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IT大手の経済スキャンダル インド最前線 The Actual India 第145回 [2009年01月11日(日)]

        
       《 ウィークリースポット Weekly Spot 》その35
      

数年にわたる粉飾決算
 インドITの大手、サティアンが7日、不正経理を告白した。過去数年、粉飾決算をしていたというのである。約700億ルピー(1,260億円)の粉飾だと、各紙は書きたてた。
 サティアン・コンピューター・サービス会長B.ラマリンガ・ラジュは、同社重役会にあてた声明書を発し、その職を退いた。
 サティアンは、インドITの第四位に位置し、サーバーとしての普及率も高い。
 筆者も過去にこのサーバー、@ satyan.comを利用していた。何度目かの契約更改期にどうも不具合が多く、その対応力もけして優れているとはいえず、離れてしまった。利用したのは、2000年代はじめ頃の4、5年間だった。筆者が契約を解除した頃から不正経理がはじまっていたことになる。
 同社は、近年、バンガロールに次ぐIT都市として目覚しい発展を遂げてきたアンドラ・プラデッシュ州都ハイデラバードを拠点に事業展開してきた。
 アンドラ・プラデッシュ州は、南インド4州のひとつで、西にバンガロールを州都とするカルナータカ州と隣接し東はベンガル湾に面している。農業地帯である。
 州都ハイデラバードは、近世、イスラム王権が支配していた地域で、現在もイスラム教徒ムスリムの集中する地域である。市内にある国際空港からは中東アラビア諸国への直行便が運行されている。独立解放後、州政府の初等教育で、インド・イスラムの言語ウルドゥ語を必修第一言語にしたことがあり、ヒンドゥ勢力と紛争になったことがある。
 しかし、古代はジャイナ教、仏教の拠点地域でもあった。「空」の概念を打ち立て「中論」を著したナーガルジュナは、日本では龍樹として仏教聖人として敬われている。ハイデラバードから70キロほどの山間に、現在でもその寺院遺跡、舎利塔(ストゥバ)などが保存されている。
 中世には、ヒンドゥ・ブラーミズムに対する宗教闘争がこの地域から発進した。シヴァ神の象徴であるリンガ(陽石)を奉戴する「リンガ・エット」と称する人びとが、北インドから浸潤してきたブラーミズム(ヒンドゥ教至上主義)に叛乱した宗教改革運動だった。
 現在、カルナータカ、オリッサなどに伝播されたシヴァ信仰の多くは、このリンガ・エット共同体によるものである。

重役8名、逮捕、拘留
 サティアンは、こうした地域文化の特性の上に、90年代以降のIT産業発展の一翼を担ってきた。
 ラジュ会長の声明から3日後、9日深夜、実際には10日に日付の変わった夜半、ラジュ会長、その兄弟ラーマ・ラジュなど8名の重役が、逮捕、裁判所拘置された。拘留は23日までと発表された。
 ラマリンガ会長が重役会に提出した声明書は、8日のザ・ヒンドゥ紙がその写真版を入手、掲載した。
 その声明書にラマリンガは、20年前、わずか数人のスタッフではじめたサティアンが5万3千人の就労を抱える会社になり、66か国、500社あまりの得意先を獲得している、と記している。
 声明書には、決算状況が、その粉飾の経緯を含めて細部にわたって記載されている。次いで、主力金融機関メルリ・リンチ(現バンク・オブ・アメリカ)、ならびに証券取引所(SEBI)の支援と協力を仰ぐよう、次期サティアン経営陣に指示している。
 警察は当初、声明書の発表とラジュ兄弟の退陣という事態では、逮捕、拘束はできないと報道陣に語っていた。判断を州政府に委ねた言質だった。
 8日から9日になって、サティアン株の暴落、ニューヨークや諸外国でのインド金融市場への投資見直しなど、大きな反響が伝わってくると、州政府首班は決断を迫られ、ついに逮捕、拘留に至った。

ラジュ君、アメリカへゆく
 7、8年前、ムンバイ・ボリウッド製作のヒンドゥ映画「ラジュ君、アメリカへゆく(原題・『ラジュ、紳士になる』)」という喜劇があった。日本でもDVDがでている。
 物語は、インドの青年が、一念発起してアメリカへ渡り、さまざまなカルチャーショックを味わい、やがては立派な紳士になって故郷に帰る、というものだ。
 ラマリンガ・ラジュがモデルなのではないかとおもわれるほど、物語は彼の半生に適合している。
 アンドラ・プラデッシュの郷村で、中農の息子として1954年に生まれている。現在54歳である。
 学業を終えると一時、商売に手を染め、その後アメリカに渡り、オハイオ大学で修士を取得している。帰国後、綿糸、綿布の取引、そして建設業に転進していった。1987年、ようやく、サティアンの創業になる。33歳だった。
 創業から数年、インドIT産業の隆盛を迎え撃つ体制をいち早く設置していたのが、ラマリンガの幸運と先見の明だった。
 時差を利用したアメリカとのビジネスは、世界の評判をとった。アメリカの終業時にメールで発せられた注文は、インドの早朝に届き、その日のうちに仕上がった仕事は、アメリカでの翌朝、始業時に間に合うというわけだ。技術者をアメリカに輸出することなく、インドのコストで終始する、これがビジネスを拡大する一歩になった。
 インディアン・ドリームを絵に描いたようなラマリンガの半生は、なぜ、蹉跌に陥ったのだろう。今回のスキャンダルを、インドではインド版エンロンとメディアは評定している。
 しかし、日本人の筆者には、ライブドア、ホリエモンと重ねてしまうのだ。ホリエモンほど、マスコミへの出場回数は多くないし、年齢も人世代上だが、ITの旗手、インドのポスター・ボーイといわれた勇姿は、そっくりだ。
 筆者は、かねてからIT産業のGDP比が50%に達するような経済体制は異常だ、と警告してきた。07年、それが40%を超える数値を示してきた。危険水域だったのだ。
 アメリカ発のサブプライム・シンドロームが、それを引き摺り下ろすかに見えた08年以降、今回のスキャンダルは、インドにとって大きな試練になるだろう。
 実は、08年5月頃から、IT大手では人員削減や業務縮小がはじまっていた。最近、復活の情報もあるが、経済全体の復調にさきがけての準備、と見たほうがいい。
 07年から、筆者が勤務する大学、周辺大学からのIT関係就労が極端に落ちている。すでに技術者は飽和状態なのである。IT情報産業、そのアウトソーシング自体が、変容を求めているのではなかろうか。
 工業化へゆっくりだが着実に歩んでいるインドの次世代IT事業は、地道な組み込みソフトや農業、漁業、バイオテクノロジーなどに援用される技術、といった道を模索すべきなのではなかろうか。
 サティアンの自滅行為は、もうひとつ遠い未来を見据えられなかったことにあるだろう。そして、世界的不況、経済停滞が複合して影を与えたことも否めない。
 インドは、基本的にラマリンガの出自である農業国なのである。
Posted by 森尻 純夫 at 23:37 | この記事のURL
ムンバイ・テロのその後とインド、パキスタン インド最前線 The Actual India 題144回 [2009年01月09日(金)]

     《 ウィークリースポット Weekly Spot 》その38

ブット追悼集会の政治性
 12月26日、ムンバイ・テロから一か月目になった。ムンバイ港を臨むインド門の傍らには、多くの献花と蝋燭が灯され、数万人が哀悼の祈りを捧げた。
 参集した人びとは、こもごもあのテロの悲惨を語り、再発を防ぐよう政府や警備当局へ訴えの声をあげていた。ムンバイ市民の声は、事件に立ち会った現実感に満ちていた。
 翌27日、パキスタンの首都イスラマバードではブット暗殺の一周年だった。夫君で現大統領ザルダリも出席して追悼集会が開かれた。
 生前のブット女史は、その華麗な政治履歴と暗殺当時、運動中だった選挙では次期大統領の最有力候補だった。いまもってその人気は衰えることなく、数万人規模の集会になった。
 イスラム圏でありながら人民党(PPP)政権による文民体制に戻ったパキスタンでは、こうした集会に多くの女性が積極的に参加する。ましてや、パキスタン女性のシンボル的存在だったブットを偲ぶ会ということで、女性たちはメディアのインタビューにも臆することなく応じていた。語られたブットへのおもいは、女性たちにとって彼女がいかに大きな存在であったかを、改めて認識させた。
 ザルダリ大統領は、妻ブットを偉大な政治家であったと偲び、テロの撲滅を誓った。「対テロの戦いには世界各国が挑んでいる。テロの脅威の下にあるパキスタンは先んじて戦いを進めなければならない。インドとの共同戦略も視野に入れていく」と述べた。
 とかくギクシャクしている印パの関係、特にムンバイ・テロ以降のなじりあいは、これで収束すると、会場の誰もがあかるい兆しを感じただろう。しかしこのとき、一般にはまだ浸透していなかった重大な情報があった。ザルダリのスピーチは、その隠されていた情報への対応も示唆していた。

