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松井 二郎
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治すカギの落ちている場所 [2013年10月08日(Tue)]

  ◆続・クローン病中ひざくりげ(59)
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 その日は朝から気が重かった。

 連休を利用して家族が来ることになったのだ。私の見舞いにである。父と母と、そして兄とが、栃木から遠路はるばる私の住む富山まで、わわざわざ車を運転して来てくれるという。

 「ふつう、こういうときって、よろこぶんだろうなあ」
 しかし私は、朝からのっそりと垂れこめている雲のように、気が重い。
 私は、家族を好きでないのだ。
 好きになりたい、のだが、それがとても難しい。

          ◇

 幼いころ、これは私が悪いのだが、家族みんなの機嫌をとろうとして、父、母、兄たちの気持ちを先読みし、勝手にごきげんとりをしていた、私が、悪いのであるが、私にとって家の中は、安らげる場所ではなく、ホテルのボーイのようにサービスしなければならない労働の場所であり、幼い私は、すっかりクタクタになっていた。

 父はいつも不機嫌そうであった。

 前ぶれなく怒りだすことが多く、怒りだした父の顔は鬼のように恐ろしく、家族でなごやかに食卓を囲んでいるときでも、私は、いつ父が怒りだすかと、ビクビクしていた。そして、この父がなんとか怒りださないように努めた。
 「ぼくが、いい子でいれば、お父さんの機嫌はよくなるかもしれない」
 そんなはずはないのであるが、幼い私は、そう思い込んだ。
 この父には絶対服従を誓い、どんな理不尽な怒りにも耐えた。ヘラヘラと笑いさえした。

 母は、この父のためにいつも泣きべそをかいていた。

 記憶するかぎり、父と母のあいだで、お互いを褒めあう言葉が交わされたことはない。一方的に父が母をなじるのが常であった。
 幼い私には気がつかなかったが、母は、病気なのか、どうかしたのか、ずいぶん低い年齢のところで心の成長が止まっていた。父は、結婚後にそのことに気づき、話がまったく合わないことにイライラしていたようである。ために、ことあるごとになじるのであるが、それがまた母の成長を止めてしまうという悪循環になっていた。
 母の逃げ場は、私であった。
 「ねえ、じろくん、」
 じろくんとは私のことである。
 「お母さんね、いつもお父さんにいじめられて、ほんとは離婚したいの。でも、じろくんがいるから、がまんしてるの。じろくん、もしお母さんが離婚したら、お母さんとお父さん、どっちについてくる?」
 月に一度は、きいてくるのである。
 「……お母さん」
 と私は答えた。怖い父よりも、この優しい母が好きであった。この母のためにも、私はいい子でいようと思った。

 そして、兄である。

 この険悪なムードが漂う家は(幼いときは、そう気づかなかったが)、兄も不機嫌にさせた。
 その兄のイライラは、弟である私に向けられた。
 兄に、私は毎日のように泣かされた。はじめは仲良く遊んでいるのだが、いつのまにかケンカになっていて、そうなると当然、兄のほうが強く、手を出されたら私は泣いておさめるしかないのである。
 「おい、ばかじろ」
 と、私は呼ばれるようになっていた。ばか+二郎で、ばかじろである。ほかにも、あほじろ、こけじろなどの変形パターンがあった。そう呼ばれて、私は、ヘラヘラと笑って返事をした。そして何でも言うことをきいた。

 私が、いい子にしていれば、家族を守ることができるのだ。
 幼い私は、そう信じ込み、徹頭徹尾、いい子に努めた。家の中で、自分を完全に殺していた。

 あの家で何が起きていたか、自覚したいま、父にも母にも兄にも、会いたくない。私が、こんな状態でありながら家を出て暮らしているのは、この家族といっしょに暮らすのがイヤだということもあったのだ。
 その、父、母、兄が、まもなく3人で見舞いに来るのである。

          ◇

 クローン病の原因は、化学物質である。けれども、化学物質をどれだけ摂取しても、難病にならない人もいる。いや、そんな人がほとんどだ。
 ではクローン病の引き金をひいたのは何か。
 強烈なストレス、であった。
 松本仁幸先生から、家族との葛藤をやめなければクローン病は治らないと告げられているのだ。
 そうであれば、今日は、試練の日である。

