ダイエット(続き)[2009年10月13日(Tue)]
ダイエット(続き)
前回のブログを読んだ方に、2回目のダイエットが結局どうなったのかを報告する義務があると思うので、以下簡単に記す。
1回目から2回目に入る間の3日間、友人たちと伊豆を旅行し、おいしい料理とお酒を飲んでいたら1kgほどリバウンドしてしまった、その後の話である。
開始前 65.7kg
1日目 64.6kg △1.1kg
2日目 64.2kg △0.4kg
3日目 63.9kg △0.3kg
4日目 63.5kg △0.4kg
5日目 63.6kg +0.1kg
Total △2.1kg
この後、中国へ出張の予定が入っていたので、2回目のダイエットは5日間で終了した。
2日目に誤って大きな梨を1つ食べてしまったので、若干減り方に影響があったかもしれないが、5日間で2.1kg減量した。
どうも私の身体は、63kg台が減量のボトムのようだ。今回、2回のダイエットで68kgから63kg台に落ちたのだからこれで満足だし、最も良かったのは体調がきわめて良くなったことである。
歩くのも軽快になったし、家の中での動作も軽くなった。この減量のお陰と考えている。
野菜スープの作り方がうまくなった。これがこのダイエットの最大のポイントです。
次からは、仕事の話に戻します。(完)
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秋山昌廣
at 13:23
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久しぶりにダイエットを敢行[2009年10月06日(Tue)]
3年位前に、何回かのダイエット食事療法で70kg位から65kg程度に体重を減らし、その後大体65kg±1kgで推移していた。
ところが、最近67から68kgに高止まりしていたので、久しぶりにダイエットを敢行した。「究極の1週間脂肪燃焼ダイエット・レシピー」に従って野菜スープを作り、主としてこれを食しつつほぼ完璧に1週間実行した。
4日目以降は、バナナ、魚、ビーフなど食しても良い。もっともこの間アルコールはご法度である。このレシピーは私の家内が知人から聞いてきたものであるが、米国の某病院における、脳外科手術患者に対する手術前1週間のレシピーなのである。
ご興味のある方は、添付資料を開け、「自己の責任」で実行してください。何回実行しても良い。
特徴は、最初の3日間で間違いなく2kg程度は減量できることである。
今回は、7日間で、68.1kgから64.6kgに、ちょうど3.5kg減量した。評判では5ないし7kg減量すると言われているので、結果は6,7割の達成というところか。
ダイエットが終わった後よく精査してみたら、私の誤解で、野菜スープの摂取量が指示された量の7割程度にとどまっていたから、これを完全に摂取していれば4kg以上は落とせたかもしれない。
因みに、そのレシピーにも出ている計算方式だと、私の最適体重は60kgであるので、もう一段と減量すべき状況である。
今回は、引き続き2回目に挑戦してみようと考えている。
参考までに、今回のダイエット期間中における体重の変化を、以下に記す。いずれの体重測定値も翌朝の体重であり、結局就寝中に、脂肪が燃焼することを意味している。
これを助長するのが、野菜スープである。
開始前 68.1kg
1日目 66.5kg △1.6kg
2日目 66.2kg △0.3kg
3日目 65.7kg △0.5kg
4日目 65.1kg △0.6kg
5日目 64.6kg △0.5kg
6日目 65.0kg +0.4kg
7日目 64.6kg △0.4kg
Total △3.5kg
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秋山昌廣
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「新時代の日台対話」がスタート[2009年09月25日(Fri)]
9月20日、日曜日を丸1日つぶして、台北にて、「新時代の日台対話」がスタートした。日本側は東京大学の北岡伸一教授が、台湾側は国立政治大学の林碧ショウ(火ヘンに召)副校長がそれぞれのリーダーとなり、学者や研究者がメンバーとなって、米国の東アジア外交、日台の政治経済情勢、安全保障問題、両岸関係、日台関係などについて率直な意見交換を行おうというものである。台湾との対話にはいろいろなものがあるが、この対話は集中的に年2回、3,4年間継続して行って、できればレポートをまとめようという企画である。しかし最大の目的は、日台間には政府同士での交流に制約がある中、それぞれの政府とコンタクトを持つ民間の学者・研究者同士が率直に意見交換をして、日台間で相互理解を常に深め、可能な限り情報を共有しておこうということである。私も、事業支援者にとどまらず、この対話に参加することになったのは光栄であった。
