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オネイダ号?発見? [2010年11月10日(Wed)]
昨日、フジテレビのバラエティ番組のなかで沈没船捜索関係のコーナーがありました。
この番組については,事前に放送されることは聞いていました。

番組企画のなかで、偶然に明治初期に横須賀・観音崎沖の東京湾で沈没したアメリカ軍艦・オネイダ号がみつかった、と。
関連する遺物も一部引揚げたとも。

オネイダ号については、別に書きますので、
今日は番組の感想を書きます。

番組では、ソナー探査や潜水調査?のようすや
海底に残る沈没船の映像が映し出されていました。

地元の研究家やかつてオネイダ号の遺品の引揚げに携わった方などの証言から、
みつかった沈没船がオネイダ号である可能性が高いとのこと。

番組としては、今後も調査を継続すると言っていました

ただし,番組ではオネイダ号に積まれていたとされる
時価100億円ともいわれる財宝が話題の中心でした。

それにともなって、出演していた芸人のひとりが最後に言った
「何で,全部底引かないの?」
という一言に、この番組の趣旨が垣間見れました。
テレビのバラエティ番組ということを考えると、しかたがないことなのかもしれませんが。

これが多くの方が持つ、財宝伝説のある沈没船にたいするイメージなのでしょう。
ただし,沈没船全体が文化財であることは忘れてほしくないですね。

今後の調査?では、
かつておこなわれたように、財宝?を取り出すために船体を破壊するようなことはしないでほしいですね。
しかし,このような沈没船の調査(方法)を規制するような法律は日本にはありませんので、
沈没船全体を文化財としてみる調査の企画者および調査者の良心に期待するしかありません。

Posted by T.Hayashibara at 23:50 | 沈没船 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
エルトゥールル号の遭難 [2010年10月27日(Wed)]
今日のNHK総合の
「歴史秘話ヒストリア」で、トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難事件を取り上げていました。

この事件については,このblogでも取り上げたことがあります。

1890(明治23)年9月に紀伊半島沖(串本沖)でおこった軍艦沈没事件で、
地元民が救援し、その後,日本政府が生存者をトルコへ送りとどけたことから、
日本・トルコの友好関係の起点ともなった事件でもあます。

このエルトゥールル号については、
2008年からトルコチームによる海底発掘調査がおこなわれており、
これまでに6,000点余の遺物(遺品)が引揚げられています

引揚げられた遺物はトルコで整理・保存処理がなされたのち、
串本町に移管(返還?)されるとのことです。


この調査の費用は、
トルコ政府やトルコの大手銀行・航空会社および串本町が補助をしています。

この調査は、以前のblogにも書きましたが、
調査主体がトルコチームということからもわかるように、
日本の文化財保護法にのっとったものではありません

遭難船舶の救護、漂流物および沈没品の拾得などについて定めた法律である
水難救護法(1899年制定)を適用しています。

沈没場所が周知の埋蔵文化財包蔵地でなかったこと、
船名・国籍がはっきりとしていたこと、
などから文化財保護法を適用しなかったと、聞いています。
国際法的見地から関係官庁は,
文化財保護法の適用を見送ったようです。
また、水中の文化遺産に関しての国内法が未整備であるということとも無関係ではないと思います。

これまでに、文化財保護法の適用がなされるべき事例で、
あえて水難救護法が適用された例としては、
エルトゥールル号の事例が唯一のものです。


今回の事例は,トルコ側の寛大な?取り計らいで、
引揚げ遺物が串本に戻されるようですが、
今後、同種の事例がおこったばあい、
同じように処理される保障はありません。
(相手国あってのことですので)
さまざまな問題を孕んでいる事例でもあります。

ですので、この事例については、
国内法の整備を視野にいれて、
議論すべき必要のある事例
だと思いますが、
皆さんは、いかがお考えでしょうか。



Posted by T.Hayashibara at 23:48 | 沈没船 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(1)
元寇の軍船?発見!! [2010年08月27日(Fri)]
鎌倉時代に二度にわたり元(モンゴル)軍が日本に攻め入った元寇の最後の地となった長崎県松浦市鷹島の沖合で、
元軍船の船体と考えられるものが見つかったという報道がありました。

escapee.jp/wp/archives/3732

琉球大学の池田栄史教授らのグループによる今夏の調査でみつかったものです。
鷹島では、これまでの調査で碇や船体の部材はみつかっていますが、
船体そのものは、確認されていません。

国内を見まわしても中世の船そのものは、みつかっていません。
船体だとすれば、非常に注目すべき発見です。

今回の調査では、船体と考えられるものの一部を調査したのみですので、正確な判断はまだできません。
今後の調査には、その内容や体制もふくめて、
注目したいと思います。
Posted by T.Hayashibara at 22:16 | 沈没船 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
ディアナ号の遭難 [2010年08月15日(Sun)]
先日、ディアナ号を研究されている方にお話をうかがう機会がありました。

