インド再訪−その2−[2008年11月14日(金)]
ビシャカパトナムを後にして、チェンナイ、マドライ経由でインド最南端の港、ツチコリンに向かう。マドライまでは飛行機、マドライからツチコリンまでは自動車で移動した。
インド亜大陸の南端は、山も無く、大きな樹木も無く、土地が痩せた草原で、農地もまばらである。したがって集落も小さな貧しいものが散見されるだけの過疎地域で、インドに対して持っている私のイメージと相当異なるものを感じる。
草原は、遠く地平線まで延びていて、地平線に高い木が立っているのが遠望できた。この辺りは雨が極端に少ない地域で、ツチコリン周辺は海水の天然蒸発による塩田が数多くあり、白い塩が野積みになっていたのが印象的だった。
しかし、こんなところで高速道路の建設が盛んに行われている。もっと他に大事なところがあるのではないかと思って、かかる趣旨の質問をしたら、ここは土地がすぐ手に入るから公共事業が実施しやすいのだ、との返事。なるほど、これはこれで良くわかる。
インドの市街地周辺は、土地収用が大変なのである。また、ここは農地としては生産性が極端に低いので、工業用地に仕立て上げたいとの願いが高速道路の急ピッチな建設に向かわせている、と言うのである。港湾都市ツチコリンにおける工場誘致の話に合い通じるものがある。
途中、小さな架橋工事中のところ(橋が未完成)に設けられた側道への簡易迂回道路で、重量級の大型トラックが車輪を軟土に取られて動けなくなり、他の車が全部ストップするという事故に巻き込まれる。応急復旧に1時間ほどかかる。しかし誰も文句も言わず、長い車の列を作って、じっと待っている。我々もあきらめ顔で道路の上でぼんやりと待つ。
幸い、ニューデリーからついてきた役人の所属が、「海事・道路・高速道路省」であったので、簡易復旧後、直ちにパトカー先導で、最初に通してくれた。予定より2時間ほど遅れたが、おかげでツチコリンにおける19:00からの行事、ツチコリン港湾局ラオ会長によるブリーフィングセッションに何とか間に合うことができた。
翌日は日曜日であったが、実に盛りだくさんのスケジュールであった。
11:00より、政府関係者の集まるシンポジウムで、市長(女性)のちょっと長い歓迎挨拶、ツチコリン市No.2の収入役による、港湾都市ツチコリンの経済・社会開発についての説明、そして、パネルディスカッションと続く。日本側からも、池田横浜国立大学教授のプレゼンテーションとメンバーがパネリストとして参加した。
15:00からは、市内最大手の銅精錬工場や輸出産業であるドライフラワー製作工房などを視察する。
18:00からは、輸出産業を中心とした産業界のメンバーが参加するシンポジウムが開かれ、ツチコリン船舶エイジェント協会から、日印間のコンテナ輸送と海上物流についてプレゼンテーションがあり、次いでパネルディスカッションが行われる。
夕食は、20:00過ぎてからであった。日曜日は、いろいろ資料の整理、翌週訪問港の勉強と考えていたが、今回の出張で一番忙しい1日となった。ツチコリンが、日本からの港湾視察団に強い関心と、歓迎の意図があったからと考える。また、港湾局の副会長サバイア氏が2月の日印海事経済専門家会議(東京開催)に参加していたことも大きな要因であった。
翌月曜日は、ツチコリン港を船で視察。近くの石炭発電所で使用する石炭の陸揚げとベルトコンベアによる運搬施設が、港湾の東側を大きく占め、コンテナ埠頭などはまだ十分な機能を持っていない。大きな拡張計画があり、その説明がいたるところでなされた。
ビシャカパトナムとは異なり、港湾地区が非常にきれいで、また、工場用地がかなり広く計画されているのが、説明のみならず目で見ながら実感できた。トヨタ自動車がこの港湾近代化と付近の工場用地に関心を持っているようで、我々の訪問の後当地を訪れる旨の話があった。
港湾地域を中心に市内を車で走って視察をしたが、市内の数箇所で何か見たような顔の入った大きな歓迎表示布が張ってあるのに、気付いた。それは大きな私の顔だったが、インターネットでダウンロードしたもののようで、肖像権の侵害と思いつつも歓迎の意図は良くわかるので、皆でその前で写真を撮る。
午後、マドライ経由でチェンナイに移動する。
翌日朝、チェンナイ地域で活動する日本人企業代表者10人程と意見交換会を持つ。この日のチェンナイ港湾視察に参加するジェトロバンガロール出張所長の久保木さんの計らいである。久保木さんはそもそも、日印海洋安全保障対話のメンバーであった。
私と池田教授は、午後一番の飛行機でニューデリーに向かうので、チェンナイ港湾局に着くや午前中は集中会議、発つ直前にオフィスビルよりチェンナイ港を遠望して、あわただしく空港に向かった。
説明を聞くと、ツチコリンに比べチェンナイ港は、機能が質・量とも大きく上回り、その拡張計画も現実味があった。もっとも現在、港湾へのアクセスが全くひどい状態で、近々進出予定の日産は、これを嫌って近くのエンノール港を専用港として利用する旨契約したことが発表されていた。エンノール港は完全に民間企業の運営する港で、PPPの典型であるが、将来の使用料金やドレッジングに不安があるようであった。チェンナイ港はビシャカパトナムに比べ、船も多く港湾が活発に見えたのは、やはり後背地の経済活動の大きさのせいであろうか。
インド南部港湾調査の本視察団は、この後西側のコーチンを訪問し、最後にニューデリーに寄って帰国した。
今回の調査は、各地で大変な歓迎であったが、一番の収穫は、各港湾の近代化、拡張計画に関する最新のデータ、資料、考え方など情報収集が大いに進んだことである。
インド港湾の近代化に関心のある、日本国内の港湾開発関係者およびインドへの進出関係企業への情報提供を、今後適切に進めていきたいと考えている。(完)
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秋山昌廣
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インド再訪−その1−[2008年10月17日(金)]