先方の主だったメンバーは、楊永明(国家安全会議諮詢委員)、趙建民(行政大陸委員会副主任委員)、劉義周(国立政治大学教授)、鄭端耀(国立政治大学国際関係研究中心主任)、陳一新(淡江大学アメリカ研究所教授)など、知る人ぞ知るという方々であり、彼らを含め全体で20人程の参加であった。若い学者で、日本に留学したことがあると言って、日本語で話しかけてくる人も多かった。ちなみに日本からは、伊藤元重、田所昌幸、松田康博先生などを含め10人ほどが参加した。驚きは、21日の月曜日、午前中で3人の要人に面会した。まず民進党代表の蔡英文、次いで馬英九総統、さらに王金平立法院院長である。意見交換した内容はともかく、というのはおかしいが、その内容が豊富だったことはもちろんだが、とにかくちょっと別のことで書き記しておきたいことがある。
馬英九総統に面会したが、スマートなあの総統が一段とスリムになり、心持ちやつれて見えたことである。台湾側の引率者も同じ印象を持ったようだが、やはり一連の災害救援に係る失政が相当応えたということなのだろう。統治責任者の孤独な責任感を見るような思いであった。ただし、つい先日、首相も交代させる内閣改造を終えて、少し支持率も盛り返したようである。面白いことに、会談の冒頭、カメラや記者の入る頭どりの時間帯で、総統は中国語で挨拶した。ところが、マスメディアが部屋から出た後は、すべて英語で意見交換を行ったのである。英語のうまい外省人だからこそ中国語(普通語)で話す必要があったのである。なお、総統が民間人である我々と、小一時間さいて意見交換してくれたのも驚きであった。楊永明の手配と思慮する。
王立法院長は小柄だが極めて精悍で、立法院は与党国民党のバックアップをしつつ、与党をチェックする立場でもある、と一般論を述べた後、国民党をズバリ批判しつつ、国民党の打ち出している本省化政策についての質問に対して、あっさりと「あれは誤魔化しである」と切って捨てていたのは印象的だった。ご承知のとおり、王金平は国民党の中では馬英九のライバルである。土産にいただいた大きな飾り皿は、持ち帰るのに難儀したが、記念写真は退出時に直ちに配られたのには驚きであった。立法院を訪ねてくる地元支援者へのサービスシステムが完全に機能しているのである。
蔡女史は、我々の質問を流暢な英語で答えていたが、握手もなし、名刺交換もなし、別にお土産など不要だが、1時間以上、最初から最後まで会議室で机をはさんで議論をし続けた。私の要請で、最後にやっと集合写真を撮らせてもらったが、議論が終われば部屋からすぐ退出という感じであった。本人は議会人ではあるが選挙地盤のない比例で選ばれているので、選挙を知らない代表と言われるゆえんである。日本流にいえば、たたき上げの党人派政治家たる王金平と、大いに異なる新しいタイプの政治家と見たが、陳水扁の刑事事件で今は悩める民進党の、有力な次期総統候補なのである。面会には、元駐日交流協会代表の羅福全が同席した。
実は、昼には江丙坤海峡交流基金会理事長のゲストスピーチがあり、また、日本になじみの深い彭栄次亜東関係会会長主催の晩さん会も行われた。20日から21日の午前中にかけて、台湾における有力政治家4人と全て面談できたのは、幸運であった。
多くの古い友人と再会したこと、トップクラスの要人と面談したこと、新しい友人が増えたことなど、私にとっても実りある対話であった。
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秋山昌廣
at 16:11
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麻生太郎の退場[2009年09月18日(Fri)]
前総理大臣麻生太郎は、私にとって、たまたま小中学校の同窓であったため、総理大臣在任中に何度か官邸を訪ねることがあった。海賊対処などで強く意見具申をしたり、何かと接触も多かったので、退任前の今月9日に挨拶かたがた官邸を訪れた。
その時の麻生首相の発言が、秋山との面会の中で出たとして、翌日、新聞などに囲み記事的に取り上げられ、全国に発信された。確かに面会後、官邸出口で集まってきた記者に私があのようなことを話したのは事実であるが、こんなに大きく取り上げられたのは、麻生首相が総選挙後、記者のぶら下がり取材にほとんど応じていなかったからで、私自身そのことは全く知らなかった。
