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海底遺跡の調査 [2007年06月29日(Fri)]
海底の遺跡調査は、水中という陸上とは異なる環境の下でおこないますので、陸上の調査とくらべると、さまざまな制約があります。

たとえば,ひとりの調査員が調査にかかわることができる時間ですが、陸上の調査では通常は9時から17時くらいまでの作業時間のなかで、フルタイムで作業に携わることができますが、水中では潜水の体への影響を考慮しなければならず、水深にもよりますが、通常は1回の潜水で30〜50分くらいの作業を1日2回しかできません。陸上の作業にくらべると、かなり効率は悪いです。
ただし、陸上では雨が降ると作業ができなくなりますが、水中の調査では水域の状況が悪くない限り、雨でも調査はできます。もともと濡れる調査ですから。

調査の方法は基本的には陸上の遺跡調査と同じ方法でおこないます。
「もの」(遺物)がどこから,どのように出土したかを記録する図面は、陸上と同じように、メジャーを使い、紙に鉛筆で記しています。ただし、錆びやすいものや濡れて使えなくなるものはもちろん使えません。図面を書くは、普通のではなく、フィルムでできた水に強い紙を使っています。書く道具は鉛筆です。シャーペンは錆びるので使えません。
小値賀の海底遺跡 [2007年06月27日(Wed)]
小値賀町の周辺海域からは、中国産をはじめとしてタイやベトナム産などの貿易陶磁と呼ばれる外国産の焼き物が多数引上げられています。
時期は、12世紀代からのものが確認されています。


また、小値賀島の東にある野崎島からは、日本の縄文時代前期(約5,000年前)にあたる時期の朝鮮半島南岸域でつくられた土器も出土しています。

このような土器類の出土は、小値賀がふるくから対外交易が盛んであったことを物語っています。

しかし、これらの事実を記した文献史料は、ほとんどありません。

小値賀の海底遺跡には、このような文字で記されることのなかった歴史の証拠が残されているのです。
小値賀町歴史民俗資料館 [2007年06月24日(Sun)]
小値賀島の中心となる集落の笛吹(ふえふき)に、小値賀の歴史・民俗資料を展示・収蔵している小値賀町歴史民俗資料館があります。


資料館は、江戸時代に西海捕鯨や島の新田開発や殖産興業に尽力した旧小田家の母屋・土蔵・庭をそのまま展示場に使用しています。

館内には、考古資料・民俗資料・古文書などがわかりやすく多数展示されており、旧家の建物・庭も直接見ることができます。また、入り口には小値賀島周辺の海域から引き上げられた碇石も展示されています。
海底遺跡調査時には、本部ともなっています。

フェリー乗り場からは,徒歩10分ほどで着きます。
小値賀島を訪れたなら、ぜひ見学してほしい施設です。

碇石(2) [2007年06月23日(Sat)]
話は前後しますが、碇石とはどのようなものであるのかについて書いておきたと思います。
碇石は、文字通り船が停泊するために用いる「いかり」に関連する遺物です。
現在のような金属製の「」が使われるようになるのは、14世紀以降といわれており、それ以前には「いかり」として、石のみ,あるいは木製の本体に角柱状に加工された石をおもりとして装着したものが用いられていたようで、これらを碇石と呼んでいます。
これまでの研究から、木製の本体に装着された碇石のうち、長さ2m前後の丁寧に加工されたもの(角柱定形型碇石)は、古代〜中世の中国などの貿易船のものと考えられています。このほか、長さが1mに満たず、加工も荒いものもあり、これらは近世以降の日本の小型船のものと考えられています。
小値賀島海域からは、多くの角柱定形型碇石がみつかっており、文献史料からはよくわからない古代〜中世の大陸と日本との交渉を知るうえでは重要な資料(遺物)といえます
島内では、海底から引き上げられた碇石を見ることができます。このうち、志々岐神社に置かれている碇石は、長さが3mを超えるもので、現在のところ日本最大のものです(写真下段)。

