CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2008年11月 | Main | 2009年01月»
<< 2008年12月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
最新記事
カテゴリアーカイブ
最新コメント
T.Hayashibara
魚へんの漢字 (03/27) T.Hayashibara
「海底遺跡 新時代」 (03/27) T.Hayashibara
岩淵聡文著『文化遺産の眠る海 水中考古学入門』 (03/27) T.Hayashibara
公開された「神奈川台場」を見てきました (03/27) T.Hayashibara
東京駅・丸の内駅舎の復原 (03/27) T.Hayashibara
和賀江島と座礁 (03/27)
「海底遺跡 新時代」 (09/06) 山本
魚へんの漢字 (08/05) 斎藤 敏行
和賀江島と座礁 (07/29) 安田冨郎
東京駅・丸の内駅舎の復原 (07/08)
最新トラックバック
犬山城 (01/22)
http://blog.canpan.info/ariua/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/ariua/index2_0.xml
今年もありがとうございました [2008年12月31日(Wed)]
今年も今日一日を残すのみとなりました。
一年間、このブログをみていただきましてありがとうございました。

来年も、水中考古学や水中文化遺産についての情報を発信しますので、よろしくお願いいたします。

それでは、良いお年をお迎えください。
Posted by T.Hayashibara at 11:22 | 近況 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
最古の港 [2008年12月29日(Mon)]
国内で今のところ,もっともふるい時期の港跡は、長崎県壱岐市・原の辻遺跡(はるのつじいせき)でみつかっています

1996(平成8)年の調査で、敷粗朶工法(しきそだこうほう)という高度な土木技術によってつくられた弥生時代中期の船着き場跡が検出されました。
当時の日本にはない技術のため、中国か朝鮮半島から派遣された技術者の指導で、つくられたのではないかと考えられています。

原の辻遺跡は、九州北方の玄界灘に浮かぶ周囲170kmほどの壱岐島にあります。
これまでの調査で、旧石器時代から中世まで遺構・遺物がみつかっていますが、主体となるのは弥生時代前期から古墳時代前期にかけての時期で、この時期には周囲に防御用の濠(環濠・かんごう)をもつ大集落が築かれています
3世紀(弥生時代後期)の日本のようすを記した中国の歴史書『魏志倭人伝』に登場する「一支国(いきこく)」の王都と考えられています。
また、この時期には大陸や朝鮮半島との交流をしめす遺物が多く出土しており、国際交易によって栄えていたことがわかります。

これらの遺物も検出された船着き場から荷揚げされたののなのでしょう。

原の辻遺跡から出土した資料を展示・収蔵している壱岐・原の辻展示館には、1/10に復元された模型がつくられています。

現在、原の辻遺跡は国の特別史跡に指定され、整備が進んでいます
みなと-湊・港・水門 [2008年12月28日(Sun)]
港(みなと)」は、「船舶が安全に停泊できるようにした所」(『大辞林 第三版』)です。
この「」、別の漢字で「」とも書きます。
もちろん、意味は同じです。

『古事記』や『万葉集』という古代の文献では、「水門」と書いて「みなと」と読む語がみられます。
文字通り、河口や海の出入り口を指すもので、「港」の語源とも考えられており、文脈から「港」そのものと考えられるものもあるそうです。

また、平安時代の辞書として知られている『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、「(つ)」・「(わたり)」・「(とまり)」という「港」に関連する語もみられます。

今も地名として、「津」・「大津」・「御津」・「船津」・「国府津」・「塩津」・「唐津」や「泊」・「寺泊」・「大泊」などがあり、多くは「港」や水運に関連した地名と考えられています

もちろん、すべてが「港」や水運に由来するものではありませんが、このような地名が海岸線の変化などにより、今はなくなってしまった(埋れてしまった)「港」の位置を推定する重要な資料にもなっています。

波止場(はとば)」や「波止(はと)」なども「港」をしめします。

このほかにも「港」を意味する語は、たくさんあります。

地形・考古資料そして地名を手がかりとして、今はなくなってしまった古代の「港」を追求した書籍として、千田稔著『埋もれた港』(小学館ライブラリー139.2001年)があります。
残念ながら、現在は品切れのようです。
図書館にはあると思いますので、少し専門的ですが、興味があるかたは読んでみてください。


びわ湖湖底総合科学調査 [2008年12月25日(Thu)]
『神秘の海底と湖底』で報告された1959(昭和34)年の「びわ湖湖底総合科学調査」は,本格調査がはじまった7月からは,そのようすが連日,新聞(京都新聞)に掲載されています

