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「象の鼻」その後 [2009年01月30日(Fri)]
このブログでもたびたびお伝えしている1859年(安政6年)に横浜が開港した当時の波止場、「象の鼻防波堤」の復元・整備が進んでいます



この復元・整備事業は、今年開港150年を迎える横浜港の記念事業のひとつで、開校記念日の6月2日には周辺もふくめて「象の鼻パーク」としてオープンする予定です。

先日,訪れたときには、防波堤がかなり高く立派になっていました。
周辺の整備も進んでいます。



文化財防火デー [2009年01月28日(Wed)]
1月26日は「文化財防火デー」です。

文化財防火デー」の制定は1955(昭和30)年ですが、その契機になったのは1949(昭和24)年1月26日に起きた法隆寺金堂の火災です。

この事件を教訓に、毎年、各地で文化財たいする防火訓練がおこなわれています。
今年も各地で、訓練のニュースが新聞等で報道されていました。

昨年は、このブログでも文化財火災のニュースを再三取り上げました。
繰り返しになりますが、文化財は火災などで消失すると、かたちや構造は復元はできるかもしれませんが、それはこれまで長い年月にわたり、多くの人びとの手によって守られてきたものそのものではありません。
失われたものは、元にはもどらないのです。

今年は、このような文化財が消失するようなニュースを聞くことがないように願います。

「文化財防火デー」の詳細については,文化庁のホームページで確認できます。
http://www.bunka.go.jp/1hogo/bunkazai_boukaday.html
「水中文化遺産データベース作成」会議が開かれました [2009年01月26日(Mon)]
1月24日(土)に、日本財団助成事業「水中文化遺産データベース作成」会議が福岡市でおこなわれました。

今年度にデーターベース作成をおこなう九州地域の各担当者が集まり、データベース作成に関する最終確認・公開事項の検討およびシンポジウムについてを話し合いました。



会議会場の近くでは、福岡市文学館(赤煉瓦文化会館)「誕生100年祭」の記念式典がおこなわれ、
雪が舞うとても寒い日にもかかわらず、多くのひとが集まっていました。

テープカットとともに、赤レンガの建物にかけられた真っ赤な大きなリボンがあらわれると、歓声があがっていました。

福岡市文学館(赤煉瓦文化会館)は、1909(明治42)年に日本生命保険九州支店として建てられたもので、地震や空襲の被害もまぬがれ、1969(昭和44)年には国の重要文化財に指定されています。
設計は、東京駅や日本銀行を手がけた辰野金吾によるものです。
また、福岡市博物館ができるまでは、福岡市歴史資料館が置かれていました。
鞆の浦へ行ってきました [2009年01月23日(Fri)]
以前、紹介しました広島県福山市の鞆の浦(とものうら)に行ってきました。

鞆の浦は、ふるくから自然の良港として、瀬戸内海航路の要港として栄えた港町です。
現在でも、ふるい町並みとともに、常夜灯・雁木・波止・焚場といった江戸時代港湾施設が残っていることでも知られています。

今回、初めて訪れたのですが、平日ということもあり、観光客も少なく、非常に静かでゆったりとした雰囲気でした。


 南側(波止)から港を望む−常夜灯が見えます−


 東側から港を望む−常夜灯が見え、その後ろには船のメンテナンスをした焚場(たてば)の跡が残っています。


港の北奥部に残る雁木(がんぎ)という船着き場の階段。


仕事の合間に訪れたので、1時間ほどしか時間がとれなかったので、じっくり見るということはできませんでしたので、今度機会があれば、じっくりと散策をしてみたいと思います。

また、これも以前紹介したのですが、今、鞆の浦には住民を二分するような騒動となっている鞆の浦埋立て架橋計画問題が起こっています。
しかし、今回訪れた限りでは、架橋問題をしめしたのぼりや幕はありましたが、喧騒さはまったく感じませんでした。
見高段間遺跡 [2009年01月17日(Sat)]
伊豆半島の東海岸側にある河津(かわづ)町に見高段間遺跡(みたかだんまいせき)という縄文時代の遺跡があります。
河津町は、先日紹介した西伊豆町のちょうど反対側にあたる位置にあります。