10日付朝刊の読売新聞が、麻生発言として、「(昨年)10月に選挙をやっていれば、こんなに負けていなかったかもしれないが…」「あの時(解散すれば)金融恐慌に対応できなかったし、経済の立ち直りはなかった。(選挙)結果を犠牲にして、経済のためにやってきた」と報じた部分が一番正確な報道と思うが、全体として歪曲された報道は殆どなかった。しかし、かかる発言を抑えていた麻生首相には、迷惑をかけてしまったかもしれず、後ほど詫びの電話を秘書に入れたが、詫びなどとんでもないと寛容的に受け入れてくれた。
さて、私は挨拶のため参上したと書いたが、実は別の目的もあって参上した。今年7月の「海の日」に、私は「海洋立国推進功労賞」を賜ったが、その表彰者は麻生太郎総理大臣であった。総選挙直前だったので、監督官庁の副大臣だったか政務官から賞状を受けたが、これはやはり麻生総理大臣から直接いただきたいと思って、これを持参しあらためて総理から渡していただいたのである。他の受賞者には申し訳なかったが、この1年間、総理との関係では、海賊や海洋開発など、もっぱら海洋問題で首相に意見具申をしてきたので、この程度は許されると思ったわけである。
景気は、先進国の中では最も早く回復軌道に入り始めたし、ソマリア沖海賊への対処は、世界では最も包括的な海賊対処処罰法を早急に制定して、今きわめて効果的に展開されている。インド洋での海上自衛隊の給油活動が間接的にではあるがバックアップした、アフガニスタンの大統領選挙も何とか平和裏に終えそうである。日米関係は、このところベストに近い同盟関係となっている。麻生太郎率いる自民党がこれほどの大敗をし、このような形で麻生太郎が退場することと、この1年間の政策の成果が明らかに出始めていることとの間の、非条理なギャップを少なからず感じている。しかし、逆にいえば、にもかかわらず自民党にこれほどの大敗をもたらしたその病巣の大きさと深刻さに、自民党はおろかその支持者も気が付いていなかったというべきかもしれない。
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秋山昌廣
at 13:17
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第4回インハ大学-海洋法研究所の海洋法海洋政策会議に出席して[2009年09月08日(Tue)]
英語ではFourth Inha University-Law of the Sea Institute Conference on the Law of the Sea and Ocean Policyという名前の会議だが、ハワイのホノルルでさる8月27日から29日まで丸3日間、朝から晩まで8つのパネル構成で開催された。
ランチ会場のImin Center(ハワイ大学イーストウェストセンター内)の日本庭園
今回の会議のコーディネーターの一人である、私がよく知っているハワイ大学のJon M. Van Dykeから頼まれたのと、参加者に多くの友人がいたことから参加を引き受け、新たな海賊対策についてプレゼンテーションを行ったのだが、事前にはいろいろなことがあった。
まず、送られてきたアジェンダによると、パネル3「大陸棚の権利主張」においては、どうも日本の大陸棚延伸申請に対する一方的な追及が予想されること、すなわち沖ノ鳥島は島ではないからこれを起点として大陸棚延伸は認められない、とする国際社会の声が大きくなる懸念があることであった。
外務省や総合海洋政策本部事務局が、私も含め日本からの会議参加に懸念を示したので、私は事前にJonに手紙を送り、日本側の懸念を伝え、公正な会議運営を要請した。参加予定の柳井ITLOS判事は結局参加せず、日本からはプレゼンテーションをした愛知大学の三好正弘先生と私、それから財団の佐々木研究員が参加した。
このパネルは確かに前述の一般的なタイトルの下で、もっぱら沖ノ鳥島が島ではないという議論が中心ではあったが、それほどひどい議論でもなかった。一つ前のパネルでは、ほかにもいろいろ問題のある島あるいは岩についての包括的な発表がなされていた。
むしろ、世界の指折りの海洋法研究者やITLOS判事(今回は裁判所長を含め3人)が集まり国連海洋法条約について議論する由緒ある会議(もともとはカリフォルニア大学バークレイ校のLaw of the Sea Institute主催の会議)の後援者の中に、韓国の北東アジア歴史研究財団ドクト研究所が入っていたことの方が問題である。
今回の会議でも、最終日のランチタイムにゲストスピーカーとして同研究財団の理事長が、延々と日本の朝鮮植民地時代の歴史を話していたのにはうんざりした。このようなレベルの高い国際会議が、韓国の国策機関に宣伝のため利用されているような状況を放置するわけにはいかないと思ったが、ある意味で韓国はあらゆる機会をとらえて、国家的見地からの活動をしているのである。日本は、忌避するだけで何も考えていないということであろうか。それにしても、日韓間の深刻な領有問題になっている竹島(韓国名ドクト)ついて一方的に韓国で研究している機関が、国連海洋法条約の国際会議の後援をしているのはやはりおかしい。
