函館おしまコロニーの高橋和俊先生が、ご自身のブログを通してメッセージをくださいました。
その後何人かの方々とのやり取りが、私たち親にも深く考える刺激を下さっていますのでご紹介します。
先生のブログのタイトルは「診察室の窓から」
5月9日の記事です。
28. 『重要な原則ほど普遍性が高い』
私は、難しい問題に突き当たったときには必ず一度「原則」に立ち返ってみることにしています。その場合、その原則がどれだけ幅広い状況に当てはまるか、という「原則の普遍性」を必ず考慮しています。
例をあげましょう。自閉症の人に対して「失敗させてはいけない」ということがよくいわれます。これは完全な間違いではありませんが、原則としての普遍性は低いといえます。なぜなら、当然のことですが自閉症の人でも失敗から学ぶことができる場合もあるからです。ただ、一般論としては自閉症特性を持つ人は失敗体験を通じて学ぶことが苦手なことは多いですし、失敗体験が否定的な辛い記憶としてだけ残ってしまうことも少なくありません。この場合のより普遍性の高い原則は、「自閉症の人にはなるべく失敗させない」というものでも、「自閉症の人にも失敗体験は必要だ」というものでもなく、「ある状況から学べるかどうかは人それぞれに異なるし、同じ人でもそのときの状態によって変化しうる」というものです。言い方を変えれば「ある人に何かを学んでもらいたい場合には、その人がその方法によって学べる状態になっているかどうかを知る必要がある」ともいえるでしょう。そう考えれば、自閉症の人には失敗させるべきかさせないべきか、という結論の出るはずのない議論ではなく、ある状況において失敗を経験した場合、その人がそこから学ぶことができるかどうかを知ることがまず必要であるということになります(どうやってそれを知ることができるか、という問題はそれ自体が非常に重要な問いですが、今回はそこには触れません)。
私が原則の普遍性について考えるようになったのは、「自立とは何か」という問いに直面したことがきっかけになっています。「自立」を狭く解釈すれば、できるだけ身の回りのことを自分でできる、あるいはできるだけ一般就労する、ということになるかもしれません。もしそうだとすると、決して「自立」できないような重い障がいを持つ方についてどう考えたらよいのか?ということが私の疑問の出発点でした。また、「もっと自立しなければだめだ」と周囲にプレッシャーをかけられ、必死で自立しようとしながらうまくいかずに苦しんでいる人たちに出会ったことも、私に「自立とはいったい何なんだろう?」と思わせたきっかけになりました。狭い意味での「自立」がよいことであるとすれば、様々な側面で支援を必要とすること自体がよくないことになってしまいます。また、仮に苦しい思いをして自立レベルを多少高められたとして、もしそれがその人にとって納得できない辛い体験としてしか残らなければ、その人の人生にとって「自立」は本当にプラスなのかどうか、疑問を持たざるを得ません。私はそこに漠然と違和感を持ち、これは「自立」の定義が間違っているか、「自立=よいこと」という理解の仕方が間違っているかのどちらかだろう、と思いました。
私の疑問は、ある日、あっけなく氷解しました。こんなことを考えていたのは私が初めてではなく、既に幾多の議論がなされてきたのを知ったからです。1950年代には北欧で、そして1960年代には北米で、身辺自立や職業的自立のみを自立と捉える従来までの自立観へのアンチテーゼが巻き起こり、「自己選択・自己決定こそが自立の根本である」という新たな運動が起こりました。その歴史に触れたとき、それまでの私の違和感に一つの明確な回答が示されたと感じたのです。自己選択・自己決定が自立の根本であるとすれば、すべてを自分で行わなくても、自分に必要な援助を自ら求めること自体が自立につながることになります。仮に重い知的障がいがあったとしても、その人がある環境の中で自発的に取る行動が状況にふさわしいものであって、そのことによる困難が少なければ、それを一種の「自己選択・自己決定に基づく自立」であると考えることもできるでしょう。本人が身辺自立や職業的自立を求めて積極的に行動することはそれ自体が重要な自立の要素であり、反対にわけもわからずに「自立」を強要されている状況は本当の自立ではない、ということになります。もちろん、必要な援助を求めることができるためにも、自発的な行動が状況に合っているものになるためにも、やはり一定の援助が必要です。しかし、そのような自己選択・自己決定に必要な援助こそ、社会における一種のインフラでなければならないと私は考えています(この点については以前の投稿「感謝される支援は二流の支援」または「沢山のことは都合よく日常に隠されていて…」をご参照ください)。
無論、身辺自立を高めたり、職業的自立を目指したりすることにも一定の意味があり、私自身その重要性を否定するものではありません。ただ、自己選択・自己決定は自立にとって最も普遍性の高い原則であって、それを欠いた状態を自立と呼ぶことができないということだけは間違いないでしょう。だからこそ、私は自立について考えるときには単なる身辺自立や職業的自立ではなく、自己選択・自己決定という側面を真っ先に考慮することを忘れないようにしたいと思っています。
重要な原則ほど普遍性が高い。私にとっては、これ自体が重要な原則です。
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皆さんはどんな受け取りをしましたか?
