 平成16年3月21日、僕は突如、16歳の子どもを持った。突如子どもを持ったと言ったって、隠し子が現れたとか、そういった類の話ではない。未成年後見人、つまり、ある子どもの法的な親代わりになったということだ。 あれは、半年前の秋のことだった。ふわりが経営する喫茶なちゅで、僕は、一組の親子と向かい合ってコーヒーを飲んでいた。喫茶なちゅでお会いする数日前に、お母さんからふわりに電話があり、緊急に戸枝さんと話をしたいとのこと。僕は、何事だろうと思いながらも、お母さんと予定を合わせて、子どもさんが慣れている喫茶なちゅで会うことにした。 お会いしてからしばらくは、子どもさんの最近の学校などでの様子を笑いながら話した。しばらく話をした後に、「えーと。それで、今日の本題なんですけれどね」とお母さんが、笑い話とまったく同じテンポで、今日の本題を切り出した。鞄をごそごそしながら何かを探している。 「あれ、どこにやったかな。あ、あった、あった」お母さんが一枚の紙を僕に差し出した。「これ、見ていただけますか」お母さんが差し出した紙を笑顔の僕が受け取る。その紙に視線を走らせた僕は、笑顔が凍りつき、息が止まった。 「私、末期ガンなんですよ。余命半年だって」お母さんが、凍りつく僕に、本当なんですかねというような不満顔で言った。お母さんが僕に渡した紙は、医者の診断書だった。僕は、体を堅くしながら、何回も何回も診断書に書いてある文字を読み返す。確かにガンだ。余命も書いてある。僕は、言葉を失った。 お母さんが言った。「それでね。いろいろ考えたんですけれど。うちは母子家庭で、母ひとり子ひとりなもんで、この子を安心して託せるのは、ふわりさんしかないなと思って。障害の重い子だから、すごいご無理を言っているのは、わかっているんですけど。戸枝さん、私の全財産をこの子に残していくので、この子と一緒に生きて行って貰えませんか。お願いいします」真っ直ぐな目が僕を見る。 突然のことに、頭が真っ白になりながら、僕は、ごくりと息を呑む。「い、いや、お母さん、別にガンだからって、死ぬと決まった訳じゃないし」動揺を隠しながら、僕は、うちの母の話をした。「うちの母は、二十歳で舌ガンをやってから、喉頭ガン、胃ガン、乳ガンと再発を繰り返しているんですけれど、不死鳥のように蘇り、いまだ元気で、介護保険を利用させてもらう年になっています。家族の間では、フェニックス敦子と呼ばれています。ガンなんて、死なない人は死なないんです」僕は、脂汗を流しながら、そんな訳のわからない話を一生懸命にした。 お母さんが、にっこり笑って言った。「ありがとう。戸枝さん、私を励ましてくれているんだよね。私は、強いから大丈夫。でも、子どものことは、もしもの時のために、ちゃんとしておかなければならないでしょ」僕は、再び、ごくりと息を呑んだ。時間はない。ごまかしもきかない。今この瞬間に、このお母さんに、この子どもと一緒に生きていくのかどうか、決めて答えなければいけないのだ。 僕は、念を押すように言った。「ふわりなんかでいいんですか。僕みたいな、いい加減な人間でいいんですか。大切な子どもさんを託すんですよ。入所施設なら、確実に死ぬまで面倒を見てくれるかもしれない。こんな不安定な、地域福祉のシステムで、本当にいいんですか?」 お母さんが、言った。「私は、この子が障害があっても、普通に街で暮らせるように、自分で出来ることは、本当に精一杯やって来ました。私が死んでも、この子には、このまま、街の中で普通の暮らしをさせたい。その可能性があるのは、ふわりさんしかないんです。戸枝さん、ご迷惑でしょう。でも、どうしても、よろしくお顔いしたいんです」お母さんが深々と頭を下げた。 その瞬間僕は、「こんな僕ですが、精一杯やります。ふわりがダメだったら、僕が引き取って、一緒に生きていきます。よろしくお願いします」と条件反射のように、深々と頭を下げていた。