2008年9月16日から8日間、南インドの港湾の開発ないし近代化について調査するためインドを2年ぶりに訪問した。
港湾開発の専門家や学者、外航船舶の運航担当者、財団の海事担当研究員など7人で調査団を構成し、インド南部を中心に4港湾と中央政府を訪問した。訪問先は、ニューデリーの海事省、東部のビシャカパトナム、南部のチェンナイ、ツチコリン、コーチン各港湾である。
インド主要港(インド株式オンラインより)
久しぶりのインド訪問だったが、われわれの泊まったメトロポリタンホテルのあるニューデリーの街中は、以前と殆ど変わっていない。道路の真ん中まで大きな街路樹が覆い尽くしている、この緑の首都はそれほど新しいビルが建築されているわけでもなく、大きなホテルの新設もない。この風景は経済成長著しい大国インドのイメージに合致しないが、空港から市内に入る道路はかなり整備されていたし、野原のような広い空間に大きな建築現場がいくつか見られた。英連邦スポーツ大会が当地で行われる2010年に向けて、ニューデリーでは現在地下鉄建設が急ピッチに進んでおり、道路に沿って開削工事が至る所で行われている。
ホテルからニューデリー市内を望む
海事省(正確には、海事・道路・高速道路省)には、挨拶程度の訪問を考えていたが、何と海事局の幹部が何人も出席して、インドにおける港湾を含む海事行政について、レクチャーと質疑が2時間ほど行われた。本年2月に東京で開催した専門家会議に出席した海事省次官補バラクリシュナン氏と計画委員会上級顧問のプリ氏がイニシャチブを取った結果と思う。しかも、我々調査団の南部港湾訪問に、海事省から2人の幹部が同行することになった。この同行は、我々の調査を大変効果あるものにしてくれた。
インド海事省での会議
この後国内便で、インド大陸東海岸の要衝ビシャカパトナムに飛ぶ。空港は海岸沿いにあり、着陸前に港湾を見たので町のすぐ近くかと思ったが、空港から市内まで車で1時間以上かかる。夕方だったので、車の渋滞や人出に妨げられて、思うように車が走れないからだ。道路は、高速道路並みに広く立派に整備されたところもあれば、往復1車線かつ整備の悪い道も結構ある。交差点は、自転車や人波が道路を横切ろうとして、車の進行をしばし止める。とにかく、整備とルールにおいて、インドの陸上交通は経済活動、社会活動の大きながんになっていることを体験する。
宿泊したホテルは海岸に面したリゾートホテル風で、空港から移動する間に体験したインドらしい雑踏と未開発とはおよそ縁のない空間であった。夜遅くまで、団員および同行してくれたインド海事省幹部サイニ氏とサシクマール氏とともに、海の波音を聞きながら野外にて夕食をとる。
翌日ビシャカパトナム港湾局(Port Trust)にてレクチャーがあり質疑を行った後、船に乗ってビシャカパトナム港を視察する。外港(Outer Port)の石炭専用バースとコンテナーバース、湾内のドレッジャー(浚渫船)や堤防を見た後、古い内港に入る。湾への入口右側の丘に、モスクとカトリック教会とヒンズー寺院が仲良く並んでいるのを見る。異なる宗教の共存がインドの特徴であるという説明がある。
旧港の水深は13m程度という。しかも、湾に入るところが極端に狭く、大きな船は入れない。この内港に並行してインド海軍の軍港がある。したがって、この辺りは写真を撮ることが禁じられている。軍港には造船所が併設されているが、これがまさに海軍工廠の風情であった。ところが、この造船所の大きな門型クレーンのトップに、何とHYUNDAIと印されている。ここまで、韓国勢は入り込んでるのかと、大いに刺激を受ける。
港湾敷地の視察は車で行ったが、石炭陸揚げ専用港は、黒、黒、黒一色。それに、黒い粉じんもすさまじい。ほこり防止のためであろう散水車が水を撒いているので、ここでは黒い泥沼化した道路を車はゆっくり進む。本港および石炭陸揚げ施設は、1950年代から日本側の全面的な支援で構築されたもので、現場の人たちはそのことをよく理解していた。日本としても、戦後初めて行ったODAがこの港湾建設だったのである。コンテナーハンドリング会社も見学する。
ビシャカパトナム港コンテナヤード
ビシャカパトナム港は、Outer Portへの港湾の拡大、近代化に対して、現在日本のODAとして円借款がかなりつぎ込まれており、われわれの調査の目的たる、日本による港湾近代化経済協力のシーズ探しは、ここでは限定的にならざるを得なかった。ドレッジング(港湾・航路の浚渫)で何か協力できるかどうかという程度である。
ただし、他のインドの国際港湾の開発状況を見るのに、当地訪問は大変勉強となった。ここはいろいろな意味でインド最高レベルの港湾であると言われているから。それにしては、外航船舶も少なく、コンテナーの量も大したことはない。訪問した日時の関係であろうか。もっとも石炭の陸揚げはかなりの規模と見た。
予定されていた仕事が終わり、日も暮れようとしていたが、インド側がぜひ案内したいところがあるといって、7世紀頃に建てられた仏教の僧侶の学校跡に案内される。市内から小一時間車で走った丘の上にある。ため池、教室跡、炊事場所跡、寺院跡などが、夕日が沈む丘の草むらの中にひっそりと残されている。夕闇の中、若いカップルも来ている。近くに大学があるのだ。
仏教寺院学校跡
街中への帰途、ヒンズーの神像のある高台に寄り、見晴らし台からビシャカパトナムの夜景を望む。インドの夜も、結構光があるのに驚く。インド側が一生懸命接待をしてくれるのに感謝。(続く)
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秋山昌廣
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中国旅行記(4)[2008年08月29日(金)]
杭州にある空軍第28師団の視察
南京を後にして、杭州に入る。ここでの主要な事業は、中国人民解放軍空軍第28師団の視察である。会議室にて、一とおりの説明を受けた後、格納庫に展示された戦闘機や爆撃機、ミサイルなどを視察する。