皆さんは、ディアナ号をご存知でしょうか?
ディアナ号は、今から156年前、江戸時代末の1854年に日露和親条約締結のために、
プチャーチン提督に率いられたロシア使節団を乗せて下田にやってきた軍艦です。

全長52.8m、幅13.6m、トン数2,000トン、大砲52門、マスト3本のロシア製フリゲートです。

このディアナ号ですが、下田港に入港した数日後に東海地方を襲った大地震(安政東大地震)のによる津波により、
船体の大きな傷を負ってしまい、
その修理地となった西伊豆・戸田村(現・沼津市戸田)への航海中
荒天により、宮島海岸(現・富士市宮島)へ漂着し、
その後、戸田へ向かう曳航中に沈没してしまいます

この一連の事件は、江戸時代末の政治的情勢とも連動してよく知られており、
当時の記録も多く残されているいるのですが、
ディアナ号の沈没地点は、未だ特定されていません。

沈没地点については、長らく宮島沖と考えられてきましたが、
最近では沼津沖戸田と宮島間の沖合という考え方もしめされています。

沈没地点に関する調査として、
1988(昭和63)年に、富士市・沼津市・下田市・戸田村(当時)による
機器をもちいた探査が宮島沖(水深30〜50m)でおこなわれましたが、
船体の発見にはいたっていません。
その後は、本格的な調査はおこなわれていません。

沈没地点特定のための手段として探査は必要ですが、
探査には多額の費用がかかります。
探査地点を絞り、無駄のない調査をするためにも
これまでの先入観を捨て記録を読むことが必要だと思います。

ただし、戸田と宮島間の沖合だったとすると、
そこは水深が約1,000mありますので、
探査も......いろいろな意味で大変です。

ディアナ号のものとされる遺品としては、
宮島沖の海底から引き揚げられた錨が2本あるだけです。
いずれも、宮島海岸に漂着時に投錨したものと考えられています。
この2本の錨は、現在、富士市三四軒屋の緑道公園と沼津市立戸田造船資料館博物館に置かれています。

なお、このときのディアナ号の遭難には宮島の多くの住民が尽力し、
一人の犠牲者もださず、プチャーチン提督以下463名全員が救助されたとのことです。
そして、戸田では帰国用の代艦として、
国産初の洋式船「ヘダ号」(全長24.6m、100トン)が建造され、
日本の造船界に大きな足跡を残すことともなりました。


その後、下田ではプチャーチン提督と幕府側との交渉が続けられ、
1855年に日露和親条約が締結され、ロシア側の当初の目的が達成されています。

ディアナ号の遭難についてまとめた最近の書籍として、
地元の研究者・奈木盛雄氏がまとまられたものを紹介をします。
この本で奈木氏は、多くの史料の検討により、戸田と宮島間の沖合が沈没地点と結論づけています。
奈木盛雄『駿河湾に沈んだディアナ号』元就出版社.2005年1月発行.3,675円
Posted by T.Hayashibara at 22:25 | 沈没船 | この記事のURL | コメント(2) | トラックバック(0)
坂本龍馬の「いろは丸」 訂正 [2009年12月07日(Mon)]
11月18日付けの
「坂本龍馬の「いろは丸」」の記事中の

調査の概要(4次調査)リーフレットのダウンロード先(財団法人京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館)のアドレスが間違っていました

正しくは、
http://www.kyoto-arc.or.jp/
です。

誌名は『リーフレット京都』No.216(2006年12月)で、
トップページの新着情報から入れます。

訂正するとともに、お詫びいたします。
Posted by T.Hayashibara at 01:34 | 沈没船 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
坂本龍馬の「いろは丸」 [2009年11月18日(Wed)]
先日、NHKで放映された「歴史秘話ヒストリア」では、
坂本龍馬の海援隊が紹介されていました。

この番組のなかで、海援隊がチャーターし、衝突事故で沈没した
「いろは丸」の調査映像が流されていました。

いろは丸」は、大洲藩(おおずはん・伊予国)所有の蒸気船で、
1867(慶應3)年の処女航海時に、
瀬戸内海の備後灘で紀州藩の「明光丸」と衝突し、
曳航中に、広島県福山市鞆の浦沖で沈没しました。

その後,この衝突事件は「いろは丸事件」として、
日本最初の海難訴訟事件へと発展しました。

この「いろは丸」は、沈没から約122年後の1989(平成元)年に、その船体が発見されました。
その後、現在、当研究所と今年度事業で共同調査をおこなっているNPO法人水中考古学研究所(当時は任意団体)により、2005年までに4回の調査(潜水調査)がおこなわれています。

調査では、さまざまな積荷の一部が確認され、
海援隊の交易の実態を明らかにしています


海援隊は、衝突事故の訴訟で、
御三家のひとつの紀州藩相手に、巧みなやりとりから莫大な賠償金を得ています。
しかし、調査では莫大な賠償金の根拠のひとつとなった
ミニエー銃400丁を積んでいたという海援隊側の主張を証明する遺物は、
銃本体はもとより、部品すらまったくみつかていません。