最新鋭の機器のこと,水中テレビが映し出した湖底のこと、記者が実際に潜水して見たこと(湖底漫歩という表現で)や地元の小学生・高校生とその父兄が見学船で見学したことなど、その熱狂?ぶりが記されています。

調査終了後には、一般向けの調査の報告会も開かれています

新聞社主催ということもあったのでしょうが、多くの人に関心をもたれた調査であったようです。
今の「水中文化遺産」調査を取り巻く環境を思うと、何かうらやましい感じもします。
それと同時に、このような状況が結果として、琵琶湖のみの一過性に終わってしまったことは、残念です。

ちなみに、このときに開催された調査報告会は、「水中文化遺産」調査に関するものとしては、国内ではじめてのものなのではないかと思います。
『神秘の海底と湖底』 [2008年12月21日(Sun)]
本の紹介です。
『神秘の海底と湖底』 1959(昭和34)年・京都新聞社刊行(A4版)です。

この本は、1959(昭和34)年に、滋賀県の琵琶湖でおこなわれた京都新聞社・創刊80周年記念事業「びわ湖湖底総合科学調査」を記念して刊行された調査報告と当時気運が高まっていた海底資源調査を紹介したものです。

水中カメラでとらえた写真をふくむ、たくさんの写真が掲載され、当時の水中調査や海底・水中のようすがよくわかります
当時は珍しかったであろうカラー写真も多く掲載されており、本書にも記されていますが、「海底図鑑」といった趣もあります。

潜水探測機による調査のようすや,水中カメラ・水中テレビ・水中スクーターなどの当時の水中調査機器の紹介も写真とともにあります。

巻末には、国産初の潜水探測機「くろしお」のテスト潜水とその後の調査のようすの記事もあり、当時の水中調査の意義やようすがわかりやすく記されています

ふるい本なので、手に入れるのは難しいかもしれませんが,都道府県立レベルの図書館には、あるようなので水中調査やその歴史に興味があるかたには、一読をお勧めします。

なお、「びわ湖湖底総合科学調査」は、琵琶湖の成因や様相を明らかにすることを目的に、海洋学・歴史学・地理学などの専門家により、湖底数ヶ所にたいして音響調査、ボーリング調査、写真撮影、水温・透明度測定などがおこなわれ、調査には当時の最新鋭の水中探査機器やプロダイバーによるスクーバ潜水が採用されました。
調査では、琵琶湖の湖底遺跡としてふるくから知られていた「葛籠尾崎湖底遺跡(つづらおざきこていいせき)」も対象とされました。
遺跡の成因・性格を特定することはできませんでしたが、遺跡についての多くの情報を得ることとなりました。発掘調査はおこなわれませんでしたが、このような水中文化遺産にたいする大掛かりな調査は、日本はもとより,アジアでも初めてのことでした

Posted by T.Hayashibara at 17:39 | 本のこと | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
小田原藩の台場 [2008年12月20日(Sat)]
江戸時代の末期に、小田原藩が海防のために台場(砲台)をつくったことを先日、紹介しました。

紹介した真鶴台場のほかに、小田原に3ヶ所と大磯に1ヶ所築かれています。
これらの台場は、嘉永2(1849)年にイギリス軍艦マリナー号が浦賀・下田に来航し水深調査をおこなったこと(マリナー号事件)を契機として、設置されたものです。

真鶴の台場は海を眼下に見下ろす高台に築かれていますが、小田原と大磯のものは海岸に接した高場に構築されています。

残念なことに,小田原と大磯のものは、防波堤工事や宅地化により、今は痕跡もふくめて残ってはいません

小田原の三台場については規模の記録や絵図が残っているために、その実態を知ることができます。
小田原城下「文久図」には、小田原城の南面の海岸部に、東から「荒久御台場(あらくだいば・東台場)」、「代官町御台場(だいかんちょうだいば・中台場)」、「万町御台場(よろづちょうだいば・西台場)」の三台場が描かれています(写真の白丸印部分)。
いずれも、洋式砲台の形式をとり、合わせて32門の和・洋式大砲が配備されていたそうです。


大磯のものは「照ヶ崎」 につくられたという記録があるのみで、その規模や形状は不明です。
「照ヶ崎」は、大磯漁港の西に隣接する岩礁なのですが、そのすぐ背後は砂丘が海へ張り出す地形となっていることから、台場はこの張り出し部(高場)付近に築かれていたのでしょう(写真の白丸印部分)。