昨年までの部隊訪問で見学できたのは、よくてもJH-6までの第1世代か第2世代の旧式戦闘機であったが、今回は第3世代なるも第4世代に近い、かつ実戦配備している戦闘爆撃機JH-7(中国名 殲轟7)を展示していた。素人が見ただけでも、実際に活躍している戦闘機であることがすぐ分かった。
さすがにコックピット内部の写真までは認めなかったが、中に入り座って、見て、触ってもOKというサービス振りであった。このほか、攻撃機Q-5や空対空ミサイルPL-5が展示された。
中国空軍の現役の戦闘機パイロットが一人中国側の説明者になり、聞けば何でも答える。小柄で日本人的な顔つきであったが、いかにも戦闘機パイロットの精悍さ、自信に加え、明るさを持ち合わせた人物であった。日中のパイロット同士が、いろいろと専門的なやり取りをしていた。
これまでは、部隊の責任者たるナンバーワンかナンバーツーが、多分事前に本部と連絡を取って、ここまではしゃべっても良い、こういう質問にはこう答える、といった準備をした上での対応であったのだが、今回は、それが一変した。しかも、展示訓練ではなく、実際に行っているスクランブルの訓練をそのまま見せてくれた。今回の訪中計画として、そういうタイミングで部隊を訪問したのである。
杭州は浙江省の首都であるが、浙江省は中国東南沿海に位置する主要な省であり、台湾正面や太平洋に向けて、防衛機能ないし攻撃機能を発揮すべき重要な地域である。
今回の自衛隊佐官級訪中事業は、中国の理解を得て、在中国日本メディアの参加、報道が初めてOKとなったが、ここ杭州の部隊視察は例外となり、現場の武器装備品視察にはメディアは同行できなかった。
北京における徐才厚中央軍事委員会副主席との面談についてのある報道(インターネットにおける情報提供だったが)に、中国側が神経質になった結果だが、それでも私を含め日本側団員とのインタビュー取材などにより、産経新聞は手厚い報道をしていた。
単なる防衛交流事業よりも、それが日中の国民レベルに報道されるかされないかは、事業の効果に大きく影響をもたらす。その意味で、今回の訪中は大成功であったと思う。
西湖新十景
杭州といえば、西湖を代表とする観光名所が多い。西湖の周辺は、毛沢東や周恩来、あるいは林彪など有名政治家の別荘があったところで、現在でも要人の保養先になっている。
西湖に遊覧船で出てみると、周囲の山に塔や寺が垣間見え、湖岸では新郎新婦が記念写真、あるいは緑の向こうに市街地の高層ビルがそびえて見えるコントラストが面白い。
西湖新十景のいくつかを見て回る。
12世紀に活躍した南宋の武将、岳飛を奉る岳廟を訪ねる。岳飛は、現代中国でも英雄の一人に数えられている。この英雄を陥れて死に至らしめた榛檜夫妻などが後ろ手に縛られて跪いている像が、岳飛の墓の下座に展示されているのが、いかにも中国らしい。
また、近くには、紀元326年に建立された中国で大変有名な仏教古莉、霊隠寺がある。中国にも各地に仏教寺院があるが、ここの寺の仏像を見ると、日本の仏像を連想する。最古といっても良い木彫りの大きな仏像が残っている。といっても、中国では、古いものでもどんどん塗りなおしたり、金箔を施したりで、日本の仏像保護とはおよそ異なる状況であるが。
参道の途中では、飛来峰といって、五代、宋、元時代の精巧な石仏が彫られている切り立つ岩石を、寺院の反対側に見ることができる。
こういう石仏も、中国では残っているところはかなり限られている。文化大革命のとき、傍若無人の紅衛兵が当地を訪れ、石仏その他仏像を破壊しようとしたが、さすがその古さと国宝級のものに対する畏れもあったのであろうか、現場から周恩来(文化大革命を支持していた)に連絡を取った結果、主要なものは残すように言われて、周辺の仏像を壊して立ち去ったという。日本でも、明治初期に廃仏毀釈で多くの仏像が破壊された歴史があるので、中国の悪口だけ言うのははばかられるが。
旅行記の締めくくりは特にないが、軍事交流を通じて感じるのは、人民解放軍の近代化が進み(軍備増強が進み)、中国側が大きな自信を持ち始めていること、同時に、対日関係を良好にしたいという指導部の意図が現場にもはっきりと出ていることである。
前者に対しては、透明性を維持すべきと要請するだけでいいのか、日本として中国の軍備増強にどう対応すべきなのか、戦略的にも本格的に議論していかなければならない事柄であろう。
後者に関しては、評価すべきことではあるが、それでは、日中友好は政府の方針次第ということになってしまう、という懸念もある。民間外交に限界はあるものの、政府の意向に関係のなく、良好な日中友好関係を築くための民間部門の行動をさらに模索しなければならない。
それにしても、中国といえば北京、上海、四川、広州、香港が頭に浮かぶが、安徽省黄山、江蘇省南京、浙江省杭州は、日本人の感覚に合う、旅の目的地として考慮すべき土地柄であると思った次第である。(完)

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秋山昌廣
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中国旅行記(3)[2008年08月11日(月)]
銭湯と夜行列車
黄山を下山して、市内の銭湯(ビルの2階にある)に向かい、そこで汗を流す。ホテルをすでにチェックアウトしていたのでこういうことになった。
正直言って、パスポートや財布を持参して入る状況だったので中国の「銭湯」行きにいささか懸念を持っていたが、ロッカーは入湯者とロッカー担当の従業員の2人が揃わないと開け閉めできないというシステムで結構きちんとしており、浴室の中には多くのシャワーと10人以上一緒に入れる浴槽があり、皆十分汗を流すことができた。
銭湯の外のロビーには何台か洗髪台があり、高級バーバーという感じで、洋服を着た中年の女性が仰向けに横たわって男性従業員に髪を洗わせている。洗髪の途中で携帯電話を取り出し、何やら大きな声で自分の事務所に指示を出している。女性経営者なのであろうか。
