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お互いに理解し合おうという意識。 [2015年10月29日(Thu)]
こんにちは!代表の渡です^^
珍しく、定期的なブログ更新以外で2本目のブログです。
テーマは前回と同じく、ひとり親家庭を救え!キャンペーンについて。

今日朝起きてfacebookを見ると、駒崎さんの記事を拝見しました。
それが、こちらです。http://blogos.com/outline/141645/
その記事を読んで、なんかこうモヤっとしたんですよね。

この記事の内容が全部だめだ!というわけではないんですが、やっぱり何か足りないものがある気がするんです。
駒崎さんのおっしゃるように、問題の本質を見えにくくすることは避けるべきですし、そこには全く異論はありません。
一方で、では問題の本質とは何なのでしょうか?

僕は先日のブログで、子どもに及ぶ影響について書きました。
https://blog.canpan.info/attoschool/archive/156
事実の受け止め方が個々人によって異なるということ、それによって無意識に当事者を傷つける可能性があるということを書きました。
駒崎さんのおっしゃる「一部の人はそうだが全体はそうじゃないという言説は、問題解決にとってはマイナスになる」という言葉に沿うなら、この傷つく当事者がいるという問題はしっかりと考えて扱うべきではないでしょうか?

この間facebookなどを見ていて、いろんな方のいろんな言葉を見ました。
その方なりに相手を配慮した表現を使われていると思うのですが、それでもちょっときついなと思うものもあります。(僕がきついと思ったからなんだって話ではありますが)
でも、それは別に悪いことではないんです。
自分は配慮していたつもりが、相手から見たら配慮になってなかったなんてよくあります。
問題はそういうことが起きた時に、しっかりとお互いに理解し合うことに努めることだと思います。
1人親家庭の問題の本質は、経済的な問題もさることながら、周囲からの理解のなさ(弱さ)もあると思っています。
今回このキャンペーンでネット上でこうした議論が起こりました。そして最終的に「問題解決につながらない不要な論法は避ける」みたいな形で言い切られてしまいましたが、この周囲からの理解の部分が置いてけぼりにされてる感じがします。
1人親家庭でも障害者でもセクシャルマイノリティでもそうだと思いますが、一括りにはできそうでできないんですよ。
一人一人の人間だから、いろんな感情があるんです。
それを型にはめて理解しようとするのではなく、目の前の一人一人をそれぞれが理解しよう、理解し合おうと思っていく社会に僕はしたい。

ものすごくいい動きなのに、必要とされる動きなのに、なにか欠けている気がするんです。
一方的に当事者への配慮を発信側に押し付けるのはそれはそれで違う気がしますし、当事者側も発信してる側の気持ちを理解する必要があると思います。
ただ、今はお互いに理解し合おうという感じがなんとなく見えない。
それがこの一連の動きの、すごくモヤっとする部分です。
大きい動きだから、仕方のないことなんでしょうか?
1人親家庭のためにやってくれてるはずなのに、なんかそうじゃない気がしてしまうのは僕だけでしょうか?

この件は、あっとすくーるの内部でも議論してみようと思いますし、僕自身も引き続き悩み続けていこうと思います。
Posted by 渡 剛 at 13:30
この記事のURL
https://blog.canpan.info/attoschool/archive/158
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コメント
キャンペーンの記事もブログの記事も読みました。キャンペーンのキャッチコピーをどう読むかにもつながりますが、プロパガンダと受け取るか、つまり「ひとり親はみんな貧困だからとにかく救わなければいけないのだ」という誇張表現による宣伝と割り切るか、「貧困で苦しむひとり親」だけを救うキャンペーン、つまり所得制限を設けたキャンペーンだと受け取るか。。。ここまで読まれた渡くんは心の中で違う、違うと叫ばれているかと思います。要するに、特別視またはステレオタイプ化の再生産はやめてくれと言いたいんでしょう? その危険は十分にはらんでいると思います。そもそも、十把一絡げにした方が強力になるというんでやるのが、キャンペーンですもの。私は識字教室や日本語ボランティア、全盲の中途失明の人の移動介助の経験を通じ、ひとつ学んだことがあります。社会的弱者と呼ばれる人は、対等に普通に見られたいのです。ただの隣の人でいいんです。みんなに当てはまるかも知れないが個人にはケースバイケースでしかない「知識」や「一歩引いた同情」は本当に、要らない要らない。そうはいっても、よく考えてみると、人は誰も、みんなスーパーマンやスーパーウーマンじゃない。誰も完璧なんてできないし、そう期待されたくない。その意味で、どんな立場の人も一緒といえる。傷つける人も傷つく人も、完璧じゃないという意味で、お合いこ。だけど、人は困っている人を見たら、親切になる。ちょっとした親切ならしてくれる。だから世の中そんなに悪くない。そんな風に世の中はできているのじゃないかしら。ずっと親切にしてくれとか、ずっと完璧に理解してくれとかだったら、ややこしくなるでしょう? 言いたいことわかってもらえたかな。。。舌っ足らずでごめんなさい。なるべく自分の言葉で書こう書こうとしてこうなっちゃいました。私はそういった経験を通して、相性が合えば、例えば全盲の人と友達になっちゃう。アドバイスももらっちゃう。なにか、こうなんちゃうと思えることはずっと続けるし、小さいことでも積み重ねて行くうちに、何とか方向が変わっていくとか前よりもいつのまにか良くなっていると、信じているし。キャンペーン派とは一線を画してもいいじゃないですか。妨害しているのでも矛盾しているのでもなく、他に信じることがあるから。それを形にしたり発信して行ったりする人がいることはいいことだと思います。応援しています。
Posted by:KN  at 2015年10月29日(Thu) 22:21