 「ちがう。治すチャンスの日、と考えなくっちゃ」
 葛藤をやめるため、和解をするため、こちらから会いに行かなければならないところを、向こうから会いに来てくれるのだ。
 手帳には、今日のこの日を "家族と仲良くする日" と記してある。今日は、みんなと、笑顔で接する。ありったけの感謝をのべよう。

 私は、家族がニガテであるが、家族のほうはというと、なんとも思っていないらしい。私が一方的に、勝手に葛藤しているのだ。私さえ、それをやめればいい。

          ◇

 約束の時間になった。
 玄関があいた。

 「二郎、きたぞ」
 家族が入ってきた。いまのは兄の声だ。
 父、母、兄の順で、部屋に入り、寝ている私の布団をかこむように座った。

 父と母は、2年前にもいちど見舞いに来てくれているが、兄と会うのは4〜5年ぶりである。
 兄は、私を一瞥(いちべつ)して、まず驚いた様子であった。クローン病がここまでひどくなってから、会うのは初めてだったので、ショックを受けたのであろう。私は、ほぼ寝たきりであるばかりか、たびたび声をだして呻(うめ)いていた。

 病状のことを、いろいろきかれた。それについて、私は逐一こたえた。
 "メールマガジンを読んでくれてりゃいいのになあ"
 と思った。書いていることは告げてあるのに、読もうとしないのだ。やはり、一般的な家族よりも、どうも子供の私にたいして関心が薄いんだよなあ。
 おっと。今日はネガティブなことを考えちゃいかんのだった。

 家族は松本医学を理解していない。医療をつっぱね、あやしい民間療法にすがりついているとのみ了解している。私が標準医療を受けていないことを心配している。
 「いい薬が、あるんだけどね、」
 ちゃんと西洋医学の薬も飲んでいることを言えば、安心してもらえるだろう。私は抗ヘルペス剤を手にとって見せ、
 「保険がきかないんだ。ほんとはこれを1日8錠、できれば10錠、飲まなくちゃいけなくて、飲めば、痛みはほとんどなくなるんだけど、保険がきかないから1錠100円する。1ヵ月で3万円になっちゃう。そんなお金、ないから、1日1錠でガマンしてるんだ」
 それを聞いて、しばらく思案げな表情をしていた父が、口をひらいた。
 「そのお金は、出そう」
 びっくりした。
 「月3万円でいいのか」
 「うん」

 そのあとは、他愛もない話ばかりになった。

 家族の滞在できる時間がすぎ、じゃあそろそろ帰ろうかという段になったとき、兄はデジカメをとりだして、
 「写真をとろう」
 と言った。久しぶりの家族写真がとられた。
 さらに帰り際、兄の行動はもっと意外であった。
 「二郎、握手だ」
 手を差しだしてきた。
 私は、心のなかで、え? と声をあげ、少々まごついた。手をだすと、力強く握ってくれた。
 「じゃあ、あたしも」
 続けて母が握手してきた。
 父は、どうにもこんなことをする性分ではない。そのまま私の横を通り過ぎ、
 「んじゃ、またな」
 とだけ言った。

 「ありがとう、ありがとう」
 部屋から出ていくみんなを見送りながら、何度も言いつづけた。

          ◇

 誰もいなくなった部屋で、私は天井を見上げていた。
 「みんな、優しかったなあ」
 なかでも、兄の優しさが、うれしかった。3人のなかで会うのがいちばん怖かったのが、じつは兄であった。その兄が、いちばん優しくしてくれた。

 この日から何日か、体調がずいぶんよかった。
 これまで私は、なんとかクローン病を治そうと、なにを食べたらいいか、どんな医療をうければいいか、10年調べ、世界最高の松本医学をも知るに至ったけれど、結局は、治すカギはこんなところに、足元に、落ちていたのだ。

 こうして、私さえ、心をひらけば、よい。

 きょう一日で、劇的に変わるということはないであろう。きょうをきっかけに、少しずつ、心のしこりを、ほぐしていくのだ。

 (つづく)




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 ◆ 編集後記
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 kao07.jpg生まれて初めて家族の写真を飾りました。





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