印パ両軍、国境で対峙 
 12月13日、インド空軍が、とつぜんパキスタン領空を侵犯した。午前と午後の二回にわたって異常飛行を繰り返した。
 午後に一報が届くと、インド全土で緊張が走った。すわ、開戦か。しかし、夕刻、インド軍関係者、ならびに政府は、うっかりミスであったと表明、陳弁に勤めた。
 うっかりミスという弁明をパキスタン側が素直に受け入れるはずはなく、とはいっても陳弁に勤めているのに攻撃するわけにもいかず、パキスタンは屈折した。
 ムンバイ・テロから1か月、この日まで両国は互いに激しい応酬を繰り返してきていた。
 インド側は、パキスタンの組織的な侵入攻撃によるテロであると断定、その組織の詳細な捜査と首謀者、実行犯の引渡しを求めた。パキスタン側は、米英の圧力もあってパキスタン国籍者の犯行を、一部認め、その母体となったと見られる組織を閉鎖、幹部を軟禁、取り調べた。しかし、パキスタンに所在する組織が関与したという証拠はない、と数日のうちに釈放してしまった。インドは当然、抗議し、その証拠を発見するのはパキスタンの捜査だ、と迫った。同時に、インド側が把握した証拠はしかるべく速やかに提出すると応じた。
 こうした客観的には不毛なやりとりが続いていた26日、アフガン国境地帯に配備されていたパキスタン軍が大規模な移動を開始、領土を横断して印パ国境に移動した。27日夕刻には、兵員2万とも2万5千とも伝えられた。
 この情報をブット追悼集会で演説していたザルダリ大統領は、当然、知っていただろう。その上で、パキスタンの立場からは極めてソフトな発言に聞こえる「対テロ捜査、インドとの協調」の言質がでたのだ。しかも、27日、イスラエル軍は、パレスチナ・ガザ地区への空爆を開始していた。国際的な対テロ圧力が増大することは、予測していたはずだ。
 パキスタン軍の移動は、インドにとっては不可解な行動だった。当然、インドは緊張し、直ちに反応した。インド軍も、パキスタン国境パンジャブ州に集結をはかった。
 パキスタン軍関係者は、メディアの取材にアフガン国境側に配備されている10数万の半数をインド側に移動させると語った。ザルダリ大統領と軍部の関係は、微妙なものだったとうかがえる。
 08年の歳末2日間、両国は些細なきっかけで発火してしまう可能性に包まれた。

米、中、諸国の反応
 おなじ27日、アメリカのライス国務長官はインドの外相に電話会談を申し入れ、パキスタン国境地帯での緊張を鎮めるよう要請した。サウジ・アラビア、イラン、そして中国からも同様の要請があった。これらの諸国は、パキスタンのシャー・M・クレシ外相にも要請している。
 新年になって、パキスタン軍は再移動を開始、アフガン国境に赴いた。6日には、ほぼその移動を完了している。しかし、インド軍は警戒を緩めず、8日現在、パキスタン国境地帯の配備を解いていない。
 印パ国境地帯の緊張が解除されたかにみえた6日、インド外相はパキスタン在印大使にムンバイ・テロの捜査証拠書類を手渡した。
 7日になってその内容が各紙に掲載された。特にザ・ヒンドゥは、公式書類そのもののコピーを掲載した。全文69ページのそれには、生存、逮捕された犯人が携帯電話でパキスタンの組織に指示を仰ぐ場面など、なまなましい状況を伝えている。
 8日、パキスタンの英字紙ダウンは、政府高官の談話として「残念ながら、パキスタン国籍の人間が実行犯である」ことを認めた。しかし、パキスタン外務省は公式書類を受け取った1日後の7日、証拠、ならびに文書の内容一切を拒絶すると表明している。
 また、事件、そして犯人グループとの関与が取りざたされている国家情報局(ISI)長官ゲン・パシャは外国記者に「われわれは、ムンバイ・テロ以後、インドを脅威に感じていた。報復行為を恐れていたのだ。われわれ、パキスタンこそ、テロに敵対してきた」「たしかに一時期(年末、軍のインド国境への移動期)、軍、ならびにわれわれは狂気に似た状態にあった。しかし、われわれは冷静だった。インドも賢かった。いまは平常に戻っている」「(軍、そしてISIは逸脱行動に走ったのではないか?) 国家は国家のなかにしか存在しない。特に現在は、文民による民主体制の新政府の元で統制されている。」「(インドからの証拠書類を拒絶するのは?) 実行人数、関連組織、そして具体的姓名など、なにも記述されていない。きわめて遺憾な文書だ」と述べた。
 ISI長官は普段、その顔を曝すことはなく、ましてや記者たちと会見することもない。今回、めずらしくドイツのデル・シュピーゲル誌の取材に応じたのだ。

軍、政府、そして国家
 ISI長官の談話は、現在のパキスタンの状況をうかがわせる。長官が語った「公式」なコメントの行間に現実がちりばめられている。
 ムシャラフによる実質的な軍政からザルダリ民政に移行した当時、危惧された事態が現実になっている。軍を支配できるか、それは世界の多くが危ぶんだことだった。
 現パキスタン政府は、親アメリカ路線を堅持しイギリスに信頼を寄せ、NATOに協力する姿勢を崩さない。アメリカの無人機による越境攻撃を甘んじて受けざるをえない対テロ作戦軍には、ストレスが増大している。過激な民間組織は、ますます跳ねあがる。
 ISI長官の「国家は国家のなかにしかないのだ」ということばは、自らに言い聞かせているのに等しい。それは、身内に病理を抱える精神の悲痛な叫びでもあるのだ。
 インドのマンモーハン・シン首相は7日、全国首長安全保障会議で州首脳を前にスピーチした。「インドは、パキスタンのカシミール分離派過激組織ラシュカル−エ−タイバが関わっている証拠を握っている。パキスタンの国家機関が、関与していることも掴んでいる。パキスタンは、ヒステリックに緊張を煽っている。」
 マンモーハン・シン首相の淡々とした語り口は想像できるが、その内容はどちらがヒステリー症状なのか、判断に窮する。
 パキスタンに提出された文書にしても、インド側の警備状況やインド人に関する捜査は一切、記述されていない。1) 10月中旬頃から地元の漁民たちが気付いていた不審船 2) 事件後、発見された漁船とそこに捕縄されて殺害されていたインド人漁民 3) 手際のよい攻撃と都市内の地理を知り尽くしていた謎 4) なぜ、デカン・ムジャヒディーンというインド固有の組織名を名乗ったかなど、疑問は数々ある。それらをあきらかにすることなく、パキスタン関与の部分だけをあげつらって迫るのは、少なくとも対テロを共同作戦にするという姿勢からは離れている。
 当初から、港湾、ならびに都市警備のずさんさは指摘されていた。しかも、事件後、シン首相は内務大臣を罷免している。
 さらに悲惨なことには、09年元旦、アッサム地域で連続爆破テロが起こった。インドの新年は、テロで明けたのである。
 100年を越える世界でも稀有な歴史を持つ政党コングレス会議派は、何度かの一時的な政権離脱を除いて、独立後ほぼ60年、そのほとんどを与党として君臨してきた。各省庁、地方議会、地方行政組織の大多数がコングレス会議派の支持者だ。
 この政党組織力は、同時に強力な官僚体制のエンジンでもある。その官僚体制が、いまや機能不全に陥りつつある。
 経済学者であるシン首相は、就任以来、多くの規制緩和を成し遂げ、経済拡大は世界の注目を集めてきた。しかし、サブプライム症候群と対テロ戦略が同時的に襲ってきたいま、シン首相のもっとも弱い政治戦略、内務治安政策から綻びはじめている。
 相次ぐテロは、外資の撤退、機関投資の差し控えを招くだろう。本格的な景気停滞が予測される近未来、日本企業もすでに縮小、減産に向かっている。
 シン首相が、経済でみせてきた鮮やかな手並みを、対テロ戦略に発揮できないとすると、それがインド経済の足枷になることははっきりといえる。官僚の作成した報告書を丸呑みするようなメッセージを世界は期待していない。
 09年、インドは国会議員選挙の年である。残念なことに、官僚体制に支えられたコングレス会議派を凌ぐ野党の存在がない。ならば、近隣諸国との関係を地平から見直し、お互いの負を曝けだして協調関係を構築する以外にない。
 対テロ戦略は、すでに国家の戦略を離れ、あらたなスタンダードを求めている。ここで国としてのアイデンティティにこだわると、国家は機能不全から解体への道を歩むことにさえなるだろう。アメリカにしても、それはおなじことだ。
 そして、テロリズムとは、そういう憎むべきものだったのだ。
Posted by 森尻 純夫 at 01:26 | この記事のURL
インド、ムンバイ・同時多発テロ攻撃 インド最前線 Actual India 第143回 [2008年12月01日(月)]

《 ウィークリースポット Weekly Spot 》その3 7
            《 速報 Special Spot 》

哀悼、日本人犠牲者!
 11月26日午後9時前、インド隋一の港湾経済都市ムンバイがテロに襲われた。巨大都市の南部、13か所が攻撃にさらされた。
 29日午前8時過ぎ、ようやくテロ勢力を掃討した、と警備当局は発表した。60時間を越える長い戦いだった。
 29日の終息時点で、死者は200人を越え、巻き添えの負傷者は300人以上と伝えられている。死者、負傷者ともに以後の推移によって数字を書き換えることになるだろう。
 不幸なことに日本人の犠牲者がでてしまった。死亡したのは、三井丸紅液化ガスに勤務する津田尚志氏だ。津田氏は、業務出張のインド視察でムンバイを訪問し事件に遭遇した。トライデント・オベロイ・ホテルのエントランスでチェックインを終えた直後だったという。同僚のひとりも負傷している。
 深い哀悼の意を捧げる。
 日本人がインドでテロの犠牲になったのははじめてだ。
 過去2年、インドでは都市テロが頻発している。多くの一般市民が巻き込まれ、犠牲になってきた。しかし、外国人が遭遇し犠牲になることは極めて稀だった。
 今回のテロでは、日本人を含めて20人以上の外国人犠牲者がでている。負傷者は数十名とみられる。日本人を含む外国人が狙われたテロは、インドでは過去に例のない事態だ。
 このテロが、インドではかつてない思想性によって組織されていることを語っている。国内的な宗教対立でも、貧富や権利の主張に根ざしたものでもない。