来年はこの会議が、Inha University-Law of the Sea Institute Conferenceになってから5回目となるので、5周年を記念してITLOSの会場を借りて実施という計画のようであり、Inha Universityの李教授から、海洋政策研究財団の公式の参加を要請された。積極的に考えたいが、この件についてどうするか先方と議論しなければならないだろう。
会議では、Jonのほか、Jin-Hyun Paik (ITLOS Judge, Korea), Yann-huei Song (National Chung Hsing University, Taiwan), Zhiguo Gao(ITLOS Judge,China), Hasjim Djalal (Ambassador, Indonesia), Mark J. Valencia(USA), Dalchoong Kim(Korea), Peter Dutton(US Naval War College)など多くの友人に会えたほか、新しい友人が増えたのは収穫であった。
なお、今回参加した者のうち、5人が5年前に財団で主催した会議のEEZグループ21のメンバーであった。また、EEZグループ21の提言については、Peterが、Panel Six-The Impeccable Incident, March 2009で、パワーポイントに映し出しながら言及していたのには驚いた。
なお、会議の様子及びアジェンダは下記よりダウンロードできるほか、内容にご関心のある方は、当財団の佐々木浩子研究員にコンタクトを取っていただければ、資料を含め対応可能です。
http://www.law.hawaii.edu
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秋山昌廣
at 10:22
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中国旅行記(その6)―済南と済寧と曲阜―[2009年08月04日(Tue)]
済寧では中国人民解放軍の空軍第19師団を視察した。4000人規模の戦闘機配属師団で、パイロットは100人程度いるという。これまではなかなか展示しなかったF-11(殲-11)が配属されている。F-11とF-7それぞれが1個連隊3飛行隊で編成されている。展示されていたF-11は自由に写真を撮り、航空自衛隊の戦闘機パイロットがコックピットまで入って研修する。
日本側の質問に対して、訓練時間は年間平均100時間、当初はロシアからの輸入戦闘機Su-27(F-11)が配属されていたが現在はすべて国産戦闘機である、戦闘機パイロットから宇宙飛行士を輩出していると答える。さらに少し立ち入った質問に対して、宇宙軍構想は中央軍事委員会マターであるが我々が宇宙に注目しているのは事実、第一列島防衛線を超えた投射能力の是非はともかくとして、空中給油と早期警戒能力は必要である、国防の観点から情報化戦略空軍の創設が必要などと述べる。
パイロット出身の師団長はポンポンと歯切れよく答えていた。若干コメントすれば、100時間は日本の場合とほぼ同じか少し下回る程度、Su-27に代えて国産のF-11を使用していると言ったが、これらが純粋国産かはやや疑問、宇宙飛行士を提供していることにより宇宙開発と空軍との関係はきわめて濃い、同時に宇宙軍構想や情報化戦略空軍など、さまざまな情報源から流されていることが、実際に議論されているとの印象を持つ。また、空中給油機や早期警戒機の導入は間違いなく第2列島線を意識したものといえよう。
済南は山東省の省都だが、当地は歴史的には済国と魯国があり、前者は政治経済の中心、後者は孔子、孟子など思想や文学で優れた国だった。
省都は済南と済の文字が残るが、魯の字は面白いことに車両番号の頭に残っている。中国人のこの字に対する強い思いが、そうさせているのであろう。山東省は人口9800万人、面積は日本のほぼ半分だが、GDPは中国で3位という。農産物、石油、海産物、工業で有名な所で、農産物は小麦、とうもろこし、大豆、落花生の主要生産地である。
農場は、ちょうど小麦が収穫期で一面金色に輝いており、豊かな雰囲気であった。この辺りは二毛作であり、夏に向けた作付も始まっていた。
済南市は西に中国五岳の筆頭格である泰山(標高1545m)がある。また、泉で有名なところで、大小130の泉があり、うち72が明泉といわれている。明泉の代表格たる趵突泉(ホートクセン)を見学する。中心の池には、今でも底から三つの大きな泉がわき出ていて、水面を盛り上げている。