リスクとか責任とか、いろいろ考えていたことが、どこかに吹き飛んでしまっていた。こんなに想いを寄せていただいた。福祉人冥利に尽きる。ライフワークとして彼と生きる。それでいいと思ってしまった。 それから半年が過ぎた。桜の便りがちらほらと聞こえてきた、3月20日。病床にお母さんに会いに行った。お母さんは、黄疸が出て、全身黄色になっていた。呼吸もひどく荒い。持って数日だと、ひと目でわかった。「お母さん、戸枝です。わかりますか?」お母さんが、ゆっくり、領いた。 「今日は、子どもさん、連れて来ましたよ。会いたかったでしょ?」その瞬間、うっすらしか明いていなかったお母さんの目が、しっかり明いた。ぎょろっと落ち窪んだ目が、病室中を探している。僕は急いで、子どもさんをお母さんの横に連れて行った。お母さんが、残りの力を振り絞ってという感じで、点滴の針の刺さった手を伸ばす。こんな力がどこにと思うくらいしっかりと、子どもさんの手を力強く握った。お母さんの目から、ひとすじの涙が流れた。それを見て、泣いちゃいけないはずの僕も泣きそうになった。僕は、涙をぐっと堪えながら言った。 「子どもさん、グループホームに入って、不安定になるかと心配したんだけれど、養護学校の先生に褒められるくらい落ち着いているんですよ。最近はリラックスして、他の住人さんに悪戯するくらいで・・・」僕は、手を握り合う親子の間で、一生懸命楽しそうに振舞った。 そんな僕をお母さんがじっと見た。何かを言おうとしていると感じて、僕はお母さんを見た。目が合った瞬間、お母さんの口が動いた。声は出なかったけれど、何を言ったのか、僕には、わかった。 「あ・り・が・と」「お・ね・が・い・し・ま・す」その瞬間、僕の胸は、何ものかが鷲づかみしたかのように苦しくなった。泣いてはいけない。僕は、お母さんの手を握り、作り笑顔を浮かべた。 「何言ってるんですか。ガンに負けず、子どものために、ずるずる長生きしてやるって、あの時、なちゅで笑って言ってたじゃないですか」お母さんがゆっくり領いた。もうすっかり覚悟をしていることがわかった。僕は、もっと強く、お母さんの手を握りながら言った。「大丈夫ですよ。僕が子どもさんと一緒に生きていきますから。ふわりのみんなで、生きていきますから。大丈夫です。安心してください」お母さんがゆっくり領いた。その後、力を使い果たしたという感じで、再び目を閉じた。 「もう行こう。お母さん、疲れちゃうといけないから」今にも病室で、泣き出してしまいそうだった僕は、一緒に行ったスタッフにそう言って、急いで病室を出ようとした。「行きましょう」スタッフが、子どもさんを促して、病室を出ようとした。 その瞬間だった。いつもはオウム返しという、言われたことをそのまま返すような発語しかない、子どもさんが、お母さんに向かって、突然、叫んだ。「オカアサン!オキテ!」そして、頑として動こうとせず、泣きそうな顔になって、持っていた帽子を噛んだ。僕はあ然として、さらに、泣きたくなった。わかっているのだ。彼は、お母さんがただならぬ状態だということをわかっているのだ。16年間、母子家庭で、しっかり寄り添ってきたふたりの最後の瞬間。胸が引き裂かれそうだった。 翌日の朝。お母さんは、静かに息を引き取った。そんな訳で僕は、突如、16歳の子どもを持つことになった。こういう事態になって、今、とりわけ思うことは、僕は、間違いなく、彼の死ぬまでを支援出来ないということ。彼が70歳まで生きたとすると、その時、僕は90歳だ。 地域福祉という営みを、何世代にも渡るものにしなければいけない。僕の想いを、100年続く営みにしなければ、彼の人生やお母さんの想いに責任が持てない。若いスタッフ達は、そこをわかってくれているだろうか。今日もお母さんの最愛の子どもさんは、知多の街で元気に生きている。
加藤さんが遺してくれたこと
|