ちょっと飛躍した感想かもしれないが、中国は一足飛びに、日本や米国の社会に近づいている感じがしたものである。
夜の10時頃、黄山発の夜行列車で南京に向かう。我々は2段ベッド4人部屋の寝台車に、153元すなわち2,300円位の寝台切符で乗ったのであるが、中国人の大衆が乗るのは言わば3等寝台という感じで、仕切りのない車輌の3段ベッドに、先を争って場所をとり、床にも雑魚寝のような状況で横たわり、大勢が押し合いへし合い乗り合わせていた。
しかし、鉄道の駅も、列車も、車窓の風景も結構清潔でひどい雑踏もなく、中国の鉄道について私が持っていた事前のイメージとはだいぶ違うものを感じた。夜行列車では、一つの部屋に何人か集まって酒盛りをしてはしゃいだ後、ぐっすり寝て、南京の朝を迎えた。
南京駅に到着した夜行列車
南京軍区陸軍部隊第179旅団
南京での軍事交流の目玉は、南京軍区陸軍部隊179旅団の訪問である。
南京というと、どうしても例の南京大虐殺の問題が関わってくるので、これまでの7回の訪中計画において一度も訪問先に入らなかったが、今回は敢えてそこを克服しようということになった。
そんな懸念とは裏腹に、南京は緑の多い美しい街であり、また、陸軍旅団の駐屯地もこれに劣らず樹木が多く、その静かなたたずまいが我々を暖かく迎えてくれた。
この179旅団も多くの陸軍部隊と同様、抗日戦争、朝鮮戦争に参戦している。旅団長の金川大校(大校=大佐)を代表とする説明を受ける。質疑において、情報化への要求と能力とにギャップがあること、水陸両用装備の整備が進んでいないことなどを明らかにした点、注目に値する発言があった。
展示された陸軍の装備品は、新しいものばかりというのみならず、一部は日本の装備品より近代化されているものがあったのには驚いた。去年までの部隊視察では見られなかったことである。
日中関係の好転も背景にあるだろうが、軍の装備品の整備、近代化が急速に進み、これを外国に見せても良いという余裕が出てきたものであろう。全般的に、中国の軍隊が自信をつけてきた証拠といっても良い。隊舎なども急速に整備されている。
訓練場における歩兵部隊の訓練展示、特に都市型ゲリラへの対応訓練など、展示とはいえかなりの力の入れようであった。各種射撃訓練では、結構ミスショットがあり、陸自の自衛官からは人民解放軍の腕前はいまいちだという感想が漏れた。しかし、私はむしろ、100%ミスのない展示をしがちな独裁国家中国で、何かが変化しつつあることを感じた次第である。
対都市ゲリラ訓練展示
続いて行われた、隊員との昼食会では、まだ坊やみたいな田舎から出てきた若い兵士達が、我々の質問に対して目を輝かして応対しているのが、実に印象的であった。日本の自衛隊の自衛官を見るのも初めて、話すことにも興味津々という態度であった。
中山陵と総統府を訪ねる
南京では、総統府と孫文の陸墓たる中山陵の訪問は欠かせない。革命家孫文が三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)を指導原理として1919年に中国国民党を創設し、辛亥革命を経て、1912年中華民国が南京に成立し、臨時大総統に就任した。しかしその後、袁世凱や軍閥に敗れたりして近代的統一国家の樹立かなわず、1925年「革命未だならず」を言い残して北京で客死し、ここ南京に葬られた。
総統府は市内の中心にあり、入り口の門の上には総統府と大きく表示されていて、今でも機能しているような錯覚に陥る。多くの観光客が入っていくので、ここは観光名所だということを知らせてくれる。
庭園を巡った後、臨時大総統孫文の執務室や会議室を見る。宋慶林との結婚にあたっての誓約書なども展示されている。孫文ほか当時の要人が活動する蝋人形などが展示してあって、結構リアルで興味深い。
中山陵を訪ねたときは、気温が40度近くあったのではないかと思うほど暑くて息苦しい。長い参道を歩いた後、500段はあろうかという階段を一気に登り、中山陵の本殿に入る。
青天白日旗が描かれた天井の下に、孫文の像がある。さらに中に入ると、棺(レプリカ)が安置されている。お供をしてきた人民解放軍の将軍を含め、多くの中国人も皆頭を下げてお参りをする。「国父」孫文に対する尊敬は、一党独裁国家中国とは関係なく、中国国民に共通しているように感じる。
中山陵の上から市内を見ると、緑が大きく広がっている。車で来るときも感じたが、南京は市内から少し走ると、すぐ大きな森に入る。パリのようだなと思った程である。
中山陵から市内を見る
市内も街路樹が多く、いわゆる開発された大都会という感じではない。南京というと南京大虐殺を連想して日本人は余り良い感じを持たないが、日本人の好みにとても合う落ち着いた街である。
共産党中央政権は、なぜかこの南京をあまり重視せず、経済特区にも指定されず、政治的にも重視されていない。現地もそのことは知っており、自らの力で、古き良き物を残しつつ、ゆっくりと発展してきたという。ここでは中国のバルブを感じない。中国に遊学するなら、ここ南京が良いなとふと思ったものである。
余談だが、当地は日差しが強いのか、中国南部を中心に日よけ帽子、サンブロックマスク、さらに腕と手をサンブロックするマントと手袋を身に着けてバイクを飛ばす女性が多く見られ、新しいファッションを感じさせられた。
また、バイクや自動三輪でも電気駆動が多いのに驚かされた。これは、環境対策なのか、エネルギー事情から来ているのかは分からなかったが、面白い現象である。(続く)
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秋山昌廣
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中国旅行記(2)[2008年07月25日(金)]
青島の海軍基地
東京で1日だけ仕事を済ませた後、再び中国に戻り訪中団に合流した。
合流したのは青島であったが、それは、一行がその日午前中に青島にある中国海軍北海艦隊基地を訪問した後のことであった。この基地は私もこれまで何回か訪問したが、いつも実に古い小さな艦船を見せるだけなので全く興味がなかったのだ。