かつてない攻撃対象施設
 テロとその手法もかつてない戦術だった。まず、インドでは70年代以来の手法だった自爆テロではなかった。20年前まではヒューマン・ボンブと称された自己犠牲による主張、死を賭して訴える、という戦術を放棄している。
 使用された武器は、自身の身体に巻きつけた爆発物ではなく、ライフル、自動小銃、そして手榴弾だった。攻撃のみの装備で、無差別ソフト・ターゲット(非戦闘市民攻撃)だった。
 攻撃は、侵入と同時に自動小銃を乱射し、手榴弾を投擲したと伝えられている。
攻撃された施設は13か所と伝えられ、有名な5つ星ホテル、高級キャフェ・レストラン鉄道ターミナル駅、そしてユダヤ人会館だった。
 攻撃対象に、ムンバイ証券取引所や大企業は入っていない。インド経済の中枢都市で経済施設を無視したテロだった。
 最後まで拠点になったタージマハル・ホテルは、アラビア海ムンバイ港を眼前するこの都市の象徴的な建物だ。複合企業タタの初代が創設したこの建築は、早期近世のイスラム・ヒンドゥ混合様式で、ムガル時代のタージマハル廟に想を得ている。
 外国人、特に日本の旅行代理店は競ってここに観光客を送り込んでいる。また、同地域にあるオベロイ・ホテルは、現在はトライデント改名したが、旧名を冠して親しまれている。改名後はやや価格帯を下げて、経済発展するムンバイへ出張してくるビジネスマンの便宜に応えている。ここで、日本人が犠牲になってしまった。
 特に注目されるのは、これらのホテルがあるマリン・ドライブ道路の南にあるイスラエル公共施設ナルマン・ハウス(ユダヤ会館)が攻撃を受けていることだ。
 ナルマン・ハウスは、ユダヤ人旅行者や出稼ぎ人のための宿舎であり宗教施設もある。ここでは最後まで立て籠もったテロリスト掃滅のために特殊部隊がヘリコプターから降下、侵入して作戦を展開した。
 ふたつの高級ホテル、外国人旅行者が集まるカフェ・レストラン、そしてユダヤ会館といった攻撃対象は、あきらかに外国人をソフト・ターゲットにしていた。

攻撃作戦の高度な組織力
 攻撃作戦は、組織的で的確だった。
 鉄道駅や外人客の多いレストランでは電撃的な攻撃を敢行し、瞬時に逃亡した。
 ふたつのホテルでは、宿泊客を人質に立て籠もり、タージマハル・ホテルでは、拠点の部屋を確保し作戦本部化し、長期戦に持ち込んだ。両ホテルでは、英米パスポートの所有者をチェックしていたと伝えられている。
 彼らは事前の下調べで、400室を持つ広大なホテルを知りつくしていた。
 実行前にインターネット上に犯行声明がでていた。その際、自らの組織をデカン・ムジャヒディーンと名乗った。デカンは、インド亜大陸の中央部を南北に走る高原地帯のことで、ムジャヒディーンはイスラム・聖戦士の意味だ。
 この組織名がメディアに登場するのははじめてだ。9月、首都デリーで発生した連続爆破テロはインディアン・ムジャヒディーンの組織名で犯行声明がでた。しかし、その組織実態は現在でもはっきりしていない。
 インディアン・ムジャヒディーンは、その後の捜査の推移からイスラム学生同盟(SIMI)の内部にできた過激グループとみるのが妥当と筆者はかんがえている。
 今回のムンバイテロ実行犯が、おなじムジャヒディーンを標榜していることから両者に共通した組織実態があるのかどうか、現在のところ明確ではない。すでに述べてきたように今回のテロ攻撃は、外人をソフト・ターゲットにすることに躊躇せず、それ以上にユダヤ会館攻撃にこだわったことは、かつてなかった。
 28日、ムンバイ湾ではテロ軍団を運んできたとみられるパキスタン船籍、二隻が拿捕されている。グジャラート州沿岸に立ち寄り経由して航行してきたことも判明している。
 高度に組織化された軍団が、海外から侵入してきたという一部の報道は充分な説得力を持っている。それは、反ユダヤ、反米英人戦術にも納得を与える。
 印パ国境地帯に潜むアルカイダ、さらにはパキスタン領カシミールを拠点にするラシュカル−エ−タイバの合流軍団という説も無視できない。
 ラシュカル−エ−タイバは、カシミール分離独立派、むしろパキスタンへの併合派といわれている。パキスタン軍情報機関(ISI)との関係も疑われている。
 しかし、いずれにしてもインド国内の組織が関与しているのはあきらかだ。ムンバイの繁華街と外国人旅行者の立ち寄り先を知悉し、タージマハル・ホテルなど、相当の期間をかけた下調べをおこなっているとみられるからだ。実行グループは、数日前から同ホテルの部屋を確保していたとも警備当局者は語っている。

インド・テロリズムの新時代
 30日、終息宣言をしたムンバイの警備当局は、犯人グループはパキスタン国籍の10数人だったと表明した。また、武器弾薬は拠点になったタージマハル・ホテルの部屋などから相当量が押収されたとも発表している。
 実行犯が10数人だったというのは、にわかには信じられない。後方任務を担った強力なグループの存在を疑わないわけにはいかない。
 インドは常に、テロは海外からやってくる、という図式を描きたがる。たしかに今回は、かつてない戦術で、過去のインド国内テロとは違っていて、海外勢力が主力になっているだろうことは充分にうかがえる。
 しかし、デカン・ムジャヒディーンというローカル色の強い名乗り、ムンバイ市街、ホテル内などの事前調査能力など国内グループの関与なしには実行不能な要素が多い。
 海外、特にアフガン・パキスタン国境地帯のテロリスト勢力が印パ国境に潜む部分と再提携を果たし、イスラム学生同盟SIMIなどのインド国内勢力とリンクしたことにあるのではないか。インド・テロリズムの新時代が開かれてしまったのではないか。
ここに注目していかなければならない。
 インド亜大陸の国々は、はじめての有色人種アメリカ大統領の誕生を、歴史的快挙と歓迎した。しかし、オバマの西南アジア政策が、反テロを強調し、イラクからアフガンへのシフト政策を強力化することに及んで、深い失望感と対決意識が高まっていた。9月以来のブッシュ戦略は変らない。この危機感が亜大陸のテロリズム地図を描き換えることは、充分、予測できる。今回のムンバイ・テロはそれを如実に示唆した。
 インドは、サブプライム以後の経済危機のもとで、それでもGDP比7〜8%の成長が予測されている。
 日本は、インドとの経済提携を緩めることはできない。ますますの緊密化を推進しなければならない。テロが障害になることは断じて避けなければならない。
 二度と日本人犠牲者をださないために、インドに関わる筆者はより確かで有意義な情報を供していかなければならない、と改めて決意した。
Posted by 森尻 純夫 at 08:36 | この記事のURL
インド、アッサム同時多発テロ インド最前線 The Actual India 第142回 [2008年11月05日(水)]

     《 ウィークリースポット Weekly Spot 》その3 6

州都と広範な周辺に展開した同時爆破
 10月30日、インド東北部アッサム州で同時多発テロが発生した。
 現地時間午前11時頃から約1時間半の間に18か所で爆破が起こった。州都グワハティと周辺3つの町で、31日午前には、死者62名、負傷者300人、他に重傷者30人余りと伝えられた。その後、11月1日になって死者は75人以上になった。病院に運ばれていた重傷者が亡くなったのだと報道された。死者は、まだ増えるだろう。
 州都グワハティ市内では、買い物客がようやくにぎわいはじめた朝の市場や地方裁判所近くの路上などだった。合計6個の爆弾が破裂し31人が死亡、125人の怪我人を数えている。
 その他は、周辺の小都市、町などの地方事務所、会議所など、かなり広範な地域にばらついている。
 すぐに思い浮かぶのは、9月、首都デリーで発生した市街テロだ。市内各所での同時多発の手法がよく似ている。メディアも警備当局も、そこに注目している。
 しかし、だからといって、ただちにおなじ集団による犯行とは断定できない地域特有の問題がある。
 アッサム、隣州の西ベンガル、マニプリなど東北部では、最近、頻繁にテロが起きていた。
6月末、ブータン国境に近い町の食肉市場で爆発があり、5名の死者と80名以上のけが人がでている。狙われたのは豚肉店で、そこにいた顧客が被害にあっている。一般のインド人の反応は、豚を嫌うイスラム教徒の犯行、ということになってしまう。
 この頃から毎月、小規模なテロが続いてきた。
 10月の初旬には、マニプリ州インパールで爆破テロがあった。インパールは第二次世界大戦末期、日本陸軍が攻め入ったインド唯一の地だ。過去、ここでテロが発生したことはなかった。
 おなじ10月初旬の7日、死者13人を記録する暴動があった。今回の同時爆破テロが発生した州都グワハティの郊外ウダルギリとダラングの両町で、少数派ボド族とイスラム移住者が激突した。
 ウダリギリでは、最近たびたび衝突があり合計30人が死亡している。ふたつの町では25万の集落を失った両派の人びとが53か所の難民キャンプに逃れている。
 今回のテロの背景には、移住民と少数派の問題があった。