水温は年間通して18℃だ。もっとも5年程度前に泉が枯れてしまい池に湧き水も出なくなったことがあったそうである。市民や事業所の全員が協力して、地下水の汲み上げを徹底的に抑制して、泉からの湧水を再現したそうである。有名な大明湖も散策する。流れ込む川はなく、130の泉から水が供給される珍しい湖。緑が豊かというだけでなく、雑踏には縁遠い、静かな落ち付いた水辺で、すっかり気に入る。
孔子廟のある曲阜の街は、昔の魯国の中心であり、現在60万の人が住むが、うち3分の1は「孔」が苗字なのだそうだ。今でも中国では孔子を尊敬する人が多いが、子々孫々一つの家が栄えてきたのは、中国では大変珍しいことである。子孫の多くは、学者、官吏、教育者だそうだ。近年中国では孔子をあらためて見直す傾向が強いという。
孔子に関する施設は、孔子廟(祈祷所)、孔子府(子孫の住んだ所:孔子は布教に出たため故郷には住んでいなかった。)、孔子臨(10万以上の墓がある墓地)で構成されている。とても2,3時間で見て回ることはできない広大な一角である。
最後に市の中心にあるショッピングセンターを訪ねた。日本のショッピングセンターより広くしかも奇麗である。魚なども結構新鮮なものを並べているのには驚く。疲れ果てて、近くのマクドナルド食堂に入ると、何と満席であった。何とか席を見つけて座ったが、決して安いとは言えない値段なのに、中国人の老若男女で一杯なのである。
私は、所用のため当地から帰国したが、訪中団一行はこの後上海に移り、中国東海艦隊上海保障基地を訪ね、中国の艦船を研修した。
日中佐官級交流事業は、軍事施設の相互訪問、軍部間の意見交換のほか、相手国の社会、文化、歴史などの分野の研修を重要な課題としている。私自身、この後者の分野の研修に熱が入っているため、以上のような旅行記となったが、来月には今度は中国から佐官級訪日団が来日する。今、笹川日中友好基金事務局は、この準備で大わらわである。(完)
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秋山昌廣
at 13:57
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中国旅行記(その5)―高昌故城、火焰山そして蘇公塔―[2009年07月30日(Thu)]
週末のトルファンは、行きたいところをどんどん回ることができた。
まず、高昌故城。ここは、古代中国の都であったところだ。特に5世紀以降大いに栄えたと言われる。シルクロード上の要衝でもある。
この城の街は土の煉瓦で作られていた。それが2000年後の現在でも、風雪に直接晒されながら、かなり原型を残しているのである。
街の入り口から、中心の集会所たる大仏寺に入る。御堂というべき空間は青天(あおてん)なので、さすが天井は落ちてしまったのだと思ったら大間違い。もともと天井がないのだという。1年中ほとんど雨が降らないから、天井とか屋根は不要なのだ。
市役所と言われるところや居住区などを見て、入り口とは反対側の街の外に出てみた。広大な河原のようなところから、左右に高昌故城の外壁を見、正面には火焔山を遠望する、雄大な所に出る。
次いで、ベゼクリク千仏堂に向かう。途中、火焔山を目前に見るポイントがあり、その赤土色の砂の斜面と岩山に感動する。西遊記で孫悟空がいろいろな闘いで活躍したところである、と実感することができるような環境である。
赤く輝く斜面の地表は、日中は50℃以上にもなるという。ここの千仏堂は6−14世紀頃まで寺院として開かれていたが、ムスリムにより制圧され、閉院した。
ベゼクリクとはウィグル語で壁画を意味し、まさに多くの洞窟に1000年以上も前の壁画が多くあったが、フランス人などの考古学者に剥がされ持ち去られてしまって、何も残っていないのだ。どのようにして剥がしたのか知らないが、ひどいことをするものだと思う。欧米人は今、タリバンによる石仏破壊を極悪非道の犯罪呼ばわりするが、ここを見ていると、彼らにそんなことが言えるのかと、ふと思った次第である。
以上は、トルファンから40kmほど離れたところだが、市内に蘇公塔というイスラム礼拝堂がある。礼拝堂の横に大きな塔が建っているが、これは、中国への忠誠とイスラム教信仰のシンボルだという。
何か違和感を持って話を聞いていくと、18世紀にエミンホージャ(額敏和卓)というウィグル族の指導者(アホン=王)が、中国との争いを避け、中国に忠誠を誓う代わりにイスラム教とムスリムの生活を守ろうとして、この塔を建てた(正確には1777年83歳で死亡後、息子が建立を引き継ぎ完成)という。新疆では一番大きな礼拝堂という。
エミンホージャは、同じ少数民族のモンゴル族により起こされた中国に対する大規模な反乱を鎮圧したりしている。彼はもちろん偉人として讃えられている(と説明されている)が、他方でもちろん、少数民族からは裏切り者と映っているのではないかと想像する。