碇石 [2007年06月22日(Fri)]
小値賀島周辺の海域からは、これまでに十数本の碇石が確認されています。この数は、地域による調査の粗密もありますが、現在のところ,もっも多く確認されている博多湾に次ぐものです。
海底遺跡見学会を予定している前方湾からは、確実なものとして7本の碇石が確認されています。これは、2004〜2006年の限られた範囲の調査により確認されたものですので、海底にはまだ多くの碇石があるものと思われます。
小値賀島 [2007年06月20日(Wed)]
8月に海底遺跡見学会を予定している長崎県小値賀町の小値賀島(おぢかじま)は、面積13km2ほどの島ですが、旧石器時代からの各時代の遺跡が確認されています。小値賀島ほどの規模の島で、このように旧石器時代から連綿と続くひとびとの歴史が残されている島は、非常に稀です。さらに、五島列島で古墳が唯一確認されており、最古の城跡も残っています。また、古代から近世までの中国・朝鮮・タイ国産の陶磁器を出土する遺跡も多くあり、島周辺海域が外国との交易航路であったことが推測されます。海底からみつかっている「碇石(いかりいし)」の多さもそのことを物語っているといえます。
写真は、五島列島が一望できる愛宕園地から遺跡見学会予定地の前方湾(まえがたわん)を望んだものです。
ホクレア号(2) [2007年06月17日(Sun)]
先日、横浜港に寄港している古代式航海カヌーの「ホクレア号」を見てきました。実感として、外洋船としては思っていたよりは小さいものでした。クルーの方の説明の中の「神様は陸上にいるものです。船には神様はいない。信じられるものは自分だけ。」という言葉が印象的で、人間と自然との関係をあらためて思い知らされたようでした。21日にハワイに戻るそうです。
三崎港 [2007年06月13日(Wed)]
マグロで有名な神奈川県の三浦半島の最南端にある三崎港は、中世から港として整備され、江戸時代には江戸湾口の海上警備の要所として海関(海の関所)が置かれるなど、港としてふるくから機能し,また、海防上でも重要な役割をはたしてきました。この三崎港が大正関東大地震による土地隆起のために、港湾内が干潟化してしまったことがあります。その後、港を復元するために大規模な浚渫がなされるのですが、その工事中に海底の土砂とともに大量の銅銭が出土しています。
この銅銭についての詳細はよくわからないのですが、公開されている写真を見るとそのなかに中国明時代の銭である永楽通宝が複数確認できることから、渡来銭であったものと思われます。永楽通宝は、室町時代中期から江戸時代初期まで日本に多量に持ち込まれ、国内で流通していた貨幣でもあります。
この大量に出土した銅銭の由来もわかっていませんが、海底であったところから出土しているので,何らかの原因で海中に没したものと考えられます。『北条記』や『新編相模国風土記稿』などの近世の文献には,中世から近世にかけて三崎港への中国船入港の記録が複数みられます。中国船の「落とし物」なのでしょうか?
ホクレア号 [2007年06月09日(Sat)]
今日の昼前に、ホクレア号が横浜港に入港しました。
ホクレア号は、ポリネシア人のの健造技術と航海技術を再現した古代式航海カヌーです。長さ19mの大型カヌーで、「スターナビゲーション」によって航行しているそうです。現在はハワイのビショップ博物館の所有で、1975年の建造からこれまでに地球4周分以上の距離を航海しているそうです。今回は1月にハワイを出港し、日本各地に寄港して、今日最終寄港地の横浜へ到着しました。
島国日本への外部からの文化流入は,間違いなく、海を介したものです。しかし、その手段として使われたであろう「舟」の実態は、実はよくわかっていません。日本の原始・古代の船は、どのようなものだったのでしょうか?
ホクレア号は、しばらく横浜港に滞在するようですので,近いうちに見に行ってきます。
和賀江嶋 [2007年06月08日(Fri)]
海に関連する遺跡や遺物を紹介したいと思います。今回は、神奈川県鎌倉市の材木座海岸にある「和賀江嶋(わかえじま)」です。材木材海岸の東端、逗子市との市境付近にある玉石の集積でできた人工の「島」です。もとは、鎌倉時代に幕府により、防波堤あるいは突堤としてつくられた港湾施設でした。遠浅の材木座海岸は、港には不向きな海岸でしたが、「和賀江嶋」がつくられたことによって、海岸の名前の由来となったように鎌倉でつかう材木の搬入などで港はもとより周辺は商業地域として賑わったようです。しかし、波浪や地震等の影響で崩壊・修復を繰り返さなければならなかったことやもともと港としては不向きな地形であったことで、鎌倉時代のうちに商港として機能は見限られたようです。その後は明治初年くらいまでは,漁港としてつかわれていたようです。
現在の「和賀江嶋」は、海中に没していたものが、大正関東大地震による土地隆起により、海面に現れたものです。今も普段は,先端の一部が海面上に見える文字通りの「島」ですが、春と秋の大潮時には、「半島」状の全体を見せ、上陸することもできます。本来の形とは大きく変化してしまってはいますが、現存する最古の築港跡として、1968(昭和43)に国史跡に指定されています。