見高段間遺跡は縄文時代中期に、黒曜石の原産地として知られている伊豆諸島のひとつ、神津島(こうづしま)から運ばれた黒曜石の陸揚げ地と考えられている遺跡で、この遺跡に陸揚げされた黒曜石が、さらに南関東や伊豆の各地に運ばれたと考えられています。
実際に、神津島産の黒曜石は、これら地域の多くの遺跡から出土しています。

遺跡は海を見下ろす台地上にあり、神津島とは約60kmの距離がありますが、遺跡からは天気が良いと神津島をはじめとする伊豆の島々を見ることができるそうです。



見高段間遺跡からは、これまでの調査で多量の黒曜石が出土しており、なかには重さ19.5kgの巨大な原石もあります。
また、1978(昭和53)年の第III次調査では、740m2の範囲から総重量で254kgもの出土あり、この量は、他の遺跡と比較すると突出しており、遺跡が神津島産黒曜石の中継地であることをあらためてしめすこととなりました。

伊豆諸島と伊豆半島の間には相模湾流と呼ばれる黒潮の分流が流れており、この流れによる遭難の記録がふるくから多くあります
とくに、縄文時代の舟−丸木舟−ではその影響は、なおさらだったことでしょう。

近くの天城山や、少し遠くなりますが長野県には黒曜石の原産地があります。
なのに、縄文時代の人びとは、なぜ危険をおかしてまで神津島から黒曜石を運んだのでしょう

見高段間遺跡を研究・紹介された池谷信之氏によれば、海岸のすぐ背後に丘陵がせまり、陸路が十分に発達していなかったという伊豆半島の地形的な特徴もあり、舟によって多量の黒曜石を運ぶことができたことがもっとも大きな理由だったのではなかったのではないかとのことです。

神津島産黒曜石の見高段間遺跡での多量の出土は、舟本体はみつかっていないものの、頻繁な海の行き来を間接的にしめす資料といえるととに、縄文人のフロンティアスピリットをみる思いがします。

見高段間遺跡は、河津町立河津東小学校校地およびその周辺に所在している遺跡です。
校庭には復元住居があり、校舎内には展示室もあるそうです。
見学には、事前に河津町教育委員会への連絡が必要とのことです。
遺跡を紹介した本として、池谷信之著『シリーズ「遺跡を学ぶ」014 黒潮を渡った黒曜石・見高段間遺跡』(2005年刊行・新泉社発行)があります。
西伊豆町の遺跡 [2009年01月14日(Wed)]
先日紹介した田子のある静岡県西伊豆町には、水中文化遺産に関連した遺跡があります

仁科川河床遺跡(築地地先仁科川河床遺跡・築地遺跡)と鴨ヶ池遺跡です。

仁科川河床遺跡は、天城山地を源として、駿河湾に注ぎ込む仁科川(にしながわ)の河口付近の川底にある遺跡で、これまでの調査(河川復旧・護岸工事にともなうもの)で、縄文時代中期(中・後半)と弥生時代中期(中・後半)の遺物と縄文時代中期中半の人骨をともなった土壙墓が1基がみつかっています。
建物跡はみつかっていませんが、少なくとも当地に縄文時代中期から人びとが暮らしていたことがわかる遺跡です。
この遺跡が川底にある理由については、自然あるいは人為的な河道の変化によるものと考えられています。

鴨ヶ池遺跡は、現在、仁科港の一部(船溜まり)にあった遺跡です。
遺跡のあった地区には、古代の造船の場所としての伝承もあるそうです。
その発見はふるく、昭和8(1933)年で、もともと湿地帯(鴨ヶ池)であった部分を、船溜まりにする造成工事が発見の契機でした。
調査はおこなわれていませんが、工事による排土中から弥生土器片や石器が採集されています。
この弥生土器は,中期後半のもので、のちに駿河湾東部地域の標識資料(鴨ヶ池式)として評価されました。
工事中による採集資料のために、遺跡の性格や由来について明確にできないことは残念ですが、弥生時代の比較的早い時期に、伊豆半島にも同時期の文化が伝わっていたことをしめす資料です。
また、鴨ヶ池遺跡出土土器と類似する同時期の土器が、伊豆半島以外の静岡県の沿岸部や伊豆諸島にもあることから、海を介したひとの動きが垣間見えます