ところが、話を聞くと今回は、最新鋭ではなかったものの主力艦たるLuhu級ミサイル駆逐艦「青島」(DDG-113)を見学させ、かつ艦内をくまなく案内し、軍艦の中枢部たるCIC(Combat Information Center)まで入れたという。この艦船は8連装対空ミサイル2基、4連装対艦ミサイル4基、対潜ヘリ2機搭載可能といった実戦に対応した艦船と言ってよい。
「青島」甲板から艦橋を臨む
我々が訪中する直前に、日本から初めて護衛艦が中国を訪問することがあったように、日中関係がきわめて良くなっていることを反映したものであろう。団員は、艦内がよく清掃され、整理整頓もしっかりしていたと言って、中国海軍の規律の高まりに注目していた。中国が近年海軍をきわめて重視し、そのブルーネービー化(沿岸防衛から海洋戦略へ)を進めている証左かもしれない。
私の方は、この日は、7月下旬に開催予定の日米シーパワーダイアローグ関係で、防衛大臣経験者の招聘依頼のためあちこち電話をかけまくり、青島見学どころではなかった。締め切りが2日後に迫っていた原稿を書く作業も行って、これを東京に送る。国内にいるのと全く変わりないような通信機器の発達は便利といえば便利だが、「旅は東京からの隔絶」とは全く昔のことになってしまった。
安徽省(あんきしょう、略称:ユ(Wan))
翌日、青島から100人乗りの小さな飛行機で、安徽省の省都、合肥に飛ぶ。合肥とは面白い名前だが、中国語ではHefeiと呼ぶ。難しい発音でなかなかうまく言えない。バスで延々5時間以上走り黄山市に着く。この近くは、胡錦濤国家主席の出身地という。途中昼食を取ったレストランには、プーチン前大統領の写真が飾ってあったので、大統領訪中時に、ここを訪問したのであろう。
安徽省は基本的には農村地域で、水田などが続き日本の田舎の風景と重なり合う。立派なハイウェイと並木、レンガ工場や淡水真珠の養殖池、溜池などとともに、バスから見る農家の風情は悪いものではないが、本当に厳しい、貧しい地域は見えない所に沢山あるのであろう。
市の近郊にある、世界文化遺産となったユ南古村落を見学する。明時代の村落がそのまま残っていて、今でも当時の子孫が多く生活しているそうだ。また、市内では古くから発達した商店通り「老街」を散策する。大きな古い茶店に入ると、橋本元首相の写真が飾ってある。氏が亡くなる1ヶ月位前に訪問したときの写真であった。
明代当時のままの村落
ここでは、ちょっとしたハプニングがあった。着いた翌朝、黄山に向かおうとしたらバスが故障で動かない。クラッチが滑ってどうしてもセカンドが利かない。そういえば、昨日も何かだましだまし運転していたのを思い出す。
運転手が会社に電話して代車を要求する。しかし、会社は運転手に対して直せという。携帯電話を片手に、バスの後ろのエンジン部分を開けて何やら作業をするも直らない。今度はバスの客室の中に来て、後方部の床を開けて手を突っ込んでいる。肩口まで油まみれである。この間、ずっと携帯で会社から指示が飛ぶ。20分くらい経ったであろうか、運転手が直ったと言う。半信半疑でいるとバスは走り出す。
何が原因かとの問いに、ミッションギアボックスの中のボルトが外れていたと言う。素手で直せたのが不思議だが、運転手の技量もたいしたものだ。そして、携帯で状況を報告させて指示を出す会社の担当官も相当な腕だと感心する。この日、山を往復したが、バスはきわめて快適に走ったのだ。バスの運転手も、田舎のバス会社もただものではない、と敬服する。
黄山
この日はちょうど週末にかかったので、かの有名な黄山に登る。この訪中団の訪問先に、中国の名山の登山を毎年一つ入れたいと考え、2年位前から実行している。それにしても、黄山訪問とは本年の一行はついていると言っていいだろう。もともとは西部の厳しい地域を訪問する予定だったが、チベット問題などが発生したため、急遽計画を変えて沿岸部を中心とする計画に変更したので偶然こういうことになった。
黄山のすばらしさは、字に書くことは難しい。いわゆる奇山、奇岩、岩肌(玄武岩)、多くの松、不思議な形の松、松の古木などなどがその構成要素だが、写真でもその本当のすばらしさあるいは感動は伝えられない。機会を見つけて訪問してください、と言うしかない。
「十八羅漢が南海を眺める」と称される風景
天気に恵まれたが、本当は1週間くらい滞在して、小雨の黄山、霧の出た黄山、雲のある黄山を見るのが良いとのこと。そういえば、有名な中国の墨絵(掛け軸など)には何やら霧や霞や雲の出ているものが多い。
ロープウェイで山の上まで行くが、この山はいくつもの名峰から構成されていて、これらを訪問するための山道がほとんど階段で整備されている。階段は全体で6万段あるという。我々も3つ4つの名峰(始信峰、清涼台、獅子視海、飛来石など)を訪ね、この間5時間以上歩いたと思う。
いずこからともなく飛んできたかのような「飛来石」
最高齢74歳の団顧問を含め全員落ちこぼれることなく歩ききった。私は、このためにも持参した一眼レフと大そう重い望遠レンズをカメラバッグに入れて抱え、ゆっくりと、ほとんど休まずに歩いた。快晴だったが山の上でもあったので熱中症にならないですんだ。けれども、何か1年分運動したような気がしたほどである。(続く)
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秋山昌廣
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中国旅行記(1)[2008年07月14日(月)]
2008年6月末より、恒例の佐官級自衛官中国訪問団に随行して中国各地を10日ほど訪問してきた。これは笹川日中友好基金が実施する重要なプロジェクトの一つであり、今回は8回目となる。
私はこの基金の運営委員をしており、特に防衛交流事業を担当している。毎年、日中双方から国防組織の佐官クラスの中堅幹部が、相互に相手国を訪問して、意見交換、部隊訪問などをし、日中の相互理解を高めることを目的にして、2001年からスタートしたものである。すでに、日中双方で国防関係者が300人近く相互に訪問してきたことになる。