次元は違うかもしれないが、現在新疆における民族問題は、漢族とウィグル族との確執のみならず、あるいはそれ以上に、少数民族内における成功者、支配階級、高所得者とそれ以外の取り残された民衆との確執でもある。その原型を、この蘇公塔に見るような気がしたものである。少数民族との融和を見せようとここを案内した中国側の目的とは反対の感情を持ってしまったかもしれない。(続く)
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秋山昌廣
at 11:28
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中国の旅(その4)―ゴビ砂漠とトルファン盆地―[2009年07月21日(Tue)]
週末を利用して、ウルムチからゴビ砂漠を東に向かい、シルクロードの要衝、トルファンを訪ねるとともに、高昌古城、火焔山などを見て回る。
ウルムチ市街を出て30分も走ると、前日とは打って変わって荒涼とした砂漠地帯に入る。
砂漠というよりは石や砕かれた岩が広がる砂礫の荒野であり、この広大な荒野が遠望する天山山脈に大きく囲まれている。
1時間も走ると突然、風力発電塔が林立している地帯に入る。トイレ休憩時にバスの外に出てみると、かなり強い風が西から東に吹いている。聞けば、ウルムチからトルファンにかけては一年中東へ強風が吹いており、この自然現象を利用してこれらが建設されてきたのであるが、この地帯に設置された風力発電施設の全体の規模は世界一だという。
1980年代からオランダVESTAS社の協力を得て始めたそうだが、その規模といい、砂漠地帯の開発といい、石炭発電でCO2をまき散らしているのではないかという中国のイメージとは全く異なるものを感じたものである。
(写真は、快晴だった翌日、トルファンからの帰路、砂漠地帯とトルファン近郊の風力発電地帯を撮ったものである。後方には雪を戴いた天山山脈が遠望される。)
天山山脈を越えてトルファンの盆地に入ると、突然緑がいっぱいとなる。まさにオアシスである。
市内に入る前に、坎儿井(カレイズ)という地下水路施設を見学する。天山山脈から地下に横穴を掘って、トルファンに水を引くもので、2000年前から行われた中国の古代三大水利事業(注)の一つである、との説明。事業は、竪穴、暗渠、明渠、貯水池で構成され、全て人力で行われた。暗渠は約2000本、一本は3〜8km、最長25km、総延長5000kmという、壮大なものである。
(注)中国古代三大水利工事とは、いろいろ説があるが、間違いなく入る一つは四川省の都江堰、それと、漓江と湘江とを結ぶ広西霊渠、北京・杭州間の京杭大運河と言われており、坎儿井がその一角を占めるのかどうかは、知らない。
トルファンの人口は52万人、その75%は少数民族である、というガイドの説明が面白い。雨が降らず、年間降雨量は16.6mmである。暑さも相当なもので、過去最高気温は49.6℃だったそうだ。珍しいことに、付近には海抜マイナス154mの湖があるという。イスラエルの死海に次ぐ低地の湖ということになる。
トルファンでは、ウィグル族の民家を訪ねた。ポースタイク村のエクバイジャカンさんの家だ。地元の大きな農家で、1.2haのブドウ畑を所有している。戸外の縁台でお茶と乾しブドウを御馳走になったが、1,2歳のお嬢ちゃんが2人、ずっと我々と戯れる。
この農家の天然乾しブドウは大変おいしく、我々はほとんど皆、これらを沢山お土産に買う。ほかに、乾しハミウリ、砂漠ナッツなどが珍味だった。乾しブドウ1kg当たり100元前後、砂漠ナッツ1kg当たり200元、日本の感覚では安いが、現地の物価水準を考えると、結構いいお値段という印象だった。農家の主人、若奥さんなどが世話をしてくれたが、我々のところに顔を出した人達を考えると、親子3代、兄弟の何組かの家族が共同生活をしている感じであった。
少数民族は一般的には経済弱者であると思われるが、このようなある程度豊かな、また、多分支配階級に属する少数民族も、相当程度いるという印象を持つ。それとも、人民解放軍(正確にいえばそこから依頼された旅行社)が世話をするところだから、特別に良いところなのであろうか。周囲を見ても、それほどのことでもない。しかし、数日の訪問だけで客観的に判断することが、残念ながら出来ない。(続く)
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秋山昌廣
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中国の旅(その3)―新疆石河子市―[2009年07月08日(Wed)]
