昨日 ロビーでのこと
隣の席からこんな声が聞こえてきた
障害の重たい人は
「全国障害者スポーツ大会」「パラリンピック」に「選手として参加」できないのか?
しばらく耳を澄まして聞いていると
どうも 「知的障害のある方」についてのようだった
「身体(肢体)の障害」の場合は
障害の状態 程度などによって「障害区分」によるクラス分けや配慮など
ルールのうえで規定されている
明らかに異なる状態の選手同士が
同じ条件で 同じレースによって競争することは無いのだ
それが 障害者スポーツの理念の一端であり ルールに反映されているのだ
しかし 知的障害者部門については
従来から「知的障害」として 「一括り」に区分されているのだ
障害が重たい軽いなどは 全く考慮されない
一部の方たちの主張によれば それが「平等」だそうだが
理不尽そのものだと 私は思う
実は
一部の方たちの考えではなく それが主流だから
そうした「ルール」になっているのだ と思う
お隣から漏れてくる 話しを聴くにつれて 暗くなった
障害の状態 程度によるが
明らかに障害が重たい方と 明らかに軽い方が 競技すれば
転倒などを含めて よほどのアクシデントが無い限り
結果は スタートの前から予測できる
私と 主流の方との間には
「障害の理解」に関する認識に 大きな違いが有るのだ
「最重度 重度 中度 軽度」などと
区分するのを 嫌っているのだと思うが・・・・・・・・・
誰もが 障害の状態に依らず 自らのもてる力で全力を出しているのだ
それを 公平に評価すること それが自然で当たり前のこと
それを「ルール」というのだと思う
障害のある方に対する支援の基本は
自ら できることは自らで
できそうで できないことは 手伝って自ら
できないことは 手伝って
それは 障害のあるなしにかかわらず 同じこと
それが 「公平 平等」だと思う
「障害」の表記 「障がい」ならば 差別感が無いそうだが
それも同様だと思う
どう捉えるかが 求められる
今は 無いと思うが 少し前までは
競技会において 参加競技者の氏名を伏せる傾向があった
時代によって社会の認識は 変化しているが
何が 公平で平等であるのか?
「運動会」の この時季になると
きまって自問自答 独り言が生まれる そんな季節になってきた
隣の席から 答えを求められなくて良かった? 実は 求めて欲しかったのかも?
たまたま聞えてきた会話の内容
真剣に耳を傾け 聴いていたのだが・・・・
隣の席の方が 読んでくれたら嬉しいのだが 如何だろうか
もりなが けんじ