北京
空港全景
訪問団の研修実績のことはまた後ほど記すとして、1年ぶりに北京に入ってまず驚かされたのは、北京空港である。オリンピックに間に合わせて建設された第3ターミナルは、その床面積において現在時点で世界ナンバー1の空港ターミナルと言われている。900平方キロメートルあるそうだ。
チェックインロビー正面
われわれは車で移動してしまったから分からなかったが、ターミナルの中は広すぎて、例えばターミナルの端にあるVIP室に行くにはどこまでも歩くという感じで、かえって不便と言う人がいる。
上記写真2枚はいずれも
「エクスプロア北京」ホームページより
市内と空港を結ぶ鉄道がちょうど試運転中で、間もなく開業である。市内に向かう高速道路の通る地域は中心から離れた区域であるが、植林された木々が大きく成長し、その向こう側も、貧しい農村から都会のベッドタウンないし営業施設の建設現場に大きく変貌を遂げつつある。
市内は、人工的なのは仕方がないが、緑が多く草花が咲乱れ、清掃が行き届き、昔の北京はどこかに消えてしまったようである。自転車はめっきり減ってしまった。そして今なおビル建設ラッシュは続き、毎年何回か訪問する私にとっても、訪問時はいつも新しい街角の発見に目を見張る。
北京市都市計画館の精巧な北京市模型
残念ながら、今回滞在した3日間は珍しく小雨模様の天気が続き、雨が上がっても空気が澄んだ気持ちよい日は訪れなかった。
天安門広場に掲げられたオリンピックまでのカウントダウン表示は、40日と示されていた。中国全体がオリンピックに向けて、全力で準備作業の仕上げに入っている。13億人の民の国家における世紀のスポーツ大会は、国威発揚、愛国心高揚、中国人選手の金メダル大量奪取などが予想され、結果として、外国人、特に日本人にとって中国に対する警戒感が一段と高まるのではないかといささか危惧する。
清華大学
訪問団は、国防大学を訪問し、危機管理センターの欧陽維(Ouyang Wei)教授(大校)以下、国防研究者と軍近代化、C4I(指揮・統制・情報伝達・処理システム)、宇宙利用などについて意見交換をした後、精華大学を訪れ、学生との自由な意見交換に臨んだ。
精華大学に日本の自衛官が入るのは初めてである。時間が大幅に遅れたため、着替える時間がなくなって制服のまま訪問する。10人余りの自衛官が制服のまま集団で大学構内に入ったわけであるが、特に何の問題もない。むしろ、大学側から参加した学生の半分が、卒業後人民解放軍の幹部に登用される奨学生であったのには驚いた。2年前から導入された制度のようである。
中国の自衛隊観、日本の若者の中国観、幹部軍人教育システムなど、いろいろな関心事項についての質疑が相互に行われたが、日本側の団長から中国の学生に対して、兄弟のある人は手を挙げてくださいという意表をつく要請に対して、半分程度の学生が素直に手を上げたのには驚かされた。少数民族同士、少数民族地域などは2人、3人以上子どもがいて良いこととなっており、中国全体で平均すると子供は2人なのだそうである。また、少数民族出身者が、多くこの難関の清華大学の門をくぐっているのも興味深い。大学生と自衛官の討議が面白いと、毎回日本の通信社の特派員が傍聴に来る。
清華大学学生と自衛官の意見交換
大学側の受け入れ責任者、崔保国(Baoguo Cui)メディアセンター所長(教授)は、日本の東北大学に長く留学され、日本語の達人であった。
国防部ほか
例年北京では、国防部長や総参謀長への表敬訪問が入るが、四川地震救援活動などもあり、今年は総参謀長助理の陳小工少将との面会となった。しかし、この陳少将はなかなかの人物で、冷静沈着、しかも物腰が柔らかく真面目という印象を受けた。自衛官の質問にも丁寧に答えていたのは印象的であった。別の機会を作り一度ゆっくり話をしてみたい。
筆者と陳小工少将
今回は、政治の勉強も組み入れようということで、政治協商会議外事委員会主任(大臣級)の趙啓正氏への面談が入った。趙氏は、長く新聞弁公室主任を務め、わが国の政界にも強いつながりのある政治家で、ご存知の人も多いと思う。私は過去2回ほどバイで面会したことがあるが、「貴方とは同年同月生まれだと話したことを覚えていますか」と言われたときは、驚いた。面談の記録が残っていて、事前にそれに目を通しているのである。氏とは、反日デモ時の状況、ODAの広報、中国における民意の汲みあげ、報道のあり方などについて率直な意見交換をする。
3日目に、国防部長の代わりとして、格上の徐才厚中央軍事委員会副主席への表敬が組み込まれたが、私は東京で所用があり一旦帰国したため参加しなかった。(続く)
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秋山昌廣
at 14:17
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安田講堂で初めての講演[2008年07月01日(火)]
2008年6月27日、海洋技術フォーラム主催の、海洋基本法制定一周年記念シンポジウムが東京大学の安田講堂で開催された。
私は昭和39年に同大学を卒業したので、約半世紀ぶりに安田講堂の門をくぐったのである。学生の時は総長のお話を遠くから聞くばかりであった東大のシンボルの建物で、今回は演壇から講演ができるとはやはり光栄というものである。
もっとも、思っていたほど広くはなかった。しかし当時とは比較にならないほどきれいになっていたし、これが、あの籠城した学生と機動隊の戦った舞台の講堂だったのかと思うほど、その痕跡は跡形もなくなっていた。
基調講演を行った前原誠司民主党副代表は、別の意味でこの講堂での講演の意義を語っていた。安田講堂での講演は、私にとっては敵陣の本丸に乗り込んで行う意義深いものであり、二つ返事で講演を引き受けたといった趣旨のことである。前原氏は京都大学の出身で、講演でも、京都大学で活躍された高坂正堯著の「海洋国家日本の構想」が主題であった。