このほかに、水中文化遺産ではありませんが、西伊豆町には伊豆半島でもっとも南側に所在する古墳もあります
栗原昔穴古墳という古墳で、塚をかたち造っていた封土は残っておらず、現状は横穴式石室が露出している状態です。
発見当初から封土はなく、遺物もなかったようですが、石室の形状から後期古墳と考えられるものです。
当地の古墳時代後期のようすがよくわかっていないために、十分な評価はなされていなようですが、当地の古墳時代後期を考えるうえでは重要な遺跡です。

伊豆半島、とくに駿河湾に面した西海岸地域は,考古学的な調査が限られており、資料も少ないのですが、このなかで西伊豆町の遺跡は、人のうごきや文化の伝播経路等を考えさせる示唆に富んだ、非常に興味深いものといえます
「海のエジプト展」 [2009年01月11日(Sun)]
少し先になりますが、「海のエジプト展 〜海底からよみがえる、古代都市アレクサンドリアの至宝〜」という展覧会が横浜で開催されます。

開催の概要は、次のとおりです。
■会期
  2009年6月27日(土)〜9月21日(月・祝)(予定)
■会場
  パシフィコ横浜
■主催
  朝日新聞社、TBS、「海のエジプト展」実行委員会
  (朝日新聞社、TBS、博報堂、博報堂DYメディアパートナーズ、テー・オー・ダブリュー)

今回の展覧会は、国際巡回展で、日本では今年の6月に開港150年をむかえる横浜の記念イベントのひとつとして開催されるようです。

アレキサンドリアは、古代エジプト最後の王朝プトレマイオス朝の首都として栄えた都市で、クレオパトラの宮殿や世界の七不思議の一つに数えられる巨大な大灯台があったことでも有名です。
都市は,4世紀に起きた大地震により海中に没してしまいました
1990年代からの調査によって、海底に当時の遺物・遺構が多く沈んでいることが確認され、一部が引き揚げられています。
また、遺跡は、潜水見学によって一般の人にも開放されています。

今回の展覧会では、海底から引き揚げられた巨大なファラオや女神、スフィンクスなどの石像や、宝飾品、コインなど約490点の遺物が出品されるとのことで、すべてが日本初公開だそうです。

詳細は、展覧会の公式サイトで確認できます
http://www.asahi.com/egypt/index.html

Posted by T.Hayashibara at 21:21 | イベント | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(1)
「水中文化遺産保護条約」発効 [2009年01月10日(Sat)]
ユネスコ(UNESCO.国連教育科学文化機関)が採択した水中文化遺産を対象とした初めての国際法である「水中文化遺産保護条約」が、1月2日に発効しました

日本やアメリカなどのいわゆる大国が批准していないことなど、まだ国際法としては不十分で、その効力を疑問視する声もありますが、これまで無秩序といって良い状況であった水中文化遺産を保護するための国際的なルールが発効したということには、大きな意義があるものと思います。

日本の水中文化遺産にたいする認識は、高いとはいえません
保護施策も立ち遅れています。文化財保護法の網は水中文化遺産にもおよんでいるものの、現状は十分に機能しているとはいえません。

また、水中文化遺産の十分なデータベースもありませんし、そのため、十分な調査がなされず、人知れずになくなってしまった遺跡も多くあるものと思われます。

「水中文化遺産保護条約」にたいしても、「早急に参加することはない」というような考えもあるようですが、このような考えには、水中文化遺産をとりまく環境にたいする認識不足が感じられます。