辺境の国境地帯、アッサム
 アッサムは、日本人にも馴染み深い紅茶の産地でヒマラヤの山並みを控えた山間の地だ。風光明媚な観光地でもある。
 紅茶栽培には、多種の少数民族や出稼ぎ人が従事している。彼らは、落差数百メートルの傾斜地の紅茶畑で、厳しい栽培労働の生活に勤しんでいる。
 少数民族は、もとは山間採集農業に勤しんでいた。彼らは、200年ほど前からイギリス人経営の紅茶園に吸収され、生活が変った。山を捨て、栽培労働者になったのだ。
 独立解放後、隣州西ベンガルのダージリン地区とともに紅茶園はインド政府管理の経営になった。やがて後に、民間へ委譲された。しかし、経営権を得たのは、中央から参入してきた政治的コネクションを持った人たちだった。少数派種族は、幸運にも紅茶園の経営者になった成功者もいるが、多くはまったく変らず日雇い労働者のままだった。
 さらに、紅茶園を目指して異境の地から多くの移住民がやってきた。もともと茶の苗木をインドに持ち込んだチベット人、そして近年、少なくなったが中国人、韓国人などがインド人出稼ぎとともに紅茶栽培労働者になっていた。
 しかし、西ベンガル、アッサムの両州が国境を接する旧西パキスタン、現バングラデッシュからの移民労働者が、なんといっても圧倒的に多い。多くのバングラ人は無法な越境者だ。1970年代のバングラ独立以来、難民化した集団が波状に流入してきている。
 07年初頭以降、バングラデッシュは政変と内政の不安定に加えて、サブプライム症候群で通貨の下落が激しく、インドへの脱境流入者がふたたび急増している。
 今回のテロ発生直後、警備当局はベンガル、アッサム分離独立派の犯行の可能性を示唆
した。
 アッサム独立派は、70年代のバングラデッシュ独立前後から活動していた。西ベンガル州のダージリン地域の谷間を拠点に活動をはじめた反政府ゲリラ集団ナクサライトと提携したこともある。
 80年代末になって、第二次印パ戦後、イスラム色を強めた集団は、西ベンガル・アッサム独立をスローガンに再組織化された。
 彼らはバングラと交流し、ブータン国境を侵して、ベースキャンプを設営していた。04年、インド政府はブータン政府の要請を受けて、彼らのキャンプをブータン領内で掃討した。
 その後、西ベンガル州などで散発的にテロ行為をおこなってはいるが、今回のテロと重なる要素は、きわめて薄い。今回の事件は、少数派ボドが鍵になっているからだ。

クリスチャンか? 分離独立派か?
 10月6日、ザ・タイムス・オブ・インディアは、ボド族とイスラム系移住者との衝突を「民俗浄化」への動きだった、という州政府当局者の分析を報じている。「ボド民主化戦線(NDFB)」が関与しているというのだ。最近の紛争、ならびに今回のテロは「ヒンドゥ教徒とバングラからの移住イスラムの問題ではない。NDFBが大きな影響力を行使しているのは、イスラムやヒンドゥ、一般のボド族、そして多種少数派が、彼らの大量殺戮を恐れているためだ」と述べている。
 中央政府は00年「ボド地域協議会(BTC)」を組織して、住民とボド過激派との緩衝に立てた。03年、BTCは当時のボド過激集団「ボドの虎」を吸収し和平に導いた。しかし小規模な紛争は収まることなく、03年頃、民主化戦線NDFBが形成されてきた。彼らの主張は、ボド住民地域のインドからの独立である。
 NDFBは、カシミール分離派とほぼおなじ政治的スローガンを掲げている。しかし、カシミールと違うのはイスラム系組織ではないことだ。そして、今回のテロ実行犯が、イスラム学生組織SIMIや、その内部フラクション(分派)インディアン・ムジャヒディーン(インド聖戦士)だったのではないか。彼らによる反ボド・テロだったのではないかということだ。
 また、NDFBのメンバーの多くはクリスチャンで、リーダーのランジャン・ダイマリーも改宗したキリスト教徒でバングラの出身、といわれている。
 イギリス統治時代から紅茶園に職を求めていた人びとの多くが、クリスチャンに改宗した。この地域には、以来、キリスト教が根付いている。しかし、インドからの分離独立を主張するNDFBがクリスチャンであるという報道を、にわかに信じることはできない。
 NDFBは、はたしてほんとうに少数種族ボドを代表し、その意思を与しているのだろうか。
 「われわれはNDFBが紛争に関わっているのか、捜査報告を待っている。もし証明されたら、警備軍による停戦を指示する」と州政府首班タルン・ゴゴイは語っている。
 31日、マンモーハン・シン首相と与党会議派コングレス総裁ソニア・ガンディがテロ現地を慰問した。病院を訪れ、被災者を見舞った。おなじ日、野党人民党BJP総裁アドヴァニも現地に赴いている。政府、政界の首脳が相次いで訪問したことは、この事件が重大なものであることを語っている。
 インドは、1970年代以前の東西パキスタン時代の負の遺産を、インド内政の課題として、いまだに解決できないままかかえているといえるのだろう。
Posted by 森尻 純夫 at 14:39 | この記事のURL
パキスタン首都イスラマバードで大規模テロ インド最前線 The Actual India 第141回 [2008年09月21日(日)]

    《 ウィークリースポット Weekly Spot 》その3 5
        ≪速報 Special Spot≫

土曜日の宵、国際ホテルを攻撃
 20日、ようやく夕闇が覆ったパキスタンの首都イスラマバードのホテル・マリオット前庭、車寄せ付近で爆発が起こった。
 通常の自爆テロの規模をはるかに超えた爆発音は、市内中に轟いたと現地メディアは伝えた。時刻は正確には伝えられていないが、午後7時過ぎとおもわれる。
 爆発の場所は、ホテルの門を入って車寄せの外周、ロビーへのアプローチから35メートルほどのところだ。現地からの映像には、建設現場のように、地表から数メートルもえぐられた爆心地が映しだされた。周囲には衣服を剥がされた死体が散乱し、負傷者が微動しながら救援を待っている。
 悲惨、残酷、この上ない光景だ。
 ホテルの地上階、ロビー付近、そして3階部分からは炎が噴出し、夜空に舞い上がっている。
 館内から警官隊に補助され脱出する人びとが映しだされる。外国人も多い。
 土曜日の夕刻、宿泊客ばかりではなくパーティや集会、食事に訪れた人たちも多いはずだ。筆者も以前、ときには贅沢な食事を、とレストランに赴いたことがある。
 目を凝らして、映像を追う。日本人の知り合いが事件に巻き込まれていないか、心配なのだ。
 8時過ぎの現場からのレポートでは死者18名を確認したと報じられた。が、続報のたびに増え、夜中には60名以上と伝えられた。負傷者は200名を越えるだろうということだ。
 鎮火後、爆発による巨大な被害が、時間とともにあきらかになってきた。ホテル本館は全焼、地上階のロビー、ラウンジは爆発で、破壊されつくされ瓦礫のみという状態で、館内での犠牲者はまだまだ増えると見られる。

新大統領の国会演説とテロ
 早朝には、爆発規模から推察して1トン以上の爆発物による自爆と断定された。乗り付けられたトラックが爆破した。しかし、前後を複数の車両が囲んでいたという情報もある。いずれにしても、組織的で規律の取れた行動によるテロであるのは、あきらかだ。
 パキスタン大統領アシフ・アリ・ザルダリは、テレビで国民に呼びかけた。「憎むべきテロであるが、国民は冷静に対応して欲しい。政府は、断固としてテロリズムに対して戦いを挑む。テロは、パキスタンにとって癌なのである。」といった趣旨であった。
 新大統領ザルダリは、20日、就任後はじめて国会で演説した。テロ発生の数時間前だった。
 注目されたのは、アフガン国境地帯に展開される米軍の越境活動について、どのような見解を語るかにあった。大統領は、パキスタン自国軍はテロリスト掃討作戦を、威信をかけて戦い続けている。そして、パキスタンは、すべての海外勢力テロリスト、そして外国軍が国境を侵すことを許さない、と表明した。
 基本的には、前大統領ムシャラフと変っていない。しかし事態は、まったく情勢を変えている。事実、9月入って、アメリカ地上軍は領内に侵攻しているし、その後もたびたび、無人攻撃機による国境侵犯はおこなわれている。
 この後の国会論議がどのように展開されるか、注目される点だ。
 大統領演説の数時間後、あたかも応えるようにテロが発生した。
 狙われたホテルはアメリカ資本によるものだ。だからといって、政治的行動としては卑劣、極まりない。
 しかし、政府側も“癌”を根治させるのが、掃討作戦という武力だけではないことを知らなければならない。いや、充分過ぎるほど、知っているのだろう。だが、対応策がない。ザルダリ大統領の国会演説でも、明確化されていない。
 ザルダリは、来週、アメリカを訪問することになっている。残り少なくなった任期のもとでブッシュ大統領は、イラクからアフガンへの兵力移動をおこなっている。そのブッシュのファイナルラウンドに、ザルダリ・パキスタンがなにを突きつけるのか、隣国インドをはじめ、周辺国は注目している。
 インドではデリー・テロの捜査が進んでいる。その進捗の過程で、イスラマバードのテロが発生している。インドの反応は複雑で、親米と反テロが重ならない苛立ちがある。
 いずれにしても、テロリズム、特に無辜の市民を対象にすることを畏れないソフト・テロには、怒りをこめてその悲惨を訴えなければならない。

Posted by 森尻 純夫 at 17:39 | この記事のURL
南インド、宗教紛争  インド最前線 The Actual India 第140回 [2008年09月20日(土)]