私は、「日米海洋国家同盟と海洋協力」と題して、概ね以下のような講演を行った。
歴史上海洋を制した国が世界の覇権国家となってきた。ローマ帝国然り、大航海時代のスペイン・ポルトガル、7つの海を支配した大英帝国、そして20世紀からは米国が海洋大国となり、挑戦者はみな敗退していった。
日米同盟は世界最大の二国間同盟であり、また日本の安全保障にとって不可欠の構成要素である。しかるに、近年この同盟の基盤がゆれ始めている。同盟は常にその維持ないし強化に意を用いないと弱体化してしまう。軍事面だけに限らない新たな同盟構想の下、これを強化する方策を考えなければならない。
目を海洋に向けると、海賊、海上テロ、資源開発、漁業、環境、地球温暖化など人類は多くの課題に直面している。世界最大の海洋国家米国と、世界有数の海洋国家日本は、その同盟関係を海洋国家同盟関係として再構築し、軍事に限らず、海事、経済のグローバル化、海洋科学、資源開発、環境保全まで取り込んだ新しいシーパワー概念を構築して、海洋の平和と安定に貢献すべき時期に来ている。
以上は、本年3月にワシントンにて開催した日米海洋国家同盟会議のテーマであり、この2回目の会議が7月22日から東京で開催される。
私の講演にご関心のある方は、パワーポイントをご覧ください。(完)
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秋山昌廣
at 11:46
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久し振りの台湾訪問[2008年05月26日(月)]
2008年4月24-26日、ほぼ8年ぶりに台湾を訪問した。
海洋事務策進会からシンポジウムでのプレゼンテーションを依頼されたからである。シンポジウムは、「日台周辺海域フォーラム」というタイトルの下、3つのセッションがあり、そのうちの一つで、私は「日本の新たな海洋政策」の演題で20分ほど話をした。
台湾は国連加盟国ではないから、国連海洋法条約を批准する立場にはないが、海洋立国を自認し、同条約が発効してからは、この条約に基づき国内対応をしてきている。2001年にコーストガードが創設されたのもその一環である。
加えて、今回の総統選挙で勝利した馬英九氏が、選挙公約で海洋部(海洋省)の新設を掲げたので、昨年始めて本格的な海洋基本法を導入した日本に注目が高まったという事情があった。
シンポジウムの問題設定や質疑から次のようなことが感じとれた。
台湾側は、まず、日本が海洋基本法を導入した理由、また議員立法でほぼ全会一致で可決された背景を知りたがった。同時に、日本が、いよいよ海洋権益の確保に乗り出したのではないかとも見ていた。
また、海洋基本法が東シナ海における中国との境界紛争にいかなる影響を与えるか、さらには台湾も強い関心を持つ尖閣諸島の帰属の問題にどう影響するか、ということに関心が高かった。
さらに、これが実務的には強い関心があったものであるが、日本の排他的経済水域に食い込んでいる台湾の伝統的な漁業区域を日本に認めさせたいという要請との関係で、日本の海洋基本法制定がどのような影響を持つのかを見極めようとした。
会議は、策進会の親元がコーストガード(海事巡防署)なので、日本の海上保安庁との関係を強化しようとしている中、鋭く対立するといった類のものではなく、日本からいろいろ学ぼうという姿勢であった。
私への待遇も丁重をきわめ、恐縮をしてしまうほどであった。「国際安全保障」(国際安全保障学会)に掲載された私のレポートにも関心があり、多くの学者や研究者に手交した。
この機会を利用して、旧知の蔡明憲国防部長(国防大臣)に面会した。5月には政権交代なので、部長職もあと1ヶ月となったところだが、私の質問にも率直によく答えてくれた。
私は、昨年の秋に、台湾軍に関する勉強会を10回ほど開催していたので、軍の改革、国防予算の展望、中国との関係などを話題とした。
改革(例えば志願制の導入)は着実に進められたこと、予算は議会の反対があったが最近いくつか前進があり、2,3年遅れという状況であってそう心配は要らないこと、新政権による中国との対話は歓迎だが国防の備えは必ずしておかなければならないことなどを語った。
軍歴のない純粋な文民、蔡明憲氏が台湾で初めて国防部長になった背景にあるシビリアンコントロールの進展が今後どう展開するかが注目される。
帰国の日、ホテルを出発する前に、2時間ほど市内を歩いた。
晶華酒店ホテルの前を走る大通りを30分程南に歩くと、総統府の見える大きな四つ角に出る。旧台湾総督府は、重い赤レンガ色で静かに横に広がって、新しい総統を待っているようであった。
総統府と反対方向に行くと、自由広場に出る。正名運動(蒋介石の名前中正を公衆の場から消して新しい名前にすること)で、中正広場が自由広場に改名されている。
全国で蒋介石の銅像も撤去されてきた。正名運動を法律違反と主張してきた国民党の新政権は、これからどうするのであろうか。
土曜日の街は、早朝でもあったので静寂であり、ハイテンションの「中国」の雰囲気は感じなかった。大きく動くかもしれない中台関係のこれからの展開の前の、静かな夜明けというところであろうか。(完)
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秋山昌廣
at 16:46
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ベトナム・ハノイでの「海洋・沿岸・島嶼グローバル・カンファレンス」に参加[2008年05月08日(木)]
2008年4月7日から11日にかけて、ベトナムのハノイで開催された標記の国際会議に出席した。
1994年に国連海洋法条約が発効し、2002年ヨハネスブルグ「持続可能な開発のための世界サミット(WSSD)」を契機に世界の海洋関係者の協力ネットワーク活動が活発化してきた。