(下記のようなブログを掲載しようとしたときに、ウルムチでの暴動報道があった。ブログの出だしからしてノーテンキと言われそうで、さすがにちょっと掲載を躊躇して様子見となったが、書き換えるのも妙だし、結局そのまま修正せずに掲載することにする。実は前回も、今回も民族対立の背景に関わるものであり、実は次回も、民族対立あるいはこの地域の統治の歴史に関するものである。ウルムチ暴動に関しては、この佐官級訪中記とは別に、あらためて書き記してみたい。)
中国の宴会で乾杯といえば、まさに杯に注がれた酒を飲み干すのが習慣である。一般的に茅台酒などアルコール度の高い白酒で乾杯するので、これが何回も続くとかなり効いてくる。中国では、酒は一人で適当に飲むのではなく、飲むときはいちいち乾杯となる。8年前からこの交流事業が始まったが、始めの頃は、宴会での乾杯対策(いかに飲まないで済ませるか)が重要事項であった。最近は主人役の中国人も余り飲まないどころか、乾杯と言っても飲み干さない。飲んだと思ったらコップにいっぱい入った水とかヨーグルトを飲み干して、アルコールを中和する。飲み干さない乾杯(日本に多い。特にビールの時。)時は、本当は「随意(スゥイイ・好きなだけ飲んでください)」と声をかけるべきところ、これも最近は言わない。中国でも、職場、地域での定期健康診断が浸透して、中高年者の酒量へのチェックが厳しくなったのである。
ところがここ新疆ウルムチは田舎だからかどうか知らないが、新疆軍区幹部の主人(ホスト)のみならず参謀役のナンバー2まで、宴会中乾杯、乾杯だった。主人の方は乾杯と言いながら自分はほとんど飲まない。相手に強制的に飲ませる、あまりスマートではないもてなしだったが、ナンバー2は酒豪であった。日本側からも一人酒豪が対応して、堂々と乾杯しあう。ナンバー2はたまらず女性自衛官を相手に選ぶ。ところが彼女たちもなかなかの上戸。久しぶりに賑やかな宴会となった。
新疆軍区には前回報告した工兵団のほかに生産建設兵団がある。簡単に言ってしまえば屯田兵団だ。1950年代に人民解放軍は天山山脈の北麓中ほどの砂漠の荒野において開墾をはじめ、軍の設計、建設により、半世紀かけて現在の美しい石河子市を作り上げた。
石河子市(せきかしし、シーホーズー)はウルムチから西方に約150km、バスで2時間半走らなければならない。車は多くないが、こんな西部最果てにも我々の知るハイウェイが8割は出来上がっている。
前夜の影響で大半の参加者が移動中仮眠をとる中、バスがゴビ砂漠の中を走るというので、私はカメラに、このために持参した大きな望遠レンズをセットして、運転席の横でじっと構えた。しかし、見えるのは青々とした畑ばかりで、砂漠のかけらも見えない。聞けば、石河子市に限らず、このあたりの盆地は天山山脈から雪解け水を灌漑水路によって畑に引き込み、荒野を畑作に変えてきたのだという。戦後30万平方メートルの入植がなされた。今では、小麦、葡萄、トウモロコシが主要作物となり、新疆の葡萄は世界にも有名となる。
開墾された畑なので、区画整理も良くできていて、防風林との組み合わせが美しい。ゴビ砂漠の荒々しさを想像したが、これは翌日のトルファン行きの時までお預けとなった。
石河子市では、新疆生産建設兵団14師団の歴史を展示する「新疆兵団軍墾博物館」を訪ね、人民解放軍(PLA)による厳しい開墾の歴史を勉強する。
PLAはもちろん開墾をして城塞を築き、開墾地区を地域の開発モデルにするとともに、もちろんのこと、北西に広がる辺境の地の国境警備(対旧ソ連)を睨んだのであった。
石河子市の人口は60万人、ただし少数民族はわずかの5%で、新疆ウィグル自治区では特異な漢人の人工都市である。実は、整然とした市街地、緑の多い街路、近代的オフィスビル、住宅アパート群の建設など、昔を知らない、つまり昔と比較できない私たちには何の面白みもない訪問であった。しかし、当地は、新疆の観光ルートにさえもなっており、中華人民共和国政府が自慢する開墾大成功例の街なのだ。最大の少数民族ウィグル族の居住する広大な荒れた土地を、統治者たる中華人民共和国が軍隊を投入して開墾をし、国家の力を見せつけようとしたのである。したがって、新疆訪問者を当地へ案内することは、中国の統治の歴史から見れば極めて重要なのだ。
時間の合間を縫って、市の市場に出向く。窯の内側に貼り付けて焼くパン屋、肉屋などあらゆるお店の並ぶ中、昼間からゲームに興じる中国人というか中央アジア風中国人のグループを見る。(続く)
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秋山昌廣
at 10:26
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中国の旅(その2)―新疆ウルムチ―[2009年07月02日(Thu)]