なお、港に隣接する「大磯海水浴場」は、日本の海水浴場発祥の地です。

橋の痕跡? [2008年12月14日(Sun)]
街中を歩いていると、不思議な光景に出くわすことがあります。

写真は、橋の欄干と思われますが、そこには川も下をくぐる道もありません
それも、道路と比べると明らかに、より古いものです。




恐らく川にかかっていた橋の痕跡なのでしょう。
川は暗渠にされ、本来、川が流れていたであろう部分は、遊歩道になっていましたので。
暗渠にしたときに、なぜか、欄干部分だけが残されたようです。

道路の構造上は、残す必要性はないようですので、なぜ、欄干だけを残したのでしょうか?
川があったということを後世に目に見える状態で、伝えたかったのでしょうか?

これは、新宿の住宅地を歩いていたときに目にした光景です。
川の暗渠化が多いということとも無関係ではないのでしょうが、
東京の都心部には、このようなものが案外多く残っているようです。

このような橋の痕跡は、そこに川が流れていたということをしめす資料にもなるので、
立派な文化遺産といえますね。

その点から考えれば、写真の欄干は、意図的に残されたものなのでしょう

真鶴の台場 [2008年12月13日(Sat)]
神奈川県の南面に広がる相模湾の西側を画すように突き出している真鶴半島の先端部に、真鶴台場(まなづるだいば)の跡が残っています。
「ケープ真鶴」という真鶴町営休憩施設の敷地内です。

江戸時代末に、国防のために各地につくられた砲台跡のひとつで、当時、相模・伊豆の海防を主導していた小田原藩がつくったものです。
小田原藩は、真鶴のほかに大磯と小田原にも台場をつくっていますが、現在、その跡が残っているのは、真鶴だけです。

真鶴台場跡も、現在は記念石碑と石積みに使われた石材がわずかに残っているだけですが、幕末期の海防政策の実態を伝える貴重な文化遺産です。



その場に立つと相模湾を一望することができます。







富士山 [2008年12月10日(Wed)]
先日、朝、職場へ向かう途中で富士山を見ました
非常に澄みきった晴天だったこともあり、今シーズンではもっともきれいな姿でした



富士山は、昔から歌に詠まれたり、紀行文に書かれたり、信仰の対象になったり、また、各地に「〜富士」と呼ばれる山があったりと、日本人にとっては特別な山として意識されてきた歴史があります
今でも、新幹線や飛行機に乗って富士山が見えると、多くの人が窓に釘付けになりますね。

ただし、私は、子どものころから富士山が見えるところに住んでいたので、富士山を見ることを特別なこととは思っていませんでした。
ところが、学生時代に関西からやってきた友人が、富士山が見えたことを興奮して話してくれたことで、初めて富士山が特別な山なのだということを意識しました
関西からは見えないんですよね。

縄文時代の人びとは、伊豆諸島と交易のために、行き来をしていました。
弥生時代や古墳時代の人びとは、西から東を目指して移動をしています。
これらの人びとは、移動の途中、海上から富士山を見ていたことでしょう。
そして、段々と大きく見えてくる富士山をどのように見たのでしょうか
パッキャオ、勝利! [2008年12月07日(Sun)]
まったく,本題とは関係ない話題で、申し訳ありませが、書かせていただきます。

今日、ラスベガスで「THE DREAM MATCH」と銘打たれたプロボクシング
オスカー・デラ・ホーヤ(アメリカ) vs マニー・パッキャオ(フィリピン) の一戦がおこなわれ、
パッキャオが8R終了TKOで,勝利しました

デラ・ホーヤは、オリンピック・チャンピオンで、6階級を制覇したスーパースター、
パッキャオもアジア人では、初めて4階級を制覇し、北京オリンピックで母国の旗手を努めたほどのボクサーですが、事前の予想は、体力差に勝るデラ・ホーヤの圧倒的有利とされていました。
小さいアジア人が、どこまで抵抗できるのかに,注目が集まっていたほででした。

しかし、結果は、動きの悪いデラ・ホーヤを
パッキャオが,終始,圧倒した完勝でした。

色々な意味で,歴史的な快挙で、アジア人に勇気を与えた一戦でした.
パッキャオ,すごい.

試合が終わってから,時間はたっていますが,まだ,興奮しています。

ちなみに,両選手の報酬は,デラ・ホーヤ2000万ドル(約20億円),パッキャオ1500万ドル(約15億円)以上だそうです。
規模が違う興業であると同時に、そこにアジア人がいるということに、また驚きです