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犬山城 (01/22)
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今年もあと2日 [2007年12月29日(Sat)]
今年もあと2日を残すのみとなりました。

今年を振り返ると、やはり「海底遺跡ミュージアム構想」を立ち上げ,8月に小値賀島で海底遺跡見学会,12月にシンポジウムを開催したことが印象深いですね。

何もかもが初めての経験でしたので、とくに見学会が無事に終了できたことにはスタッフ一同ホッとしたというのが正直な感想でした。

また、今月のシンポジウムではオーストラリアの研究者も参加され、私どもしても非常に刺激を受けました。

今年は、「海底遺跡ミュージアム構想」の1年目です。
一過性のイベントに終わらせるつもりはありません。
来年の活動内容も具体化しつつあります。

近いうちにその内容も発表できると思います。

時間はかかるかもしれませんが、「海底遺跡ミュージアム構想」の実現に向けて、来年以降も努力・行動をしてゆきますので、応援・ご指導をよろしくお願いします。

今年お世話になりました諸氏・諸機関にはこの場を借りて、あらためてお礼申し上げます。

そして、少し早いですが、皆さん、よいお年をお迎えください。



国際シンポジウム [2007年12月18日(Tue)]
シンポジウムでは、2本の基調報告7本の個別報告がなされました。

基調報告では、石原副理事長による日本の水中考古学の歴史と現状について、ロス・アンダーソン先生(西オーストラリア海事博物館)によるオーストラリアでの海事考古学の現状について、それぞれ報告されました。

個別報告では、野上副理事長による「海底ミュージアム構想」の趣旨説明と海底遺跡を見せる方法についてのモデルケースの紹介、塚原理事による今夏、海底遺跡見学会がおこなわれた小値賀島の歴史と海底遺跡の在り方、宮武理事による小値賀島前方湾海底遺跡の内容・広がり・今後の展望について、林原理事による前方湾海底遺跡見学会報告,小川会員による佐賀県鷹島海底遺跡のこれまでの調査とその成果概要報告、吉崎伸先生(水中考古学研究所理事長)による幕末の蒸気船・推定「いろは丸」(海援隊チャーター船)の調査報告、デヴィット・ナトリー先生(ニューサウスウェールズ州文化財局)によるオーストラリアの史蹟沈没船の原位置保存についての報告がなされました。

今回のシンポジウムで、沈没船の史跡化に関するガイドラインや法整備等が進んでいるオーストラリアの実情を直に聞くことができ、また、当研究所以外の国内での水中文化遺産への取り組みを紹介できたことは大変に意義のあることであったと思います。

とくに、オーストラリアでの取り組みには非常に興味深いものがあり、刺激にもなったとともに日本での取り組みの問題点や方向性も見えてきました。

そのためにも、まずは国内での横のつながりを密にし、情報を共有できるような環境整備が必要であることをあらためて痛感しました。



Posted by T.Hayashibara at 22:54 | セミナー | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
国際シンポジウムの開催 [2007年12月17日(Mon)]
当研究所主催・オーストラリア海事考古学会共催の国際シンポジウム「水中文化遺産と考古学−海底遺跡ミュージアム構想の実現に向けて−」が12月16日(日) に福岡県福岡市の福岡市博物館講堂で開催されました。

オーストラリアからデヴィット・ナトリー,ロス・アンダーソン両先生を,国内からも水中考古学研究所の吉崎伸先生をお迎えして、国内外の水中考古学の現状と当研究所がより多くのひとに海底の遺跡を知ってもらうためにかかげた「海底遺跡ミュージアム構想」についての報告がなされました。

当日は,研究者をはじめとしてこの分野に興味をお持ちのたくさんの方々に参加していただきました

パネラーの方々の熱心な報告に、予定の時間をオーバーしてしまい、十分な討論ができなかったことは残念でしたが、多くの方々に「水中考古学」や「海底遺跡ミュージアム構想」についてご理解いただけたのではないかと思っています。

