チベット騒乱の意味とインド インド最前線 The Actual India 第134回 [2008年04月11日(金)]
|
《 ウィークリースポット Weekly Spot 》その2 9
亡命49周年のデモンストレーション 3月10日、インド最北部ヒマチャール・プラデッシュ州のダラムサラで、チベット人たちのデモがあり、およそ100人が拘束された。 この日は、1959年にダライラマ14世が、チベットからインドへ亡命してきた49年目の記念日だった。ダラムサラには亡命チベットの臨時政府があって、ダライラマも通常、ここに居住している。 千人規模だったと伝えられたデモは、ヒマラヤの麓を巡って中国領チベット自治区へむかうというスローガンが掲げられていたと報道されている。国境を越えようというデモをインド政府は阻止しないわけには行かない。 翌11日には、中国チベット自治区のラサでもデモがおこなわれたことが、インド在住のNGO「チベット人権民主化センター」が報告した。 同日、欧米各国の中国大使館への抗議行動、街頭デモなどがおこなわれた。また、チベット自治区に隣接するネパールの首都カトマンドゥでもデモがおこなわれ、100人前後が拘束されたと報じられた。 この時点で、中国政府からの情報はなかった。チベット自治区ラサがどうなっているのか。治安と警備はどうなっているのか、などの政府発表はなかった。 14日、インド在の「チベット人権センター」は、ラサでチベット人の街頭行動による死者80〜90人がでたと伝えた。真偽を確認できないまま、ニュースは世界に配信された。 この日のラサの街頭行動は、2日後の16日、映像とともに中国国内でも報道され、ようやく「チベット暴動」の一端が伝えられた。 世界は、遂にチベット自治区の聖地ラサが破裂したことを知った。最大の騒乱は、やはり中国国内だった。 中国からの報道は、チベット種族民と僧服のラマ仏教徒が商店を襲い、略奪をおこなう映像が強調されている。警備側の対応は映像にはでてこない。 同12日、騒乱は、中国チベット自治区だけではなく、甘粛、青海、四川、雲南省に飛び火したとインド在のNGOは報じた。また、新疆ウィグル自治区でも同様の事態が起きているとNGOは伝えた。 これらの省には多くのチベット人が居住しており、共産党による共和国が成立した以前は、チベット領だった地域に重なっている。もともとはチベットだったのだ。 また、新疆ウィグルでは、過去三年、たびたび小規模なテロが発生している。この地域には多くのイスラム教徒が居住している。 聖火は二度、消された 3月24日、ギリシャのオリンピアでの採火式では、フランスのNGO「国境なき記者団」の一員が、式典に乱入、抗議行動をおこなった。アテネまでの聖火リレーでも、チベット人や支援者たちの抗議活動は、止まなかった。 29日、スロベニアでのEU外相会議は、チベットとの対話を中国に要請すると声明した。 すでにポーランドの外相は開会式の不参加を表明しており、次いでチェコも同調している。 フランスの大統領、外相も事態に懸念を投げかけ、開会式のボイコットも考慮のうちだ、と語った。サルコジ大統領は「国境なき記者団」の主宰者とは知己の仲だと伝えられている。 31日、聖火は北京に到着、1日から、各国を巡って6月にはチベット自治区を通過し、8月のオリンピック開催時には北京へ戻ることになっている。 4月に入ると、インドでは聖火リレーを予定されている映画俳優が積極参加を表明する一方で、サッカーの有名選手は辞退を声明した。インドの世論も二分されつつある。 4月5日、聖火はロンドンに入り夜から6日朝にかけてのリレーがおこなわれた。2012年の開催地であるロンドンは、なんとしても成功させなければならなかった。しかし、抗議、妨害行動ははげしく、たびたび中断された。結局、30人の逮捕者をだしている。 中国は、EU諸国への聖火警備に警察官を送っていた。 7日、パリでのリレーがおこなわれた。そして、遂に聖火は、二度、消された。最終6キロは聖火をバス乗せて移動する混乱振りだった。 9日夜、聖火は大西洋を越えてアメリカに上陸した。その二日前の7日、支援組織の活動家が、サンフランシスコのシンボル金門橋によじ登り「チベットに自由を」と書かれた横断幕を掲げた。ただちに数名が拘束されている。 4月10日、サンフランシスコでの聖火リレーは、有名なチャイナタウンなどは避けられ、大幅にコースを変更、短縮した。最終到着地も当日の直前まで公表されなかった。 聖火はチベット人、そして彼らを支援する人びとによる抗議行動と歓迎する中国系の人びとが交錯し、ものものしい厳戒に取り囲まれて約10キロの道筋を走った。 EUやアジアのいくつかの国からは聖火リレーの中止という声も上がっているなかで、アメリカがどう対応するかが注目されていた。 9日のサンフランシスコでの抗議集会には、チベット仏教徒だといわれている俳優リチャード・ギアも登壇してスピーチをおこなっている。アメリカには、多くのチベット・シンパがいるのである。 ダライラマは、移住したチベット人共同体と支援者に会うための定期的なアメリカ訪問をしてきた。ダラムサラのインド在臨時政府の重要な資金源になっている。 こうしたアメリカ国民との強い関係が、大統領選挙を控えた現在、どのような対応としてあらわれるか、注目されていた。