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女たちのオリンピック インド最前線 The Actual India 第137回 [2008年09月08日(月)]

<Recovery Issue・特集>
強かった日本女子
 北京オリンピックが閉幕して三週間になる。
 日本勢では、圧倒的に女子の活躍が目立った。柔道、レスリング、ソフトボール、サッカーなどなど、その勇姿は世界のニュース、スポーツ番組を駆け巡った。
 また、天才北島の陰になってはいたが、女性スイマーの活躍は粘り強く、前アテネ・オリンピックにひきつづいた好成績を残している。
 なによりも柔道や体操に活躍した若い選手たちが、日本の女性スポーツの将来を約束させてくれたことが嬉しい。
 やはり「日の本は、女ならでは明けぬ国」なのであろうか。
 アマテラスが篭りに入った岩戸を開かせたのはアメノウズメの舞踏だったというのが再生開闢の神話だが、スポーツも武芸も、わたしたちの伝統的な思考では「芸」であり芸道であるから、始祖アメノウズメを戴く女性が道を究める実力を保持していて当然なのかもしれない。
 活躍した女性たちは、こもごも語っている。
 「女子サッカー普及のために闘った」「次回からはおこなわれないことになっているソフトボールの復活を願って闘った」。
 そして「支援してくれた多くの人びと、家族に喜びを捧げたかった」と重量級のレスラーは、師でもある父の首に二大会連続でとった銅メダルをかけた。金と銅を獲得した姉妹レスラーや柔道で妹を練習相手にしてきた選手は「いっしょに闘ってきた」ことを強調していた。この柔道家も二大会連続のゴールドメダリストだ。
 女性アスリートの喜びコメントは、どこか男性とは違っているようにおもえる。
 男性は、ストレートに勝った喜びを語るが、女性たちは勝利の成り立ちを伝えたがる。勝つこと以上に、どう闘ったか、どう鍛えてきたか、が語られる。

勝敗と様式
 技を究めることへのこだわりは女性たちだけのものではなく、本来、日本人すべてのものだったはずだ。それが技術国日本を形成し、その職能を誇りにしてきた。
それは職人の技量ばかりではなく、古代「わざおぎ」と呼ばれていた俳優、技芸者のものでもあった。もちろん武芸者もそこにいた。
 たとえば相撲は、多分に儀礼的であるというが、実はその稽古、鍛錬の目的は型、様式に身体を嵌め込んでいくことにある。蹲踞、四股、摺り足、股割り、鉄砲といった稽古メニューは、上下動せずに低い腰のまま直進する身体性を養うことにある。
 低い腰の水平移動と鋭い出足で激突し、突きあい取っ組みあうことによって、土俵上を呪的な霊力を醸す結界にしてゆく。邪を払い、地に潜む力を引きだすのだ。
 取り組みは、鍛え上げた様式性に則った型をつぎつぎと繰りだしていくことで成り立つ。歌舞伎や日本舞踊の演技身体に酷似している。解説者は勝った力士を「いい『かたち』になりましたね」と讃える。
 北京オリンピックで活躍した女性たちはこんな哲学的な境地に立って闘ったのだろうか。
 そういえば二大会連続金メダルに耀いた女性柔道選手は「組んで、一本勝ちで金」を自らに課していたという。そういえば、有力な男子選手の敗北に対して評論家は「日本式の柔道からレスリングのようなポイントを取る世界柔道への転換期が来た」と解説していた。
 転換期の柔道、そしてソフトボールは今回限りでオリンピックから姿を消し、女子サッカーはけして社会的に優遇されてはいない。こうした競技に力を発揮した日本女子は、厳しい修練、その禁欲的な生活に自らを解き放つことができたのだろう。
 道を究める営みは、型や様式を技とすることで、眼前する制約にがんじがらめにされてしまうことでもある。
 いや、その道を進み、型や様式を習得する営みは、実は自らの身体と精神を解放する「真実の自由」を獲得することだ。精進する者は、その瞬間に立ち会う特権を得る。
 芸道に克つ、ということはそういうことなのである。美しい漆蒔絵の職人技は、無名の仕事でありながら、たったひとつの歴史に残る産物になるのだ。

女たちの産む力
 南インド、ドラヴィダ族の女たちにバガヴァティという女神信仰がある。本来、バガヴァティは、女性、あるいは女性器そのものを意味している。
 アラビア海沿岸に広く分布するこの民俗信仰は、いずれの地域にも女性たちが伝播してきたという神話がある。しかし、祭礼をおこなうのは男たちで、女神の像を頭上に掲げて「遊ばせ」、矛や剣を振るい、素足で火渡りをして、その勇猛を女神に捧げる。
 この女神信仰の地域は母系社会で、現在は法律で女性相続が禁じられているが、その社会習慣は根強く、結婚後も女性の実家で暮すマスオさんが多い。
 そういえば、ちょうど千年前に書かれたわれらが「源氏物語」も「夫訪い婚(つまどいこん)」の物語でもある。
 共同体にとって、最大の政治的行事「まつりごと」は男たちに任せ、親族組織とその信仰は女たちが担う。「まつりごと」自体、ほんとうは女性から発せられている。
 すぐに想起するのは、古代日本、わたしたちの女王ヒミコの存在だ。最近の研究では、ヒミコは、孝元天皇の皇女で開化天皇の姉だと例証されている。2〜3世紀のことになる。とすると、女王、という呼称は外国からの呼びかけで、実際は天皇を捧持していたことになる。
 ただし、母系制度に則って強力な権威を持っていたのであろう。その強大さに対して“女王”と呼びかけたのだ。
 神話から歴史の時代に、こうした幾人かの女性を見出すことができる。崇神天皇には宗女トヨ、そして応神天皇には神功皇后がそうした存在だ。
 これらの女性たちは、卜占し託宣を発し、そして天皇に神威を与えた。霊威を得て神と人の世を結ぶ役割をしていたとおもわれている。
 ここでいう神とは、仏教伝来以前、神道の成立にも至らなかった時代、自然と共生する人間が、そこに多くの神の存在を感得したアニミズムだった。といっても蒙昧な妄信ではなく自然の和魂(にぎたま)とその摂理を神意として見出すことにあった。
 まさに女神バガヴァティそのものであり、日本の古代社会にも、女神を地域共同体に伝播してきた信女たちが、いきいきと闊歩していたことが想像できる。
 女性たちに与えられた産む力は、特権であると同時に受苦(パッション)でもある。女性にとって民族や種族共同体の繁栄は、常に彼女たちの身体の力、バガヴァティ(女性器)にある。彼女たちが、その受苦を誇りとして生きるとき、内からほとばしる美しさに装われるのだ。
 北京オリンピックで耀いた女性アスリートたちは、受苦を修練に閉じ込め、それをあの競技場で解き放ったのだ。彼女たちは、古代から連綿と受け継がれてきた身体と精神の記憶をあの瞬間、呼び覚ましたのだ。
 女性は男の属性などではけしてなく、むしろ男が人間として属性なのだ。男たちは社会の先端に立っていると、誤解しているに過ぎないのではないだろうか。
 相撲界が破廉恥に揺れている。スポーツばかりではない。政治も経済も、そして外交も、世界と日本、あるいは世界化する日本を考え直すべきときがきている。日本とはなんなのか、その独自性をもう一度、捉えなおすことが問われているのである。
 それは「アジアに見出す日本」であり「アジアを発信する日本」でもあるだろう。
 北京オリンピックで活躍した日本女子は、多くのことをわたしたちに教えてくれた。
 ありがとう。
Posted by 森尻 純夫 at 00:02 | この記事のURL