     《 ウィークリースポット Weekly Spot 34》

平和な町が一転、騒乱
 インド西南部、アラビア海に面した中都市マンガロールで宗教紛争が起こった。
 普段は、カソリック、プロテスタント、そしてイスラム、ヒンドゥ、それにジャイナ教も古くからの拠点地域で、それぞれの宗派が他との調和を保って、平和な町だ。
教育都市でもあり、学部大学が医歯学、法学、技術系など市内、郊外に8校を数え、中国、韓国、UAE、マレーシアなど、海外留学生を含めて全国から数千単位の学生が集まっている。
 小学校から大学予科までのミッション系英語学校は10校以上あって、英語の流通はデリーよりも高い。また、公立のカルナータカ語、カンナダ教育の学校とともに、課外学校であるイスラム教育のマドラサも大抵の寺院モスクに併設されている。
 イスラムは一般に教育には不熱心といわれているが、この地域にはイスラムの医学専門大学があり、病院も設置されている。黒いブルカ(イスラムの女性外出着)の上に白衣を着けたスカーフ姿の女学生が闊歩している。
 中世からの港町であり、商業都市であるこの町は、暮らしむきは豊かで、そのために経済成長するインドの都市としては好況に乗ろうという意欲が薄いともいわれている。郡都マンガロール市内人口は80万、南カルナータカ郡では200万を数えている。
実は、筆者が、まる12年、住んでいる町だ。
 この静かで平和な町が、12日金曜日の夕刻から、一転、きな臭くなってきた。そして土曜日から火曜日まで、町は機能停止の状態になった。

火の手は東部オリッサ州で上がった
 騒動は、ヒンドゥとクリスチャンの間で繰り広げられた。ヒンドゥがカソリック、プロテスタントなどの教会を攻め、破壊するという行動が相次いだのだ。各教会近くの路上では、警官隊とちいさな衝突が繰り返され、催涙弾と石礫が飛び交った。
 13日の土曜日だけで、13か所の教会、集会場が破壊された。負傷者は相当数にのぼったが、死者はでていない。
 今回の騒動のきっかけは、12日金曜日の午後、カソリック・クリスチャンの集団が市内をデモしたことにはじまる。彼らのデモは、8月の中旬から、数回、おこなわれている。警察に届け出た平穏な行進だった。
 デモの趣旨は、インド東部オリッサ州で続いているクリスチャンへの攻撃に抗議するというものだ。
 オリッサでは、7月頃から、農村地帯のクリスチャンが襲われ、家を焼かれ、少女が強殺され、一部のクリスチャンはテント暮らしを強いられ、難民化している。
 8月22日、ヒンドゥのブラーミン(祭祀者)が銃撃、殺された。これがヒンドゥの怒りを倍化させ、事態は泥沼化の様相を呈した。そして、各地に飛び火したのだ。
 ヒンドゥ側は、狙撃したのはクリスチャンだといっているが、マオイスト・テロ集団の幹部だとの説もあって特定されていない。
 8月26日のBBC電子版には、オリッサ州の現場集落を取材した記事が掲載されている。
このBBCの取材時点で、8名が殺されていた。18日現在では20名以上と伝えられている。
 インド人とおぼしき署名をしている取材記者は、末尾に不可解な3行を残している。昨夜、焼き殺された女性は、当初、修道女だったとレポートされていたが「わたしたちの調べではヒンドゥです」という趣旨の発言が現地のある人物によってもたらされた、というのだ。記事からは、クリスチャンによる犯行、というニュアンスは届いてこない。が、クリスチャンへの距離感を感じさせる。
 筆者は、当時、この意味不明のメッセージを気にはなったが黙殺せざるをえなかった。
 おそらく取材記者も詳らかでなかったこの発言の意味が、カルナータカ州に飛び火して、はじめてあきらかになった。オリッサ州の現地発言者も定かではなかったのだろう。
 13日土曜日の教会襲撃が、13か所と報じられて、数え上げてみたが、確認できない。そこで、カソリック、プロテスタント、そしてヒンドゥにもしつこいほどの取材をしてみた。最後に、大新聞の地方記者と議論して、ようやく真相をあきらかにする道筋が見えてきた。
 この日、襲われたカソリック、プロテスタントの教会は、どう数えても8か所、あとの5か所はクリスチャンの家、あるいはホール(集会場)と警察は表現している。信者の私宅を襲うというのは、おかしい。だとすると、まったく異質の宗教活動をおこなっている場所なのだ。

新宗教との三つ巴だった
 14日の日曜日、騒乱の首謀集団と目されている野党インド人民党(BJP)の地域支持組織で活発に活動するある人物を我が家に招いた。そして、わたしの取材結果をさらけだして質問を浴びせた。かねてからの友人である彼は、ようやく重い口を開いてくれた。
 ヒンドゥ主義である彼らがターゲットにしていたのは、実は「ニュー・ライフ」と呼ばれるキリスト教系新宗教だった。15年ほど前、アメリカから来たらしい、と彼はいった。わたしの取材によると、オリッサ州でもおなじだ。
 彼らは、日曜日ではなく土曜日に礼拝する。教会を持たず、個人宅や集会所に集まる。偶像は一切なく、教導者との面談と討議が主活動だ。生活者としてはまったく普通で、しかし、豚を食べない。
 なぜ、ヒンドゥ政党人民党BJPの地域組織が、敵対するのか。この質問には、彼は生き返ったように答えた。「彼らのバイブルには、クリシュナやラーマは神ではない、と書いてある。ヒンドゥに対する侮蔑だ」
 それは当たり前だ。それぞれの宗教は、それぞれの神しか信じない。どうして、プロテスタントやカソリックを襲うのだ?「・・・、いいにくいことだけど、混乱しているのだ。カソリックは、ニュー・ライフのためにデモをしたと、みんなおもった」
 即刻、やめるべきだ。「そうおもっている」
 この日曜日の朝、あるカソリック教会の前で、人民党の地域支持団体の指導者がバイクで乗りつけた4人組に刺されている。4人とも顔面をマスクで隠していたという。傷は軽症だった。
 翌14日月曜日、騒乱は続いたが、前日に比べると抑制されていた。しかし、市外や他州からの長距離バスは運行せず、機能は麻痺したままだった。
 15日火曜日、市内はストに入った。一切の交通は止まり、商店、市場も休業し、学校はすべて休校になった。街路は、もぬけの殻だった。
 この朝、カソリック教区主教(ビショップ)は会見を開き、はじめてニュー・ライフに言及し「われわれとは無関係の存在だ」と表明した。彼らの活動とわれわれを混同しないで欲しい、と明確に述べた。
 この表明を境に、新聞紙上にもニュー・ライフの文字が載るようになった。それでも、いくつかの騒乱が伝えられた。

背後には、ヒンドゥの政治力学
 ストのあけた16日朝、カルナータカ州政府首班B.S.イエデュラッパは、襲撃されたニュー・ライフの祈祷所は州政府が修復費用を出す、と会見で述べた。
 これは、われわれの常識では仰天ニュースだ。ヒンドゥ主義政党人民党の下部組織が動いているとはいえ、犯人も特定されていない状況で、補償が先走りするというのだ。
 州政府首班イエデュラッパは、インド人民党で去る5月の選挙で勝ち、内閣を組織している。中央政府はコングレス(会議派)が与党で、カルナータカ州は野党政権ということになった。
 補償弁済のニュースを地域の多くの人びとは、微苦笑をもって迎えた。語るに落ちたというわけだ。
 9月初頭に、人民党支持団体の集会で、「ニュー・ライフは、そのバイブル(テキスト)でヒンドゥ神を否定している」と団体のリーダーが演説した。あきらかにこれがアジテーションだった。
 インドには「改宗禁止法」という独特の法律がある。出自(ジャティ)である宗旨を変えてはいけない、というものだ。ジャティは、本来、産湯の意味で、産湯に浸かった川や井戸、その水の地、すなわち生地をいう。それが、父祖の職能、家業の継承、出身言語とその宗教共同体を規定している。これが実体のないカースト(制度)と混同、あるいは誤用されているのが現実だ。
 地域、州によって異なるこの法律は、州法として設置されたが、1940年代から2000年代の現在まで、反対と推進の激しいせめぎあいに曝されてきた。すでに多くの州では、この法の改変、廃止が決まっている。運動の担い手の中心は、イスラムやクリスチャン、それに新仏教徒たちだ。
 推進派であるヒンドゥ政党人民党は、ヒンドゥイズムである以上に近代ブラーミズム、すなわちヒンドゥ・ファンダメンタリズム(ヒンドゥ原理主義)の立場にある。ジャティの固定化は、喉元に詰まって、しかし発声できない本音なのである。
 彼らが、カルナータカ州選挙で勝利した勢いを、来年前半の総選挙に上昇させようとしているのはあきらかだ。04年以来失っている中央権力への奪還に向けたおもいは膨らむだけ膨らんでいる。