パネラーの先生方をはじめ、ご協力いただきました方々および参加された方々、ありがとうございました
Posted by T.Hayashibara at 23:57 | セミナー | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
バイア海底遺跡 6 [2007年12月14日(Fri)]
 スキューバダイビングで見学するコースは主に二つあります。一つはモザイク装飾のある床が美しい「ポーチのある邸宅」コース、もう一つは庭園を取り囲む壁や円柱が残る「ピソニの邸宅」コースです。

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バイア海底遺跡 5 [2007年12月13日(Thu)]
 バイア海底遺跡の見学方法は3種類あります。グラスボトムボートとよばれる船の船底のガラス窓越しに見学する方法、専門のダイバーが撮影する海底の映像を船の上の大きなモニターで見学する方法、そして、実際に潜水して見学する方法です。
 今夏、小値賀島で開催した海底遺跡見学会でもモニター映像による見学とダイビングによる見学は行いました。グラスボトムボートのチャーターまではできませんでしたが、ガラス越しで見る方法としては「箱めがね」を用意しました。


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バイア海底遺跡 4 [2007年12月12日(Wed)]
 1969年、2体の大理石像がバイアの海底で発見されました。頭部はすでに侵食されて形をとどめていませんでしたが、盲目のポリュフェモスの神話の主人公であることがわかりました。

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バイア海底遺跡 3 [2007年12月10日(Mon)]
 バイア城はローマ時代の遺跡の上に建てられています。城内の修復箇所ではローマ時代のモザイク装飾の床や水道などを見ることができます。
 また、城内は考古学博物館となっており、バイア海底遺跡から出土した遺物を展示しています。
 
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バイア海底遺跡 2 [2007年12月10日(Mon)]
 バイア海底遺跡はバイア港からポッツォーリのPontile della Pirelliまでの海岸付近一帯に広がっています。海底遺跡の南側に聳えるバイア古城からは紀元79年にポンペイやエルコラーノの時間を止めたベスビオ火山を遠くに望むことができます。



国際シンポジウム開催せまる [2007年12月09日(Sun)]
国際シンポジウム「水中文化遺産と考古学 −海底遺跡ミュージアム構想の実現に向けて−」が、1週間後の16日(日)に開催されます。

この分野のシンポジウムの開催は、ひさしぶりです。
今夏に海底遺跡見学会がおこなわれた小値賀島の海底遺跡のあり方や見学会報告もいたします。
今回は、オーストラリアの研究者も参加し、同国での水中考古学の現状も報告されますので、福岡市での開催ですが、この分野に関心をお持ちのかたは、ぜひ参加してみてください。

詳しい内容等は、このブログ,CANPANのおすすめニュース,研究所のHPで紹介していますので、ご参照してください。

Posted by T.Hayashibara at 18:03 | セミナー | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
弥生時代の船の絵 [2007年12月08日(Sat)]
弥生時代人は、船の絵を残しています。
それは、土器や銅鐸の表面に描かれています。

弥生時代は、縄文時代とくらべるとモノが大きく(遠くに)動いています
モノが動くということは、ヒトも動いているということです。

その手段としては、当時はもちろん空路はありませんので、陸路か水(海・川)路のどちらかになります。

明らかに海路からとしか考えられないようなモノの動きをしめす例もたくさんあります。
弥生時代の日本には、まだ馬はいなかったとされていますので(馬が日本に入ってくるのは、古墳時代といわれています)、多量のモノを輸送するには、水路が大きな役割をはたしていたと考えられます。
また、朝鮮半島や中国にも行っています。

水路=船の利用です。

それでは、弥生時代の船はどのようなものだったのでしょうか?

弥生時代人の残した絵のなかには、長いゴンドラのような船が描かれています。
たくさんのオールが描かれたものもあります。
たくさんの漕ぎ手が描かれたものもあります。


そこからは、かなりの大型船が復元できます。
おそらく、海船としてつかわれたものでしょう。

このような絵や断片的に出土している船体の一部から、当時の船(海船)は準構造船であったと考えられています。

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