文化は海から...しかし、 [2010年04月10日(Sat)]
私の住んでいる神奈川県は、東は東京湾、南は相模湾に面しています。
とくに、旧「相模国」にあたる相模湾岸には、湘南海岸とも呼ばれる砂浜が東西に長く続いています。 この光景は、少なくとも縄文時代以降は、 大きく変わることはありませんから、 ふるくから眼前に広がる海をひとびとは生活の糧としていたことは想像できます。 事実、陸上に残された遺物には、漁業に関するものも多数あります。 また、神津島産の黒曜石の存在は、 旧石器時代から南方に所在する伊豆諸島との交流があったことをしめしますし、 弥生時代では海路からとしか考えられない状況で、西方からの「モノ」が入ってきています。 そして、中世・近世には、相模湾に面した鎌倉と小田原という都市が発展し、 両都市と他の都市を結ぶ海運も活発になります。 江戸時代になると江戸−大坂間の航路の途中にある相模湾岸には、 廻船が出入りするような港もありました。 これ以外の時代でも海を介して、「相模」に入ってきた「モノ」(文化)は、数多くあります。 このように、「相模」の発展に、海は大きな役割を果たしてきました。 しかし、この海運にもちいられた「船」や「港」の実態は、よくわかっていません。 文献が残されている時代でも史料から断片的に語られているすぎませんし、 文献が残されていない(無い)時代となると、ほとんどわかっていないのが現状です。 証明するための遺物の出土がきわめて少ないのです。 |