近代ヒンドゥイズムの危機
 オリッサで焼殺された女性が、クリスチャンともヒンドゥともいわれたのは、彼女が改宗者だったからだ。ニュー・ライフへの改宗だったのだ。いや、改宗者と誤認された可能性も捨てきれない。
 ヒンドゥたちが、いま、もっとも恐れ、警戒しているのはジャティを離れる改宗者の増大である。それは、彼らが保ってきた社会秩序の基盤が揺らぎ、立場を失わせることに繋がっているからだ。同時に、政治的なイデオロギーの喪失を意味している。
 マンガロールの都市部は、イスラムが35〜7%、クリスチャン、プロテスタントが15〜20%、それにジャイナ教が3〜5%、ヒンドゥは40〜45%程度である。軍部でも誤差5〜10%くらいで、ヒンドゥが圧倒的という地域は、ほとんどない。大学のある地域は、イスラムが65%以上を占めている。
 マンガロールの平和は、住民の誰もが自らをマイノリティ(少数派)と自覚し、相手への寛容を発揮する調和感覚によって保たれてきた。それが一転して崩れたのは、ヒンドゥ政権の膝元で、新宗教の浸潤に気づかされたときだった。
 貧しい農村地帯に布教されてきた新宗教が、実は豊かな都市生活にも忍び込んでいたことは、ヒンドゥ・ファンダメンタリストには脅威だった。
 9月18日のザ・インディアン・タイムスは、コングレス会議派総裁のソニア・ガンディが、緩やかに用心深く「改宗禁止法」の見直しを進めていくことをプランしている、と報じている。ラジヴ・ガンディ元首相の未亡人でイタリア生まれのソニアは、ジャティに嵌め込めばカソリックである。
 改宗法の議論がどのように展開していくか、そこにインドの未来と命運がかかっているといえる。
 18、19日は、郡都マンガロール市内からは遠のいたが、騒動は郡部で激しく展開された。
 20日朝、テレビは人民党支持者集会でニュー・ライフのテキストを槍玉に挙げたマヒンドラ・クマールが逮捕されたと速報している。
 その歴史と必然を詳らかにするいとまはここにはないが、いま、「近代ヒンドゥ国家インド」はゆっくりと、しかし、たしかに崩壊にむかっている。

Posted by 森尻 純夫 at 16:12 | この記事のURL
首都デリー、連続爆破テロ インド最前線 The Actual India 第139回 [2008年09月14日(日)]

            ≪速報 Special Spot≫

挑戦的な首都テロリズム
 9月13日、午後6時10分頃、ニューデリーの繁華街の市場で最初の爆破が起こった。
 その後、約45分の間に4か所で5発が連続爆破した。
 直後の7時前から、各テレビ局は現地から中継で、報道し続けている。
 当初、死者は数名と伝えられたが、刻々と増え、9時現在、20名と報じられている。時間の経過とともに増えることが予想される。負傷、重傷者は90名と伝えられているが、これも、同時刻現在の報道だ。
 インド門付近の中央公園とリーガル・シネマという映画館で2発の不発弾が発見され、信管を抜かれた。
 はじめの爆発は、デリーではよく知られた大規模な市場、ガッファ・マーケットで、人道脇に停車していたオートリキシャー(三輪タクシー)の下に仕掛けられていた。
 二番目は、デリー最大の繁華街で観光客も必ず訪れるコンノート・プレイスで起きた。中央に芝生の公園があり、その周囲から放射状に道路が走る、文字通りニューデリーの中心地だ。ここが、ターゲットになっていることが、人びとを震撼させている。
 芝生に寝かされた血に染まる負傷者、なかには死者とおぼしき犠牲者を市民や警官が運びだしていく光景が、なまなましく写しだされた。
 日本でいえば、銀座四丁目の交差点脇のビルが爆破されたようなものだ。全国のインド人に与える心理的圧力は、計りがたいものがある。
 また、幸いにも不発で発見され、大事に至らなかったが、現代インド建国の象徴であるインド門が爆破の対象になっていたことも、このテロが反インド、反国家、インドへの挑戦といった思想性があるように推測できる。

国内テロとアフガン、パキスタン情勢
 コンノート・プレイスから延びるバラカンバ・ロードでは、歩道脇に仕掛けられていた。そして最後に爆破したのは数キロとはない南のグレーター・カイラシュ市場だった。2発の爆発物が自転車に仕掛けられていた。
 ここでは12歳の少年が、目撃したか、手先に使われたのではないかと拘束されている。この 少年についての詳細はわかっていない。テレビ映像には、少年が警官と市民に拘引されている姿が写っていた。
 土曜日、夕刻の市場は買い物客で相当の混雑があり、死者もここが最も多いと伝えられている。
 警備当局は、全国に警戒を促した。特に商業都市ムンバイを擁するマハラシュトラ州、テロ多発地域のパンジャブ、グジャラート、ラジャスタンの各州への警報を発した。
 さらに、警備当局はテロの手法、規模などからイスラム学生同盟(SIMI)の存在を念頭においているようで、7月のバンガロールでのテロ、その拠点があるといわれるケララ、カルナータカなどにも警戒を発令した。
 デリー市長、与党もただちに反応し、与党党首ソニア・ガンディは談話を発表し、市長も、犠牲者を悼むとともに市民に冷静な対応を要請した。政府は緊急閣僚会議を、午後10時に招集した。
 事件後4時間後の現在、詳しい解析はできないし、すべきでもない。が、警備当局が方向付けているかにうかがえるSIMIの犯行だろうか。現在、SIMIの組織規模自体が、正確には把握されていないのが実態だ。インドの警備当局としては、パキスタン流入の勢力とSIMIは恒常的に緊密連携をしている。同組織だ、と見たがる。
 この数日、カシミールでは次期選挙も絡んで、死者のでるデモ、騒擾が続いている。
 それは、アメリカのパキスタン領内攻撃を容認しているパキスタン新大統領と政府の方針の不可解さに一因がある。アフガン国境地帯の緊張がカシミール分離主義者たちを脅かしているのは事実なのである。
 インド政府、国防担当者たちは、アフガン、パキスタンのあらたな情勢がインド国内でのテロや不安定な情勢に波及されることをもっとも恐れていたのだ。対米関係上、けして表面化するわけにはいかないところに、インド当局者側のジレンマがある。
 しかし同時に、インドの国内テロの要因は、この問題ひとつではけしてない。石油高騰や食糧問題などで景気の減退が現実になって、格差が目を覆うばかりに拡大してきている。それが、印パ、アフガン情勢に相乗しているのだ。
 警備当局が、SIMIとパキスタンからの流入者と決め付けると、大きな錯誤を犯すことになるだろう。
Posted by 森尻 純夫 at 02:58 | この記事のURL
パキスタン大統領選出とインド インド最前線 The Actual India 07〜08 第138回 [2008年09月09日(火)]

      《 ウィークリースポット Weekly Spot 》その3 2

パキスタン首相、暗殺か?
 9月3日、インドは国民祝祭日だった。「ガネーシャ・チョウルティ・象神の祭」で、特に西部から南のインドで各地は、辻毎に象神の巨大な偶像を飾って、その誕生を讃える。陽射しの緩い穏やかな祭日だった。
 午後、メディアが色めきたった。テレビ、ラジオが緊急ニュースを流したのだ。
 パキスタンのラワルピンディで、ギラニ首相の車列が銃撃されたというのだ。またもパキスタンで暗殺事件か、しかも現職首相が暗殺された、・・・お祭り気分も吹き飛んで続報を待った。
 インドの隣国であるパキスタンには、各社の特派員が常駐しており、特に6日の大統領選出議会を控えて報道体制は整っていた。情報は、刻一刻と現地から中継で送られてきた。
夕刻には、その全容があきらかになった。
 狙われた車列、首相の公用車のフロントには二発の銃弾が打ち込まれた。発射されたのは三発だった。この車列は、ギラニ首相がラワルピンディの空港に到着するのを迎えにでたもので、誰も乗車していなかった。幸いにも被害はまったくなく、事件は落着した。
 暗殺対象者が乗車していない車両を襲撃するなどといういたずらまがいのこの事件、いたずらではないとするとずいぶん粗忽な暗殺者だ。しかし、どうも笑い話では終われない背景がある。

銃撃は警告だった
 事件のあった3日の早暁、アフガニスタンとの国境地帯ワジリスタンにNATO軍が侵攻し地上戦を展開している。当初、NATO軍とのみ報じられていたが、3日夜には米軍だったと詳報された。アフガン駐留のNATO軍としての米軍ということだ。
 通常、イギリス軍が主力の国境地帯に、敢えて米軍が越境作戦を敢行したということになる。しかも、パキスタンへの侵攻地上作戦ははじめてのことだ。
 8月中旬、突如、ムシャラフ大統領が自ら辞任した。いわば引退の形をとったのだ。ムシャラフは、クーデターを起こし軍服のまま大統領を務めたことはすでによく知られている。その在任は9年に及んだ。
 その間、一貫して親米、そしてインドとの関係修復に働き、歴史的な休戦、和平を導きだした。インドとの関係を好転させたのは、ひとえにアメリカの圧力によるもので、終始、親米路線を外さなかった。
 しかし、ただ一点、がんとして許さなかったのは、対テロ戦略において他国軍が自国へ侵攻することだった。ブッシュ政権はたびたびムシャラフに対して対テロ作戦の強化、協力を訴えていた。それは、アフガン国境地帯の掃討作戦に国境ラインはない、というアメリカの圧力だった。
 ウサマ・ビン ラディンをはじめタリバン訓練キャンプと幹部たちがパキスタン領内のこの地域に潜んでいることは情報通の間では知れ渡っている。
 ブッシュ政権が、直接、手を下し、ビン ラディン以下を拘束、あるいは掃討したいと願うのは当然だ。そのときはじめてブッシュは、9.11テロ、アフガン、イラクの戦争に決着をつけられる。
 しかしムシャラフは、パキスタン国軍の働きを主張し、国境地帯の双方からの狭窄作戦には応じたが、NATO軍が国境を越えることは拒否し続けた。
 ムシャラフにとって、それが自らの支持基盤である国軍の信頼を繋ぎとめる唯一の道であった。
 そして、ムシャラフが去ったいま、新大統領の就任直前に国境は破られた。これは、パキスタンにとって歴史的な事変なのである。
 空の首相専用車襲撃は、その歴史的屈辱を許容する政府への警告であったと見るべきではなかろうか。