この事実は、海援隊隊長・坂本龍馬のはったり交渉を証明することもなり、
坂本龍馬の人物像をあらためて、知らしめる成果でもありました。

このようなことは、文献資料のみからではわかりにくいことで、
考古資料からこそ、わかる・わかったこと
でもあります。

調査の概要(4次調査)については、
財団法人京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館から
リーフレットが発行されています。
(ダウンロードができます)
http://www.kyoto-arc.or.jp/

出土遺物は、いろは丸展示館に展示されています。
(広島県福山市鞆町)
http://tomonoura.jp/irohamaru.html
Posted by T.Hayashibara at 23:43 | 沈没船 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
「サン・フランシスコ号」遭難・沈没から400年 [2009年10月06日(Tue)]
1609年9月に、スペイン・マニラガリオン船「サン・フランシスコ号」が
千葉県御宿沖で遭難・沈没してから、
ちょうど400年が経ちました。


このブログでも、何度か取り上げてきましたが、
この事件をきっかけに、
日本は,スペイン,メキシコと交流をもつように
なりました。

今年にはいってから、国内の関係各地でイベントが開催され、
事件の起きた先月下旬には、
御宿町で記念式典も開催されたばかりでです。

サン・フランシスコ号」については、
当時のようすを記した文献資料も残されており、
沈没地点はほぼ特定されていますが、
関連の遺物(積荷や装備品など)は、
わずかに残されているのみです。

その実態にせまるには、
水中調査もふくめた考古学的調査が不可欠です。

スペインの船ですので、
調査にあたっては,スペイン政府との連携も必要となります。
アジア水中考古学研究所としても、
本格的な調査の可能性を探りながら、
事前の調査をおこなう予定
でいます。

会員による現地での聞き取り調査、現地史料分析をとおして
水中調査への展望をしめした文献として、
木村淳・ランドール佐々木 2006
「千葉県御宿町におけるマニラガリオン船サン・フランシスコ号事前調査報告」
『水中考古学研究』第2号 アジア水中考古学研究所

があります。


なお、千葉県立中央博物館(千葉県大多喜町)では、
関連展覧会として「日本メキシコ交流の歴史−ロドリゴ漂着から400年−」が
10月25日までの予定で開催されています。
http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN
Posted by T.Hayashibara at 00:00 | 沈没船 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
江戸城石垣の石材運搬と沈没船 [2008年10月10日(Fri)]
江戸時代の初め、徳川幕府は江戸城の石垣造営のために、石垣用の石材の調達・運搬を西国の外様大名に命じました
世に言う「天下普請(てんかぶしん)」と呼ばれる幕府による外様大名政策の一環です。

この普請は、石材運搬用の船(石船)の建造石材の調達から運搬まで、すべてを外様大名の負担でおこなわせるという、外様大名にとっては非常に重い負担でした。
具体的には、外様大名28家に3,000隻の船の建造させ、10万石につき「百人持石」(人夫100人がかりで運搬した石)1,120固を1隻につき、2個づつ、月2往復するというものでした。
約30年間続いたそうです。

幕府にとっては、江戸城が堅固になり、外様大名を財政的に疲弊させるという一石二鳥の政策であるとともに、幕府と大名の関係を如実にしめす事象でもあります。

石材をどこで調達したかというと、その大半は、良質な安山岩が採れた相模(神奈川県)あるいは伊豆(静岡県)からでした。
今でも、採石場跡である石丁場跡が各地に残されています。
以前、このブログで紹介した小田原市の早川丁場跡もそのひとつです。

作業には,大勢の人が従事していたようで、採石場近くの川が「米のとぎ汁で真っ白になった」という記事が残っているほどです。

それぞれの採石場の近くには、積み出し港があり、そこから江戸へ大量の石材が運ばれました。

たくさんの船が、積み出し港⇄江戸間を往復していたので、事故も多くあったようです。
慶長11年(1606年)には、300隻の船が沈没したと記録されています。
このほか、積み込みや荷揚げ中に、石材を海中に落としてしまったことも多くあったようです。

また、
「慶長のころ江戸城造営で西国、四国等の大名、石を船に積み献上せり。(加藤)清正の石船七隻暴風雨にあい品川四里の海上に破損、石ことごとく沈む。七ヶ所存し魚多し」(『落穂集』)
と、沈没地区をある程度特定できるような記録も残されています。

これまでに、石材運搬の沈没船の調査がおこなわれたことはないようですが、記録が正しければ、積み出し港から江戸までの航路にあたる地区には、たくさんの船が海底に沈んでいるはずです。
たくさんの「百人持石」とともに。




Posted by T.Hayashibara at 22:34 | 沈没船 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)