北京に3泊した後、新疆のウルムチに向かった。自衛隊佐官級訪中団が中国の西部地域に入るのは初めてである。昨年はチベットを訪問する予定であったが、例の暴動発生で計画変更を余儀なくされた。
ウルムチ市内のホテルの前にある人民広場では、毎朝早朝から大勢の市民が集まって太極拳が繰り広げられる。1時間もの太極拳が終わり、ふと見渡すと、近代的なビルに囲まれたこの広場に大きな塔があるのに気付く。見に行くと、その正面に堂々と「中國人民解放軍進軍新疆記念」と記されているではないか。
当地は古くは紀元前に、漢の武帝がその支配を確立したが、中国がずっと支配し続けたわけではなく、ウィグル族、ムスリムなどの地元勢力が統治者となり、あるいは王朝や国家を築いたりした。
1949年、中華人民共和国が成立したが、共和国は直ちに人民解放軍を進軍させ、新疆に対する中国の統治を明確にしたのである。進出なのか、進駐なのか、侵略なのか、ここではその議論は行わないが、人民広場のこの進軍記念塔は、間違いなくこの空間の主役である。
「進軍記念」、戦後日本からはなくなった言葉といっても良いもので、見ていてちょっとした感慨に耽る。20世紀には、当地はムスリム勢力の支配する東トルキスタン共和国が設立したりした。まさに、中央アジアの一角と言って良い。
訪中団は、当地でのメインの活動として、新疆軍区工兵団を訪問する。
これまで、なかなか西部に入れなかったのは、少数民族の反乱など政情の不安もあったと思うが、外国の部隊の訪問を受けられる、適当な人民解放軍部隊が見当たらなかったからである。施設、練度、説明能力、対応などの面で躊躇があったのであろう。
訪問した工兵団は、緑に囲まれたこざっぱりとした施設で、儀仗隊は訪中団長たる中尾1等海佐の観閲を立派に受けた。
会議室での映像を使ったレクチャーもなかなかのもので、訪中団員との質疑も行われた。少数民族の兵士はいるのか、軍はどのような対応をしているのか、との質問には、全体の5%程度、彼らの宗教や文化は完全に尊重しているが、軍隊での訓練などは全く同等である、との答えだった。
運動場に展示された工兵関係装備品(各種トラック、ブルドーザー、ショベルカー、工作機器など)が30項目、100点ほど展示され、熱心な説明が続いた。必ずしも最新鋭の装備ではなかったが、実にきれいに手入れしてあるのが目を引いたのと、保持する装備品をほとんどすべて展示していたと思われる。
質疑にも出たが、当地は少数民族の問題が大きい。新疆全体では漢人が3分の1、少数民族が3分の2と見られるが、省都ウルムチでは75%が漢人である。最大の少数民族はウィグル族であり、新疆全体の40%を占める。
ウルムチはウィグル語で「美しい牧場」を意味し、漢字は「烏魯木斉」と全くの当て字となっている。中国の最西端に位置し、現地のウィグル時間は北京時間マイナス2時間である。もっともこのローカル時間を使用するのは、南ウィグルなど、漢人のいないところに限られていて、ウルムチでは北京時間が一般である。
新疆ウィグル自治区博物館を訪ねる機会があった。この博物館は例のミイラ「楼蘭の美女」の展示で有名なところである。確かに1980年に、3800年前の40歳(推定)の女性が、タクラマカン砂漠でほぼ完全な形のミイラで発見されたのは、見ても感動を覚えるものであったが、私がこの博物館で非常に興味を持ったのは、少数民族の展示紹介である。
最大の少数民族ウィグル族は小さな帽子をかぶっており、緑色を好む。回族は白いスカーフやシャツを好む。カザフ族はフェルトのパオに暮らし、敷物で有名。キルギス族は赤色を好み、ウズベク族は紫色が好きだ。シボ族、タジク族はヨーロッパ人、この他、ロシヤ族、タタール族、ウズベク族、モンゴル族など多数の少数民族がいる。
実は中国人にとっても当地は観光地であるが、その要素の1つが異国情緒である。青い目をした「中国人」もいるし、レストランや劇場の案内役は大体がエキゾチックな風貌の美しい女性達だ。市のバザールに行けば、売る人買う人も殆どが少数民族である。
ただし、少数民族は一般的に低所得階層に属し、市のスラム地区の住民は全てが少数民族である。民族問題は経済格差問題でもあるのだ。
この地のもう一つの特徴は、土地の広さである。中国自体が広大な国であるが、新疆、正確には新疆ウィグル自治区の面積は中国全体の6分の1、日本の国土面積の4.5倍もある。
この自治区には、学生の頃世界地理で勉強をした中央アジアの大山脈、アルタイ山脈、天山山脈、崑崙山脈があり、その間にゴビ砂漠とタクラマカン砂漠が横たわる。中国人ですら、中国の大きさを実感するのは、当地新疆に来たときだという。(続く)
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秋山昌廣
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