新大統領の選出
 3日のアフガン駐留米軍の攻撃は、攻撃ヘリコプター4機で北ワジリスタンに侵攻、特殊部隊がミサイルなどを発射、少数派住民の家屋15棟を焼き、20人以上を殺害した。女性やこどもも含まれていた。
 翌4日、5日の両日は、アフガン国境内からのミサイル攻撃が続いた。数名の犠牲者が出ている。犠牲になったのは、すべて地域住民だ。
 9月6日、大統領選出選挙がおこなわれた。上下国会議員、四州議会議員の投票によって選出される。
 大方の予想通り、昨年暗殺されたベナジル・ブット女史の夫で、現在パキスタン人民党(PPP)の共席総裁アシフ・アリ ザルダリが選出された。投票総数702票のうち481票を獲得した。第一回の投票で過半数をはるかに凌いだ圧倒的な選出だった。
 ザルダリはムシャラフがその豪腕で推進した大統領の権限強化を、意外にも改変することなく継承する、と宣言した。ブットの民主化推進路線を受け継ぐザルダリは、こうした権力の集中をムシャラフ以前の体制に戻すと、国際的にも見られていた。
 国会の解散権、そして首相の任命と罷免をはじめ陸軍参謀長、最高裁長官の任免など国権のほとんどが大統領に集中している。核兵器のスイッチも大統領が握っている。
 ザルダリの表明を受けて、8月下旬、反ムシャラフを共闘してきたムスリム同盟ナワズ派の元首相シャリフはザルダリと袂を別った。
 それでも人民党PPPの組織化は圧倒的に進んでおり、大統領選出選挙は速やかに終了した。一回だけの投票で、充分だった。
 PPPザルダリ支持派は、完璧に内政基盤を築いたかに見える。
 だが、新大統領選出直後の6日、ペシャワール近郊の警備ポイントで自爆テロがあった。警備担当者を含む35人が殺されている。あきらかに新大統領とその体制への揺さぶりだ。
 また、8日、米軍はパキスタン領内ワジリスタンのイスラム学校(ハッカーニ師マドラサ)にミサイル攻撃をしている。20名以上の学生、その他の犠牲者があったと伝えられている。連続する越境攻撃は、すでに戦争状態だ。
 アメリカは、ザルダリ政権によって軍事作戦への協力体制が確立したと読んでいる。すでに、イラク駐留部隊の一部をアフガンへ移動し、アフガンに主力を注ぐ作戦に転換している。
 ザルダリのパキスタンは、アメリカの戦略推進を黙認すると見られているのだ。

ムシャラフ辞任の「謎」と国軍
 ムシャラフが、突然、辞任を表明した後、メディアは彼がどうするのか、注目していた。国外へ亡命するのか、それとも保守党PPPになんらかの保証を求めるのか。また、PPPと政府は彼を拘束したり告発したりするのか、というのが注目点だった。
 しかし、意外にもなにも起こらなかった。ザルダリ政権側からの囁き情報では、国軍からの強い圧力があって手出しができないからだという。ということは、ザルダリPPPは、軍関係を政治的に完全には掌握していないことになる。
 新大統領選出の翌9月7日、ザ・タイムス・オブ・インディア紙は「ザルダリではパキスタン国軍は抑えられない」という趣旨の記事を掲載している。民間出身のザルダリ大統領が、ムシャラフのような軍統治ができるとはおもえない、というのである。
 核のスイッチを握っているといっても、管理体制は軍が組織的に掌握しているし、07年7月以来1200人が犠牲になっている自爆テロの全国的な取締りを彼が把握できるとはおもえない、というのだ。
 なにより軍事ドクトリン(理論)、それもパキスタン国軍のそれを知らないのではないか、と疑問を呈している。
 なるほど、と納得しつつ、こうしたパキスタンの体質がムシャラフ軍事クーデターと軍政をうみだした元凶だったと理解するのである。

隣国インドの意味ある沈黙
 アメリカの越境攻撃、首相暗殺未遂、ペシャワール自爆テロ、過去数日間の事態を列記してみると、それぞれがそれぞれの要因をもっており、ひとつの犯行動機とひとつの勢力から発せられていないことがよくわかる。
 隣国インドは、激しく動くパキスタン情勢に沈黙を守っている。
 非常に強い関心があるのは当然だが、聞き耳を立ててうかがっているというのが事実だ。
 過去2か月、インド領ジャム・カシミールでは騒擾が続いている。
 昨8日も、あらたなデモと衝突があった。カシミール独立、分離主義者がどのようにパキスタン新体制に反応するか、カシミール地方選挙を控えたインドにとって重大な注目点なのである。 
 そして、その動向が、インド国内のテロリストを刺激し組織化することを恐れているのだ。
 アフガン国境地帯に次いで、もし印パに不測の事態が起こると、アメリカの中東戦略にも大きな影響がでてくる。
 それは新冷戦時代における、グルジア問題を含めた親米体制の危機ともなるのである。
Posted by 森尻 純夫 at 20:09 | この記事のURL
女たちのオリンピック インド最前線 The Actual India 第137回 [2008年09月08日(月)]

<Recovery Issue・特集>
強かった日本女子
 北京オリンピックが閉幕して三週間になる。
 日本勢では、圧倒的に女子の活躍が目立った。柔道、レスリング、ソフトボール、サッカーなどなど、その勇姿は世界のニュース、スポーツ番組を駆け巡った。
 また、天才北島の陰になってはいたが、女性スイマーの活躍は粘り強く、前アテネ・オリンピックにひきつづいた好成績を残している。
 なによりも柔道や体操に活躍した若い選手たちが、日本の女性スポーツの将来を約束させてくれたことが嬉しい。
 やはり「日の本は、女ならでは明けぬ国」なのであろうか。
 アマテラスが篭りに入った岩戸を開かせたのはアメノウズメの舞踏だったというのが再生開闢の神話だが、スポーツも武芸も、わたしたちの伝統的な思考では「芸」であり芸道であるから、始祖アメノウズメを戴く女性が道を究める実力を保持していて当然なのかもしれない。
 活躍した女性たちは、こもごも語っている。
 「女子サッカー普及のために闘った」「次回からはおこなわれないことになっているソフトボールの復活を願って闘った」。
 そして「支援してくれた多くの人びと、家族に喜びを捧げたかった」と重量級のレスラーは、師でもある父の首に二大会連続でとった銅メダルをかけた。金と銅を獲得した姉妹レスラーや柔道で妹を練習相手にしてきた選手は「いっしょに闘ってきた」ことを強調していた。この柔道家も二大会連続のゴールドメダリストだ。
 女性アスリートの喜びコメントは、どこか男性とは違っているようにおもえる。
 男性は、ストレートに勝った喜びを語るが、女性たちは勝利の成り立ちを伝えたがる。勝つこと以上に、どう闘ったか、どう鍛えてきたか、が語られる。

勝敗と様式
 技を究めることへのこだわりは女性たちだけのものではなく、本来、日本人すべてのものだったはずだ。それが技術国日本を形成し、その職能を誇りにしてきた。
それは職人の技量ばかりではなく、古代「わざおぎ」と呼ばれていた俳優、技芸者のものでもあった。もちろん武芸者もそこにいた。
 たとえば相撲は、多分に儀礼的であるというが、実はその稽古、鍛錬の目的は型、様式に身体を嵌め込んでいくことにある。蹲踞、四股、摺り足、股割り、鉄砲といった稽古メニューは、上下動せずに低い腰のまま直進する身体性を養うことにある。
 低い腰の水平移動と鋭い出足で激突し、突きあい取っ組みあうことによって、土俵上を呪的な霊力を醸す結界にしてゆく。邪を払い、地に潜む力を引きだすのだ。
 取り組みは、鍛え上げた様式性に則った型をつぎつぎと繰りだしていくことで成り立つ。歌舞伎や日本舞踊の演技身体に酷似している。解説者は勝った力士を「いい『かたち』になりましたね」と讃える。
 北京オリンピックで活躍した女性たちはこんな哲学的な境地に立って闘ったのだろうか。
 そういえば二大会連続金メダルに耀いた女性柔道選手は「組んで、一本勝ちで金」を自らに課していたという。そういえば、有力な男子選手の敗北に対して評論家は「日本式の柔道からレスリングのようなポイントを取る世界柔道への転換期が来た」と解説していた。
 転換期の柔道、そしてソフトボールは今回限りでオリンピックから姿を消し、女子サッカーはけして社会的に優遇されてはいない。こうした競技に力を発揮した日本女子は、厳しい修練、その禁欲的な生活に自らを解き放つことができたのだろう。
 道を究める営みは、型や様式を技とすることで、眼前する制約にがんじがらめにされてしまうことでもある。
 いや、その道を進み、型や様式を習得する営みは、実は自らの身体と精神を解放する「真実の自由」を獲得することだ。精進する者は、その瞬間に立ち会う特権を得る。
 芸道に克つ、ということはそういうことなのである。美しい漆蒔絵の職人技は、無名の仕事でありながら、たったひとつの歴史に残る産物になるのだ。