アメリカの対応は、当事国の中国ばかりではなく、EUや東南アジア諸国への影響が多大なのである。 スローガンは北京五輪ボイコット? 3月10日にインドで伝えられた街頭行動の時点では、亡命49周年と中国政府によるチベット人抑圧への抗議という意味合いが強かった。 過去2年、チベットを南北に縦断する製造鉄道やインドへの貿易ルートになる高速道路が建設され、チベット地域の経済開発が推進されてきた。チベット自治区とその周辺は南部経済発展推進政策の中心地になったのだ。 この政府政策に乗じて、北部からどっとビジネスが流入してきた。自給自足的な経済活動にあったチベット族の経済基盤は、あっという間に崩壊してしまった。ラサ市中の商店街からチベット族は追い立てられた。資本のルール、そのものである。 ルールはしかし、純粋な経済力だけではなくすべての行政組織が共産党の指導下におかれていることにある。それが、会社の設立、土地や店舗や工場用地の取得などの経済活動を左右するのである。チベット族のような少数派は、共産党の組織員として重用されることはないのである。 3月初旬から流れだしたチベット族の不穏な情報は、こうした自治区での経済格差と不平等への異議申し立てという傾向のものだった。 3月24日、新疆ウィグル自治区で大規模な街頭デモがあり、500人が拘束されたと台湾やシンガポールのメディアが伝えた。拘束されたのは多くが女性で、ウィグル族女性への過酷な 労働条件やテロなどの嫌疑で逮捕された人びとへの残忍な行為に抗議したものだ。オリンピックもチベット問題も、ここでは関連していない。 中国は、実は、多民族、多言語国家であり50〜60の種族がいる。 少数派種族の人びとは、共産党政権の下で、それぞれの言語、宗教、文化を、ほそぼそと保ってきた。共産党と中央政権はこうした文化の維持には冷淡で抑圧的だった。 今回の騒乱が、たちまちのうちに雲南、四川など南中国全域に広がった背景には、この少数種族の溜まりに溜まった鬱積がある。 ダライラマは、チベット族のこうした鬱積を詳らかにする“最後の機会”として世界が注目するイベントである北京オリンピックは好機だ、と訴えた。彼の主張は、あくまでもチベット族の窮状を訴える場としてのオリンピックだった。反オリンピック、北京オリンピックのボイコットというスローガンは前面にでてはいなかった。 3月24日、オリンピアでの採火式にフランスの「国境なき記者団」が乱入してから、チベット騒乱は「反北京オリンピック」のスローガンに収斂していった。それは同時に、一民族の問題から世界規模のトピックになったことを意味した。 ほぼ同時期に、アメリカ下院議長ナンシー・ペロシが、電撃的にインドのダラムサラを訪問し、ダライラマと会見したことも世界化への説得力を発揮した。 加えて、中国政府が、騒乱の報道を否定、あるいは警備行動を隠したことも反発、顰蹙の的になってしまった。 ITが仕掛けた「チベット騒乱」 3月のはじめ頃からネット上にはチベット騒乱を予測させるような呼びかけや情報が活発にではじめた。 多くは、インド・ダラムサラ臨時政府周辺とチベット人権センターなどのNGOが発信元だった。 インターネット上では、さまざまな呼びかけ、報告が飛び交い、まさしく玉石混交だった。しかし、3月7日頃から、情報として与えられる出来事は深刻になってきた。 チベット自治区のラサでは、街頭行動が連日、企てられているらしいし、周辺地域に波及しつつあることが伝えられていた。また、8、9日には、ネパールのカトマンドゥでもかなりの規模の街頭行動がおこなわれ、拘束者がでていると報じられた。 こうした報告は、呼びかけの役割も同時に担っていて、インドをはじめEU各国の中国大使館への抗議行動などに発展していった。 現在インドには、チベット臨時政府のあるダラムサラと、南インド、カルナータカ州に二か所のセツルメント(定住施設)がある。そのどこでも、臙脂の僧衣をまとった若者たちがサイバーショップにあふれている。彼らにとって、始祖の地ラサは瞬時に繋がる隣家にひとしいのだ。 今回の一連の報道と仕掛けの逐一は、インドの三か所のセツルメントが発信源とみて間違いはない。そして、きわめて意図的に発信された情報は、必ずしも正確ではなかった。にもかかわらず、それらの情報が世界を席巻してしまった。そして収拾不能な事態を招いてしまったのだ。 チベット騒乱は、ITネットの戦略化によって世界同時多発的に起こり規模を拡大していった。ヴァーチャル(仮想)が現実化してしまったネット劇場型騒乱なのである。 中国政府は、3月上旬の当初、こうした現代的な根っこの浸透力を見誤ったといえるのではないだろうか。IT戦略を国家政策のひとつに掲げる中国にとって皮肉な結果ともいえる。 そういえば、三年前の反日騒乱でもネットの危険性は指摘されていたはずだった。 ダライラマは、4月10日、インドから日本を経てアメリカにむかった。彼にとっては年中行事の行脚だが、以後、予定されているEU諸国での首脳との会談で、ヴァーチャルから実態への道程が浮かびあがってくるのか、注目である。 いずれにしても、中国がその底に少数民問題を抱えていて、この深刻さを認識し、具体的な政策を提起できるか、その一点を世界は注目しなければならない。 |