田子の遺跡 [2009年01月09日(Fri)]
前回、ご紹介した静岡県西伊豆町の田子は、リアス式海岸地形ですので、平坦地はあまりあまりません
限られた平坦部分に密集するように家屋が建てられています。

このような田子の陸上からは、これまでに土器や石器といった古代人が使った道具が出土しています
道具が出土したということは、それを使っていた「人」がいたとうことです

出土した道具は,縄文時代・弥生時代・古墳時代・古代のものです。
多くは,発掘調査で出土したものではなく、工事中や耕作中に出土したものなので、どのような遺構(住居跡など)にともなっていたのなのかは,残念ながらわかりません。
しかし、平坦地が限られ、決して住環境としては良いとはいえない地に、少なくとも縄文時代から「人」が生活の痕跡を残していることは確かなことです

とくに、弥生時代(後期)の痕跡が残っている(土器が出土しています)ことは、興味深いことといえます。
この時期は、日本で稲作が始まった時期ですので、人びとの多くは稲作に適した土地に住みます。
田子は,初めにも紹介しましたが、平坦地が少なく、稲作ができる場所ではありません。
現状では、住居跡などの生活遺構がみつかっていませんので、どの程度の生活をしていたのかはわかりませんが、そのような場所に、なぜ弥生時代の人がいたのでしょうか?
しかも、周辺からは、これまでに弥生時代後期の遺跡は、ほかにはみつかっていません(調査例がないということですが)。

また,田子の海岸部には古墳時代後期の埋葬遺跡もみつかっています
辰ヶ口岩陰遺跡(町指定史跡)です。
海岸にせまっている岩盤が造りだした空間(岩陰)を利用した埋葬施設(墓)で、1997(平成9)年の調査で、頭蓋骨や須恵器・鉄製品(鉄鏃・釣針・太刀等)・銅製品・貝などの副葬品が出土しています。
古墳時代後期の集落跡も周辺ではみつかっていませんが、墓があるということは、近くにその墓をつくった人びとが住んでいた集落があるのでしょう(おそらく、田子のどこかに)。

辰ヶ口岩陰遺跡へは、陸上からは行きにくい場所なので、当時の人びとは海から入っていったものと思われます。
また、副葬品に釣針や貝があることは、当時の人びとの生活のようすを物語っているようにも思えます。

このような遺跡や遺物の在り方から、少なくとも古墳時代後期には田子に人が住みついていたものと考えられます。
直接的な痕跡は残されてはいませんが、弥生時代後期の人びとも生活の糧を眼前の海に求めて、住みついていたのかもしれません
西伊豆町・田子 [2009年01月06日(Tue)]
静岡県の伊豆半島の西海岸に位置する西伊豆町に、田子(たご)という港町があります。
かつては、カツオ漁で栄えた港町です。

伊豆半島は、ご存知のようにリアス式の地形が発達しており、その地形による天然の良港が多くあます
田子もそのひとつです。








 上の写真は、田子を空撮したもので「静岡県建設部港湾局漁港整備室のH.P.」から転載したものです。自然の良港といった趣がわかると思います。

この田子は、戦国時代には北条水軍の要港のひとつとされ、江戸時代には大坂−江戸航路の途中の風待ち港としても利用され、栄えていたそうです。
今も残る「あわや」「土佐屋」「尾張屋」という屋号や「田子寿司」という押し寿司・白みその使用という食文化などに、その繁栄を伺うことができます。

このほかに、海底には四爪錨の目撃情報もあります。

また、田子は伊豆半島でも人気のあるダイビングスポットでもあります。
開放されているポイントも多くあります。
私も年に数回は、楽しませてもらっています。
この正月にも潜ってきました。

ただし、これまでに遺物はみたことはありませんし(もちろんダイビングポイントとして開放されているエリアのみですが)、現地サービスのスタッフもみたことはないとのことです。

このような状況ですが、中世〜近世においては、大型船の出入りがあったのでしょうから、海底にその痕跡があったとしても不思議ではありません
一度、情報を整理して、調査潜水をしてみたいですね。
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