雲は天才である [2009年07月21日(火)]
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─ 雲は天才である ─ これは ご存知のように 石川啄木が書いた小説の 題名である ![]() ぽっかり雲 梅雨のうっとおしい時 こんな写真もいいものだ 雲は天才である 何の意味も無く 空にデジカメを 向け 雲を 映すのが 好きだ そのほとんどが 美しい 失敗が 無い ここのところ 梅雨が 戻って来た様で 薄ら寒く 空は 厚く雲に 覆われている それでいて 少し動くと 汗ばむ 湿度が 高いのだ 今日の写真は 二週間ぐらい前に 写したものである 写した雲の写真を 見ると 何時も ─ 雲は天才である ─ この言葉を 思い出す つくづく 石川啄木は 上手い事を言ったと 思う 石川啄木と云えば・・・ 石川啄木について 僕は づっと 誤解をしていた 小学校の時 石川啄木の 紙芝居を 冬休みの宿題として 作って行った ただし 紙芝居の絵は ほとんど 家族に 描いてもらった そう云う ところが 有って 僕は かなり ずるい子供だった 絵は 今でも ダメである あの紙芝居も 先生が見たら これは大人の絵だと 一目で 分かっただろう 違う話だが そんな風に 子供の頃の恥に よく 今でも 僕は 苦しむ どんな風に 自分を 慰めても この 子供の頃の恥は 脳細胞に 食い込んでいて 苦しい 天罰とは こう云うものか とも思う が 石川啄木のうたは 好きだった それは 本当だった みそひと文字 三十一字 五・七・五・七・七 啄木は 短歌を 作った 短歌を よんだ と云うべきか・・・ だが それだけではない 石川啄木の短歌は 彼の一部に 過ぎない ![]() やや 夕焼け雲 ─ 東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる ─ 大といふ字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰り来たれり ─ かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川 これらは 「一握の砂」に入っている作品である 昔 ほんの僅かの作品しか 知らなかった でも 好きだった 本当に 好きだった しかし ずっと誤解をしていた と云うより 石川啄木の事を それほど知らずに ずっと 居たのであった 1989年 冬 井上ひさし作の 「泣き虫なまいき石川啄木」 と云う作品を 上演した 石川啄木の資料 関係書は あまりにも 多い 上演するからには 調べなければならない 国会図書館へ行って そのあまりに多い資料に 愕然とした つまり それまで僕は 石川啄木を 一人の 文学青年に ちょっとヒゲが 生えている 位にしか 考えてはいなかったのだ ところが その資料の多さに 驚いた たかが 文学青年を 何故 こんなに沢山の人が 研究するのだろう そう思って 調べ始めはしたが 膨大すぎて 茫然自失 当然 それら全ては とても 読めない 1989年 当時 調べたのは・・・ 読む事が 出来たのは ほんの僅かのものだった それでも とんでもない 自分の間違いに 気付いた ![]() 1989年に 上演したチラシの 表・裏 石川啄木は 単なる文学青年のレヴェルの人ではない れっきとした 文学者であり プロフェッショナルな 人である事を 思い知らされた これは 恥ずかしかった 知らない と云う事は 怖い事だと 身を持って 知った 「一握の砂」「悲しき玩具」 石川啄木は これらの 短歌だけではなく もっと 沢山 書いたものを 残している 特に その膨大な 日記の一部を読んだ時は 衝撃を受けた と云っても 大げさではない しかも 亡くなった年は 27才 である わずか 27才・・・・・ 僕の 半分も 生きなかった 肺結核であった 啄木の母も 肺結核で 亡くなった 啄木の妻 節子も 28才 結核で 亡くなった たった一人の娘 京子も 結核で 亡くなった 井上ひさし氏は 「泣き虫なまいき石川啄木」を 書いた時 一部屋に 置けないほどの資料を 読んだ と 聞いた 作品は 面白く また 良く 本当に 石川啄木が 作品の中に ちりばめられている それだけではなく 石川啄木を 心底 愛している事が 作品から 察せられるのだった 丁度 春田純一さんと 知り合ったばかりの頃で 春田さんには 声の出演をしてもらった 今 2009年・・・・・うェッ・・二十年 経ったのか と これまた 違った意味で 愕然とする が とても 懐かしくも ある ![]() ちよっと 淡い雲 雲は 不思議だ 一つとして 同じものが 無い 地球の歴史の中でも 同じ形の雲は 無かっただろう 似たものは 有ったに違いないが それって もの凄い事だ また 一時も 同じ形をしていない 刻々と 変わって行く これからも 雲の写真を 写すだろう ![]() そして また 話の内容とは 関係なく ここに 載っけるだろう |