女たちの産む力
 南インド、ドラヴィダ族の女たちにバガヴァティという女神信仰がある。本来、バガヴァティは、女性、あるいは女性器そのものを意味している。
 アラビア海沿岸に広く分布するこの民俗信仰は、いずれの地域にも女性たちが伝播してきたという神話がある。しかし、祭礼をおこなうのは男たちで、女神の像を頭上に掲げて「遊ばせ」、矛や剣を振るい、素足で火渡りをして、その勇猛を女神に捧げる。
 この女神信仰の地域は母系社会で、現在は法律で女性相続が禁じられているが、その社会習慣は根強く、結婚後も女性の実家で暮すマスオさんが多い。
 そういえば、ちょうど千年前に書かれたわれらが「源氏物語」も「夫訪い婚(つまどいこん)」の物語でもある。
 共同体にとって、最大の政治的行事「まつりごと」は男たちに任せ、親族組織とその信仰は女たちが担う。「まつりごと」自体、ほんとうは女性から発せられている。
 すぐに想起するのは、古代日本、わたしたちの女王ヒミコの存在だ。最近の研究では、ヒミコは、孝元天皇の皇女で開化天皇の姉だと例証されている。2〜3世紀のことになる。とすると、女王、という呼称は外国からの呼びかけで、実際は天皇を捧持していたことになる。
 ただし、母系制度に則って強力な権威を持っていたのであろう。その強大さに対して“女王”と呼びかけたのだ。
 神話から歴史の時代に、こうした幾人かの女性を見出すことができる。崇神天皇には宗女トヨ、そして応神天皇には神功皇后がそうした存在だ。
 これらの女性たちは、卜占し託宣を発し、そして天皇に神威を与えた。霊威を得て神と人の世を結ぶ役割をしていたとおもわれている。
 ここでいう神とは、仏教伝来以前、神道の成立にも至らなかった時代、自然と共生する人間が、そこに多くの神の存在を感得したアニミズムだった。といっても蒙昧な妄信ではなく自然の和魂(にぎたま)とその摂理を神意として見出すことにあった。
 まさに女神バガヴァティそのものであり、日本の古代社会にも、女神を地域共同体に伝播してきた信女たちが、いきいきと闊歩していたことが想像できる。
 女性たちに与えられた産む力は、特権であると同時に受苦(パッション)でもある。女性にとって民族や種族共同体の繁栄は、常に彼女たちの身体の力、バガヴァティ(女性器)にある。彼女たちが、その受苦を誇りとして生きるとき、内からほとばしる美しさに装われるのだ。
 北京オリンピックで耀いた女性アスリートたちは、受苦を修練に閉じ込め、それをあの競技場で解き放ったのだ。彼女たちは、古代から連綿と受け継がれてきた身体と精神の記憶をあの瞬間、呼び覚ましたのだ。
 女性は男の属性などではけしてなく、むしろ男が人間として属性なのだ。男たちは社会の先端に立っていると、誤解しているに過ぎないのではないだろうか。
 相撲界が破廉恥に揺れている。スポーツばかりではない。政治も経済も、そして外交も、世界と日本、あるいは世界化する日本を考え直すべきときがきている。日本とはなんなのか、その独自性をもう一度、捉えなおすことが問われているのである。
 それは「アジアに見出す日本」であり「アジアを発信する日本」でもあるだろう。
 北京オリンピックで活躍した日本女子は、多くのことをわたしたちに教えてくれた。
 ありがとう。
Posted by 森尻 純夫 at 00:02 | この記事のURL
インフレと世界食糧危機 インド最前線 The Actual India 136回 [2008年05月11日(日)]

       《 ウィークリースポット Weekly Spot 》その3 1
 
インフレは石油価格に連動か?
 インドのインフレーションが止まらない。
 4月のはじめ、08年3月の一か月、物価上昇率7.41%と報道され、大きなショックに見舞われた。07年度のGDP予想が8.7%と発表され、マンモーハン・シン内閣の目標値9%に届かなかった。その上に、成長率を帳消しにしかねないインフレである。
 政府も経済界もあらためてその深刻さを認識した。当然、かなりの数字がでるだろうことは予想されていたが、これほどだったか、というのが実感だ。
 2月中旬、経済紙は6〜7%のインフレの可能性を指摘していた。3月にはそれを大幅に越える数値が現実になったのだ。
 その後、4月に入ってもいっこうに沈静化しない。20日時点でやや落ちつき7.3%、しかし月末には7.61%を記録した。いずれも前年同期比である。
 サブプライム問題があきらかになった昨年8月以降、石油価格の不安定化にともなって、特に、銑鉄、合金、プラスチック製品、紙などの値上がりは世界的規模で起こっている。
 インドのガソリン価格は、昨年9月以降、g150〜155円、ということは日本の道路特定財源税下とおなじ価格帯だ。20〜22%の値上げ状態が、そのまま続いている。
 5月第一週から連日、石油価格は上昇を続け、10日には126ドルを記録している。
 石油価格がインフレの元凶であることは、世界的にいえるのだが、インドでは生鮮食料品、特に米と野菜が著しい。インドの食卓に欠かせないトマト、たまねぎは120%前後、主食の米は7〜80%で推移している。
 3月31日、政府は特定銘柄米を除く米の輸出禁止を発令した。

食品インフレは中産化による需要拡大?
 インフレは、なにもインドだけではなく、中国をはじめ経済成長途上の国々は、過去2年、相当の数値をだしている。ちなみに中国は07年度(08年3月期末)で、8.4%と伝えられている。
 5月8日のザ・ヒンドゥ紙は、中国が3月期の世界的な騰貴に対応して、米、雑穀、豆類の価格を安定的に維持する政策を実施すると伝えている。20%に満たない上昇は、世界的傾向の影響にあるためだ、という国家開発改革委員会の見解も伝えている。
 インドは、成長期に入った90年代初頭から、ほぼ4%代を維持してきた。GNPが平均8〜9%代だったから、好況感に終始してきた。
 今年に入ってからのインドのインフレは、自由主義体制下での経済拡大、成長期に特有の避けて通れない産物だ、とはとてもいえない。
 5月4日、ブッシュ大統領は、世界的な米をはじめとする食品の騰貴は、経済成長するアジア新興国の、特にインドの中産階級化が進み、需要が拡大しているためだ、と発言した。
 なんとなく日本の経済成長のはじまりのころ「貧乏人は麦を食え」と喚いた総理大臣を思い出す。彼は、戦後日本の経済発展を鼓舞する鼓笛のつもりだったが、ブッシュの言説は、被害者意識をかざして自らを糊塗する女々しさだけが際立つ。
 多くのインド人は、この発言を一瞬、理解できなかった、なにをいっているのかわからなかった、とわたしに語っている。それから、苦笑、哄笑、嘲笑になったという。
 この一週間ほど以前、福田首相も米、麦、雑穀の生産国による輸出規制を撤廃するように働きかけようと、発言している。
 ブッシュ、福田発言には、情勢分析の共有、なんらかの連携を読み取らざるをえない。

食糧危機は、ディストリビューション(流通・分配)の不均衡
 国連は、3月の米騰貴を受けて、特にアフリカなどの食糧危機を、再度警告している。
 インドは食料自給率130%を誇っていて、輸出国でもある。その農業国が輸出規制をしたのは、自国の農業産品の騰貴を抑制するための処置だった。輸出価格に引き上げられて自国のインフレが昂進するのを防御したのである。ことさらに今年になって需要が拡大したなどという事実はない。また07年度は、空前の豊作で生産総量にはなんの不安もないのが現実だ。
 サブプライム、石油、そしてオーストラリアの旱魃による麦の不作、代替エネルギー開発の提案によるとうもろこしの高騰、などが複合して食品インフレが起こっているのだ。
 ちょっと冷静になって客観化してみると、アメリカ中心の経済体制が脆弱化した結果だということが、即、見えてくる。いま、グローバル・ディストリビューション、世界規模での流通、分配の機構を再考すべきときに至っているのである。
 同時に、日本はかつての農業大国、農業による立国の姿を21世紀の現代に呼び戻す国内政策を真剣に見出さなければならない。米のみは100%の需給をようやく保ってはいるが、これも近未来は覚束ないし、30%代の自給率を根底的に問い直さなければならない。
 農民が食えない国家が、栄えた歴史はないのである。7〜80年代の高成長期の日本では、農民は豊だったことを銘記すべきだ。

インド、農業経済成長の道
 一方でインドは、農業民への抑圧的体制は、その長い歴史を清算できないでいる。高度成長を実現しながら、農民の自殺は後を絶たないのが現状だ。
 政府は今年度予算で、農業支援策を計上しているが、構造的格差を解消する抜本策とは見えない。貧窮農民の借入金免除などの政策は、この場を逃れるには有効でも未来展望を開くには至らない。救われるのは、不良債権化を抱える金融機関だけだ。
 トマト、たまねぎが120%の値上げといっても1`55円前後だ。米は普通米で1`60〜80円だ。このあきらかな低価格の農産品が、インドの高度成長を支えているのである。
 農業世帯は1億5千万、総世帯のほぼ75%で農業人口比も、概ね準じている。零細農民は、1日2j以下の収入がいまだに多く、全農民の30%前後といわれている。
 バンガロールなどのIT企業では、大学院修士を終えたばかりの青年が30万円の月給を実現している影には、こうした現実が横たわっている。
 これを救いだすのは、農業経済の根底的な改革、分配と流通の合理化、インフラの整備などであろう。経済的恩恵をひとしく与えることが、構造的不均衡を書き替えていくことになる。
 日本は、自国の農業経済政策を課題とするとともに、インド農業の未来に自らを重ねて共同参画する道を選ぶべきである。
 インドの輸出規制に注文をつけるというような、姑息な発言は慎むべきである。
Posted by 森尻 純夫 at 22:57 | この記事のURL
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