この記事を通しての何人かの先生方のやり取りが凄いんです。
私にとっての「自立」のものさしは
私は【「必要な支援」を受けて「その人らしく」生きていけることを「自立」のイメージにしています。】と、メッセージ。
それに対して和俊先生からは
【いつもありがとうございます。必要な支援を受けることももちろんそうですが、支援を受けること自体をその人が納得して選んでいるのか、ということも大切ですよね。】
と。
さらに私は
【その通りですね。
ご本人の「意思決定支援」も、自立を叶える大切な要素ですね。
有難うございます。】とお返ししました。
兵庫県立リハビリテーション病院の中井先生からは
【自立とは自分が何が得意で、何が苦手か、できないかを理解していること、そして、不得手なこと・できないことを、誰に・どこに頼めばいいか知っていること、可愛らしく頼めるスキル、やってもらったらありがとうと言えること・・・自分も講義や講演などでお話しています。
もちろんこれらができるためには、社会の成熟度やインフラ、システムの構築とセットですよね。】
それに対して和俊先生からは
【中井先生、コメントありがとうございます。まさにそうだと思います。ただ、自分ではそれを言語という形で認識したり表現できない人たちの自立を考えるときに、その人たちが選べる選択肢自体を社会が準備しているのか、という問題に突き当たるような気がしています。自立は、自立する人の問題であると同時に、自立が成立する場の問題でもあるのかもしれません。】
また、北海道教育大函館校の本田先生からは
【 援助要請の研究でも「自立と依存」の議論が出てきます。中学・高校の学級集団に援助要請スキルの介入をするとき,「援助を求める(相談する)こと」とは「自分で解決できないから(弱い・劣っているから)人に頼る」というよりも,「主体的に援助を活用して自分らしく生きる」という考え方・とらえ方を紹介します(押しつけはしませんが)。その上で援助要請スキルを「自分が傷つかない援助の求め方」と紹介し練習します。記事を読んで,私が援助要請スキルの介入をするときにも,自己決定の尊重が含まれているとはっきりと認識しました。】
和俊先生は
【本田先生、私が初めて先生の「援助をためらう心理」についてのお話を伺ったとき、私が直面している問題に直結していることを感じました。援助を求め続けなければならない状況は、人を傷つけ、無力化します。支援者によっては、そのことをクライアントを支配するための道具として(無意識のうちに、あるいは意図的に、場合によっては善意という衣を着て)使ってしまうことがあります。先生のされている研究は、その問題に切り込んだ、非常に重要なものであると思っています。】
さらに山形県立盲学校の佐藤先生が
【すべての人間が誰の助けも借りずに生きるなど不可能であり、それを前提とするならば、できないことをできるようにすることが自立ではないですよね。確かにそれも必要なことはありますが。
自立ってこのようにまとめた本もあります。
著者は視覚障害者なのでその切り口が多いのですが、時々参考にしています。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784865000047と情報を下さり
和俊先生からは
【いつもありがとうございます。読んでみたいと思います。自立の姿自体は一人ひとり違ったものになるのでしょうが、その背景には誰にでも共通する根幹があるはずですよね。たくさんの「自立」に触れて、その根幹を抽出する作業を続けていきたいと思っています。】
とまとめられました。
保護者の皆様に
「20歳・25歳になった時に、どんなお子さんになっていて欲しいですか?」
と伺うと、皆さんが
「出来れば自立して毎日行ける仕事に就いていて欲しい。」
と仰っています。
「では、その『自立』って、どんなイメージですか?」とさらにお尋ねをすると、実はそこに明確な答えを持っていらっしゃる方はあまり多くはありません。
・仕事に就く
・お金を得る
もちろん大切なことです。
でも、もう一歩踏み込んで具体的にどんな姿で日々を暮しているかを。
何が叶い、何が叶っていなくて。
何を諦めないで、何を諦めているのか…
どれだけ溌剌と毎日を楽しんで生きているのか。
そのための「楽しみ」は何で、その楽しみを持てているのか。
たくさん・たくさんイメージしてみませんか?
そして、一つ一つ明らかにして「自立」を共に目指しませんか?
何度もお伝えしている言葉です。
「自閉症の方は成人期に幸せでなければならない。
そしてまたそのご家族も幸せでなければならない。」
GAOLに向かって、共に歩んでいけたら幸せです。