このグローバル・カンファレンスは、国家間の合意作りと、各国による実行を促進するため、民間レベルで国際会議を開催し、海洋の持続可能な開発の動きを大いにバックアップしようという趣旨で発足したトラック2スタイルの会議である。開催ごとに多くの参加者があり、今回も400人以上の参加があった。
米国デラウェア大学のビリアナ・シシンセイン教授がそのリーダーだが、女史は当財団の海洋研究会議(研究員の実施する研究計画の討議、助言)の有力メンバーでもある。ビリアナ教授からハノイの会議への積極的参加を依頼され、海洋政策研究財団が支援する討議セッションをセットしたのである。
ビリアナ教授と
このセッションは、「統合的沿岸・海洋政策」がそのテーマで、7日には寺島常務が、8日には秋山がセッションの議長役を務めた。同時並行的に10以上のセッションが開催されるので、各セッション事務局から、人集めのためにかなりの事前PRメールが参加予定者に発出されたが、当方は特にそのようなことをしなかった。
本セッションはテーマも良かったし、プレゼンテーションとして、東アジア海域環境パートナーシップ(PEMSEA)、国連環境計画/地中海行動計画(UNEP/MAP)、南太平洋常設委員会(CPPS)、北西太平洋地域海行動計画(NOWPAP)、日本、フランス、インドネシア、ベトナムなど、興味を持たれている組織や国の参加で反響を呼んだ。
会議全体は、現在、海洋の環境保護と沿岸・島嶼住民の生活改善が大きなテーマとなっている。私から言わせれば、大きなスローガンとなっている「持続可能な開発」が、実はその具体的な追求が大変難しくなっているわけだから、これをテーマの中心にして英知を結集すべきではないかと思った。しかし、現在のひとつの流れであろうか、開発の議論をしないで環境と貧困がテーマの中心となってしまっている。
会議後、ビリアナ女史にそのことを告げたら、本年秋に公海における開発の問題を取り上げるという返事であった。しかし、このテーマは特別な課題であるため、開発一般の議論にはなりそうもない。環境の問題を解決した上で開発の問題が議論されなければ、このカンファレンスも単なる海洋環境派の運動のための会議になっていってしまいそうである。
カンファレンス創設当初からこれを支援してきた日本財団から伊藤さんが参加していたので、彼とも意見交換をした。
会議の最後に、ハノイに近いハロング湾のボートツアーに参加した。中国の桂林が湖の島嶼風景とすれば、ここは海の桂林と呼ばれる一大景勝であり、大小様々な奇怪な形の島が遠くに折り重なって見える。島嶼は何と2,000-3,000あるそうで、途中で見学した鍾乳洞を含め、規模の大きさに驚嘆してしまった。天気も何とか回復して、参加者全員が会議の疲れを癒していた。
ベトナム戦争から30年以上が経ち、今この国は経済活動がかなり活発で、アセアン諸国、中国、インドを急追している。小回りが利くので、国全体としてはインドより早く経済発展する可能性もある。
日本からの経済進出も、中国に続いて、インドではなくこのベトナムへとなっている。ハノイ市内は視察する暇がなかったが、移動中のバスの中から、その雰囲気は嗅ぎ取れたような気がした。(完)
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秋山昌廣
at 11:55
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熊野古道を旅する[2008年04月22日(火)]
大学の同窓メンバーが夫婦で一緒に熊野古道を旅行しようということになり、年度末と年度始めに休暇を取って2泊3日の旅行に出た。
訪問先は、伊勢神宮、熊野大社、熊野古道、那智滝、弘法大師の橋杭など、宿泊は伊勢志摩のロイヤルホテル、勝浦のホテル浦島、3食つき、行きは新幹線グリーン車、途中は全て観光バス、帰りは南紀白浜から飛行機、これで一人55,000円だから、かなりお得な旅行であった。
私は何十年ぶりで団体旅行を経験した。自由ではないが全て旅行社が世話をしてくれるので、実に楽だ。
伊勢神宮参拝の日は小雨が続き、天気があまりよくなかったが、古い町並みのおかげ横丁やおはらい町などを散策する。結構美味しそうなものがいろいろ出されている。営業を再開した赤福の本店の前は、赤福を買い求める客の長蛇の列が印象的だった。あの騒ぎは何だったのか。マスコミの一方的な作用に対する大衆の反感を示しているようでもあった。
翌2日からはすっかり天気が良くなり、熊野方面は快適な旅行となった。
まず熊野速玉大社(熊野神社の総本宮)に行った後、世界遺産熊野本宮大社を訪ねる。茅葺の大社を見て、久しぶりに涙が出るほど感激する。これは写真で見てもなかなか本物を見る感激にはならない。行って見るほかは手がない。
3日目に、いよいよ熊野古道を歩く。大門坂の緩やかな石段を登り、熊野那智大社に向かう。
千年以上前に、白河上皇をはじめ当時の天皇が何度も足を運んだ山中の道がそのまま残っているのである。檜の大木と潅木の緑が、実に優しく調和している。途中で那智滝を訪ね、その後、熊野那智大社、そして隣接する青岸渡寺を参拝する。一つの木に数種類の色の花を満開にしている椿の大木が、明るい太陽に映えて美しい。
次いで、紀伊半島南端の潮岬に向かい、沿岸捕鯨の基地太地を通り、まず橋杭岩を訪ねる。明治初期に訪日使節団を運んだ軍艦エルトゥールル号がこの辺りで遭難し、沿岸市民が親身な救護活動をしたという話を、若いバスガイドが説明する。
本州最南端の潮岬は年間を通じて暖かく、植生も亜熱帯の風情である。眼前に広がる太平洋は強い風に白波を立てている。
最後の訪問地、南紀白浜では、海に面した絶壁の三段壁を眺めたほか、昔、熊野水軍(海賊と言ってもいいと思う。)が基地にしていたと言われる海水面の洞窟、さらには千畳敷などを見る。
帰りは、南紀白浜空港から飛行機で東京に帰る。楽しい旅行であった。(完)
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秋山昌廣
at 16:52
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